第4話「海へ行く」

 朝は昼にやってくる。カーテン越しに暖かい陽射しが部屋に入り込む時刻になって、オレと美咲と木島は起きた。

 髭の伸びない朝はない。

 寝起きの顔を鏡にのぞくと、乾かさないで眠った髪は寝癖に寝グレてグルグルしていて、ブツブツ生えた髭の無精は無粋に伸びてチクチクしている。木島の顔も寝起きにむくれて不細工で、美咲の顔にも腫れぼったいまぶたが重く乗って垂れている。そんなぼんやり顔の三人が冷たい水で顔を洗うと、不思議と寝る前とは別人みたいな三つの顔が、少しシャンとしてきれいになった。

 オレは髭を剃って、寝癖を直し、美咲は髪を梳いて、化粧を施し、二人身奇麗に整えて、布団を片付け部屋を出る。


「また来るよ」

「いつでも来いや」


 木島に見送られて駅へ歩く空は、秋晴れに秋晴れて雲が筋になって風を巻く。太陽は汗ばむほどの熱があったが、風は肌冷ますほどの涼しさを持っている。かすかな風に車の走る音が遠く乗り、耳に触れて消えていく。


「お腹空いた」


 美咲のお腹が小さく鳴った。


「どっか食べてくか」

「何時?」

「一時」

「学食でいいや」


 オレはしょうが焼き定食を食べ、美咲は三菜そばをすする。そばをすする美咲の顔はそばの湯気でほのかに火照り、しょうが焼きを食べるオレはご飯が足りずにおかわりする。


「ごちそうさま」


 食べ終わったので、家に帰ることになった。

 駅のホーム。

 お腹がいっぱいになって重いので、オレがベンチに座って休もうとすると、美咲も横に座って二人並んだ。

 人影の少ない昼間のホームのベンチの二人に、ちょっと傾く太陽が日だまりに影を伸ばす秋の午後。


「天気いいね」

「そうだな」


 そう答えると美咲は言った。


「どっか行く?」


 電車が来た。

 ガタゴト揺れる電車に揺られ、ガタゴトガタゴト終点に着く。

 海が見えた。

 そこは特急列車でも行けるちょっとした観光地で、古い神社と小さな城跡とでっかい灯台に広い海がくっ付いていて、夏には海水浴客が結構集まると、駅前の観光案内所で話を聞いたオレたちは、とりあえず海に向かって歩いてみた。


「海」


 秋の海は寂しいけれど、冬の海ほど冷たくない。

 夕暮れに近づいた海は波を白くきらめかせ、波は長く黒ずんだ砂浜に絶え間なく寄せては返っていく。

 沖にサーファーが一人。

 水平線。

 オレと美咲は砂浜に立った。

 砂を踏んだ感触がザクッと靴越しに伝わると、美咲は波打ち際まで走っていった。


「わぁぁーっ!」


 そして叫んだ。

 海は静かだ。

 オレも後を追って叫んでみた。


「うおぉーっ!」


 海は静かだ。

 寄せて返ってまた寄って、返って残る波の泡。

 美咲は靴を脱ぎ、裸足になってじゃぶじゃぶと海に入った。


「冷たい」

「そりゃそうだ」

「秀雄くんも入ろうよ」


 誘われるままに裸足のオレは海の冷たさに入ってみると、足の指に砂が絡んで波に洗われ抜けていく。


「冷てぇ」


 海の鋭い冷たさに棒のようなオレの足は、やがて海と一緒になってじんわりと鈍くなる。

 美咲は波打ち際を歩いていく。

 砂浜と足跡。

 波。

 砂浜と足跡。

 波。

 砂浜。

 オレは消える足跡をもう一度踏みつけて、それでも消える足跡を後ろに振り向き振り向きながら、美咲の後ろを歩いていって、美咲が砂浜のはしっこの防波堤の上に立つと、オレも防波堤の上に立ち、そこで釣りをしているじいさんを見つけて、美咲は後ろから声を掛けた。


