第8話「明日はどっちだ」

 大学が終わるとクリスマスがやってきて、クリスマスが終わると大晦日がやってきて、大晦日が終わると新年がやってくる、師走の目まぐるしい年中行事が始まる前に、オレは美咲と一緒に帰省していた。


「クリスマスは田中くんと過ごさんの?」

「世間に踊らされるのが嫌なんだって」


 田中くんの痩せ眼鏡はそんなことをのたまいそうだと得心しながら、鈍行列車のボックス席に向かい合って座るオレと美咲は、窓の外に降る雪を見ていた。

 寒波が吹いた今年の師走は、長いトンネルを抜ける前から車窓に雪国を映していて、例年より倍に頑張るヒーターに火照る空気の漂う車内は、少しオレと美咲の頭をぼんやりとさせていた。

 白い窓を擦った景色は、白と白とに木々の黒が垣間に見える。


「美咲もそうなの?」

「踊りたいときは踊るよ」

「どんなとき?」

「ケーキ食べたい」


 けれどここにはケーキはなくて、電車に乗る前に購入した駅弁が二つきりだけだった。

 田舎の同じオレと美咲は、毎年一緒に帰省する。

 おしんこをポリポリかじる美咲は、ボーっとした顔でモグモグとご飯を食べる。

 長いトンネル。

 窓は黒く鏡となって、弁当を食べるオレと美咲のぼんやりとした横顔を映す。

 耳鳴り。

 唾を飲む。


「暇だね」

「暇だな」


 弁当を食べ終えた美咲のあくびの倦怠は、眠気となって美咲のまぶたを重くする。

 美咲の寝顔。

 耳鳴り。

 唾を飲む。

 県境の長いトンネルを抜けてもそこは雪国だった。


「もうすぐ着くぞ」


 冬至の近いこの季節に、鈍行列車は日が暮れて、駅に着いた雪降る空は、真っ暗闇に寒かった。


「今年は雪が多いなぁ。さすが寒波」

「歩けない」


 道路の脇には除雪された二メートルを超える雪の壁が並んでいて、美咲の家は駅からそんなに離れてはいなかったが、歩くのはかなりの難儀に見えたので、オレと美咲は家に迎えを電話して、車が来るのを駅舎のストーブにあたりながら待ってみた。

