第2話 転落
芦田さんには、まるで帰るところがあるかのように振る舞ったものの同棲している恋人の葉月に何かフェイタルな言葉を吐いたらしく家の鍵をもって出ていかれたのである。
何を言ったかは覚えている。トイレのサニタリーボックスはもう少し清潔に使ってくれないと困るといったものだった。口が空いているのが気になったから注意したら、思いもよらぬ反論の嵐をくらった。
どうして私は鍵を持っていないのかといえば、いつも財布の小銭入れに入っているそれを抜き取られていたことに気がつかなかったのだ。今朝、会社前のコンビニで栄養ドリンクを買ったときに気がついたため手遅れだった。昨秋にも一晩しめだされて途方にくれたことがある。その時は初秋のまだ暖かい風が吹く心地のいい夜であった。今日、外に放置されたら死んでしまうかもしれないと我ながら大袈裟なおそれをいだいた。少なくとも、風邪はひく。
いつのまにか梅田駅についていた。濡れた女子高生集団とそれに粘粘と蝸牛や蛞蝓のように貼り付く視線を送っていた男はもういない。車両に流入する人の流に逆らって改札をめざした。改札はホームの最奥である。びしょ濡れの床に足をとられそうになった。あちこちで革靴の底がキュッキュッと音をたてている。幼児の靴のようだ。
改札を抜けてまっすぐ歩くとエスカレーターがある。そこを降りて左折すれば梅田駅からJR大阪駅に通じる道がある。いつもの通りにエスカレーターにのると目の前の爺さんが中央に身体をよせて通すまいとしてか紺色のスーツの肩をいからせた。辺りを見渡すのは、自分を追い越すなという牽制だろう。
エスカレーターは雨で滑りやすくなっていますという文言はたしか百貨店で聞けるのだろうか。溝の方向はたしかに足を滑らせやすい。そんな悪条件のなか、大きな足音が後ろから迫ってくるのだ。私の左側や爺さんの脇を掻い潜り走り降りていくのは和装の男だった。そして、やはりというべきか、足を滑らして人混みのなかに落ちていった。
どうやら頭を強くうったらしく立ち上がれなくなっていた。何人かが心配そうに取り囲み、とりあえず壁際に男を引きずっていった。泥で汚れた足跡や傘から垂れた水を拭き取ってしまうが背に腹はかえられないようだ。
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