六章 客人

1

 クロアはダムトからもらった飴のおかげで元気が多少もどってきた。彼の付き添いは地下牢までにしておき、クロアは体を洗いに向かう。すぐにでもねたいくらいだったが、今日はいろんなところへ出かけたので、体についた汗や埃は落としておきたいと思った。

 移動の間、少女と化したナーマは低空飛行し、クロアの背後に付きまとった。ナーマの下乳がクロアの肩甲骨に当たり続ける。クロアは居心地がわるかった。が、どうせ入浴の際に離れてもらおうと思い、抵抗しなかった。

 風呂場の脱衣場に入るとき、クロアは招獣二体にこの場で待機するよう命じた。ナーマは一緒に入ろうとしたものの、ベニトラに入口の番を任せてこれを阻んだ。

 猫の庇護のもと、クロアは無事に入浴を終えた。脱衣場にある自分用の寝間着を着て、自室にもどる。その道中はベニトラが背中に張り付いてきた。この獣は身を挺してナーマによる抱きつきを防いでいるのだ。クロアはその気遣いとあたたかい腹毛の感触によろこび、自身の両肩に乗る前足をなでて「ありがとう」と言った。

 クロアは自室にもどった。室内に寝間着姿のレジィがいるのを見つける。

「レジィ、なにか用があったの?」

「あ、ベニーくんの寝床をととのえにきたんです」

 レジィが卓上のカゴをかたむけた。カゴの中には敷物が詰まっていて、だいぶ底が浅くなっている。膝掛け毛布がカゴの上部に置いてあり、まるで赤子の寝台のようでもあった。

「ここの机に置いてあったものは全部、ベニーくん用なんですよね?」

「ええ、そうなの。あなたがうまく寝床をつくってくれて、よかったわ」

 いまのクロアにはどの布地をどこへ使う、といった試行錯誤をやれる気力がない。今晩もベニトラの寝床を用意しないまますごそうかと、ちょっと思ったくらいだ。

 ベニトラはクロアの背中から離れ、レジィが手掛けた寝床に入る。ベニトラはいちど毛布の中へもぐりこみ、顔を出してみせた。作り主の思惑通りの使用方法だ。レジィは満面の笑みで「かわいぃ~」とよろこんだ。

 猫の寝台を完成させた従者はひとしきりベニトラの頭をなでる。そうして卓上のカゴから目線をはずし、今度はクロアの寝台を見る。そこに好色な夢魔が寝転んでいた。

「あの、そちらの女の子は……牢屋に入れてた魔人ですか?」

 クロアは寝台の端に座り、「そう」と答える。

「ナーマというの。町で男性の精気を吸っていた夢魔よ」

「え、一緒にいて安全なんですか?」

「わたしの招獣にしたの。そうすれば他人の精気を奪わなくてもよくなるそうよ」

「クロアさまの精気を吸わせちゃって、いいんですか? あの、すけべなことを……」

 レジィは露出の多い少女を不安気に見る。色気がしぼんだナーマはクロアに抱きつく。

「変なことしないってば」

「言ってるそばからベッタリしてくるんだから」

 クロアは物言いこそ夢魔を突き放すが、内実はそこまで邪険に思っていない。聖都の学生寮にいる妹はこのナーマと外見年齢が近い。その影響で新たに妹を持ったような気持ちになった。

 クロアはレジィを立ったままにさせてはいけないと思い、寝台に座らせた。レジィはクロアの手を見て「あっ」と声をあげる。

「その指輪、どうしたんです?」

「え? ああ、ダムトが買ったのよ」

「指輪を……贈られたんですか?」

 レジィが自身の両手をかたく握って問いただしてくる。色恋沙汰に関心を寄せる少女のようだ。クロアは彼女の勘違いをただすべく苦笑いする。

「贈る、なんて大層な代物じゃないわ。あいつは経費で買ったことにするつもりだもの」

「経費? じゃあそれ、普通の指輪じゃないんですね」

「幻術にかかりにくくなるらしいわ。このナーマを捕まえるまえにダムトが調達したの」

 思えばダムトがとった夢魔への対処はムダがないようだった。そのことをクロアはいまになって不思議がる。

「よく事前調査もなしに、的確な対策がとれたものだわ」

「えっと……夢魔が幻術を得意とすることは、めずらしくないと思います」

「そうなの?」

「昔から、夢魔は人間にすてきな夢を見させて、その間に精気を奪うと言われています。このときに人間が見る夢が、幻術によるまぼろしなんだそうです」

「うーん、そういえばそんな話を学官が言っていた気がするわ」

 クロアは不確かな知識をひねり出した。おぼろげな魔物学講座には関連項目も付随する。

「んー、そのときに気になることを聞いたわ……お母さまも夢魔の血を引いている──」

「学官がそのことを直接、クロアさまに言ったんですか?」

「ええ、そうだったと思う。それがなにかまずいの?」」

「まずい、かどうかわからないんですけど……フュリヤさまが半分夢魔だってことを、あまり話題にしてはいけない雰囲気があって……」

 クロアはレジィの推察が正しいと思えた。その根拠は過去に、自分もそう感じたことだ。

「そうね……きっとそうなんだわ。わたしはむかし、お婆さまにたずねたことがあるもの。お母さまの父親はどんな人だったの、って……そうしたらひどく悲しいお顔をされて、それ以上聞けなかった。そのころのわたしは無知な子どもだったけれど、お婆さまに聞いてはいけないことだけはわかったわ」

 後々、クロアの疑問は母が教えてくれた。祖母は若い頃、夢魔にさらわれ、何年も家に帰れなかった。はからずも救出がかない、家にもどれたが、生活は元通りにならなかった。その原因は彼女ら生活に夢魔の子が混ざりこんだことにある。フュリヤは忌み子と揶揄され、その冷遇に耐えかねた母子は家を出たという。このことをクロアがレジィに明かすと、ナーマが「あるある話ね」と会話に加わる。

