五章 夜の町

1

 クロアは夕食を家族とともにとった。遅れてきた公女を家族はみな温かくむかえてくれ、クロアはいつもの調子のまま食事をはじめた。

 夕食を食べおえた母と祖母が早々に退室する。居室には父と娘が二人きりになった。父も食事はおわっているが、座ったままだ。クロアは父が娘に話したいことがあるのだと察する。その内容は言うまでもないが、話の切り口がてら問う。

「今晩の護衛の件は、どうなりました?」

「ソルフを同行させようと思う」

「お父さまの護衛を?」

「ああ、クロアはソルフが好きだろう? 一緒にいても気兼ねしないはずだ」

 クノードはクロアがかの獣人を贔屓目に見ていることを知っていた。それでいてクロアの従者にダムトが配属されたわけは、公女の従者選定の際にソルフがまだ仕官していなかったからだ。クロアが希望すれば両者の配置転換はかなうかもしれないが、その決断はいまだにできていない。雑用や事務仕事の能力においてはダムトに分があるのだ。彼の利便性を考えると、クロアの側近はダムト以外に考えられない、という側面もあった。

「ご配慮はありがたいのですが、ソルフにはお父さまを守るという大事な役目がありますわ」

「私は屋敷にこもっているよ。どこにも出かけなければ危険な目にも遭わないさ」

 その判断はアンペレにおいて正しい。よその領主は刺客に命をねらわれることがあり、屋敷にいても危険をともなうのだが、ことアンペレではそういった物騒な事件は起きていない。領主と公女が護衛役を常にはべらせる必要性は低いのだ。かといって地位簒奪をねらう不届き者が居ないともかぎらないので、いちおうの人員を割いていた。

 クロアは父の決定を受け入れた。あらたな護衛はクロアの部屋のまえで待機しているというので、クロアは早く合流しようと思った。クロアが椅子から立ったところ、「そうだ」と父がなにかを思いつく。

「出かけるときはこっそり行ってもらえるかな」

「こっそり?」

「屋敷にいるうちから姿を消していきなさい。この外出は一部の官吏だけが知っていることにしたい」

「わかりましたわ」

 クロアは居室を離れた。階段を上がって自室へ向かう。父の言うとおり、自分の部屋のそばに背の高い男性が待機していた。狼の耳がピクっとうごき、その眼孔がクロアを見る。

「オレはいつでも出かけられます」

「こちらの支度が整うまでまってて」

 そう長く時間をとらせないつもりで、クロアはソルフの待機続行を指示した。部屋に入るとダムトが長椅子に座っている。彼は洗濯場に持っていったカゴを布巾で拭いていた。その腕には黒光りする小手が装備してある。

「ダムトも出かける用意ができているの?」

「はい。あとはクロア様とベニトラの準備次第です」

「わたしはこのままでもいけるわ」

 クロアは武装をほとんどしていない。武具といえば腰に提げた打撃用の杖があるだけだ。ダムトは主人の軽装ぶりを観察する。

「……まあいいでしょう。戦いに行くのではありませんし」

「あとはベニトラね」

 夕食前に夕寝をしていた猫は窓辺にいた。夜景を眺めているようだ。クロアは縞模様の猫に近寄り、その丸い背をなでる。

「あなたの背に三人乗せてもらいたいのだけど、いいかしら?」

「やってしんぜよう」

 猫が窓のふちから降りた。四つの足を広げ、頭をぶるぶると震わせる。振動が背をとおって尻まで伝わると体がふくらみだした。通常の猫より太かった足はさらに太くなり、長い尾は優美に伸びる。いとけなかった顔は精悍な猛獣らしい威厳をそなえた。この大きさであれば大人が三人騎乗できそうだ。

「ソルフ、入ってきてちょうだい」

 クロアが言うと廊下にいた護衛が入室する。彼はするどい目つきで巨獣をにらみ、腰に帯びた棍に手を置いた。町に害を与えていた魔獣の姿があるせいで、警戒しているのだ。

 クロアはベニトラの安全性を示すため、朱色の被毛を掻きなでる。

「平気よ、この子はあばれないわ」

「はい……」

 ソルフが武器に触れていた手をおろした。今度は真顔で「この飛獣に三人も乗るのですか?」と聞いてくる。

「かなり密着することになるのでは……」

「わたしは気にしないわ。ソルフだってわたしにくっつかれても、なんとも思わないでしょ?」

 クロアは幼少時の感覚でそのように判断した。幼いときのクロアは獣人をめずらしがって、ソルフにベタベタくっついてまわったことがある。ソルフはみずから少女を遠ざける真似はしなかったが、その性分は他人に触れられるのをこのまない。そのことをクロアが知ってからは距離を置くようになった。以後は触れ合うことがなくなったものの、女性が苦手でもある彼なら邪心を抱かない根拠はあった。

 ソルフは「はい」と答える。それはそれでクロアの女性としての自尊心がすこし傷つくが、そう答える以外に口下手な者が言える言葉はなかった。

 朱色の飛獣がその場に伏せる。クロアたちが騎乗しやすいように屈んでくれたようだ。

「よし、わたしが先頭に乗るわ」

 クロアはベニトラの肩寄りの背中にまたがった。護衛二人もクロアにつづくと思ったが、ダムトは窓辺に寄る。

「この部屋から出発しますか?」

「そうするわ。お父さまはこっそり外出してほしいとおっしゃったもの」

「ではもう姿を消していきますか」

「ええ、おねがい」

 ダムトが窓を開けはなった。外への入り口を確保したダムトはクロアの後ろに騎乗する。こうした相乗りは飛馬で慣れている。クロアはこたびの飛行もダムトがついていれば安全だろうと安堵した。