「釣れますか?」

「釣れんね」


 じいさんは空のバケツを美咲に見せる。


「ここは海が浅いに、あんま魚がいないんね」


 帽子に眼鏡の七十ぐらいの白髭のじいさんは、釣竿を揺らしながら海の向こうを見て笑う。


「どうしてここで釣るんです?」

「家が近い」


 じいさんは簡単に答えてくれた。


「いい釣場は遠くてなぁ。そんに釣れたら重くなるん、帰るのが面倒」


 オレはついつい訊いてみた。


「楽しいですか?」


 じいさんは長い息で首を傾げて、最後にはうなずいた。


「暇だからなぁ」


 じいさんは竿を振り上げ遠くへ飛ばし、じっと座ってだらだら過ごす。


「とこんで、さっき叫んでいたのは、あんたらかい?」

「ええ」

「わしも昔は叫んだなぁ」

「そうなんですか?」

「海を見てると叫ばんといかん気がしてなぁ。女房は変な顔したなぁ」


 美咲はじいさんの隣に座り、オレはその隣に座り、静かな竿に静かな波を聴きながら、静かな風に吹かれて、静かに夕陽が沈んでいくのを、赤くなりながら見届けた。

 夜。


「帰ろ」


 じいさんは今日の成果の空のバケツを持ち上げる。そのときじいさんは思い出したかのように訊いてきた。


「とこんで、あんたら誰なんだい?」



  *****



 じいさんの帰った夜の海に吹く風の冷たさは、浮かぶ半月の頼りない輝きよりも寒々と、波を揺らして揺らして、砂浜に立つオレの足元からなんともない心許なさを、胸に作って抜けていった。

 黒い海。

 一日が潰れる。


「どうする?」


 海をぼんやり見ている美咲の瞳は、月の明かりにぼんやり濡れて、波のようにゆらゆらしている。


「どうしよう」


 顔も向けずに答える美咲の言葉もぼんやりしていて、オレもぼんやりした言葉しか出せなくて、結局ずるずると時間だけが流れて消えて、潮の満ちるのに気付いた頃に、ようやく二人で歩き出した。


「何しに来たんだろうな」

「なんだろうね」

「なんだか一日終わっちまったよ」

「天気がよかったから」

「ああ、そうだった」


 駅に着くと電車はなくて、途方に暮れたオレたちは、とりあえず公衆電話のタウンページで泊まれそうな宿を探して電話をしたが、急な電話に泊まれる宿は見つからず、今日こそ野宿かと思っていると、駅の向こうに輝くお城が建っているのが目に留まった。


「ここなら泊まれそうだよ」


 美咲が指差すその洋風のお城は当然のことながらラブホテルで、当然のことながら客も時間も問わないので、今日はここに泊まることにした。それで案内された部屋はショッキングピンクの壁紙の頭の悪くなりそうな部屋で、三面鏡を背負った丸いベッドは回転装置を装備している優れものだったが、そんな機能には用はなく、思った以上に柔らかいベッドに二人並んで倒れこむと、そのまま眠って朝になった。

 シャワーの音に目覚めた朝は、鏡に映る自分の顔に始まった。

 髭の伸びない朝はない。

 美咲はシャワーに入っていて、オレは一人回転ベッドの真ん中に座っていた。

 あくび。

 回転ベッドのスイッチを入れてみる。

 ぐるぐるとオレは回りだした。

 オレはゆっくり回る。

 男一人で回るベッドは三面鏡に何かの展示品みたいに寝起きのオレを映し出し、シャワーから出た美咲はそんなオレを見て大笑いした。


「何やってるの」

「暇だったから」


 そう言ってみると、それ以上の理由はないことがわかり、オレは少し嬉しくなった。


「楽しそうだね」

「乗る?」


 ショッキングピンクの部屋の中、鏡に映るオレと美咲はベッドの上をぐるぐる回り、鏡越しのオレの顔が鏡の前の美咲の顔に、重なり離れてまた重なる。

 二人で回転してみると、どちらともなく笑い出し、笑い出してたまらなくなった。


「おかしいね」

「ああ」


 ラブホテルで何もしないでただ回る男女が泊まるこの部屋は、もうラブでもホテルでもなくて、なんでもない何かになって回転していることがとてもなんだかおもしろく、オレは笑い続けて、美咲も笑い続けた。

 そうして笑っていると何故だかお腹が空いてきて、それで昨日の昼から何も食べていないことを思い出し、ラブホテルでも注文すれば部屋に食事を届けてくれるぐらいのサービスはあったが、せっかく海に近い観光地にいるのだから、海産物でも食べてやろうということになって、朝ごはんを求めて外に出た。


「何食べたい?」

「三日も同じ下着穿いてると気持ち悪いね」

「さすがにオレも穿き替えたいな」

「コンビニあるかな」

「あるだろ。コンビニだもん」


 そう言いながら街を歩いてみるとまだ朝の早いせいか、開いている飲食店が見当たらず、それでもコンビニだけは見つけたので、結局空腹と妥協してどこでも買えるようなコンビニ弁当とお茶を買い、ついでに下着も買って、今度は食べる場所と着替える場所を探して歩き出した。

 観光案内の地図を見てみると、城跡が公園になっているらしいので、そこで朝食を食べることにした。

 石垣の積まれた城跡は高台の上にあり、舗装されない砂利坂の片側からは街の向こうに海が見えた。温めた弁当の冷めるぐらいに歩いて登ると、まったいらな頂上に生える松の木の数本の向こうに、今は天守閣のない四角い天守台の石垣が、黒い身体に朝日を受けて白く光って建っていた。