「男の夢魔にかどわかされて、身籠ったってやつよ。よくあるでしょ? 帝王国の先代のお妃も、その母親が夢魔と通じて生まれた子だって」

「エミディオ王にまつわることなら知ってるわ! そう、半魔の女性は領主の娘だったけれど、『不義の子だから』と幽閉されていて、王がその女性を助けるのよ」

「現実はそんなキレイなもんじゃない。地方領主が謀反を企てたのを制圧して、そのついでに娘をかすめ取ったってとこよ。夢魔の子はみんな美人だしねぇ」

「細かいことは気にしないわ。二人にはちゃんと愛があったんだから」

 先王は妃との間に四人の子をもうけた。そのうちのひとりが帝王国の現国王だ。ナーマは「愛がどうとかはいいんだけど」と軌道を修正する。

「世間体としちゃ、夢魔と交わった女性も子どもも、いいふうには思われないの。クロちゃんのお婆ちゃんがイヤな顔したのはそのせいねぇ」

「そう? お父さまもエミディオ王も、ご自分の意思で夢魔の娘を妻にしたはずよ。もう周りを気に病む必要なんて──」

「あとは夢魔と交わった本人の気持ちよね。誘拐されて無理やりってやつだと、死ぬまで引きずっちゃうんじゃない?」

 それもそうかもしれない、とクロアは内心同意した。祖母にとって、フュリヤは心からのぞんで得た娘ではない。忌まわしい過去が永遠に祖母を縛り付ける──

 と、クロアは推察を深めたかったが、眠気のあまりに頓挫した。それゆえ「もう寝ましょう」と話を切り上げる。レジィは立ち上がったが、その場を離れない。

「寝込みを襲われたり……しないですか?」

 彼女はナーマの出来心を心配している。クロアは「だいじょうぶ」と大きくうなずく。

「わたしはこの子の力を制限してるもの。屈するはずがないわ」

 それでもなおレジィは不安な表情を浮かべていた。不意に真顔になり、円卓へ近寄る。卓上のカゴの中でねていたベニトラの首をがしっとつかんだ。かっと見開いた猫の目と、レジィの視線が合わさる。

「ベニーくん、クロアさまのお体をお守りしてね。絶対だからね?」

 少女に気圧された猫が一拍おいて「承知」と律儀に答える。ほぼ強制的に言わせた状況だったが、レジィは承認の言葉に満足したようで、自室へもどっていった。


2

 翌朝、クロアはレジィに起こされた。深く眠ってしまったようで、レジィが枕元に立つ気配を感じとれなかった。クロアが起き上がろうと手をついたとき、寝具ではないものに触れた。羽の生えた少女だ。これがどういう人物なのか、クロアは思い出せなかった。

 薄着の少女は目をつむったまま、クロアにすり寄ってくる。クロアは反射的にその額を人差し指で押した。少女はそれでもぐいぐい顔を押し付けてくる。だがクロアの力にはかなわず、顔をぼすんっと布団に伏せる。

「もー、クロちゃんの馬鹿力ー」

 その甘ったるい声にはクロアの聞き覚えがあった。昨晩捕えた魔人だ。はじめて会ったときは成熟した女性だったが、いまは卑弱な少女に変化している。そのようにクロアが変えたのだ。力量を弱めても好色な性格には影響がないらしい。

「厄介な子をしょいこんでしまったわね……」

「せっかく招獣にしたんですし、傭兵の代わりになる強みはないですかね?」

 レジィの発案はクロアの盲点だった。もとよりナーマをなにかに役立てる、という考えはクロアにない。ただ民衆への被害をなくす目的で、そばに置くと決めたのだが。

「そうね……この子は術が使えるんだし、戦力になるのかも」

「じゃあユネスさんに伝えておきますね。今日の腕試しは二人、予定が入ったって」

「ふたり……?」

 クロアはほかの先約があったことをわすれていた。レジィに身支度をととのえてもらうかたわら、彼女がダムト伝いに聞いた昨晩の出来事をおさらいした。そのおかげでクロアはルッツという槍使いが屋敷に再来訪することを思い出す。

「あの方はきっとお強いわ。ナーマも合格すれば、戦士が二人確保できるわね」

「なんだか順調ですね。いつもの兵士不足がウソみたい」

 そうこう話すうちにクロアは支度をしおえた。ナーマは二度寝したようで寝台からうごかず、円卓上のカゴを寝床にするベニトラもまだねている。クロアは人外の仲間を部屋に放置し、朝食をとりに行った。

 いつもの居室には父母と祖母がいた。クロアは父と外見年齢のあまり変わらない祖母を見て、昨日の夢魔話を連想する。その内心をさとられまいとして、顔を伏せがちにした。

「昨晩、魔人の女性を保護したそうだね」

 クロアの不安をよそに、クノードが雑談のていで話しかけてくる。

「その後、どうだい?」

「え? ええと、わたしの招獣になって、部屋で過ごしていますわ」

「そうか。新しい友だちが増えて、よかったよ」

 父の言い方にクロアは違和感をおぼえた。しかしそのことには触れない。夢魔という存在は、腫れ物に等しい。そう父が判断したがゆえに、真実を知っているはずの父はあいまいな言葉を使うのだ。この場にいる、祖母と母のために。

 クロアは無難に朝食をおえた。居室を出るとレジィがやってきて「いまから試合ができます」と報告する。クロアは午前の職務を先延ばしにしておき、訓練場へ急行した。部屋へもどってからナーマを連れだすより、招術で呼び寄せたほうが早いと思ったためだ。