 ダムトの後方にソルフがまたがった。飛獣はすっくと立ち上がる。その前足は宙をかいた。窓の外へ、ゆっくり上昇する。何物にも触れぬ足は窓の縁を越えた。

 ベニトラが窓を通りぬけるのと同時に、前足から色を失くしていく。クロアもまた手先から徐々に背景に溶けこんでいった。この現象はダムトが発生させている。

「勘のよい術士に見つからないことを祈りましょう」

 姿を消し去る術は、対象の外観を背景に溶け込ませる効果がある。ただしその存在や周囲に放つ魔力までは消せない。それゆえ、一部の者にはバレてしまう欠点があった。

 ダムトがクロアの腰に触れた。主人の腰にある杖を無断で抜きとる。杖を使い、開いた窓を押す。彼は窓を閉めるためにクロアの杖を借りたのだ。

 目的を果たしたダムトは杖を返却しようとして、手探りで帯の位置を確かめた。今度は腰寄りの尻に手が当たり、クロアは若干の不快を感じる。

「妙なところを触る気じゃないでしょうね?」

「触っても硬いじゃないですか。筋肉のせいで」

 クロアはむかっ腹が立った。普段なら言い返すところを、眼下に官吏の歩く姿が見えたのでこらえた。

 ダムトは杖をもどした。腰に確かな重量を感じたクロアは、透明な毛皮をぽんぽんとかるく叩く。それを出発の合図と理解したベニトラは空へ飛翔した。


2

 透明な朱色の飛獣がすいっと屋敷の正門を越えた。いよいよ町中での戦士捜しだ。町灯が照らす大通りには人影が多く行きかっている。彼らの風貌がどんなのか、クロアは目をこらしてみるものの、よくわからない

「この高さからだと人の身なりまで見えないわ」

「俺が遠目の術を使ってみましょう」

 ダムトは透明化と同時に望遠の術を使いはじめた。術の同時併用ができるとは器用だ、と術に不慣れなクロアは関心した。が、彼の集中力を途切れさせるような雑談は避ける。

「それで、いま見た感じはどうなの?」

 ダムトは上体を左へ右へとかたむけ、足下の景色を見下ろす。

「……野外で眠る者が多いようです」

 彼は町中の変事を告げた。クロアは人捜しを中止し、ダムトが察知した事柄を追究する。

「よっぱらいなのかしら?」

「酒が深まる時間帯にしては少々早いですね」

「じゃあなんだと思う?」

「酒に関する催し物があるとは聞きませんし……いささか変です」

 クロアはためしにソルフにもたずねたものの、彼も見当がつかなかった。結局上空にいてはなんの解決にならないのだ。

「寝ている人の様子を見てましょう。ダムト、ベニトラに行き先を指示して」

 ダムトが視覚的情報を述べた。その場所にベニトラが降下する。

 大通りから外れた小道に、家屋の壁に寄り掛かる男性がいた。そっと接近してみると男性はやはり寝ている。だが泥酔したときにただよう酒臭さや顔の紅潮はない。

「お酒を飲んでいない方のようね」

「はい。突然眠くなったからその場に寝た、といった様子ですね」

 男性の身なりを見るに、町の住民のようだ。この町の男性の多くはなんらかの職人を務める。クロアは職人がなりうる病気に心当たりがある。

「病気かしら?」

「ひとりなら持病もありうるでしょうが、複数人ですから……」

「そう? 納期のせまった職人がかかりやすい病気があるんでしょ」

「職人の職業病……?」

 ダムトは知らないらしい。クロアは不確かな伝聞を思い出す。

「えっと……夜に寝たくても寝付けなくて、ねむるべきでない時間にねむくなってしまうっていう病気」

 従者の後ろで「不眠症?」とソルフが言った。クロアはそれらしい病名を得て、「それだわ」と膝を打つ。

「ね、その病気はこの町の人の持病になりやすいんじゃない?」

 はーっ、というダムトの呆れ声が漏れる。

「貴女がおっしゃっている職業病は病気ではありません」

「そうなの?」

「職人が寝る間も惜しんで商品を完成させることがある、という一般的現象です」

「こんなふうに道ばたで寝るのとは、関係ないの?」

 ダムトが「そうです」とそっけなく答える。

「くだらないことを口走らないでください。ムダに頭を使ってしまったでしょう」

「使ったって減るもんじゃないでしょ」

「ただでさえ日頃から気疲れするというのに、まったく無神経な……」

「それだけ主人に好き勝手言えてる部下が『気疲れ』するもんですか」

 二人の口げんかはソルフによって止められた。彼がべつの野宿中の人も見てみようと言うので、移動を再開する。ふたたび空へ上がった。付近にいた、めぼしい人物を見つける。その人のもとへ降りると、小道の曲がり角に帽子を被った男性が座っていた。この人も酒気を帯びていない町の住民ようだ。

