十章 失せ物

1

 他国にある館の魔人の住処に到着したクロアは飛竜から降りた。屋内は明るいため、何者かが館にいるとうかがい知れる。クロアは魔人がいるのではないかと思い、すぐに玄関へ突入する気にはなれなかった。タオが「楽にしていい」と忠告する。

「ヴラドがいる気配はない。この照明は同居人が点けたものだ」

 館の主は不在だと知り、クロアは緊張がほぐれた。臨戦態勢は不要となれば両手を空けておく必要はない。それゆえ足元にいるベニトラを抱きあげる。

「ヴラド以外に、どういった方が住んでらっしゃるの?」

「普段ねむりつづけるヴラドに代わって屋敷を守る者だ。迷いこんだ旅人の世話もする」

 タオが大きな両扉を開けた。開けた瞬間は暗かったが、足を踏み入れると壁に設置された灯りが点灯する。四尺ばかり前方に、もうひとつ扉が構えていた。

「ここは改築した玄関だ。入口と広間が直通していると落ち葉が入ってきて困る、と管理者に言われて直した」

「きれい好きな方ですのね」

「ああ、もとが掃除目的に造った生き物だ」

「『造った』……?」

 タオはふたつめの扉を開けた。広間は明るく、暖炉や長椅子などの常人に入り用な設備、家具が最低限ある。魔人の住居とはいえ、人間の宿代わりになるという噂は本当らしい。

 ぺたぺたという物音が近付く。クロアはつい杖に手を伸ばすが、現れた生き物を見て気が抜けた。薄茶色の毛に覆われた獣人で、兎に似た長い耳と大きな目が印象的だ。背は子どものように小さい。裳を履くさまは女性のようだ。

「お客さんなの?」

 声は幼く、敵意がまるでない。クロアは獣人の無防備さに意識がいってしまい、上の空で「そんなところですわ」と答えた。タオが会話を引き継ぐ。

「ティッタ、ヴラドの部屋へ案内してくれ」

「うん、わかった」

 クロアたちは兎の獣人に先導される。階段を上がり、扉が点々と続く廊下を進んだ。今度は灰色の毛皮の兎が手を振りながら走ってきた。獣人が「リロー」とタオに声かける。

「頼んでおいたハタキは?」

「すまない、まだ買っていない」

 クロアは「リロー?」と新たな呼び名に反応した。タオが「私のあだ名だ」と言う。タオの名となんら共通点のない呼称だ。マキシのように長い名前を省略した愛称では確実にない。

「ティド、お前は館に不審な人物が入らないように見張ってくれるか」

「いつもやってるよ!」

 灰色の兎は一階へ行った。クロアたちは最上階へ上がる。重厚な両扉の前へ着き、茶色の兎がたやすく扉を開けた。扉は見た目ほど重くはないらしい。

 兎が部屋の灯りを点けた。室内には蓋の開いた棺桶が中央に置かれている。体格の良いタオ以上の者が収まりそうな巨大さだ。その棺桶が室内でもっとも目立った。棺桶を囲むようにして棚や箱が壁際に並ぶ。武具も装飾品のごとく陳列していた。タオはおもむろに棚の引き戸をあけ、中にあった写真を出す。色あせた写真には所狭しと人が写っている。その中にはリックらしき姿があった。

「これは大昔、私が生まれる前に撮ったものだそうだ。この男がヴラド」

 タオが指でひとりの男を示した。残念ながら年代ものの写真に加え、被写体が後方にあって、顔がはっきり見えない。

「よくわかりませんわね……最近の写真はありませんの?」

「これは術で経年劣化を防いでいる。単に写真機の性能が悪いんだ」

 タオは別の一枚を見せる。男性の横顔が写りきらないほどの接写だった。雰囲気は気の強そうな、眼力のある壮年に感じられた。

「撮り方は下手だがこれが一番、よく顔が見える」

「ヴラドの顔を知っても、肝心の女性さがしには役に立たないのではなくて?」

「意味は、ある」

 タオがじっとクロアの顔色をうかがった。憐れみを帯びた目だ。クロアは自分になんら恥じ入る部分はないゆえ、反抗心を燃やす。

「なぜそんな目でわたしを見るの? わたしが捨てられた子犬にでも見える?」

「ああ、いずれそうなるかもしれないからな」

 なかば冗談で言った例えが、否定されなかった。クロアは屈辱を覚える。

「どういうつもり?」

 クロアは苛立った。タオが鞄からクロアの家族写真を出す。写真帳をめくり、兎に見せた。

「ティッタ、この中に見知った者がいるか?」

 兎は大きな目をぐるぐるうごかしたのち、「うん」と答える。

「この女の人がヴラドの宝物」

 兎が毛むくじゃらな手で写真を示した。一般動物の兎にはない指先を、クロアは注目する。幼いクロアを抱く赤髪の婦人。その上に獣の指があった。


2

「どういう、こと?」

 クロアは答えを聞きたくない問いをつぶやいた。明るい茶色の兎が「そのまんまの意味」と無邪気に切り捨てる。

「この子どもを抱いてる人、ヴラドが捜してる女性なの」

「ちがうわ。だって、お母さまは十数年もお父さまと連れ添って──」

「うん、それくらいむかしにここを出て行ったよ。『施療院に行く』と言って」

 施療院は公営の医療施設だ。診察だけなら無料で利用でき、旅人もお世話になるという。聞くところによると、クロアの両親の馴れ初めも、クロアの母が町の施療院へ向かうところを騎馬で通りがかった父が送ってあげたという。

