第6話「部屋と猫とオレとお隣」

 部屋で起きた朝は昼の二時を過ぎていた。

 窓差す光の薄暗さに、オレはのっそりとカーテンを開けた。

 庭に猫。

 オレの借りている部屋は、大学よりもよほど都市部に近い住宅街の一角にある、二階建てのアパートの一階の隅にある部屋で、これには一坪ぐらいのちょっとした庭が付いていて、隣の部屋は女の子が住んでいるので花なんかが植えてあったが、オレの部屋の庭には伸び放題の雑草がボウボウとやってくれていた。

 こんな庭にも客が来るもので、猫が一匹勝手に縄張りにしてしまい、毎日律儀に巡回にやってくる。

 今、庭に座っている。

 目の据わった感じのおよそ愛嬌とは無縁に思われるガラの悪いブチ猫で、身体もデカイものだからその印象はますます強いが、やっぱりその通りの性格で、人懐こくもないが人を恐れるフリもなく、オレの姿を部屋の中に認めると、ずうずうしく部屋の窓をカシカシやって餌をよこせと要求してきた。

 あくびのオレは冷蔵庫からチクワを出してくれてやる。

 はぐほぐ。

 二時の天気の心地よさの下、チクワをほお張る猫の口はむしゃむしゃ動いて、Tシャツにトランクスの寝姿のままでそれをぼんやり眺めるオレに、隣から声が降ってきた。


「猫だ」


 垣根の向こうに人がいて、それは隣の部屋の女の子で、顔は何度か見たことがあるが、声を聴くのは初めてだった。

 目が合うと彼女は少し固まって、自分でも思いがけずに声が出たのか、思わぬ隣人との遭遇に彼女は戸惑いの顔を見せた。それは路地裏で初めて遇った野良猫の、警戒感と好奇心に入り混じった態度のようで、見ていておもしろかったオレは、猫にでも話し掛けるように彼女に向かって声を掛けた。


「猫好き?」


 彼女は目の前に投げられた餌を食べようか食べまいか躊躇する猫のように、どう答えようかしばらく思案した後に、ためらいがちに首を縦に振ってきた。


「餌を持ってくれば何でも食べるよ」


 オレがそう言っている間に猫はチクワを食べ終えると、これで終わりかとオレの足元にまとわりついた。


「できれば早くね」


 うなずいた彼女は平皿に盛ったごはんと一緒にミルクまで盛ってきた。ごはんの上にはさらにカツオ節までまぶしてある豪華さだ。彼女は垣根を乗り越えてこの豪勢なランチを猫の前に披露した。舌なめずりした猫は、まずミルクに舌をつけると、旺盛な食欲で皿に顔を埋め続ける。

 はぐほぐはぐ。


「かわいい猫ですね」


 彼女はしゃがんで猫の食事を見ながらそう言ったが、オレはこのふてぶてしい猫をおもしろいとは思っていたが、かわいいとは一度も思ったことがなかったので、彼女は本物の猫好きなんだろうなと思った。


「名前はなんていうんですか?」

「知らない」

「野良猫なんですか?」

「たぶん」


 その割にはいい図体なので、きっとよそでも餌をたかって回る半野良の猫だろうなとオレは推測していた。


「だから誰か名前は付けているかもしれないけど、あっても一つや二つじゃないだろうね」

「名前は付けないんですか?」

「別に飼ってるわけじゃないし」

「でも、名前があったほうがいいじゃないですか」


 彼女の言うことはもっともだったが、今までそういう気持ちになったことがなかったし、それはこの猫がこの猫でなくなるような気がして、何かためらわれるものがあった。


「ネコでいいよ。夏目漱石にならって」

「吾輩ですか?」


 彼女が言った「ワガハイ」という言葉は、妙にこのデカデカした猫にしっくりくる名前で、なるほどこいつはワガハイか、と思うとこれ以上の名前はなく、「ワガハイ、ワガハイ」とオレはしきりにうなずいて、