「やっぱり酒は入っていないようよ」

「これは何者かがねむらせたのかもしれませんね」

「眠り粉かなにかがばらまかれたのかしら?」

「だとしたら近辺一帯が眠る人で埋まるはずです。俺が上から見たところ、居眠りをする人はバラバラな地区にいました。これは個人に対して仕掛けられたと考えるべきかと」

「ひとりずつねむらせて、犯人はなにがしたいのかしら」

 クロアは被害者の服装を見る。さきほどの男性といい、いたって平凡な格好だ。

「物取りにしたって、もうちょっとお金を持っていそうな人をねらうでしょうし」

「物取り……たずねてみましょうか」

 ダムトは飛獣から降り、自分だけ透明化の術を解除した。彼は眠りこける男性のそばでしゃがみ、男性が立てた膝をゆさぶる。だが覚醒の効き目はない。次にダムトは上着の隠袋から長方形の小物を出す。

「これは掘り出し物なのですが……目覚ましに効く火具だそうです」

 指で小物の側面をこすると、長方形の箱が上下に分かれる。分かれた隙間に指をかける。金物が擦れる音が鳴ると火が灯った。

「それをどうするの?」

「ねている者の目に近づけます」

「うっかりヤケドさせてしまわない?」

「そうならないように頭を固定します」

 ダムトは片手で睡眠中の男性の額を押した。その目元に火を近づける。まつ毛が焼けそうなほど距離が縮まったとき、まぶたが開いた。男性は眼前の火をおそれ、目をひんむく。

「驚かせてしまって申し訳ない」

 ダムトはすぐに火を消した。中年らしき男性は眼球だけをうごかして、青年を見つめた。

「貴方はなぜこんなところで寝ている?」

 男性は答えない。まだ頭が覚醒しきらないようだ。

「なにか盗られている物はないか、確認してもらえるか?」

「は、はい。兵士さん」

 男性はダムトを見回りの警備兵だと判断した。ダムトの指示通りに貴重品の有無を調べ、なにも不足がないことを述べた。

「盗難はなし、か……ここで寝てしまった心当たりはあるだろうか?」

 男性が首をひねった。ダムトは質問を変える。

「ねむる直前の出来事でもいい」

「寝るまえのこと……? ああ、女の人と会ったなぁ」

「女……特徴は?」

「こう、胸が大きくて色っぽくて……『いまおヒマ?』と聞いてきたもんで、家に帰るところだと言うと急に……」

 男性の顔がにやけた。まんざらでもないことを体験したらしい。ダムトはため息を吐く。そのため息はさきほどクロアに向けたものとはちがい、安堵の念があった。

「……精気を吸い取られたか。寝てしまったのはそのせいだ。大事ない」

 ダムトは男性に家路につくよううながした。男性が立ち去るのを見届けてから、クロアがいるであろう場所へ近づく。

「どうやら夢魔がわるさをしているようです」

「夢魔って、あの……」

「端的に表現すると『スケベ魔人』ですよ」

 クロアは「まあ」と口元を手でおおう。

「どうして夢魔がこの町に、しかも大量に……?」

「いえ、単独犯かもしれません。被害者には着衣の乱れがなかったので、せいぜい唇をうばう程度の行為をしているのでしょう。そうやって生き物の精気を糧とする連中です」

 道行く者に接吻をしかける痴女──その餌食になった男性はうれしそうだった。一概に害を被ったと言えない被害者を生む行為を、取り締まるべきか否か、クロアは迷う。

「あの、それはやっぱり、捕まえたほうがいいのかしら?」

「はい。優先して捕えたい罪人がいないいま、見過ごす理由はないかと」

「そうよね……でもどうやって捕まえたらいいの?」

「俺が標的を釣ってみましょう。術具屋か道具屋で必要なものを調達して参ります」

 ダムトは自身の招獣を呼んだ。それは四対八枚の羽を持つトンボだ。大きさは普通の虫と同じくらい。その背に乗れる飛獣でもあるが、この小ささのときは偵察用に使う。

「しばらく上空でお待ちください。敵が釣れたときは俺の招獣に案内させます」

 トンボがクロアの見えざる肩に止まった。これこそが、姿をくらましてもその技が通用しない者がいる証だ。

「ではあとで合流しましょう」

 ダムトはひとり、駆けていった。


3

 クロアはベニトラに騎乗したまま町の上空をぶらついた。足の下には夜景が広がる。普段は見られない景色だ。希少価値のあるものを観覧するうちに、高揚感に満ちあふれた。

「町の上を飛ぶの、結構いいわね。いつもはできないことよ」

「……はい」

 無口なソルフが返答した。クロアと二人きりになったいま、受け答えをせねばならぬという自覚がソルフにできあがったらしい。本当はベニトラも会話に加われるのだが、こちらの獣もおしゃべりをこのまない気質のようで、会話は弾まない。彼らがそういう性格だとクロアは承知しているため、とくになんとも思わなかった。

 クロアは地上にいるダムトの水色の頭を捜す。しかし通行人の髪色がはっきりしない。

「んー、もうちょっと高度を下げたいわね。人の区別ができないわ」

 クロアの視界に映るものが拡大する。ベニトラが徐々に降下したのだ。高度は高い建物の屋根に跳び移れるほどになる。クロアは大通りを見下ろした。そこで興味深い人を見つける。鎧を着用し、外套を背にまとう人物。肩には長い棒が置かれていた。棒の先端は幅の太い革袋で隠されている。その形状ゆえに、革袋の下に刃があるのだとクロアは察する。

「槍を担いだ人がいるわ。ベニトラ、追ってちょうだい」

「刃の類は見えぬ」

「革袋でおおっているのよ、直槍のようだから長い棍棒に見えるでしょうけど」

「鎧を着た戦士か」

「そう、外套も羽織っているわ」

 注目の対象が一致したベニトラは更に下降する。家屋の二階程度の高さを保持しつつ、槍を持つ戦士を追いかける。戦士の体格は男性だ。頭髪が白いので、老齢かもしれない。

(老戦士でもお強い人はいらっしゃるもの。候補になるわ)