「なんで、その女性が……アンペレに行くの? ここは聖王国じゃないわ、剣王国でしょう。この国の人は、この国の施療院に行くものじゃないの?」

 クロアは母がヴラドの関係者ではない点をひねり出した。それ以外に否定の根拠は出ない。

「聖王国のほうが医療技術がいいって噂だからかも?」

 それは療術士の技術差が激しい両国において根強い評価だった。医療を司る魔人の子が、兎に別の写真を見せて「間違いないか」と念押しする。兎はなおもクロアの母をヴラドの所有物だと肯定した。

「名前はフュリヤというらしいが、それで合っているか?」

「うん、そんな名前だった。ちゃんと確認してみるね」

 兎が戸棚から帳簿を出した。年号と物品の名前、それを渡した者の情報などが記載してある。兎は白紙の部分を見開きにし、そこからさかのぼった。最新の記録らしき項目を読み上げる。

「トリフ暦九六一年三月、剣王国のテミーズ村の者が村娘と引き換えに魔物退治を依頼する。娘の名はフュリヤ。種族は半魔。魔物を倒し、娘をもらう」

 クロアはテミーズの名を母の故郷として聞いていた。山奥の草木豊かな村であり薬草を採取、調合して村全体の利益としていたという。

 母の名と故郷の名、半魔という特徴とその人物の活動時期。それらはすべてクロアの母と一致している。クロアは否定しうる材料を失った。

「なんで……お母さまはヴラドのことなんて、一度もおっしゃらなかったのに……」

「それは本人に聞くしかないな。だがそのまえに……」

 タオは部屋の扉に向かった。通路へ出て、すぐにもどる。その片手に女性の襟首をつかんでいた。タオが捕まえた人物は桃色の髪をした術官だ。

「この者は偵吏なのか?」

「え……プルケ? どうしてついて来たの?」

 プルケは拘束を解かれた。逃げるそぶりはせず、恥ずかしそうにする。

「クロアさまが心配だったんだ。屋敷内でタオさんに会ったら、クロアさまの気配と変な感じがして……」

 透明化の術は物理的には姿を隠せても、精神的に感覚のするどい者には効き目がうすいという。プルケは術士としての実力が高いため、隠遁したクロアの気配を察したのだ。

「追いかけてみたらタオさんの姿が消えたでしょ。で、気配は空へ遠ざかっていく。これは透明化状態で遠出する気だな、と思ってついてきたわけだよ」

「わたしを心配してくれたのはいいわ。盗み聞きの弁解はどうするつもり?」

 クロアはずいと顔を近づけた。背の低いプルケは身長差による圧力を感じ、畏縮する。

「あの、盗み聞くつもりはなくて……」

「だいたい、兎の獣人が侵入者を引き止める約束なのだけど……どうやって入ってきたの?」

「え? 『だれだ』と聞かれたからアンペレの官吏だと答えて、普通に入れてもらえたけど」

 クロアはタオの顔を見上げた。タオは「そういえばだれも入れるなとは言わなかった」と自身の言葉不足を内省した。

「まあいいわ。プルケ、これだけははっきりさせとく。この場で聞いたことを他言する?」

「いえ、黙っておきます。他人があれこれ言えるもんじゃない」

「そう、わかったわ。わたしはお母さまに申し上げるつもりだから、めぐりめぐってお父さまやカスバンにも知られるでしょうね」

 母と娘だけの話では済まない。確実に父も知る。そして母の身柄を魔人に明け渡すか否かを高官と協議するだろう。結果的にはプルケの口止めをする意味はないが、順番が大事だ。まず家族内で満足のいく話し合いをする。そうしないうちに家族外の者、とりわけ老爺に知らせては彼の意見が横行してしまいかねない。その状況は家族が納得する結末を迎えにくくさせる。