 第三訓練場には木剣の素振りをするユネスがいた。クロアは彼と挨拶を交わしたのち、しばし待機を命じる。対戦相手を呼出したいが、肝心の呼び方をよく知らない。その場でレジィに教わることにした。

「まず、呼びたい相手の姿かたちを想像します」

 これは昨日、ダムトと遠距離で会話したときと同じ手法だ。クロアは目を閉じる。有翼の少女の、温かそうな羽と耳を入念に想像した。

「次に相手に話しかけます。これは心の中でしゃべってください」

「心の中で……」

 クロアは夢魔の幼い形態を髣髴しながら、何度も名前を呼びかけた。

『なーに、クロちゃん』

「あ、返事があったわ」

「呼び出しの了解をとったら、その姿がここに現れるように想像してください」

 レジィの指示通り、クロアは『わたしのところにきてくれる?』と

『いいよん。視界のどこかを強く念じて。そしたらそこに行けるから』

 クロアは訓練場のそばに設置された長椅子に注目した。なにも置かれていない椅子。その上部分に集中する。

 数秒ののちに視界に歪みが生じる。奇妙なもやが椅子の上にでき、人型となる。もやが取り払われ、そこに人が出現した。有翼の少女である。クロアはやっと術士らしいことができたという達成感が湧いてきた。レジィもクロアの手をとって「成功しましたよ!」と我がことのようにはしゃぐ。

「これでもう招術はバッチリですね!」

「ええ、術は苦手だと思っていたけど……意外とすんなりできたわ」

 クロアたちが歓喜に湧く一方、ナーマは長椅子の上でくつろいだ。片肘をついて横になっている。これから戦う、ということをまだ理解できていないようだ。彼女は朝方、クロアたちの会話を聞いていたとクロアは思ったのだが、うまく伝わらなかったらしい。

「ナーマ、あなたこれからこの男性と一戦交えてくれる?」

 クロアは自身の手の先をユネスに向けた。ナーマは起き上がり、空中であぐらをかく。

「えぇ? 招術の練習をしたかっただけじゃないの?」

「ちょっとした腕試しをしてほしいの。あなたは術で戦えるでしょ?」

「こんなチビッ子状態じゃ威力がでないわよぉ」

「威力は弱いほうがいいわ。相手の体に攻撃を当てるだけだもの、ね?」

 クロアはユネスに試験内容を確認した。ユネスは「先に三回当てたら勝ちだ」と昨日の対弓士との試合と同じ条件を提示する。

「おれが使う術は水の弾だ。当たっても痛くねえようにするが、もしケガをしたらそこのレジィに治してもらえ」

 レジィが手をあげて「治療はまかせて!」と豪語した。ナーマは「戦うの好きじゃないんだけどぉ」とぶつくさ言いつつも訓練場へ入る。試験官のユネスは木剣を長椅子に置いてから入場した。挑戦者は術士だと判断したうえでの徒手だ。

 訓練場の出入口が封鎖され、障壁が一面に出現する。ナーマは屋根を形作る障壁を見上げて「逃亡防止用なの?」と若干引き気味になった。相対するユネスは腕組みをする。

「あんたが仕掛けてきたら、試合開始だ」

「余裕こいちゃって。さっさと三発当てちゃうよぉ」

 複数の光球が少女の周囲に現れる。それらはひょうのごとく武官へ降りそそいだ──


3

 試合はあっけなくおわった。術の戦いとなるとやはり魔人に分があったようで、ナーマが楽々と勝つ。クロアののぞんだ結果だ。その歓喜に乗じて、勝者がクロアの胸へ飛びこんでくる。

「ねー、アタシがんばったでしょー?」

「ええ! 試合には勝てたわね」

 クロアはナーマの翼に生えた羽毛をなでながら、試合に負けた試験官の様子を見た。ユネスはまったく手傷を負っていない。それは両者ともに敵意のない戦いをおこなったからなのだろうが、はたして実戦でも同様の勝敗になるかというと、未知数だ。この試合はあくまで、勝利条件がナーマに有利であったにすぎない。そう考えるとクロアは手放しによろこべない。