 雪を眺める。

 しんしん。

 ストーブの赤色が顔を熱に照らし、駅舎の外の暗闇が背中に冷気を凍てつける。


「焚き火のときみたいだな」

「焚き火の方がきれいだよ」

「危ないけどな」


 美咲はストーブをこづいたが、硬かったのか熱かったのかヒラヒラと手を振った。


「危ないって」

「火だから危ないのかな? 危ないから火なのかな?」


 美咲の問いに、ストーブの炎の音は低く小さく燃えている。


「どっちにしたって危ねぇよ」

「そうだね」


 美咲はオレの顔を見る。


「あれ?」

「何?」

「そのコートって新品?」

「今頃気付くなよ」


 美咲は上から下にオレを見て、「ふーん」と言って外を見ると、暗闇にライトが二つ浮かんでいた。

 車が来た。


「それじゃね」


 母親の車に乗って帰る美咲を見送って、オレはオレの迎えを待つ。

 雪に凍る道と空とは、新品のコートでも寒かった。



  *****



 年が明けておめでたい一週間が過ぎ、特にめでたくもない一週間が始まると、大学には試験の嵐が吹いてやんだ。


「単位出るかなぁ」

「俺は信じている」

「何を?」

「俺と先生とレポートと何かの間違いと、その他世界のすべての俺の単位に関係する諸々の何かを信じる。というか信仰する。というか神さま助けて」


 木島の単位はギリギリで、単位が出ないと留年なのだが、木島のレポートはそれだけでは信頼するに値しないものらしい。


「どうか私の未来を閉ざさないで下さい」

「神社でも行ってこいよ」

「行ったよ、初詣」

「賽銭いくら?」

「五円」


 五円でつなぐ御縁で未来をつなごうとする木島の面はなかなかに厚かった。


「そりゃ留年だな」

「お前はいくらだよ」

「一円」

「俺は五倍だぞ、五倍。鼻くそが目くそを笑うな」

「一円でも一万円でも円は縁だよ。それに鼻くそも目くそも変わらないだろ」

「いいや、目くその方がきれいだ」

「変わんねぇよ」


 目くその木島と鼻くそのオレとの、目くそ鼻くそ論争はしばらく不毛に続いたが、不毛の議論から毛が生えることはなく、やがてぽっかり沈黙が浮いた。

 冬の空に雲はない。

 試験明けの月曜日に、合同企業説明会に参加した帰りの、ビルの隙間の公園だった。

 ベンチに座るオレと木島は冷めたお茶を飲んでいる。


「いいとこあったか?」

「さっぱりわからん」


 雲のない空の茫漠は遠かった。


「業界絞れた?」


 オレが訊くと木島は軽くうなずいた。


「だいたい見当はつけた」

「どこ?」

「医療介護用品メーカー」


 木島の読みだと少子高齢化の日本の将来で一番確実に業績を伸ばす業界は医療福祉であった。しかし、医療福祉も現場で働くとなると資格やらが面倒だし、何しろ制度が整っていないので個人の負担の割りに報酬も少なく保障も不透明で、しかもその状態が改善される見込みは、小さな政府を目標に社会の問題を個人の負担で解決しようとする今の国の態度だと、十年以内にはありえない。そこで狙うは需要だけは高くなる医療福祉の現場に医療介護用品を供給するメーカーである。ここなら制度不良の現場の苦しみを受けることなく業界のうまみだけ吸い取れると木島は判断したらしい。実際ここ数年での医療介護用品メーカーの成長は著しい。


「成長は安定した人生設計の基本だ」


 木島のようないい加減な男が、そんなセリフを吐くとは思ってもみなかったので、バイト中にも「人生設計」という言葉が真っ白な頭の中に浮いていた。

 深夜のコンビニ。

 暖房に生温かい客のいないコンビニの、天井に並ぶ蛍光灯をレジに座って眺めていると、「就職活動やってるの?」というおふくろの言葉が、「人生設計」の隣辺りに浮かんできた。

 正月にコタツでみかんを食べながら箱根駅伝を見ていたオレに、おふくろが隣から訊いてきた。


「最近は秋ぐらいから就職活動をするんだろ? あんたはいつも腰が重いから心配なんだよ」


「大丈夫だって、これからやっても遅くはないよ。いいとこ狙ってないしさ、本番は二月ぐらいからだって」


 オレは軽く言ってやったが、おふくろは半信半疑の眼差しをオレに向けると、「これだけは」といった感じで最後に一言呟いた。


「ニートやフリーターは勘弁だよ」


 オレは「レッテルで人を判断しちゃダメだよ」とおふくろに言ってみたかったが、それでもレッテルというのは重要で、今のオレに付いて回る大学生というレッテルは、若気という無茶が効いたり、学割という割り引きが効いたりと、何かと便利なものではあった。

 けれど、それだけに何かと義務も付いているようで、どうにか新卒枠で就職しないとダメ学生の末路のごとく言われてしまう怖さのようなものが付いて回るが、逆に言えば就職さえちゃんとやればどれだけダメな大学生活も全部肯定されてしまう安易さを含んでいたりもした。

 少なくともおふくろは納得するということはわかった。

 そういうわけでグダグダな生活を送るオレも、まっとうな正社員として社会に出て、その身分を過去の免罪符にしてやろうかと、就職活動を始めたはいいが、これにどうも馴染めなかった。

