第10話「雪」

 美咲が紙束を持ってオレの部屋にやってきた。


「何それ?」

「手伝って」


 突然の美咲はオレの質問に答えもせずに勝手に部屋に上がるので、窓際でワガハイと日向ぼっこをしながらマフラーを編んでいた笹倉さんはびっくりして立ち上がった。


「誰?」

「お隣さん」

「邪魔だった?」

「マフラーを編むのは邪魔したみたい」


 美咲は「ふーん」と言って笹倉さんの顔を見て、「邪魔してごめんね」と謝ったので、笹倉さんは「いえいえそんな、こちらこそお邪魔みたいで」と必死の否定に手を振った。

 ワガハイはそんな二人をちょっと見て、興味ないなとまた眠る。


「あの、それじゃあこれで」


 笹倉さんは編みかけのマフラーと眠るワガハイを強引に小脇に抱えて、そそくさと玄関に向かい、オレはそんな気を遣わなくてもいいよと言いながら玄関に見送ると、笹倉さんは予想通りの誤解をしていてくれた。


「もしかして彼女さんですか?」

「いや、悪友」

「え?」

「悪いお友達」


 笹倉さんはいまひとつピンとこない表情で、それでも邪魔になりそうだということを感じて、自分の部屋に戻っていった。


「あの、ごめんなさいね。誤解されてたら、私ちゃんと説明しますから。その、頑張ってくださいね」


 笹倉さんもだいぶ誤解しているが、ちゃんと説明するのも面倒なので、何も言わずにそのままに帰ってもらった。


「それでさ、秀雄くんに手伝って欲しいことがあるんだけど」


 笹倉さんの危惧する誤解は美咲の胸にはなかったのか、居間に戻ると美咲は早速本題を切り出して、テーブルの上にビニール紐で縛ったチラシの紙束と三本のハサミを置いた。


「工作でもするのかよ」

「雪が見たくなったの」

「はあ?」


 美咲の答えはエキセントリック過ぎて狙いがさっぱりわからない。


「田中くんも後で来るよ」


 さて、何を頑張ることになるのだろうか。少なくとも笹倉さんの期待には応えられそうもない。



  *****



 耳たぶが冷たい。

 マンションの屋上。

 美咲とオレと田中くんは、紙くずの詰まったゴミ袋を担いで、マンションの屋上に立っていた。

 あの後オレの部屋に田中くんが「どうも」と言ってやってきた。

 痩せ眼鏡で小さい声の田中くんは運転免許を持っていたらしく車に乗ってやってきて、トランクから大量のチラシの束とゴミ袋を降ろしてきた。

 廃品回収からかっぱらってきたであろう紙の束が、部屋の中にドンと並ぶ。


「何だよ、これ?」

「雪」


 早い話がこの紙束を細かく刻んで、高いところからばら撒きたいらしい。


「雪を降らすの」


 オレはあまりのアホさに呆れながらも、さすが美咲と感心していると、美咲と田中くんは早速と作業に入り、テーブルを挟んで黙々とハサミを動かし紙束と格闘を始めたので、オレもハサミを手に持って、黙々とチラシを切り刻んだ。

 黙々。

 ただ紙を切る作業を延々と繰り返す。

 延々。

 ただ紙を切る作業を淡々と繰り返す。

 淡々。

 ハサミの音の繰り返し。

 ジョキジョキ。

 チラシの文字がばらされて、断片へと変わっていく。

 大安売りが大安。

 一九八〇〇円が八〇〇円。

 新装開店大玉出しが玉出し。

 牛肉ロース二〇〇グラムがス二〇〇グラム。

 サイクロン掃除機がサイクロン掃除。

 ハイビジョンテレビがジョンテレ。

 新春特売セールがール。

 ご奉仕品がご。

 クー。

 ポン。

 券。

 り。

 んご。

 プリン。

 ター。

 る。

 す。

 し。

 キ。

 色。

 は。

 2。

 保。

 へ。

 栃。

 り。

 塗。

 を。

 ハサミをジョキジョキ動かし続けて「大感謝」をただの「感謝」にしていると、美咲がハサミを投げ出した。


「めんどい」


 バリバリ。

 ハサミに疲れた美咲はついにチラシを手で破き、グッシャグシャのビリビリのバッリバリのバラバラに、チラシの文字は散り散りと、互い分かれてくずとなる。

 オレと田中くんも真似る。

 グッシャグシャのビッリビリのバッリバリのバッラバラ。

 そんなわけで大量の紙くずが詰まったゴミ袋を担いで、オレたちはマンションの屋上に立っていた。

 高気圧に包まれた、冬の空には寒さだけが吹いている。

 手先のかじかみを擦りながら、オレはマンションの下を覗き込んだ。十三階建てのそのマンションは、地面に向かって垂直に落ちていき、下の歩道に行き交う人は、何も気付かずに日常を歩いている。

 これからここに雪が降る。

 田中くんの顔は紅潮していた。


「大丈夫なのか、美咲」

「何が?」

「ゴミなんか撒き散らしたら、警察に捕まるだろう」

「大丈夫だよ。逃げれば」

「おいおい」

「それに撒き散らすのはゴミじゃなくて雪だもん」

「それもそうか」


 雪はきれいだから許される。

 まあ、実際のドカ雪はただの自然災害で、生活の不便といったらこの上ないが、降る雪に罪はないし、降る雪がきれいなことにも罪はないし、これはオレたちが作った雪で、降らすために作った雪で、だからきっときれいで、だから絶対許されなければならないのだった。


「どうやって降らす?」


 オレはゴミ袋、ではなく雪袋の中の紙の雪を一握り掴んでみたが、その間に美咲は雪袋をバッとひっくり返して、その中身をぶち撒けた。

 雪が降る。

 紙の吹雪はドッと溢れ、溢れて散って、ハラと舞い、舞って踊って、地面に堕ちる。

 田中くんが続く。

 吹雪を見る田中くんの眼はギラギラと輝き、荒い息に震える手で雪袋の口を解き、袋を宙に投げ出す勢いで、空に向かって雪を飛ばした。

 雪が降る。

 オレも続いた。

 雪が降る。

 見下ろす視界は雪に満ち、インクの色の混じる吹雪は、ひとつひとつに個性を放ち、風に巻かれて飛んでいるのに、やがてみんな地に堕ちる。

 雪は自由に堕ちていく。


「すごいです! 最高です! ははは、あははははっ!」


 痩せ眼鏡の田中くんは雪の光景に興奮して絶叫し、笑いが止まらなくなっていた。

 雪が堕ちる。

 黒髪。

 笑い続ける田中くんの横で、乱れる髪を直しもせずに美咲は小さく呟いた。


「冷たくない雪は理想だね」


 見下ろす。

 地面に散った紙くず。

 マンションの下に騒ぎの広がる声が聴こえる。


「帰ろ」


 素早く撤収しようとすると、一枚の雪が目の前を飛んできて、書いてある文字が目に入った。

 0円。

 オレは思わずフッと笑った。

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