「ねえ、この子を合格にしていい?」

 訓練場内から出てきた武官に確認すると、彼は「どうとも言えません」と答えた。クロアは戦闘面でナーマに能力不足があったのかと推察する。

「賊との戦いじゃ、ついてこれなさそう?」

「いや、そういうわけじゃありません。その招獣は幻術が得意だと聞きましたんで」

「幻術が実戦に役立てる、と見込んでいいのね」

「はい。おれが心配してることは『線引き』をどこでするかって──」

 言いかけて、ユネスはクロア以外のものに気を取られた。その視線のさきには地面すれすれに飛行する文官がいる。あのような移動方法をとる者は古株の高官だけだ。

 クロアはナーマに触れていた手をおろした。のんきにじゃれついている状況ではない。

「離れてくれる?」

「えー、このまんまでもいいでしょ」

 有翼の少女はクロアにくっついたままだ。クロアの不本意な態勢で、到着した老爺と応対する状況となる。

「そちらの女子はどういった理由で、ここにおるのです?」

「ユネスと手合せしたの」

 クロアが答えたとたん、老爺の眉間にしわが寄ってくる。

「どういったお心づもりで、この者らを競わせたのです?」

「もちろん、戦士の頭数にするため──」

「招獣は人員にかぞえられませんな」

 老官が冷たく言いはなった。クロアはこれを不服とする。

「後出しで規定を加えないでちょうだい。やり方が汚いわ!」

「なにをおっしゃるか。招術とは術の一環でございましょう」

「招獣は自分の意思を持った生き物です。術でつくる火や水とはちがうんじゃなくて?」

「どちらも使用の際は術士の精気を消耗します。並大抵の招術士では戦士二人分の戦力にはなりえませぬ」

 老爺は公女に抱きつくナーマをにらみつけた。招獣の馴れ馴れしい態度をも彼は気に食っていないようだ。目で不満を訴えられた少女はこそっとクロアの後ろへまわった。

「招獣を呼び出したら、術士は戦えなくなるというの?」

「そのようにお考えになってもよろしい。ましてクロアさまは術が不得手。安定して招術を使いこなす確証がまったくございません」

「そんなの、練習すればなんとかなるわ」

「それだけではありません。ベニトラと呼ぶ飛獣……あれも、同時に使役されるおつもりでしょう?」

 老爺は目線をうごかした。クロアが昨日から連れあるく猫をさがしているらしい。ところが今日のベニトラはクロアの部屋で休んでいるので、この場にはいない。

「いまは呼び出しておらぬようですが……戦いでは必要となる者です。招獣を二体も使っていては、いつ精気を使い果たすかわかったものではない。ですから、招獣は術士の能力の範囲内にふくめるべきだと申しておるのです」

 クロアは老爺の主張が正しく思えた。しかし詭弁があるやもしれず、戦闘知識の豊富なユネスに視線を送ってみる。ユネスは「普通はそうかもな」とカスバンに同意する。

「おれがさっき言いかけた『線引き』っつうのも、カスバン殿がおっしゃったことと同じなんです」

 ユネスがわざとクロアに不利な態度をとるはずはない。クロアは今回、老爺の言葉に折れることにした。ぬかよろこびした、とクロアはがっかりする。

「見方を変えりゃ、野良の魔獣や魔人はいいってわけか?」

 ユネスが落胆したクロアを気遣ってか、大胆な仮定を出した。老爺は渋面でうなずく。

「こちらの指示をよく聞き、同士討ちなどしないという保証があれば許可しましょう」

「まぁいねえよな、そんなの」

 クロアは自分にくっつくナーマに「一度野良にもどる?」と言ってみた。ナーマが猛然と反対したため、あえなく断念する。

「はぁ……あとはルッツさんだけね……」

「その御仁に試合は必要ありません」

「どういうこと?」

 もしやルッツも不適合だと難癖をつけるつもりなのか、とクロアは気が滅入った。しかしカスバンは「不戦勝です」と抑揚なく言う。

「ルッツ殿……の力量はこのカスバンめが責任をもって保証いたします」

「え、ほんとうに?」

「あの方のことは存じておりますゆえ、それを申し上げにまいりました」

 クロアはカスバンの了解を得られたことをよろこぶ反面、この老爺が吉報を知らせにきたとの主張には違和感をおぼえた。彼はこの戦士集めには非協力的であったはずだ。

「なぜ、ルッツさんを雇っていいの?」

「あの方は『公女を手助けしたい』とお言いになったのです。無下に断ればバチがあたりましょう」

「ずいぶんとルッツさんを丁重にあつかうのね?」

 この高官はクロアを同格未満に見做すフシがありながら、外部からきた戦士を同格以上に遇している。その落差にはおそらくルッツの経歴が関係する。

(王の護衛役をやってたかもって、ダムトは言ってたのよね……)

 王の側近になれる者の多くは名家の出身だ。中にはアンペレ家よりも格式ある家門が存在する。そういった名門の出の者には公女に対する以上の礼節を尽くさねばならない、とこの保守的な高官なら考えてもおかしくはない。

 老爺は顔色を変えずに「親切な客人には適切にもてなします」とそれらしいこと言って、しのいだ。ルッツの素性を明かす気はないようだ。

「ところで、クロア様への報せはもうひとつありまして……」

「ええ、申しなさい」

「ルッツ殿のお連れ様が試合に挑戦なさるそうです。このまま待機していてくだされ」

 カスバンが思いもよらぬ情報を提供した。クロアはしゃっきり背を伸ばす。

「お連れさま? いま、いらしているの?」

「はい、二十歳前後の若者です。ただいま持ち物の検査をほどこされておりました」

「検査がおわったら、ここにおいでになる?」

 クロアが周囲へ意識を向けたところ、人声と足音が近づいてきた。人の気配のするほうを見てみると、そこにアンペレの文官と白髪の中年がいる。その後方には羽根帽子を被った青年もいた。


4

 ルッツは文官に案内を受けて、訓練場までやってきた。クロアの知らない青年も一緒だ。

 案内人がカスバンに一礼し、客を残して立ち去った。カスバンは槍を持つ武人を見るや、目礼を交わした。言葉を発さないやり取りにはひっそりとした緊張感があった。その空気の中、ルッツの後ろにいた青年が前へ出てくる。自分の番だ、と言わんばかりだ。カスバンが彼を二十歳前後と形用したが、その顔立ちは十代の後半のようだとクロアは思った。

「それじゃあ僕が試合とやらに挑戦してもいいだろうか?」

 若い男性は自信満々で申し出る。腕におぼえがあるらしいが、若干その態度は非常識だ。

「はじめにどちらさまなのか、教えていただけます?」

 クロアが言うと青年はふっと笑い、懐に手を入れた。取り出したのは折りたたんだ紙。紙を広げ、自慢げに見せる。それは帝王国学都にある学府の高等部を卒業した証書だ。この大陸において学才に秀でる証拠である。紙面には彼の氏名が記名してあった。