 朝の公園に人はいない。


「どこで食べる?」

「誰もいないね」

「朝だから」

「芝生がいっぱい」


 そう言って美咲は芝生の上に座ってみたが、朝の芝生は昼の芝生のようにフカフカしてはいなかった。朝露に濡れる草を踏む靴の冷たさは、腰を下ろすとお尻にもヒヤリときたが、やがて馴染んでじんわりとした感覚だけがお尻に残る。

 冷めた弁当を広げてぬるいお茶を飲む。

 冷めた里芋の煮物をホグホグする美咲は、冷めた赤鮭をチマチマするオレに言った。


「ここいいね」


 太陽の暖かく、そよぐ風の優しく、見下ろす海の広く、見上げる空の高く晴れた秋の日の心地よさは、まどろみのように溶けている。


「気持ちいいなぁ」


 オレはうなずく。


「あったかいなぁ」


 オレはうなずく。


「ずっと続けばいいのにね」


 美咲は立ち上がって公園をぐるりと回り、それをオレが眺めていると、美咲が何かを持って戻ってきた。


「ボールが落ちてた」


 そういうことでオレと美咲はキャッチボールを始めた。

 天守台のある頂上はキャッチボールをするには少し手狭だったので、少し降りた「二の丸広場」と看板に書いてある場所でキャッチボールを始めると、これがなかなかおもしろかった。


「行くよー」

「いーぞー」


 美咲の投げたゴムのボールは初めうまく飛ばなくて、あらぬ方向へ飛んでいき、それをオレが広場の端まで走って追うと、美咲はそれを見てキャッキャと笑うので、オレも多少本気になって思い切りブン投げたら、これもあらぬ方向へ飛んでいき、今度は美咲が広場の端までボールを追って走っていった。ボールに追いつく美咲の背中は拾うと同時にこっちに向いて、振り向きざまにボールを投げたが、ボールはぜんぜん手前に落ちて、結局自分でもう一度ボールを拾い、もう一度こっちへ投げて返すが、やっぱりあらぬ方向へ飛んでいき、オレはひいこら走ってまた追いかけて、掴んで投げたら、ワンバウンドで後逸し、美咲はとっとこ走ってまた追いかける。

 振れる黒髪の広く舞う。


「えーい」

「おりゃー」

「飛びすぎー」

「走れー」


 オレも美咲も犬みたいに走るので、なんだかとても楽しくなって、二人で笑って投げ合うボールは、徐々に失投暴投が減っていき、少しはキャッチボールらしくなってきたなと思う頃には、公園を歩く人の数もだいぶ増え、陽射しも随分高いところから降るようになっていた。

 運動をしたらお腹が空いて、公園内の売店をのぞくとホットドックが売っていたので二人で買って、ベンチに座って並んで食べた。

 マスタード。

 口の刺激に過ぎる昼。


「汗びっしょり」


 陽射しの暖かさは身体の熱で暑さに変わり、服も下着も汗に湿ってぐっしょりしていて、そこで何かを思い出した。


「そういえば、下着替えたっけ?」

「あれ?」


 天守台の広場に戻ってみると、昼の陽射しにフカフカになった芝生の上にビニール袋が転がっていて、その中にあったかくなったオレのトランクスと美咲のパンツとブラジャーが入っていた。

 城と芝生と男女の下着。

 なんかおもしろかったので、二人で笑った。


「楽しいね」


 美咲の表情は明るくて、そこにはなんの不平も不満も感じられず、心から楽しくて、だから笑う美咲の顔は、とてもきれいに輝いていた。


「ずっと続けばいいのになぁ」


 それは陳腐なセリフであって、陳腐だからこそ本心で、本心だからこそオレもそう思って、うなずきながらオレは美咲の横顔を眺めていた。

 午後。

 公衆トイレで下着を替えて、少し爽やかになったオレと美咲は、芝生に転がって久しぶりの運動に疲れた身体を休めていると、オレの携帯電話が鳴り出した。

 バイト先からだった。

 気付けば二泊三日の小旅行になっていて、いつの間にかにバイトを無断欠勤してしまい、店長から怒りの電話が飛んできた。オレは平身低頭で謝り倒し、今日の深夜シフトに一人空きが出たので、それを深夜割増なしで埋めてくれれば許してやると言いくるめられ、今すぐ帰らなければならなくなった。

 そのことを美咲に言うと、美咲はちょっと寂しい顔をしたけれど、すぐに「こんなに長く付き合わせちゃってごめんね」と謝った。それがなんだかとても痛く、オレは「そんなことないよ」と笑ってみたが痛さは消えず、美咲の長い黒髪が風にも揺れずに落ち着くさまは、なんだか折れてしまったように心に残った。


「このボールどうしよう」


 黄ばんだゴムボール。


「落ちてたんだから、戻しとけばいいんじゃないか」

「そうだね。それが一番だね」


 そう言って美咲は大きく振り被ると、ゴムボールを空に向かって大きく投げた。

 空。

 美咲の髪が大きく翻った。

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