第5話 変調の刻

 幸奈は夢を見た。

 見ていたと思った。

 目が覚めると、涙を流していた。

 ……あれ? 泣いていた? なんでだろう……

 きっと夢を見ていたのだろうと、記憶をたぐり寄せようとしたが、その努力は報われることはなかった。

 まあ、いいっか。どうせ夢だし。神様が出てくる夢ならきっと、忘れるようなことはないはずよね……

 前回みたいに鮮烈に印象に残るなら、夢とはいえど、そう簡単に忘れることはないだろう。

どうして泣いていたのかは気になったが、思い出せないのなら、気に悩んでもしょうがない。

 幸奈は、いつものように学校に行く準備をした。

 いつもと同じように、毎日を繰り返すように、この当たり前の時間を、幸奈は何気なく過ごしていた。

 やがて来る、変化の時を知ってしまったら、あの時の過ごした当たり前の、同じ毎日が恋しくなるだろうと、この時は思いもよらなかっただろう。


駅のホームに立っていると、百合名が声をかけてきた。

「おっはよっ、幸奈」

「百合名、おはよー。なんだか嬉しそうね。いいことでもあったのかな?」

今朝の百合名は明らかにいつもと違っていた。いつもなら眠そうにあくびをしながらやって来るのだが、今日の百合名は眼がぱっちり開いていた。何かあったと思うのは当然だ。

「そう? 別にぃ。でも、昨日行った神社のおかげかな? 何だか気分がいいのよね」

「そ、そうなの? 私は特に変わらないけれど……」

とは言ったものの、自分は今朝、眼が覚めた時泣いていた。何か夢を見たはずなのだが、やはり思い出すことはなかった。

そう思い、百合名に聞いてみた。

「百合名って、今朝夢を見たとか? 何か楽しい夢を見たから、上機嫌なのかな?」

「え? 私が上機嫌? そう見える? でもね、何だか目覚めが良かったのよね。夢は見た記憶がないんだけれど、もしかしたら見ていたのかもしれないね。って、幸奈は何か夢を見たの? 今日は浮かない顔をしているけれど」

え? 自分は浮かない顔をしているのか?

「見たような気がするんだけど、覚えがないんだよね。ところで、私ってそんなに浮かない顔をしている?」

「してる。何か無くしたの? それとも壊したとか?」

幸奈はもちろんそんな心当たりはない。でも、第三者から見たらそう見えるらしい。

はて? 夢の中で何かをなくしたのかな?

「百合名って人の表情から、そんなことを読み取れるんだね。ちょっと意外だな、って失礼か。恋する女子って、そういうところに気が向くんだよね。私も見習わないとね」

「そうだよ幸奈くん。女子って一皮剥けると、そう言う気遣いができるようになるんだよ。女子の場合は皮じゃなくって、膜かもしれないけれどね」

「こら百合名…… そういうことを、こんな人の多い所で言わない。私も同類に見られるじゃない」

「おや、妬み嫉妬の反撃かな? 心広きわたくしには、狭心な女子に手を差し伸べたい気持ちで一杯なのよ」

「はいはい。エロの押し付けはもうお腹一杯だから、もうやめようね。それにしても本当に上機嫌ね。羨ましいかぎりだよ」

「そうよ、一幕破れた女の体は羨ましいでしょうね。早く幸奈も破ってくれるお相手ができるといいのにね」

「それ、違うから。私は恋がしたいだけ。そっちはまだいいから」

「はいはい、わかっていますよぉ、幸奈くん。知らない感覚は口からは伝わらないからねぇ。なんなら、私の指から伝えてあげてもよくてよ。あ、そうか、舌で伝えることもできるね」

「はいはい、百合名。その上から目線もやめようね。私は私なの。余分な情報はいらないし、そっちの刺激はいらないの。私は恋の刺激は欲しいけれど、エロの刺激はいらないの」