「マクスウィン・オレアティ?」

「オレアティって、帝都の宰相の家名じゃないですか?」

 レジィはそう言うが、クロアは知らない。

「そうだったかしら?」

「有名ですよ、エミディオ王の片腕だった人の家系なんですから」

「その名前で演劇に出てくれないとおぼえられないわ」

 クロアが正直に言うと青年がため息を吐く。

「はぁ……まあ、予想通りの反応だな」

「なんですの、嫌味っぽいですわね」

 クロアは小馬鹿にされた気がして、不愉快になる。

「他国出身のあなたが、わたくしのなにをご存知でいらっしゃるの?」

「『アンペレ第一公女は武勇ありて才知なし』」

 クロアは一瞬どういう意図の言葉をかけられたのかわからなかった。それが侮辱の言葉だと理解が追いついたとき、ふつふつと怒りが生じてくる。

「……『才知なし』ですって?」

「風にのった噂だよ。きみはそう評価されて、よその国にまで広まっているわけだ」

 クロアは不当な評価だと思い、憤った。だがそう言われてしまう欠点は自覚している。

「わすれやすいことと知恵がないことは別ですわ!」

「そんなもの、他人にとっては大差ないさ。人は物を知っているだけの人間でも『賢い』と思ってしまうんだからね」

「どこのだれがわたくしにそんな評価をくだしたんですの?」

「出所は知らないな。第一公女はめったなことじゃ領地を離れないというから、この土地の人間がそう言ったんだろうけれど……」

「腹立たしいですわね! 民衆の暮らしを良くしようと、はげんでいますのに」

 激昂するクロアをよそに、青年は「そういきり立たないでほしい」と言いながら卒業証書をしまう。

「どんなに立派な行為をしてたってケチをつける輩はいるさ。そういう連中を見返すには、結果を出すのが効果的じゃないかな」

「結果?」

「きみが言っただろう、『民衆の暮らしを良くしようしてる』と。その一端が賊の討伐だろ?」

 マキシは片目をまばたかせた。どういうつもりの仕草だかクロアはわかりかねたものの、彼はクロアのなそうとすることに同調しているらしいと伝わった。

「僕も賊の討伐に志願しよう。どうやって志願者をふるいにかけるんだね?」

 ユネスが「俺と戦ってもらう」と言い、マキシの腰に提げた小剣を見る。

「あんた、剣士なのか?」

「いや、これは術士の杖のようなものだ。僕は斬り合いが得意じゃない」

「それなら術対決だな」

「術もいいが、僕は招術が大の得意なんだ。招獣を戦わせてもいいかい?」

「ああ、いいぜ」

 ユネスはカスバンの顔を見ながら答える。老官は同意の合図として頭を縦に動かした。

 試験官が訓練場の柵へと入り、飛び入りの挑戦者が意気揚々とついていく。出入口が封鎖されたのち、マキシは悠然と手を前方に出す。手の下に氷のような粒が集まった。粒がめまぐるしい回転をしたのちに消え、そこから大きな爬虫類の姿が現れた。雪のように白く、たてがみのような襟巻きが首のまわりに生えている。体つきは狼のようでいて、節々に黄金の鱗がある。なかなかに美しい魔獣だ。

 ユネスは対戦相手の美麗さなど露にも気にかけず、いつも通りに試合条件を述べる。ただ一点、いままでにない注意事項があった。

「おれは招獣じゃなく、あんたに当てにいくからな」

「え、僕の招獣と戦うんじゃ?」

「さっき、招術は術の範疇だと方針が決まったんでな。だったら術士を叩くのがスジだ」

 余裕綽々だったマキシがどよめく。自身は観戦する気でいたらしい。ユネスの水球は招獣の背を越えて、招術士へと撃たれた。


5

 試合のすえ、挑戦者は及第した。ただし快勝とはいかなかった。青年の運動能力は貧弱で、試験官の水球を避けきれないでいた。彼を合格へこぎつかせたのは彼の招獣である。青年のあつかう招獣は招術士に攻撃がいかぬよう、うごきに気を遣っていた。つまるところマキシの招獣は賢く、強力だということがこの試験で証明された。マキシ本人の力量はどうにも不安が残るものの、術士にとって身体の強さはあまり重要ではないので、この結果に高官は口出ししなかった。

 晴れて二人の戦士が確保できた。まずは彼らを領主に会わせる。客分の姿かたちや人柄を、おおまかに共有しておくのだ。以後この二人は契約完了の日まで屋敷に出入りすることになるため、そのことをクノードに知らせる必要があった。

 執務室への移動中、クロアは討伐の日がくるまで客人がどうすごすのか、予想を立てる。

(屋敷の客室に泊まってもらう? それともこちらが宿泊費を負担して、町の宿に宿泊しつづけていただく?)

 宿泊先の選択はどちらでもかまわない。客人たちが快適であるほうを選んでくれればよいのだ。クロアの興味は彼らの時間の使い方にかたむく。

(ルッツさんは観光したいのかしら……?)

 旅をしているという彼なら町の観覧をしたがるかもしれない。そうしてもらってもよいが、クロアはその過ごし方を惜しいと感じる。

(せっかく槍術に長けた方がおいでになったのだし……兵に稽古をつけるようおねがいする?)

 いつぞやクロアが来訪を願った武人のたぐいだ。彼が武官たちと接することで弱卒の良い刺激になるやもしれず、クロアの期待はふくらんだ。この計画案をルッツに直接言おうかとしたが、長考のうちに目的地に着いてしまい、言い出せなかった。

 執務室ではクロアの父とそのほかの官吏が作業していた。それらの仕事を中断してもらい、客人の紹介と今後の滞在方法について話し合う。客人はそれぞれ、なぜこのアンペレへやってきたのか述べた。ルッツはクロアに話したとおり、石付きの魔獣の退治が目的だったと言う。

「遠方にて耳にした話ゆえ、遅参になってしまいましたが……別の用件でお役立てできて、たいへんうれしく存じます」

 クロアはルッツの言葉には好感を得たが、その熱意の在りかに疑問を感じた。どうして彼はそこまで我々に協力したがるのか、理由が不透明だ。クノードは笑顔でルッツの誠意を受け止めるばかりで、質問をしてくれない。クロアは父の代わりに質問の機会をうかがった。しかし会話の間が空くとすぐにマキシのほうが話をはじめてしまい、断念した。