 その根拠は聖王国の右隣りに位置する帝王国の先王だ。クロアは幼い頃から武断の王に多大な関心を寄せている。ちかごろの噂によれば、かの王はボーゼンより年長でありながら、いまだ武芸の腕が衰えず、凶悪な魔獣を屈服させたとある。クロアは傭兵にそこまでの強さを求めないが、目の前の人物が強者だという期待は持てた。

(でもいまは話しかけられないわね。術の解除方法を知らないし)

 せめて戦士の宿泊先を確認できないものか、とクロアはやきもきしながら追跡する。すると戦士の肩からなにかが上昇した。白い鳥のようだ。だが足が四本ある。虎などの哺乳類を鳥の外観に変えたような形態だ。その特徴はこの国でよく招獣に利用される大鳥の魔獣に通じる。つまり、戦士は小さく変化できる招獣を連れているようだ。

 白い飛獣がぎゃうぎゃう鳴いた。獣の鳴き声は、不可視のクロアに向けて発せられる。クロアは一度この場を離れようと思った。だが戦士が立ち止まったのを見て、思いとどまる。後ろを振り向いたその顔は、四十代の男性。クロアが想定した年齢より十は若い。

「どうした、ベイレ」

 白髪の戦士は吠える獣の視線をたどる。クロアは彼と目が合い、気まずくなる。

「トンボ? 夜は眠るというが……」

 彼はクロアの肩に止まる昆虫に着目した。招術士はクロアに気付かぬものの、白の飛獣はこちらに攻撃せんばかりにわめく。クロアが戦士を尾行するのを、怒っているようだ。

 ふと昆虫が飛び上がった。すーっと家屋の屋根を越える。

(ダムトが呼んでいるのね!)

 クロアを乗せるベニトラがトンボを追跡する。逐一命じなくともベニトラは次すべき行動をよくわかってくれる。そのことにクロアは感心した。

 なぜか後ろで羽ばたく音がする。クロアが振り向くと先ほどの白い飛獣がきている。

「あなたのご主人にわるさする気はありませんわよ!」

 抗議むなしく、クロアはくちばしのつつき攻撃を受ける。クロアは飛獣を手酷く追い返すわけにもいかず、一度拘束することにした。四つ足の鳥の首根っこを捕まえる。手中の鳥は暴れるが、かまっていられない。先行する昆虫はすでにダムトを追い、降下していた。


4

 クロアはトンボの案内にしたがい、人通りがすくない小道まで来た。地上には水色の頭が見える。クロアはダムトと合流するまえに、騒がしい鳥を解放した。鳥は捕獲者に立ち向かってくるかと思ったが、来た道を引き返した。白髪の男性のもとへ帰ったのだろう。

「よーし、これで降りられるわ」

 慎重に高度を下げる。よくよく見るとダムトは女性に絡まれていた。この女性が住民をたぶらかす魔人。顔を見てやろうとクロアが近付くや、女性の背中から翼が生えた。

「やぁだ、撒き餌に引っかかったってわけ?」

 女は飛びすさる。そこへ金属製の鞭が襲う。ダムトが振るう鎖鞭だ。

「乱暴しちゃいやよ」

 突如、光球が走った。光球は鞭に命中し、ダムトの攻撃を弾いた。有翼の女が「じゃあねー」と捨て台詞を吐く。と同時に翼から鱗粉のような粉が立ちこめた。

(なに、この粉……)

 クロアはめまいを起こした。粉の効果は催眠か麻痺か、とかく良からぬものにちがいないと考えた。頭を左右に振り、正気を保とうと努める。クロアが目を開けたとき、正面に奇怪な化け物がいた。人の形をしていない、獣にも似つかない、うぞうぞとうごく肉塊だ。肉塊には大きな獣の爪や目が不規則に並ぶ。とても気持ちわるくて見ていられない。だがクロアは退治を試みる。そいつは魔人が残した魔物だと見做して。

「魔物め、覚悟なさい!」

 クロアは杖を取った。魔物とは距離があるため、先端の石を飛ばす。杖による遠距離攻撃は命中し、魔物は地面に突っ伏した。だが魔物はすぐに起き上がる。わめいたと思うと、体からしなる触手が伸びて、クロアの手を打った。クロアは持っていた杖を落とす。

「魔物のくせにやるわね! ベニトラ、爪でひっかくのよ!」

 その肉体が武器である飛獣にクロアは攻撃命令をくだした。だがベニトラはうごかない。

「ベニトラ、どうしたの?」

 クロアは飛獣の不可解な態度にまごつく。そのうちに奇怪な魔物は飛翔する。魔物が触手をのばしたさきに、純白の翼が見えた。美しい天使のような者が襲われているらしい。助けなくては、とクロアは焦るものの、飛獣はうんともすんともうごかない。

「敵を倒さなくちゃ! ねえ、うごいて!」

 クロアは自身の体の下を見た。すでに術の効果が切れて、ベニトラを視認できる状態になっていた──はずなのに、そこにいたのは朱色の獣でなかった。所々の肉が削げ落ち、皮膚がただれた、醜悪な魔物だ。クロアは予期せぬ事態に直面し、悲鳴をあげた。またがっていた魔物から滑り落ちる。落下の痛みこそ感じなかったが、混乱はおさまらない。