「さっそく屋敷にもどりましょう」

「待て。まだ話は終わっていない」

「どんな話ですの? プルケが居てもよろしいのかしら」

「ああ、彼女はきっとわかっている。隠し立ては無用だ」

 タオはプルケと視線で会話した。プルケが悲しげな顔をする。クロアにとっておもしろい話ではなさそうだ。

「お母さまの素性以外に、わたしが知るべきことがあるとおっしゃるの?」

「ああ、もはや、隠しつづけてはおけないことだ」

「まだるっこしいですわね。簡潔に教えてちょうだい」

 タオは感情が見えない仮面をつくる。

「あなたはヴラドの子だ」

 短文の言葉が、強固な飛礫つぶてのようにクロアの胸に当たった。だがすぐさま粉塵と化して心の底に落ちる。それは意外にも拒否反応なく心身に溶け込んだ。


3

 クロアが抱えていた猫がむずがり、床へ下りた。クロアは手中の温もりを失う。自身の両腕をつかむことで、自身のさびしさをまぎらわせる。

「わたしが、魔人の娘……」

 はじめて知ったことだ。それでも突拍子ない事実だとは思えなかった。

「ベニトラやナーマが、わたしを魔族寄りの人間みたいに言っていたのは……」

「魔族の血が濃い者は魔障の血の濃度が見抜ける。あなたのように気付かない者もいるがね」

「じゃあダムトやプルケも、わたしが……お父さまの子じゃないとわかってた?」

 魔人寄りの官吏は「黙っていてごめん」と婉曲的に肯定する。

「クロアさまには教えなくていいことだと、みんな思っていたんだ。でもこうして実父疑惑の魔人と関わりをもっちゃ、そうも言ってられないよね……」

「お父さまは? 知っていらしたの?」

「ああ、ダムトが……教えてたらしい」

「いつ?」

「ダムトがクロアさまの従者に取りたてられたころ、だったかな」

「そんなに……むかしから?」

 父は自身の血を受け継がない娘を、そうと知ってなお愛育した。その行為にどれだけのむなしさがあっただろうか。クロアは父が表に見せなかった心情を想像するといたたまれなくなり、目元に熱気がのぼってくる。

「お父さまは、ずっと……真実を隠しておいでだったのね……」

 娘が慕う父親が他人だと知れば娘は傷つく。それゆえ官吏にも口止めして、クロアを領主の娘として居させた。その情愛を想うとクロアはむせび泣きそうになる。だが感情の爆発をこらえ、毅然とした態度をつらぬいた。涙はいくつか流れてくるが、強引にぬぐい、鼻をすすった。

 タオは兎に茶の用意を頼み、部屋を出る。クロアも彼に手を引かれて出ていく。

「帰るまえに、すこし休んでいこう」

「わたしは、もう話すことは──」

「事情を飲みこむには時間がかかるだろう? 一息ついておこう」

 クロアはタオの心遣いに甘えることにした。クロア自身は自分が平静をたもてていると思うのだが、他人から見てどうかはわからない。余計な不安を屋敷へ持ちこまないよう、ここで心の整理をしておこうと考えた。

 タオに連れられる間、クロアはかつてないほどに思考をめぐらせる。母がヴラドの妻に等しい人だと父が知ったらどうなるだろう。母を魔人に返すのか。

(お母さまがいなくなったら、妹たちが寂しがるわ。まだちいさいんだもの)

 クロアの不安は幼い家族にあった。学舎に住まう妹と弟は長期休暇の帰省時、我先にとフュリヤに抱きつくのだ。彼らは母への慕情が強く、まだまだ甘え盛りだ。

(あの子たちが独り立ちするまでは、お母さまにいてもらわないと……)

 母の身柄を返さないのなら、どうやって捜索人の目をくらますのか。その手段はとてもクロアでは思いつけなかった。

 クロアたちは沈黙したまま、一階へもどった。灰色の獣人が手招きしていたので、その案内にしたがうと、食堂のような場所に出た。調理場の近くに食卓がある。タオが食卓に着き、クロアとプルケも着席する。兎の獣人たちが手際よく茶の支度をした。二人の獣は言葉を交わさずに息の合った連携を見せる。タオの急な茶会の要求を、別室にいた獣人がすでに知っていたのを鑑みると、兎の彼らにのみ聞こえる会話をしているのかもしれない。

 クロアとプルケには蜂蜜の入った紅茶がふるまわれた。タオは甘味が好かないのか素のままの紅茶を飲む。クロアは飲食をする気になれず、湯気の立つ茶杯を見ていた。

「今後のことが、心配か?」

 タオがこともなげに聞いた。他人事にはちがいないのだが、クロアには快く思えない質問だ。

「あなたに憂えていただく必要はありませんわ」

「ねえや、じいやに生活を支えられていた貴族が、いきなり平民の暮らしを営めるか?」

 こう聞かれてやっと、クロアは自分が公女である資格が無いことを悟る。

「あ……そうだわ、わたし……お父さまの後継者じゃなくなるんだわ」

「いま気付いたか?」

 タオがあきれたようにおどろくので、クロアはむっとする。

「わたしがバカだとおっしゃりたい?」

「そうじゃない。さきほど貴女が落ちこんでいたのを、公女でなくなることに対する不安のせいだと……私が勘違いした」

 他人の目からはそう見えたのか、とクロアは意表をつかれた。タオはプルケを見て、「領主はどうお考えだ?」と問う。プルケは彼女は首をひねって「ヒラ役人にはなんとも」と言う。