「いいね、ワガハイ。そうだワガハイにしよう。おい、ワガハイ」


と呼んだが、ワガハイは見事なまでのワガハイぶりで、それがだからどうしたと、興味も示さず餌をはぐほぐ食べ続けた。

 そうこう話している内に、ランチを食べ終えたワガハイはお腹がいっぱいになったなぁと言わんばかりにごろりんと横になり、土まみれの小汚い腹をでかんと見せて、手足を伸ばしてあくびをした。

 そのさまに彼女は嬉々とした。


「かわいい。懐いているんですね。ぜんぜん警戒心がないですよ」


 いくぶんか尊敬の含まれた眼差しを受けたオレは少し面映い気持ちになったが、このワガハイの態度に関して言えば単に人間なんて警戒するに値しない、遊んでやるから早くしろと言っているように見えた。それというのも初めて餌をあげたときからワガハイの態度に変化がないからである。それがワガハイだった。

 オレは庭の雑草からねこじゃらしを引っこ抜くと、それを寝ているワガハイの上でフリフリした。するとワガハイの眼つきが豹変し、にゃろうきやがったなやってやるぜおい、とばかりに前足をフリフリしてねこじゃらしにじゃらされ始めた。


「かわいい」


 やっぱり彼女は感激する。


「やる?」


 二人掛かりでねこじゃらしを振ると、ワガハイは右に左にじゃれ跳び回る。

 さすがに飽きたか疲れたか、それとも他に用事があるのか、ワガハイは不意に横を向くと、そのまま背中を向けて、お礼も言わずに去っていった。


「あーあ、行っちゃった」


 残念そうな彼女の声は、ワガハイと遊んで気分が高揚しているのか、猫に懐かれる人には悪い人がいないと思っているのか、最初の警戒する猫のような態度に比べると、随分親しげなものになっていた。


「いいなぁ、こっちの庭には猫が来て」

「庭が汚いから、敷居が低いんじゃない?」

「いいなぁ」


 名残惜しげにワガハイの去った後を見つめる彼女に名前を訊くと、「えっ」と振り向く彼女はやっと猫の背中の消えた目で、少し顔を赤くしながら俯きがちに「笹倉頼子です」と答えたので、こっちも「梶井秀雄です。お隣さんです。よろしく」と挨拶した。


 笹倉さんはオレとは違う大学に通う猫好きの一年生だった。


「猫飼ってたの?」

「実家で三匹。だから寂しくて、でもこっちだと飼えなくて」


 猫は家に棲むので、下手にこっちで飼うと引越しなどしたときに可哀想なことになるらしく、猫なしの生活をしていたところで猫に会ったので、何か非常に恥ずかしいところをお見せしましたと、笹倉さんはとても恐縮してくれた。


「禁断症状だ」


 オレが言うと笹倉さんは苦笑して、「だから庭付きのアパートにしたんです」と言い、「猫が通るかもしれないと思って。でも、猫が通るのは隣の部屋でしたね」と笑った。


「けど、女の子の一人暮らしでアパートの一階は危ないよ」

「でも、お隣さんが猫好きのいい人でよかったです」


 笹倉さんはやっぱり猫好きに悪い人はいないと思っているようで、猫は好きだが特別な猫好きではないオレなんかをそんな簡単に「いい人」と判断して大丈夫なのかと、少し笹倉さんを心配してしまったが、笹倉さんは欲求不満が解消された笑顔で餌皿を片付けると、「またワガハイと遊んでもいいですか?」と訊いてきたので、「オレの猫じゃないし、ワガハイに訊いてみて」と答えると、笹倉さんは元気に「はい」とうなずいて、猫みたいに身軽な動きで垣根を越えると、こっちを一度振り向いて、


「こんな時間までそんな格好をしているのは不健康ですよ。猫はいいけど女の子の前ではきれいにしていた方がいいですよ」


とありがたい忠告を残して部屋へ帰っていった。

 四時。

 部屋とTシャツと私。

 なんかもうダメだなこれはと思っていると、ワガハイが庭に戻ってきた。


「ワガハイ」


 無視してどっか行った。

 さすがワガハイ。

 羨ましく思った。

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