「どうして、いつ入れ替わったの?」

 クロアは両手を地につけ、尻を引きずりながら後退する。魔物はまぶたから抜け出た目をクロアに向けた。魔物がなにごとかしゃべったようだが、クロアにはなんと言ったのかわからない。横から別の声が聞こえた。その方向を見れば白骨の騎士がいた。化け物ばかりが出現する状況に、クロアはますます混乱した。骨の手がクロアの顔に近付く。もはや魔物を退治しようという気は起きず、うごく骨の行く末を見続けた。

 クロアの視界がぼやけた。眼前を覆う骨が太さを増し、人間らしい肉が備わる。いや、人間の手だ。はっきりとそう見えたとき、手が視界から外れた。次に見えたものは、さきほどクロアが注目した白髪の戦士だった。彼は人のよさそうな笑みを見せる。

「ご気分はいかがか?」

「え? ……白い骨の、屍人じゃない?」

「はは、そんな幻覚を見ていましたか」

「幻覚?」

 クロアは腐敗した魔物を見てみる。そこには朱色の魔獣が伏せていた。ベニトラだ。そのそばにはソルフがしゃがんでおり、彼はクロアが落とした杖を回収していた。

「腐った魔物……は、まぼろし……?」

「てっきり、あなたがあの赤い魔獣に襲われているのかと思いましたぞ」

 外敵だと誤認されかけた獣がクロアに近づく。大きな舌で、放心状態のクロアの顔をなめた。クロアは自分をおびやかす者がなにもいなかったのだとわかると、うれしくなる。

「……よかったぁ」

 クロアはベニトラの首に抱きつく。温かい毛皮が心地よく、安心感で満たされた。

「して、いかな経緯で幻術に惑わされていたのです?」

 中年に問われ、クロアは己の行動を思い返した。ここで戦闘が始まった原因は──

「あ、そうだわ! 夢魔の女が変な術を使ったのよ!」

 クロアは上空をあおいだ。魔人をさがすが、空にはなにもいない。クロアが見た天使と肉塊の魔物も、幻術が引き起こした偽りの姿である。彼らはどこへ行ったのだろう。

「変わったものを連行する御仁がいますな」

 男性の視線は地上にあった。そこに水色の髪の男がいた。その後ろに、飛翔してついてくる女もいる。女は腕を後ろ手に組み、胴体を縄でぐるぐる巻きにされている。

「ダムト! 捕縛に成功したのね」

 クロアの歓喜の声とは反対に、ダムトはさげすむような目をする。

「ええ、クロア様のきつい一撃をもらいながらやり遂げましたよ」

 幻で見えた魔物はダムトだった。クロアは「わざとじゃないの」と笑ってごまかした。


5

 クロアは白髪の戦士に礼がしたいと申し出た。彼は「それがしは療術を少々お掛けしたまで」と辞退しそうな雰囲気を出したが、クロアから視線をはずしたのちに承諾した。みなそれぞれの飛獣に乗り、姿を消して移動する。その道中で互いの素性を明かした。

 戦士はルッツと名乗った。彼が騎乗するベイレとともに旅をしているという。長年聖都で勤め、現在は辞職した。以後は旅行を楽しんでいるそうだ。聖都で具体的になにをしていたかを聞くとはぐらかされ、それ以降ルッツがクロアたちへの質問攻めをした。

 屋敷に着くとダムトが透明化の術を解除する。

「さきに応接間へ向かってください」

 彼は捕えた魔人を牢屋へ連れていく。ソルフがその同伴をするので、クロアはルッツと二人で応接間に向かう。その際、彼が所有する槍は一時衛兵にあずからせた。表向きは客人が不必要な荷物を持ちあるかなくてすむようにする配慮だが、内実は得体の知れない人物を警戒しての対処だ。ルッツが「これが貴方がたの職務ですからな」と言いながら槍を渡したのは、その内情を察していたからだろうとクロアは思った。

 応接間にてクロアは客人の戦士と真向いに席に着く。もてなし用の茶器や茶菓子などは用意できていないが、クロアは話をはじめる。

「お礼をする、とは言ったものの、なにをあげたらよいか思いつきませんわね」

「かまいませぬ。それがしは返礼を所望いたしません」

「あら、ではどうしてお越しくださったの?」

「公女に同行しました理由は罪人の監視です。飛行できる相手は万一逃がすとあとが大変でございますゆえ」

 その配慮は一介の武人がなかなか思いつけないこと。クロアは「お心遣いに感謝しますわ」と謝辞を述べるかたわら、ルッツは聖都の警備兵でもしていたのだろうか、と考えた。

(べつに隠さなくてよろしいのに……)

 クロアは膝にいる猫の腹毛を触った。ルッツは幼獣形態の獣にほほえみかける。

「こちらの招獣はなかなかの強者ですな。公女が苦しまれた幻術を跳ねのけるとは」

「もしかしたら、この首輪の効果かもしれませんわ」

 クロアはベニトラの首にある黄色の宝石をつまむ。

「この子は石付きの魔獣でしたの。これはこの子が招獣だという目印のために買った首輪です。品物を決めるときに店の者が『また術のせいで暴れてもらったら困る』と言って、術耐性を強める品をすすめたのです」