「クノードさまのお心は、わからない。クロアさまをどうしたいのか、ご本人に聞かないと」

 父に話さなくては物事が進まない。クロアは意を決して、紅茶を一気飲みした。空けた茶杯をそっと机上へおろす。

「そう、ね……お父さまとお母さまにちゃんと知らせなくちゃ」

「継承権の話も大事だが、ヴラドが夫人を連れもどしたがっていることにも対処してほしい」

「そこが問題だわ。お母さまを返さなかったら、やっぱり武力行使してくるのかしら?」

「そうなる危険は、ある」

 前途の暗くなる可能性だ。クロアは口の中の甘い後味がすっかり苦々しくなるのを感じる。

「もしお母さまの身柄を渡したら……一生、お母さまと会えなくなる?」

「わからない。ヴラドの活動時期はまちまちだ。やつが活動するときは夫人も同行するだろうが、何十年と寝られれば夫人もそれに従うことになる」

 クロアはヴラドの居室にある空の棺桶を思い出した。寝台のない部屋であったが、あれが寝床だというのか。

「ヴラドはいつも棺桶の中にいるの?」

「ああ。普通の寝台で寝ると体にほこりが積もるそうだ。ほこり除けに、棺桶を使う」

 並みの人間では考えられない問題対策だ。この館の主が何十年でもねむるというのは、本当によくあることらしい。

「あんなに大きい棺桶を使うのだから、さぞ体も大きいのでしょうね」

「そうだな……貴女がそれだけ体格がよいのも、きっとヴラドの遺伝だ」

 そう言われてしまうと、クロアはこれまで自身を欺いてきた自意識を直視する。

「わたしの身長……お父さまを追い越してしまったものね……」

 クノードは中背で、フュリヤは女性にしては高いほうだがクロアほどではない。クロアが両親に似なかった身体的特徴を、ずっとフュリヤの父方の影響だと思いこんできた。クロアの怪力もそうだ。自己に流れる魔人の血が、すぐれた身体能力を発現したのだと信じてきた。同じ血を継ぐフュリヤにはあらわれていない異能力だと知りながら、自分は特異な例の混血児なのだと見做した。そうすることで、公女である自己を肯定しつづけた。しかし現実は、もっと単純だったようだ。

「……ヴラドも、力がとびっきり強いの?」

 クロアは平易な答案の答え合わせをするように、否定を想定しない確認をこころみた。タオは目を閉じて「かなり強い」と明快に答える。

「ほかにも貴女とヴラドが似ている部分はあるが……じかに見てみればわかる」

 タオの話は一段落ついたと見て、クロアは獣人に茶の礼を言う。そうして食堂を出た。朱色の猫がとことこと後ろをついてくる。

『もう平気か』

 クロアがしゃがみ、猫と目線を合わせる。

「ええ、わたし……いろいろと納得はできたわ」

『公女でなくなってもかまわぬか』

「いいのよ。もともとわたしに不似合いだったわ」

 しかしさびしさは感じた。クロアの周囲にいる人々は、クロアが公女という立場だからよくしてくれたのだ。その地位が不当であったと知れたいま、彼らとも離別するおそれがある。それでもクロアが自分を孤独だと思わない望みがあった。

 クロアは猫の両頬をそっと手で包んだ。毛皮ごしに頬肉をもむ。

「わたしが身分を剥奪されても……ベニトラはわたしと一緒にいてくれる?」

『おぬしの心根が変わらぬかぎりは、共にいよう』

 クロアは感極まって、猫を抱き上げる。その頬に自分の頬をごしごしとすり寄せた。どんな窮地に陥っても自分はひとりではないのだと、温かい被毛が教えてくれた。


4

 ヴラドの館を来訪した三人はタオの飛竜に乗り、アンペレの町へ帰還した。行きと逆順をたどり、町中で降りてから屋敷へ行く。ただし出かけるときとはちがい、クロアは姿を隠さずにいた。今宵の外出を周囲に知らしめるためだ。案の定、警備兵の目撃証言を聞き付けた高官が出迎えに来た。クロアは余裕の態度で老爺に挨拶する。

「こんな夜にも真っ先に出てくるなんて、勤勉ですわね」

「どこにお出かけだったのですか。従者にも告げず……!」

「カスバンには後日知らせます。さきに伯に報告しなくてはなりません」

 クロアは老爺の反論を唱える隙をつぶしたうえに、ずんずんと歩を進めた。老爺は立場的にも体力的にも口でしかクロアと対抗できないために、結果的に公女の独断専行を許した。

 クロアはタオとプルケと別れ、単独でクノードと対談することにした。彼の寝室へ訪れると、寝間着の夫婦が長椅子に腰かけていた。クロアは二人同時に真実を伝えることにためらいを感じ、立ちすくんだ。そこへ、母が優しく声をかける。