 マキシは石付きの魔獣を調査したくて、ルッツに同行してきたという。この青年は学都の学校においても魔獣の研究に心血をそそいできた、と自己紹介する。

「僕は石付きの魔獣だった招獣を観察したいのですが、許可してくださいますか?」

「ああ、私は気にしないが……クロアはどうかな?」

 クロアはすこし考えた。マキシがベニトラを調べるとなると、ベニトラの近辺にいる者とマキシが常時顔をつき合わす状態になりうる。つまり、クロアのそばにマキシがくっついてくることになる。それは少々気まずい。

「わたしの寝所にまで来られるのは、ちょっと……」

 ベニトラはただいま、クロアの部屋でお休み中だ。そんなベニトラをも青年が見張ろうとするなら、今日会ったばかりの他人にクロアの私生活が筒抜けになってしまう。

 マキシは堂々と「そんな非常識なことはしません」と明言する。

「せいぜい、官吏たちが立ち入る場所に入らせてもらえばいいと思っています。それ以外の私的な場には踏みこみません」

「でしたら許可いたします。ベニトラを好きなだけ見てくださいな」

 マキシの余暇の過ごし方は決まった。話題的にちょうどよいので、クロアはここでルッツもどのように過ごしたいかたずねた。ルッツは首をひねる。

「これといって思いつきませんな……」

 ルッツは予定を立てていない。クロアはここが主張のしどころだと見る。

「よければうちの兵士の調練を見てくださらない?」

 カスバンは公女の思いつきにびっくりしたようだが、ルッツは「それがし程度の者でよければ」とひかえめに承諾する。

「とはいえ、それがしは指導経験が豊富ではありません。過度な期待はご容赦を」

「そんなにかまえなくてよろしいですわ。いま以上に兵がへこたれるとは思えませんもの」

 クロアのあっけらかんとした物言いを、老爺が咳払いで反抗した。クノードは三者の反応を見たうえで、クロアの提案を受理する。

「では調練指導の報酬も考えさせていただきましょう。ほかに決めておくことといえば、宿でしょうか──」

 宿泊場所は屋敷内の客室を使用することになった。そのほうが双方の連絡のやり取りが簡便になる、という現実的な長所が決め手だった。

「よし、じゃあベニトラという招獣を見せてもらおうかな」

 マキシはクロアにずずいと近寄った。どうも彼の思考には遠慮という言葉がないようだ。クロアはわざと嫌そうな顔を見せつける。

「そうはいきません。さきにルッツさんのことを武官たちに話さなくては」

 ベニトラの観察はいつでもできるが、兵の調練は実施できる時間がかぎられている。その差異を理由にクロアは優先度をつけた。それをクノードは「私がやっておこう」と宣言する。

「クロアはマキシさんを案内してあげなさい」

「よろしいんですの? ルッツさんの指導の話はわたしが言い出したことなのに……」

「ああ、こういう調整は私のほうが得意だからね」

 ルッツの処遇をクノードが引き受けた。クロアはしょうがなく、厚かましい青年とともに執務室を出た。


6

 父の執務室を離れたあと、クロアはレジィに午前の仕事をさきに着手するようたのんだ。もはや始業時刻はかなり過ぎていて、昼休みを意識するような時間帯である。やれる事務作業はすくないのだが、なにもしないよりはいいとクロアは判断した。なにより、クロアに敬重の意を示さない客人に向けて「自分は暇人ではない」と強調する意味もあった。とくにやることのないナーマもレジィに付き添わせ、職務の見学をさせることにした。

 クロアはマキシを連れて、自分の部屋にもどった。今朝部屋に置いていった猫は専用の寝台で横になっている。あれからずっと寝続けていたようだ。普通の猫はよくねむる生き物だというので、この魔獣も同じなのだろうとクロアは思った。

 クロアの部屋のすぐ外にはマキシが待機している。彼は「クロアの部屋には入らない」と領主や公女に約束した。それゆえ、マキシはベニトラが廊下へ出てくるのを待っている。ベニトラにはこの部屋を出てもらわねばならないのだ。

「ねえベニトラ、起きてくれる?」

 猫はうっすら目をあけた。

「あなたを観察したいという人がいるの。ちょっと外へ行ってほしいのよ」

「外で、なにをする?」

「観察だもの、好きなようにしたらいいはずよ。でもいちおう、本人に聞いてみるわね」

 クロアはベニトラが入ったカゴを両手に抱え、廊下へ出た。廊下で突っ立っていたマキシはカゴに注目する。どこか気取っていた青年が、子どものように無邪気に目を輝かせた。

「おお! そこにいる朱色の動物が、そうなのか?」

「ええ、この子がベニトラ……つい先日まで、石付きだった子です」

 青年の手がカゴへのびた。ベニトラの鼻先に彼の指が触れそうになったとき、手をひっこめる。

「あ……さわってみても、いいかな?」

 厚顔無恥だった青年がベニトラの目を見ながら言った。彼は魔獣との接し方には慎重なようだ。公女よりも猫を大切にする青年の態度に、クロアは引っ掛かりをおぼえる。しかし彼にならベニトラをあずけても平気だという安心も感じた。

 マキシの問いかけに対して、ベニトラは反応しなかった。マキシは次いでクロアを見上げる。クロアを獣の代弁者と見做して、その承認を待っているのだ。

「はい、だいじょうぶですわ」

 青年は猫の下あごに指先を当てた。指で毛皮をかきわけ、毛が生えそろわない部位を見る。そこは一昨日、赤い石が付着していた。クロアが石を破壊したあとはその部分だけ素肌が丸見えになってしまい、いまは首輪で毛の抜け具合をごまかしている。傍目には脱毛の程度が気にならないようになっていた。