 合同企業説明会会場。

 リクルートスーツの群れ。

 清潔感溢れる企業ブース。

 にこやかな笑顔で説明をする各企業の人事担当者。

 説明会の会場は終始なごやかな空気に張り詰めていて、オレは息苦しくて二、三社の説明を受けただけですぐに会場から出てしまった。

 公園のベンチでお茶を飲みながら木島を待つ、ビルの隙間の冬の空。

 雲は一つも見当たらなかった。



  *****



 二月。


「大学が終わると暇ですね」


 笹倉さんは膝に丸まるワガハイを撫でながら呟いた。


「彼はどうしたの?」


 窓際の日当たりは良好で、閉じた窓は晴れ渡る空から吹き降ろす冷風を遮って、柔らかい陽射しだけを部屋の中に入れている。


「バイトです」


 笹倉さんのワガハイを撫でる手は陽射しよりも柔らかだったが、答える声は二月の庭よりも寂しげだった。


「短期集中のバイトで泊り込みらしいですけど、払いがいいって」


 ご飯を食べてお腹いっぱいのワガハイは、丸い身体をよりより丸く、日だまりに至福の顔で笹倉さんに撫でられながら、誰にも掛ける気を持たず、眠りたいだけ眠っていた。


「家賃が足りないんですって」


 冬に枯れた二月の庭は、片付けられない枯れ草に、茶色になって寂れている。


「暇です」


 笹倉さんの背中でお昼ご飯の食器を片付けるオレは、ワガハイの肉球をプニプニする笹倉さんに訊いてみた。


「笹倉さんのバイトは?」

「明日です」

「そう」

「梶井さんの就職活動は?」

「今日は自主休業」


 ワガハイも眠ってしまって持て余す暇に、オレと笹倉さんは食器を洗って歯を磨き、身支度を整えて散歩に出かけた。


「息抜きも必要ですよ」


 笹倉さんは手作りのマフラーを首に巻き、オレはコートのボタンを上まで締める。


「寒いですか?」

「そのマフラーあったかそうだね」


 赤い毛糸のマフラー。


「よかったら作りましょうか?」

「いいの?」

「おととい一本完成したんですけど、毛糸がまだ余ってるからまだ作れますよ」


 笹倉さんが嬉しそうに話すので、オレはなるほどとうなずいた。


「そうか、バレンタインか」


 笹倉さんは小さくうなずく。


「そういえばもうすぐだったなぁ」

「張り切ってたらすぐにできちゃって。これでやることができました」


 笹倉さんがニコニコなので、オレもニコニコになってみた。

 住宅街をフラフラ歩くオレと笹倉さんは、とりあえず駅に向かって歩いてみた。

 並んで歩く二人の道は、風がやんで暖かく、午後の街に静かな音は、二人の足音を耳に届ける。


「二人で外を歩くのって初めてですね」

「そういえばそうだね」


 駅に着くとCDショップの店先に、リバイバル映画のポスターを見つけて、おもしろそうだったので電車に乗って映画館に行き、途中入場で往年のハリウッド製アクション超大作を見て、「アメリカ人は真っ直ぐだから不死身なのかなぁ」とか言い合って部屋に帰った。

 ダイハード。


「就職活動、頑張ってくださいね」


 笹倉さんの声援を背中に受けて、オレは就職戦線に立ち向かう。

 翌日オレは意気揚々とインターネットカフェに行き、求人情報を見て閉じた。


「やる気」

「意欲」

「目標」

「人生のステップアップ」

「論理的な自己表現」

「人間性」

「自己実現」

「能力給」

「成果主義」


 オレはだいぶ死にやすい。

 ワガハイに餌をあげていると、おふくろから電話があった。


「ちゃんと就職活動やってるの? 正社員になって何年勤めるかは別だけど、まっとうな仕事に就かないと、部屋も借りられない世の中だし、新卒採用逃すと人生の信用を失うんだからね。フリーターなんかになるんじゃないよ」


 正社員という言葉の安易さ。フリーターという言葉の安易さ。安易だから強靭なのだ。強靭だから怖いのだ。

 どうしたらいいのだろう?

 ああ――。

 餌を食べたワガハイは、軽やかに垣根を跳び越え去っていく。

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