「ヴラドの館に行ってきたのでしょう?」

 夫人がクロアに歩み寄り、娘を抱きしめる。

「懐かしい匂いがする……」

 その言葉は疑いなく、母がヴラドの関係者であることを認めていた。

「ほんとうに、お母さまはヴラドの妻なの?」

 クロアは震える声で問うた。フュリヤが首をゆっくり横に振る。クロアは母の否定にとまどい、またかすかに歓喜した。

「いいえ、『妻』といえる対等な関係じゃないの。金品と同じように所有される『物』……『奴隷』と言ったほうが正しいかしら」

 淡い期待は無残に砕けた。ぬかよろこびと言ってよい。消沈したクロアは長椅子に座る中年に目を移す。

「お父さまは、知っていらしたの?」

 父は悲しげな笑顔でうなずいた。追い打ちをかけることにクロアは気が引けたが、こらえる。

「わたしは……ヴラドの子らしいんです。それもご存知?」

「ああ、聞いたよ。だけどクロアが私の子ではないことを前々から……知っていたんだ。だから、クロアには妹と弟がいる」

 クロアは年齢の離れた妹たちがいる。クロアの出生について知ったのち、正式な世継ぎを確保するために新たに子をしたのだろう。

 クロアは父が想像以上に状況を理解し、また冷静でいる様子を見て、体の力が抜けた。足元がふらつくのを、母に支えられる。そのまま一緒に長椅子に座った。

 長椅子のまえの卓上には酒瓶と酒杯があった。酒杯は底にすこし酒が残るものと、手つかずに酒が入っているものの二つ。父は残りすくないほうの酒杯に酒を足す。

「こうして三人ですごすのも最後になるか……」

「それはどういう意味なんですの?」

 クロアが率直に質問した。クノードは口元に傾けた酒杯をすぐにもどす。

「クロアをどこかへやることはしない。だから安心してほしい」

「ではお母さまがヴラドのもとへ行ってしまうの?」

「二人で話し合った結果、そうすることにした。クロアはどう思う?」

 クロアはタオの言葉が頭にちらついた。魔人に母を渡さなければ、魔人はその怪力をもって町に乗りこんでくるかもしれない。母をヴラドに返すべきという父の主張はうなずける。

「わたしも……そうするしかないのかとは思います。でも、条件を付けたい……」

「どんな条件を出すつもりだい?」

 クロアは幼い家族に思いを馳せる。

「妹たちが帰省する時期に限定して、お母さまをアンペレに招くのです」

 クロアの懸念は母の愛情を欲する妹たちにある。幼子たちの幸福を想えば、母を何年も魔人のもとに預けたくはない。

「相手は年中眠る魔人ですもの、短期間のお母さまの不在はなんてことないと思いますわ」

「はたして魔人がその要求を飲んでくれるか……」

「お父さまはどうなるのが一番よいとお思いになってらっしゃるの?」

 クノードは酒杯を空けた。クロアはその飲み方が荒い気がしてならなかった。

「ここにずっと居ればいい。魔人も、賊も、私にはどうでもいいことだ!」

 クロアは自分の耳を疑った。それらは普段の品行方正な領主が発するはずのない言葉だ。

「なぜいまになってフュリヤを捜す? 十何年も、フュリヤがいなくなったことに気付かずにいた寝坊助だろう。どうしてあと百年……いや、五十年も眠っていられないんだ」

 領主の仮面を外した中年が憤慨に任せて酒を注ぐ。その手を母が穏やかに止めた。クノードは酒瓶を手放した代わりに、母の分に用意した酒杯に口をつけた。母は「ごめんなさい」と力なく言う。

「わたくしの浅ましさがいけないんです」

「そんなことはない。きみは他者を優先しすぎるだけだ」

 フュリヤは寂しい笑みを見せた。クロアは母の自嘲に耐えかねて、次の質問に移る。

「お母さまはなぜヴラドにしたがうのです? 一生を捧げるほどのなにかを、その魔人がやってくれたと言うの?」

 若々しい夫人はクロアの手を握り、伏せていた過去を語りはじめた。


5

 フュリヤの生まれ里は剣王国の、森林豊かな地域だった。木の伐採と薬草採取が収入源になる村にて、フュリヤとその母はよそ者としてひっそり暮らしていた。母子と村人との交流はかんばしくなかったが、村の生命線にあたる森に魔物が棲みついたあと、事態は急変した。

 村民は魔物のせいで生活の糧を得られなくなり、土地を守る領主に魔物退治を申請した。しかし退治は失敗した。そればかりか、村の居住区域には危険がないとわかると現状維持の決断をくだされた。村民は困り、村からほどちかい館に住む魔人を頼ろうとした。だが魔人に差し出すにふさわしい財貨は村にない。そこでひとり乙女──フュリヤを取引の道具にした。

「親しくもない人たちのために、犠牲になったというの?」

「『人身御供になる代わりに母の生活は保障する』という申し出だったの」

「それにしたって、聞く義理はないはず。だって、お婆さまとはゆかりのない土地だったのでしょ。無視して引越せばよかったのに」

「『住む場所と仕事をやった恩があるだろう』と言われたら、断れなかった。わたくしも母も、口が達者ではないから」

 館の魔人はフュリヤが長寿であることを理由に、乙女を報酬に受け取った。ヴラドがいまだ所有した経験のない珍品、というだけで彼は要求を飲んだ。

「この魔人も『半魔の娘』としか見ていないと知ったときはがっかりしたわ。でも──」

 ヴラドによる魔物の討伐にはフュリヤも付き添った。魔物が放つ瘴気は、ちかづく生き物の生命力を損なわせる。その特性がその土地の領主の討伐隊を退かせた要因であり、フュリヤも

参ってしまった。

「あの方はこの身を気遣ったの。あんなふうに優しくしてくれる男性はいなかったから……」

「魔人に、恋をしたの?」

「そう……好きになった。こんなこと、夫のまえで言ってよいとは思わないけれど」

 魔物はヴラドの手で打倒された。その後は約束通り、フュリヤがヴラドの長い就寝に付き添うこととなる。だが人間と同じ暮らしを続けてきた半魔には長期間の睡眠ができない。そこで両者の性質を同化する行為をした。