「ほう、石付き……ですか」

「はい。昨日までに数度、町を襲ってきましたの」

「ははあ、それがしは出遅れてしまったようですな」

 出遅れた、の意味をたずねる前に部屋の扉が開いた。移動配膳台を押すダムトが入室する。彼は手甲を脱いだ手で茶を注ぎはじめた。クロアは従者に労わりの言葉をかける。

「背中が痛むのではなくて? ほかの者に任せていいのよ」

「俺のことはかまわず、お話しになっていてください」

 手負いの従者は下男の役目を強行する。そこに彼なりの意図がある、とクロアは感じる。

「わかったわ……かわりに明日一日、ちゃんと休みなさいね」

 ダムトが二つの茶杯を出した。雑用をすませたダムトはルッツの座席からひとつ飛ばした隣席にすわる。彼は背もたれに寄りかかった。そして目をつむる。思えば今日のダムトは朝から働きづめだ。表面上はいつもと変わらないが、やはり疲弊しているのだろうか。

(わたしの攻撃が追い打ちになったのかもしれないわね)

 魔人の捕縛直後のダムトは元気そうに見えたせいで、クロアは謝罪をしなかった。あれは痩せ我慢だったのだろう。あとできちんと礼をするか謝るかしよう、と心に決めた。

 ルッツは香りの立つ茶を静かにたしなんでいる。彼の言葉遣いも仕草も、気品がある。身の上を明かさない者だが、その育ちの良さは隠しきれていない。

(自分のことを言いたくないようだし……そこは聞かないでおきましょ)

 クロアは深入りをやめ、ダムトが入室する直前の会話を続行する。

「さきほど『出遅れた』とおっしゃいましたわね」

 ルッツが茶器をもつ手を止めた。彼は柔和な面持ちでクロアを静観している。

「どういうことかしら?」

「それがしがこの町に訪れる動機が、すでに除かれていたということです」

「ルッツさんは魔獣退治をなさりにいらっしゃったの?」

「おおせの通りです。こちらで出没する飛獣に、聖都の正規兵も手こずっているとの噂を耳に入れましたゆえ……」

「手こずる、はすこし語弊がありますわ。たしかにわたくしどもは聖都の救援をお願いいたしました。けれど、そういうときにかぎって魔獣があらわれません。ですから結局、聖都の方々はなにもせずお帰りになったのですわ」

 クロアは聖都の援兵が無力ではなかったことを強調した。それが聖都で勤めていたであろう武官の気持ちを安んじる言葉だと考えたのだ。もと武官らしき男性は満足げに笑む。

「ではそれがしも槍を振るわずにアンペレを発つことになりますな」

「あ、それは……」

 クロアはここが好機と見て話題を変える。

「出発なさるまえに、アンペレの強兵と手合わせ願えませんこと?」

 ルッツは目を丸くした。手にした茶杯を机上に置く。

「はあ、断る理由はありませんが……どういった目的で?」

「近隣にいる盗賊を捕えるためです。試合に勝った者を傭兵として雇う段取りですの」

「聖都の助力は得られないのですか?」

「父は……伯は目立つ被害が出てからでないと応援要請は難しいとお考えです」

 ルッツは「そんなことは」と言いよどんだ。だが口をつぐみ、言葉を模索する。

「……些事の始末に聖都の出番はないというわけですな」

「ええ、王の御手はわずらわせませんわ。ですが現状の兵力では不安があります」

「わかり申した。いつ手合わせが行われるのでしょうか?」

「明日の午前中はどうかしら?」

「はい。ではそのように」

「こちらでお泊まりになってはいかが?」

「すでに宿は決めました。連れもおりますゆえ、そのお心だけ頂きましょう」

 ルッツは茶杯を空にした。その行為が帰り支度と見たダムトは席を立ち、扉の前に待機する。ルッツは自席の隣りの椅子にいた小さな飛獣を抱え、挨拶をして離席した。彼の槍は守衛が預っているため、そのことをダムトが一言ルッツに伝えた。


6

 物腰の柔らかい戦士が退室した。ダムトはルッツが使用した茶器を片付ける。クロアは自身に配られた茶を飲みながら、雑務中の従者の顔色をうかがう。

「ルッツさんはどんなお方だと予想したの?」

 クロアは従者が純粋なお茶出し目的で同席したのではないと察しがついていた。

「大官ではなく小官でもない、聖都の元武官でしょう」

「傭兵かもしれないじゃない」

「クロア様をしのぐ気品を有した傭兵なぞおりましょうか」

 ダムトはなに食わぬ顔でクロアの杯に茶を注ぎ足す。クロアはわずかに眉をしかめる。

「またわたしをコケにしてくれるのね。でもあの方はたしかに品格があったわ」

「それに、ルッツ殿は十代のころから聖都で勤務したと自己紹介なさりました。普通の傭兵がひとつどころに長く勤続するとは思えません」

「腕利きの傭兵でないなら高位の武官だったんじゃなくて?」

「それはどうでしょう。重役の退官は我らにも伝わりますが、ルッツ殿のような方の報せはありません」

「じゃあ中間管理職だったのかしらね。ダムトの言い方だとそうなんでしょ」

 ダムトは首を横にふる。

「ルッツ殿はアンペレからの救援要請の棄却についてご存知なかった様子。領主からの要請は中位の武官に伝わり、最初は彼らの裁量で可否を決めるといいます。中位の者では決めかねる場合は高位の武官が決断し、それでも判断がむずかしいときは王がご決定なさるとか。アンペレからの要請はベニトラの件以前にも複数回あったはずなのに、ルッツ殿が一度も協議の輪に入れなかったとは妙な話ですよ」