「まあ、幸奈って本当に可愛いわね。まるで、保育園の園児みたい。抱き締めてあげたい」

「ほら、でた。上から目線。百合名から見たら、私は五、六歳の園児かい。まあ、純情で可愛いのは認めてあげる」

 そんな会話の中に長身の千秋が入っていた。千秋もここの駅から通学していた。

「うわ、百合名に抱きしめられたら、保育園の園児だって女に目覚めるかもしれんな。幸奈だったら、きっとイチコロだよ。きっと下は洪水になってしまうな」

「ちょっと、千秋、他の人に聞こえちゃう。もう少し女子らしくしてくれないかな。百合名じゃないんだから」

 それを聞いて百合名は抗議した。本人は幸奈より遙かに女子だと思っている。

「それは、この私に言っているのかしら。私の体は、幸奈よりもずっと女子よ。なんなら試してみる?」

「幸奈も百合名もムキにならない。似たような名前のクセして、中身は正反対なんだから不思議だよな。はいはい、その話はここまで。ここで女子の体を競い合うっていうの? そう言うことは、二人きりのところでやってほしいね。私まで同類にされる」

「千秋まで、私を一緒にしないでほしいな。少なくとも私は身も心も乙女なんだから」

 そんな朝からたわいのない話題で盛り上がっていると、電車がやって来た。すでに結構な人が乗っており、当然座ることはできない。

 そんな電車の中に、紗央厘がいた。もちろん立ってだ。

 三人は電車に乗り、紗央厘と合流した。四人は毎日こうやって電車で通学していた。これも高校生活の楽しみの一つである。

 なんでもない会話の一つ一つが何よりの楽しみであり、かけがいのない時間であった。

 そんなわけであったが、今日は少し違っていた。三人は思った。紗央厘の表情がなんだか暗い。それに、気分も暗そうだ。

 いつものように三人は紗央厘に声をかけた。三人の中で一番仲がいいのは千秋だ。小学校、中学校と同じ学校に通っていた仲だ。

「おはよ、紗央厘。どうした? なんか暗いよ。変な夢でも見た? それとも、占いで酷い結果でも出たか?」

 小さい頃から紗央厘を知っている千秋は、なんとなく予想を言ってみた。

「ああ、おはよう。……そう、夢ね。確かに夢は見たわ……」

 紗央厘は複雑な表情をして口を開いた。

 幸奈は思った。千秋も変な夢を見たのかと聞いた。紗央厘は良い夢を見ていないようだ。そして、百合名も自分も何かの夢を見ている。

 これは、昨日神社に行った影響なのか? それにしても、みんな一体どんな夢を見たのだ? 夢の内容を忘れた自分が言うのも何なのだが。

 そんな気も知らずか、百合名はずけずけと紗央厘に夢の内容について聞いてきた。

「ねえ紗央厘はどんな夢を見たの? 怖い夢? 誰か出てきた? 何かされたの?」 

 紗央厘は一瞬体をびくつかせた。恐る恐る百合名と目を合わせたが、すぐに逸らしてしまった。

「ぁー、うん、そうね。少し怖い夢かな。誰か出てきたのだけれど、それが誰かはわからない…… でも…… あ、うん、やっぱり、いい……」

 紗央厘にしては歯切れの悪い話し方だった。いつものような凛とした堂々な態度が感じられない。話すのをためらうのが伝わってくる。よほど変な夢でも見たのだろうか。

 三人はこれ以上その話題に触れるようなことはしなかった。一人テンションの高い百合名も珍しくそれ以上踏み込むようなことはしなかった。

 確かに、女子としては、その辺がわかっているようだ。人の心に土足で上がるようなことはできない。特に紗央厘はそういうことに関しては人一倍敏感だ。火に火薬を注ぐようなことはできない。

 幸奈は気になった。自分が見た夢もそうだが、他の三人も何か夢を見ている。その中でも紗央厘は、はっきりと夢の内容を覚えているようだった。

 スピリチュアル的なことには詳しい紗央厘が顔色を変えていた。よほど衝撃的な夢を見たのだろう。人には語れないような。

 