「そのときにクロアを身籠ったのでしょうね」

「え、そういう、行為なの?」

「ええ。そのおかげで何日も眠れるようになったの」

 しかし、しばらくしてふたたび不眠に悩まされた。フュリヤは体の不調も感じたので、兎の獣人に外出を告げて、館を離れた。施療院は無料で診てもらえるが投薬などの治療を受けるには金銭がかかる。それで母にお金を借りようと村へ訪れた。再会した母はやつれていて、とても村から生活の援助を受けているようには見えなかった。実はフュリヤの身柄が魔人に渡っても、母親は村人との約束を反故にされ、放置された状態だったという。

「『森が解放されてもすぐにはお金を稼げない』と言われて、泣き寝入りしていたの」

「なんて人でなしなの……!」

「あの村は裕福ではなかったの。みんな自分たちの生活を送るのに大変だったのよ」

 フュリヤはなけなしのお金を母からもらい、町へ向かった。アンペレを目指した理由は医療の精度の良さもあるが、旧知の村の者に遭遇する可能性が低いと思ったからだった。魔人のそばにいるはずのフュリヤが外出していると知られれば、村に残る母がどんな仕打ちを受けるかわからなかったのだ。

 アンペレのような大きな町は町道に沿って移動すればたどり着ける。そう考えたフュリヤは徒歩で長距離の道を進んだ。しかし体調がよくないのもあり、途中で休憩をした。そのときに馬を駆る青年に声をかけられた。

「それがお父さまね。お母さまを施療院まで連れていったと聞いておりますわ」

「そう。無償で送ってくれたのよ。運賃を支払おうかとしたら『あなたのような女性と同乗できて光栄です』とお世辞を残していったの。この国の人はキザなのかと思ったわ」

「殿方は美人と一緒にいられたら喜びますわよ。お母さまはよくご存知ではなくて?」

「そのときはまだ、自分が地味な村娘のままだと思っていたの」

「え? 『地味な』……?」

「あのときから夢魔の特徴が出てきたのよ。もう人ではない生活をしていたせいね」

 施療院で診察を受けた結果、不調の原因は不明だった。精密な診療を受けるには金額がかさむのであきらめ、町に来たついでにお金を稼ぐことにした。治療費と、困窮する母の援助のための資金集めだ。しかし施療院を出た時分は日が落ちていた。一泊できる場所を求めて町を巡っていると、官吏たちに呼び止められ、屋敷に招かれた。そこで会った人物が──

「お父さまなの?」

「いいえ、すこしお若いころのカスバンさんよ」

「えー、それはガッカリですわね」

「そんなことは思っていられないわ。わたくし、なにか罪を犯したんじゃないかと思って、怖かったんだもの」

 カスバンはフュリヤを町まで送った人物の身分を明かした。当時公子であったクノードがフュリヤを気に入ったことを告げ、その側仕えを求められた。

「『妻を亡くされた傷心を慰めてほしい』と頼まれて、屋敷にいさせてもらうことになったの。下女として貴人の身の回りの世話をする仕事だと思ったわ。お給金が出るから、最初は言葉通りに受け取っていたけれど、だんだん別の目的が見えてきて……」

 数日を経たのちに縁談があがった。提案者はまたもカスバンであり、このときにクノードによる求婚はなかった。結婚したあかつきにはフュリヤの母親を屋敷に移住させるという、フュリヤにとって好都合な条件が提示された。母に何不自由ない生活を提供できるうえに、母と一緒に暮らせる──

「屋敷の人は優しくて、断る理由がなかったわ。それでヴラドのことは話さずに嫁いだの。夫がいたのと、わたくしが半魔だということは伝えたけれど、それ以外は隠して……ずるいでしょう? こんな卑怯なこと、性根のまっすぐなクロアは許さないでしょうね」

 フュリヤは昔話を終えた。クロアの手を放し、長椅子の肘掛けに置いた毛布を広げる。それをうつむくクノードに掛けた。彼は酔いが深まったせいで眠ったらしい。母の告白はクノードにとって復唱に相当するとクロアは思い、きっと共通認識ができていると信じた。

 フュリヤが就寝をすすめたがクロアは拒んだ。母が下す「卑怯」という自己評価に抵抗が芽生えたためだ。まことにそれが正当な意見か、自分なりの決着をつけようと試みた。


6

 クロアは母がアンペレ公夫人になるまでの経過を知り、言いようのない感情に襲われた。フュリヤの行動は公正さに欠ける。彼女が遠因となって、賊の掃討が阻止された現状もある。それらを踏まえれば母を「卑怯者」と糾弾すべきだと言える。だがフュリヤ個人の責任だろうか。

 フュリヤが住んでいた村の者が、フュリヤとその母との約定を履行していたら。フュリヤは金銭に困らず、親の余生を案ずることはなかった。孤独な親の安住を求めての婚姻を交わさなくてもよかった。ならばこの母子を騙した連中を咎めるべきか。

 村人らには道義にもとる決断をせざるをえない事情があった。魔人に捧げる宝物はなく、それを用意する資金源もない。そのために人身であがなった。その後も労苦に見合う稼ぎが得られず、約束を反故にしてしまったのかもしれない。フュリヤが「責めないで」と言うからには、そうでなくてはクロアの腹の虫が収まらなかった。