 ルッツは賊退治の話題が出た際、聖都の助けを求めないのかと言ってきた。アンペレからの依頼自体、存在するとは思っていなかったようだ。

「え……どういうこと? 中級武官だと言いたいのではないの?」

「官位の上位、下位が明確でない職分があるでしょう。たとえばこの俺です。アンペレの高官であるカスバン殿はクノード様に次ぐ権威をお持ちですけど、俺に命令することはできません。個人的なお願いをする程度が限界です。その理由はおわかりになりますか?」

「わたしの従者だもの、カスバンのいいように使われちゃ我慢ならないわ」

「そうでしょうとも。貴人に直接お仕えする者は、貴人の命令をいつでもこなせるように準備しておかねばなりません。もし俺がカスバン殿の指示を遂行する間、俺の不在を突いてクロア様が暗殺されようものなら元も子もない」

「ふん、わたしはそう簡単にやられないわよ」

「ええ、敵が術を使わなければ」

 クロアは今宵の幻惑の件を思い出した。自分のふがいなさにいたたまれなくなる。

「……今日はイヤな目に遭っちゃったわ。あの幻術使いはどうなったのかしら?」

「術封じの縄で縛ったまま、牢屋にいると思われます」

「会ってもいい?」

「おひとりではいけません。俺が同伴いたします」

 クロアはぐっと茶を飲み干し、茶杯をダムトに渡す。クロアの膝からベニトラが跳び下り、机の下をくぐりって扉の前に座る。ダムトは茶器を配膳台に置きながらクロアを見る。

「これはあとで片付けましょうか」

「さきに流しに置いておきましょ。わすれるとほかの人が困るもの」

 クロアも片付けについていくことにした。廊下にてダムトが台車を押しつつ「ルッツ殿の素性についてはもう満足されましたか」とたずねる。クロアはうなずく。

「王族の護衛だったってことを言いたいんでしょう?」

「よくおわかりで」

「近衛兵なら経歴をかるがるしく言えないでしょうよ。それがバレたら『王について教えろ』とか『王族に口利きをしろ』とか、めんどうなことを周りから言われそうだわ。お辞めになった理由は……年齢かしらね。ボーゼンが四十を越えると衰えを感じてきた、と言っていたもの。本気で言ってるのか、わたしにはわからなかったけれど……」

「まあ、そんなところでしょうね」

 ダムトはまだ腹に言い残したことがあるようだが、クロアはそれ以上の詮索を止めた。クロアは他人の来歴にはさほど興味がない。クロアが知りたいのはその人物が信頼に足る者か、そして民衆に利益をもたらす能力を持ちうる者かどうかだ。

 二人は暗い厨房に入った。廊下からもれる明かりを頼りに、ダムトが茶器を流し台に運ぶ。彼は夜目が利く方だとクロアは聞いていたが、半端に光がある場所でも位置を把握できるのは視力のおかげではない気がした。普段からやり慣れているのだ。かちゃかちゃとした音が鳴り止むとクロアは「いつもありがとう」と言った。その一言には今日一日分の従者の職務に対する謝意をこめた。が、ダムトには伝わらず「急になんです、気色悪い」と一蹴された。クロアはせっかくの感謝の気持ちを台無しにされた気分になる。

「もう、いちいちムカツクやつね」

「俺が嫌いならクビにしてもよろしいのですよ」

「なにを言うの、ヨボヨボになるまでこき使ってやるわ」

「クロア様のことですから、本当に俺が老いぼれても仕事をおしつけてきそうですね」

「足腰が立つうちはなんでもやらせるわよ」

 と言いつつもクロアは老いたダムトが想像できなかった。かつてのダムトの同僚、エメリは少女の時分にクロアの従者となった。成人し、母親となった元従者がいる一方で、ダムトは従者になりたての当時と同じ外見のまま、勤続している。

(きっと、わたしが中年になっても若いままなんだわ)

 ダムトには加齢による退職の可能性がない。それがクロアには心強い。同じ従者でもエメリは普通の人間で、家庭を持たずとも去る日がいずれ来た人物だ。レジィも同じである。退官の見通しがないダムトは小憎らしい性分であっても、クロアにはありがたかった。


7

 地下牢には収監した者を監視する官吏のほか、牢屋が持ち場でない女性官吏がいた。牢の前でかがむ女性の髪は桃色。やや幼い顔立ちといい、場違いな明るい雰囲気をかもした。

「ああ、クロアさまたちもおいでになったんだね」

「プルケが、どうしてここに?」

「厄介な術を使う夢魔の取り調べときちゃ、なみの尉官じゃ荷が重いでしょー」

 プルケは武官の中でも術を得意とする術官。罪人の捕獲や取り調べを担う尉官ではない。しかし手強い術士や魔人、魔獣の関わる案件になるとしばしば駆り出されることがあった。

「あら、でも術封じの道具で拘束してあるはずでしょ。この牢屋も大規模な術は使えない造りになってるって……」

 クロアは牢の中で座る魔人を見た。大きな乳房の下部分には縄がしっかり巻かれてある。

「完璧な道具はないんだよ。特に術具ってのは効果のばらつきが出やすくていけないね」

 プルケは筆記板に視線を落とす。聴取の内容が紙に書かれていた。

「この夢魔の名前はナーマです。今日の夕刻にアンペレへ到着して、男性十余名の精気を吸いとり、眠らせたと言っています」

「その行為はどう罰せられるの?」

「現行犯で捕まえたなら、わいせつ罪に問えるでしょうけど……」

「ダムトは被害に遭ってないのよね」

「じゃ、ほかの被害者が被害届を出した場合に、罪が成立するってところかな」

「被害届、ね……出るかしら?」

 やられる側が幸せそうであった事件だ。これを立件したがる被害者はいるのだろうか、とクロアが暗に言ったところ、有翼の魔人が得意気に翼をあおぐ。その黒い翼は飛竜や蝙蝠のように羽毛がない。