 放課後、部活動も終わり校庭の門を目指していると、千秋と紗央厘が待っていた。

 特に待ち合わせをしていたわけではないが、特に大会や試合も近くないせいもあり、こうして一緒に帰ることができるときは合流をしていた。これはいつもの日課というより、習慣になっていた。

「お待たせ。あれ? 百合名は?」

「たぶんもうすぐくるよ。今日は何だか機嫌が良かったしね。何かあったのかな?」

「そうだね。今日はいつもに増してニコニコだったね。本人もよくわからないって言っていたけれど、たぶん何かいいことがあったんだよ。それより、紗央厘は調子どう?」

「はは…… 今日は全然だめだわ。心が安定しないの」

「そうなの?」

 千秋と紗央厘は弓道部だ。中学の時からやっているそうだが、千秋から見ても今日の紗央厘は全然冴えていなかったらしい。

「私から見ても、明らかに今日の紗央厘は変ね。一回も的を捉えることはなかったんだから。それこそ、失恋でもしてしまったのかなと思ったくらいだよ。でも違うみたい」

 相変わらず紗央厘の表情は暗い。一体何があったのだろうと心配になってしまう。それとも、今朝の夢が何か関係しているのかと、気になってしょうがない。

「人のことはいいから、自分の心配でもしていなさい。私は大丈夫だから……」

「ほら、大丈夫じゃなさそうでしょ?」

「そうだね。いつもの紗央厘なら、ちょっとは気を使いなさいよ。女子の心は繊細なのよ、って言いそうなのにね」

「はは…… 幸奈は私のことよく見ているのね。嬉しいわ。でも、それがわかるのが幸奈で良かった……」

 え? どういう意味だ? 千秋だってわかっているだろうと思ったが、千秋はそこまで干渉していないみたいだ。

 逆に千秋は今の状況を楽しんでいるようにも見えた。紗央厘の心境を知ってか知らぬか、何か大きな期待を胸に抱いているように思えた。

 あれ? 何でそんなことを思ってしまうのだろう。幸奈は自分が何かに感づいているのがわかっていたような気がしたが、それが何かなのかは、このときはわからなかった。

 そんなことを思案していたところに、誰かが話し掛けてきた。弓道部の男子部員だ。

 その男子部員のことは知っていた。一つ上の学年で、紗央厘の彼氏だ。

 長身で凛々しく、優男風にさらりとのびた髪は、少しナルシルトのようにも見えた。その甘いルックスは、誰から見てもイケメンに入る部類だ。

 何度か見たことはあったが、正直、幸奈はこの男子に好意を抱けなかった。

「やあ、紗央厘の友達かい。今日の紗央厘は何だか変なんだよ。俺じゃ何もわからないから、友達の君から紗央厘を元気にしてやってほしい。頼んじゃっていいかな?」

「え? は、はい。紗央厘、今朝からなんですけど、私もわからないんです。でもきっと大丈夫ですよ。紗央厘は私たちの姉御なんですから、すぐに元通りになりますよ」

 幸奈はとっさに言ったものの、こんな紗央厘は珍しい。実際、そんな自信は全くなかった。

 それにしても、この彼氏とやらも、紗央厘の変調のことがわからないらしい。彼氏という存在が、幸奈には雲の上の存在だけに、理解することはできないが、少しだけ抱いていた理想が少し崩れた。

 恋する相手と付き合っているのに、理解し合えないのは、何だか悲しいなと。

 千秋がさらにフォローするように付け足した。

「先輩、大丈夫ですよ。紗央厘のことは一番私が知っているから、任せてください。二、三原因があるのはわかっていますから。そのうち、いつもの紗央厘に戻りますって」

「千秋がそう言うのなら、頼もしい限りだな。さすが幼馴染みだよ。羨ましいよ。本当に、羨ましいよ」

 一つ上の先輩は、ため息を混じらせて、つぶやように言った。

 

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