 そもそも魔物討伐は地元の領主に申請が入っていた。領主が討伐を成功させていたらヴラドの出る幕はなく、ひとりの女性が魔人に身を差し出す事態になりえなかった。人民を守るべき輩が職務を全うしなかった点を弾劾すべきか。

 為政者への非難はクロア自身、身につまされるものがある。弱小な正規兵を有するアンペレは賊の横行を看過していた。それは鎮圧できる兵力がなかったせいだ。目に余る蛮行に及べば大都市の援軍を要請できるが、その段階に至らずに野放しにしてきた。それと同じ状況下にあったと考えると、他国の領主を責める資格がクロアには無かった。

「……お母さまは卑怯者じゃありませんわ。どうしようもなく、運がわるかったのです」

 クロアは我ながら陳腐な表現のように感じた。しかしほかによい言葉が思いつかない。

「お婆さまも不運です。夢魔に襲われて、家族に見放されて、子をひとりで育てて……大事な子を手放すはめになったのに、なんにも報われない。そんなの、馬鹿げているわ!」

 感情が昂ぶったクロアは母を抱きしめる。

「不運が積み重なって、その不運をぜんぶ吹き飛ばせる幸運が目のまえにやってきて……手を伸ばさずにいられる人はいないわ。だれもお母さまをわるく言えやしないの」

 母の手がクロアの背をなでる。クロアは久しく母に体をさすってもらい、童心にもどった。母と過ごした記憶に追い立てられる。顔を上げ、一層強く母にすがる。

「お母さまはいつだって家族を、周りを気遣ってきたでしょ。ずるい女にはできっこない!」

「いいえ、そこがずるいのよ。みんなに見捨てられないよう、媚びを売ってきたの」

「媚びでもなんでも、卑しさが見えなければ本当の誠意ですわ。それに、どうして歓心を買わなくてはいけないんです? 領主の夫人を、みなが冷たくするわけがありませんわ」

「わたくしが居なくなったあとも、ここの人たちが母の世話をしてくれるように……」

「お母さまが居なくなる……? それはいまみたいに、ヴラドが迎えにくるときのこと?」

「そう、とも言えるわ。いつまでもここに住めるとは思っていなかったの」

 フュリヤは天井を仰いだ。遠い、かなたを見つめる。

「あの方が気付くまえに、クノードにすべてを話して、出ていこうと考えていたわ。子どもが大人になるまでは居ようと思ったのだけれど、クロアの下の兄弟が産まれたらどんどん先延ばしになって……ぐずぐずするうちに、ヴラドは起きてしまった」

 こんなふうにフュリヤがぼうっとすることは過去に何度もあった。クロアは母が自分と似て散漫な気質なのだと思っていたが、あのときは母がヴラドのことを想っていたのかもしれないと考えなおした。

「わたくし、これでよかったと思うの。ヴラドがなにも知らないのをいいことに、彼の側にもどって、さもずっと、眠りつづけていたふりをしたら……わたくしは一段と狡猾な女になり下がっていたの」

「お母さまはそんな女になれませんわ。きっと正直に、ヴラドにお話しになると思います。長い間、だれにも話さずになやんできたことなんだもの……はじめて好きになった人には、言いたくなるんじゃないかしら」

 フュリヤはこっくりうなずく。

「そうね……わたくしは言ってしまうんだわ。冗談めかして、長い間、見ていた夢のように。それを聞いたら、あの方は怒るかしら」

「魔人がマヌケなのもいけないんですわ。お母さまを何年もほったらかしにして、子を三人も育てる時間を持たせたんです。ヴラドが一方的にお母さまを叱責するようなら、わたしが言って差しあげます。『あなたが鈍感だったことにも責任がある』と」

 フュリヤがうれしそうにほほえむ。クロアはその表情に救われた。

「クロアは優しい子ね。思いやりのある子に育ってくれて、わたくしは幸せだわ」

「お母さまとお父さまの子ですもの。根性が曲がるはずありませんわ」

「だけどその気の強さは……女の子には持て余してしまうわ。そこがわたくしの心残り……」

 今生の別れのようなつぶやきだ。母との離別の未来を否定したいクロアは食ってかかる。

「ヴラドは永遠に生きる魔人でしょう。お母さまがいますぐ眠りにつかなくてもいいじゃありませんの。お婆さまとお父さまの今際いまわきわまで屋敷に居て、その後で好きなだけ眠ればよろしいのだわ。いましかできないことを優先しましょう」

「そんな虫のいいこと、あの方は聞き届けてくれるかしら……」

「話してみますわ。ヴラドはあんまりオツムはよくないそうですから、言いくるめる余地はあります」

 母はなおも憂鬱な顔をする。クロアはその反応に釈然としなかった。

 クロアはあるひとつの結論を見い出し、居住まいを正した。母と、眠る父を交互に見る。

「……お母さまがヴラドのもとに行きたいと願うのでしたら、邪魔しませんけれど」

 フュリヤは目を見開き、顔を伏せる。心にもない指摘、とは見えない反応だった。クロアは自分の希望と母の希望が同一ではないことを知る。

「お母さまは……魔人を愛しておいでなの? その、お父さま以上に」

「自分でもよくわからないの……気持ちが、どちらに傾いているか……」

 でも、とフュリヤが言う。

「あの方がわたくしを捜していると知ったとき……心の中で、とても喜んでしまったわ。わたくしは、無くてもよいものじゃないと、思っていただけた証拠だから──」

 フュリヤは実母を除いて、この世に生を受けた時から存在を疎まれていた。初めて人として真っ当に接した者が、くしくも自身を金品同様に手に入れた魔人。それがどれだけの輝きを放っただろう。クロアには想像のつかないことだ。公女というだけで無条件で愛され、敬われる環境で育った苦労知らずには、母に同情することさえ侮辱に値すると思える。