「ここに……石が埋まっていたのか」

 沈痛な様子でマキシがつぶやいた。彼は被害に遭った獣をあわれんでいるようだ。

(ちゃんと情がある人なのね……)

 えてして偏狭な好奇心にとらわれた人間は、他者を血の通った生き物とは思わず、非人情な行動に出ることもあるという。まさにベニトラを凶暴化させたやからが、そんな人間だ。だがマキシはそうでない。彼のよき一面を垣間見たクロアは、不遜な青年への悪印象を取りはらった。

 マキシがベニトラの脱毛部分を確認しおえる。彼は文具を出して、手帳に書きつけた。彼の調査はもうはじまっているらしい。クロアはもともとたずねたかったことを質問する。

「あの、ベニトラの観察は……この子が自由にしていればよろしいの?」

「ああ、それでいい」

 学者もどきの青年は手帳から目をはなさずに答えた。すっかり調査に夢中になっている。

「ベニトラ、マキシさんが観察しやすい場所まで移動してちょうだい」

 カゴの毛布にくるまっていた猫がもぞもぞとうごきだした。大きなあくびをひとつかく。そうしてフワっと浮遊をはじめた。マキシは猫の飛翔能力を目の当たりにして、「おお!」と感動する。

「へえ、飛獣か! やっぱり有名な魔獣の子孫かもしれないな!」

 有名な魔獣、という言葉にクロアは多少興味を惹いた。しかしそんな会話を弾ませていられる場合ではない。

「ではわたくしは午前の職務にもどりますわ」

「もうすこし待ってくれ。あとは、石付きの魔獣を捕獲した人から経緯を聞きたいな」

「経緯……」

「いつごろ目撃された、とか、どうやって捕まえた、とか……たしか公女とそのお付きの護衛が捕まえたんだろう? きみはいそがしいようだから、護衛の人から話を聞かせてもらえないか」

 クロアとともにベニトラを捕えた人物が、いまどこにいるか──クロアは把握していなかった。なにせ今日の彼には一日の休暇を出した。飛獣を有するダムトの行動範囲は広い。下手をすれば町の外へ出かけた可能性があった。昨日一昨日とたいへんな任務をこなしてきた人なので、ゆっくり自室で休んでいても当然なのだが、クロアに確証はない。

「わたくしの護衛は今日、職務を休んでいまして……部屋にいなかったら居場所はわかりませんわ」

「わかった。その部屋をたずねてみて、不在だったらあきらめるよ。どこの部屋だい?」

「真向いの部屋ですわ。ちょっとお待ちになってて」

 クロアは両手で持っていたカゴを脇に抱える。空いた手でダムトの部屋の戸をかるく叩いた。「どうぞ」という部屋主の声が返ってくる。クロアは内心とても安堵した。この従者がめんどうな客を対処してくれればまちがいはないと思ったのだ。

 クロアが部屋へ踏み入ると部屋主は入口のちかくに立っていた。彼はクロアの後方にいる客人に視線を射る。

「……そちらの男性と、俺が話をしたらよいのですか?」

「あら、聞いてたのね」

「聞こえましたとも。これでは休みが休みになりませんね、まったく」

「あなたが知ってることを話すだけでしょ? 世間話みたいなものよ」

 従者は渋々説得に応じ、マキシを接待する支度をはじめた。客をもてなす場所はダムトの部屋に決め、そこで長話するための茶を用意しにいった。

 ダムトが部屋を空ける間、ベニトラはダムトの寝台の端っこに身を投げ出した。まだまだごろ寝するつもりだ。その様子をマキシがじっと見ている。猫がすっかり置物のように居付いてしまうと、青年は猫ににじり寄った。寝台から垂れた長い尻尾を、手のひらでそっと持ち上げる。

「尻尾が長いんだな……」

 ぽろっと感想をもらすと、また手帳になにかを書いた。いまの彼はベニトラ以外に関心がない。クロアは「わたくしはもう行きます」と一言告げて、退室した。


7

 クロアは自身の仕事部屋へ入った。室内ではレジィがせっせとそろばんを弾いている。その背後には有翼の少女がレジィの動作をたいくつそうにながめていた。

「それは今日の分の仕事?」

 クロアは従者がなんの計算をしているのか、質問した。

「あ、えっと……仕事というか、活動費用の確認、です」

 レジィは気まずそうに答えた。彼女はなにか気がかりに思うことがあるらしい。

「急な出費があったの?」

「ルッツさんたちにかかるお金……です」

「? なんでうちで計算することになるの」

「それが、公女に振り分けた活動費用から捻出することになったそうで……」

 クロアはその決定に耳をうたがった。傭兵にかかわる経費は自分負担になるという認識がないのだ。

「……それは、いつ決まったの?」

「今日です。あ、でも雇った方への報酬はクノードさまが融通なさるそうですよ」

「じゃあなんのお金を負担するのかしら?」

「屋敷の滞在費とルッツさんに調練してもらう指導料です」

「指導、料金……」

 クロアはたしかに支払うつもりでいた必要経費だ。だがクロアが使う資金から出ていくとは予想だにしていなかった。どこかの部門で負担するもの、とはなんとなく考えていた。その思考のうちに自己負担はふくまれていなかった。自分に都合のよい見通しをしていたと、クロアは気付かされる。