「お母さまのなさりたいようになさってください。ずっと、ご自分の思いを押し殺してこられたんですから。もう、我慢しなくてよろしいのです」

 クロアは就寝の挨拶を済ませ、足早に退室する。話し合うことは尽きた。あとはフュリヤ自身の意思に委ねる。それが現状における最大の孝行だと考えた。


7

 翌日、賊討伐に関する会議が開かれた。最大の敵である魔人の対策はできたとクノードが発表する。魔人の所望する女性はいかような人物か、と官吏が関心を示した。クノードがその人物の入室をうながすと、赤銅色の髪の貴婦人がしずしずと入ってくる。昨晩のことを知らぬ官吏は色めきたった。官吏を統べる領主が真剣な面持ちで語りかける。

「驚くのも無理はない……が、これは真実だ。フュリヤはヴラドの……妻に等しい人。身柄を返せば魔人は我らに敵対する理由を失う。それを前提とし、賊の再討伐をはかる」

 ボーゼンがすぐさま挙手する。

「ご両人はそれでよろしいのですか?」

「いいんだ。昨日、よく話し合って決めたことだ」

「ならば分不相応の申し立ては致しません。しかし、クロア様はご存知でしょうか」

「ああ、わかってくれている」

 クロアはうなずいて同意を示した。次に老官が発言権を獲得する。

「奸賊は剣王国に居を移しました。征伐のまえに隣国の領主に一報伝えておくべきです」

 迷いのない堅実な進言だ。アンペレ公夫人が魔人のもとへ行くことへの動揺はないようだ。

「過去数百年に渡る友誼を鑑みますと、我らが軍をのさばらせたとて、侵略の疑いをかけられる可能性は低いでしょう。ですが慎重を期するに越したことはありませぬ」

「礼節を守るためにも確実に連絡しよう。キロイ公に通達し、返事を受けたのちに出兵する。その予定でいいかな」

 キロイ公は剣王国の商都とその一帯を守る領主。アンペレからもっとも近い、他国の領主だ。官吏はこの決定を承認した。

 ユネスが手をあげ「ちょっとした質問なんですが」と下手したてに出る。

「昨日、おれたちが封鎖した賊の住処はどうします?」

「放っておくつもりだったが……逃亡した者が偵察に来たり、よそへ行っていて何も知らずに戻ってきたりする者がいるかもしれないか」

「余裕があるんなら、ちょいと見張っておいたらいいかと思います」

「わかった、ユネスに駐屯してもらおう。同行する兵の選出はきみの裁量に任せる」

「わかりました。念のため、療術士を加えてもいいですか」

「ああ、きみの妻でもだれでも、人選は好きにしていい」

 ユネスの妻は医官だ。そのことを揶揄された武官は気まずそうに承知した。クノードは軽い気持ちで言ったのだろうが、この場にそぐわぬ発言だと察して眉をひそめた。なにせ領主は自身の妻を手放そうとしているのだから。

 クノードは失言を撤回しようとして、話題を変える。

「ユネス以外、前回の討伐に加わった武官と客人には引き続き参加してもらう」

「お父さま、わたしはどういたしましょう?」

「クロアも行こう。ヴラドに一目会いたいだろう?」

 一部の者はその言葉を「母を奪う男への関心」と捉えただろう。だがクノードの質問はそんな類ではない。そうとわかっているクロアは重々しく「はい」と答えた。

 会議が終わり、参加者が退室していく。クロアは去ろうとする主席を引き止める。

「お父さま、わたし──」

「そんな顔をしないでくれ。フュリヤが出て行ってしまっても、クロアはここに居場所がある。それだけは、なにも変わらないんだ」

 父の顔は娘の不安を映したかのように憂慮が浮かんでいる。

「だれがなんと言おうとクロアは私の子だ。クロアはそうじゃないのかい?」

 クノードが両腕を広げる。クロアはその胸に飛びこんだ。すでに父の身長を越してしまって、幼少時のように父の胸へ顔をうずめることはできない。しかし父の手が、クロアの頭をやさしくなでる。

「すっかり大きくなったね。むかしは片手で抱えられるくらいに小さかったのに……」

「女は成長が早いですもの。十五、六歳を過ぎたら背が伸びきってしまいますわ」

「クロアが産まれて、もうそんなに経つんだ。そろそろ私が隠居してもいい頃かな」

「なにをおっしゃるの。お父さまはまだまだお若いですわ」

 父娘の会話がはずむにつれ、平常通りの様相にもどる。血の繋がりのない二人の絆は切れず、一層固い結びつきへ変わった。


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