「そっか……わたしがおねがいした話だものね……」

「ひとり分の一日の滞在費は教えてもらったので、あとはルッツさんへの指導料をクロアさまが決めてください」

「もう決めてしまうの?」

「はい。それが決まれば、ルッツさんたちがどれだけここにいられるか、計算できますから」

「それは気にしなくていいわ」

「え? でも……」

「とっとと人を集めてしまえばよいのでしょ」

 のこりの予算がどうのと論じても、人材が得られることとはなにも関係しない。

「仕事はほどほどにおわらせて、また昨日みたいに町中へ出かけるわ」

「はい……そうします」

 レジィはそろばんを片付けた。そのうしろにいたナーマがレジィの仕事机を飛びこえ、クロアのまえへやってくる。

「アタシが強そうな人をさがしてあげよっか?」

「あなたが?」

 この招獣に簡単な事務作業を押しつけようか、ともクロアは多少考えていた。だが、ナーマの発案はそれよりよほど本人に適性のある役目に聞こえる。

「いいわね。あなたなら身軽にうごけるし……」

「でしょ? じゃあ行ってくるね」

 ナーマはさっそく室内の窓を開け、屋外へ飛びさった。クロアは彼女のやる気に感心する。

「なーんだ、寝床でごろごろしたがるナマケモノじゃないのね。ベニトラなんかはずっとねむりっぱなしなのだけど」

「あ、ベニーくんはまだねてたんですか?」

「ええ! いっぺん起こしたのに、わたしの部屋を出たらまたねちゃったの」

「精気が回復しきってないんでしょうか……」

 猫の招獣は病み上がりだ。そのことをクロアはうっかり失念していた。

「昨日は普通に活動してたみたいだけど……あれは完全に元気になったわけじゃないのね」

「きっとそうです。だからお店で売ってる回復薬がほしいって、言ったんだと思います」

 回復薬、にクロアは引っ掛かりをおぼえた。それを口に出すまえにレジィがしゃべる。

「あの、お店でもらった回復薬はベニーくんにあげてみました?」

 追い打ちをかけるようにクロアは己が忘却していた事柄を把握した。自身のど忘れぶりに恥入る。

「やだ、食べさせてなかったわ」

「あ、やっぱり」

「もー、レジィもわたしのことをバカだと思っているの?」

 クロアはレジィにも認知される自分の忘却力がはずかしかった。言葉尻をとらえられたレジィは「そうじゃありません」といたって冷静に答える。

「いろんなことがいっぺんに起きてて、薬をあげるヒマがなかったんですよね」

 年少の従者がやさしくさとすので、クロアはすぐに感情を鎮静する。

「……いまからあげてこようかしら?」

「あ、はい。ベニーくんの体が楽になると思いますし……でも仕事はいいんですか? 

はやく取りかかったほうが──」

 仕事を早々に片付ければ午後の外出時間が長くとれる、とレジィは言いたげだ。クロアは「夜に出かけられればいいの」と答える。

「夜のほうが強い人を見つけやすいでしょ?」

「じゃあお昼からのお出かけは必須じゃないんですね」

「ええ、そういうこと」

 クロアは午前の仕事を午後にまわす予定を立てて、執務室を出た。店でもらった薬類は自室にある。だが部屋のどこにあるのだか、はっきり思い出せなかった。

(昨日はカゴのまわりに置いてたはずだけど……さっきは無かった気がする)

 クロアはさきほど、ベニトラをカゴごとマキシに見せた。その後にカゴを自室の円卓にもどしており、そのときの卓上にはなにも物がのっていなかった、と記憶している。

(ダムトかレジィが片付けたのね)

 より可能性が高いのは前者だ。そう考えたクロアはまず彼の部屋をたずねた。ダムトに荷物の収納場所を聞いてみて、それからベニトラに薬をあげるのがよいと判断した。

 男性従者の自室には二人の男性と猫がいた。男性たちは角がまるくなった楕円状の机で会話していたのを、中断した。クロアは旧知の人物のほうに自身の要求を伝える。部屋主がベニトラ用の薬をもってくると言い、クロアにはここで待つよううながした。それゆえクロアは寝台にねそべる猫のとなりへ座る。片手で猫の胴体をなでた。ふかふか毛皮に艶があって、その毛の持ち主が憔悴しているふうには思えない。

「あなたは……今日ずっとねているようだけど、まだ元気が出ないの?」

「完全回復には至らず」

「そう……すぐにおやつをあげなくて、ごめんなさいね」

 ベニトラは長い尾をあげて、クロアの膝元にのせた。気にしなくていい、とでも体で表現しているのだろうか。クロアはもう片方の手で尻尾をやんわりつかむ。

「してほしいことがあったら、言っていいのよ。できるかどうかはそのとき考えるから」

 猫はどうとも答えず、尻尾の先を左右にゆらした。肝心なところで意思をはっきりしてくれないやつだ、とクロアは不満に思う。

「もー、しゃべってくれないの?」

「そりゃあきみ、いちいち言わなくても通じるからだろう?」

 楕円机に居座る客人が、したり顔で言う。

「なんでもかんでも言葉にしなきゃわからない、というんじゃ、一人前の招術士になれないぞ」

 今日出会ったばかりのマキシが先輩風を吹かせてきた。その態度にクロアはカチンとくるものがあったが、冷静に反論する。

「わたくしはこの子と一緒にすごしはじめてから日が浅いのです。自分の解釈が合っているか、確認したいのですわ」

「その気持ちがあれば心配いらない」

「どうしておわかりになりますの?」

「僕の見立てでは、きみらはうまくやれているよ」

「ですから、その理由を──」

 折りわるく入室者があり、会話は途切れた。クロアの部屋からもどってきた者は小袋や瓶を四種類、抱えている。

「適当に持ってきました」

「どれでもいいわ、開けてちょうだい」

「そのまえに机のほうへ、ベニトラを移動させてください。食べかすを布団にこぼされては困ります」

 部屋主らしい指示を、クロアは素直にしたがった。空いている椅子に座り、膝に猫を乗せる。猫はちょこんと座った。猫の頬へ、マキシの手がのびる。

「きみはいいところにもらわれたな」

 マキシはうれしそうな顔で、獣の頬をなでた。


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