「アタシだって欲求不満そうな人を選んでるの。悪いことはしてないでしょ?」

「実際に被害届が無かったら、そのように判断するよ」

 プルケがクロアを見上げて「ほかにご用がある?」とたずねた。クロアは首をかしげて「用というほどではないけど」と前置き、ダムトを指差す。

「この男に釣られた理由はなにか、聞かせてもらえる?」

 ナーマが目を大きくした。クロアは説明を加える。

「こいつは女に隙を見せるやつじゃないわ。立ち枯れなのよ」

「俺は爺ですか」

「だってそうでしょ。男を魅了するお母さま相手に、へっちゃらな顔をしてるんだもの」

「それには相性や耐性が関係──」

 ダムトの言葉に被せるようにナーマが「だって魔族混じりだもの」と言う。

「魔族の血が入ってると、魔族由来の魅了効果は効きにくくなるのよ」

「あ、やっぱりダムトは普通の人間とはちがうのね?」

 クロアはダムトの様子をうかがったが、彼は平静なままだ。

「そう! 人の血が混じってるみたいだけど、魔族のケが濃いわね」

 ナーマがクロアとプルケの顔を見回して「あんたたちもそうね」とつぶやく。

「神族が一番偉いと謳ってる聖王国でも、魔族のほうが身近なわけね」

「人外ですって? 両親が半魔だというプルケはともかく、わたしは人間寄りのはず」

 プルケがすっくと立ち上がって「言葉の綾でしょう」と口添えする。

「魔族混じりも人外だと言っているんだよ、この夢魔は」

「あーら、アタシは三人とも人間が混じってる魔人だと──」

「人を惑わせるのもいい加減になさい」

 プルケがぴしゃりと叱る。ナーマはふくれ面になって顔を背けた。

「クロアさま、夢魔と話していて得るものはないよ。早くお部屋にもどってください」

「そうはいかないわ。この魔人はいずれ釈放されて、また男性の精気を奪うんでしょう。それをやめさせる方法を知りたいのよ」

 ナーマは機嫌を直して「それならねえ」とクロアをまっすぐ見る。

「あなたがアタシを招獣にしてくれればいいわ」

「わたしの招獣に?」

「招獣は招術士の精気を分けてもらえるのよ。だから命令を聞いてあげるの」

「わたしでよろしいの? 異性ではないし、生粋の術士でもないのだけど」

「性別は気にしないわ。町の男を狙ってたの、騒ぎになりにくいからやってただけだし」

 クロアは判断に迷い、ダムトとプルケに意見を聞く。プルケは気難しそうな顔をする。

「女といえど淫魔。クロアさまの貞操が汚されては大騒ぎになるよ」

「うーん、そうね、スケベはよくないわ」

 ダムトは反対に「いいんじゃないですか」と答える。

「クロア様の対策さえ万端にしておけばよいかと」

 ダムトが光る小物をひょいと投げる。クロアが両手で受け取ると、指輪だとわかった。

「先刻、術具屋で購入したお守りです。術耐性の低いクロア様には複数種類を装備していただく必要があるやもしれません」

「くれるの?」

「どうぞ。経費で落とします」

「必要経費になるかしら、これが」

「内部崩壊の危険を未然に防ぐ代物だと言えば通用するでしょう」

 実際に俺が痛手を負ったわけですし、とダムトが言うと、けたたましい笑い声があがる。

「あっはは! お兄さん、赤毛の子の杖で吹っ飛ばされちゃってたもんね」

 捕り物事情を知らぬプルケは「仲間割れしてた?」と聞いてきた。クロアは赤面してうなずく。それをプルケが「気にしないで」となぐさめる。

「クロアさまは術が不得手だからしょうがないよ。術の耐性ってのは術を使ったり食らったりしていくことで上がるんだ」

「術を食らう場合でも耐性がつくの?」

「うん、打たれ強くなる。術の種類ごとに耐性も変わるけどね。術の火を浴びても平気な人が幻に翻弄されないか、というとそんなことはないから」

「へえ、それは知らなかったわ」

 話題が逸れたためにナーマが「で、招獣にしてくれるの?」と聞いてくる。クロアは今一度プルケに「いいと思う?」と念を押した。プルケがダムトの顔をちらりと見る。

「クロアさまを一番よく知ってるダムトがいいって言うんだ。その判断に任せるよ」

 クロアは足元に控える猫にも目線でたずねた。ベニトラは長い尻尾をクロアの足に巻きつける。どういう意図のしぐさなのかわからないが、止める気はないらしい。

「じゃあ招獣になってもらうわ。えっと、どこにさわったらいいかしら」

 拘束状態の囚人は鉄格子の隙間に顔を出して「顔をさわって」と言った。クロアはダムトのくれた指輪をさっとはめ、両手でナーマの頬を包んだ。目を閉じて集中する。昨日の復習だ。手に筋力ではない力をこめる。魔力の放出はすなわち精気の放流。クロアは流せるだけの精気を送った。それが腹をすかす相手の食事になるとも考えて。

 手に触れていた肌が遠のき、クロアは体がふらついた。揺らぐ体を誰かの腕が支える。まぶたを開けるとダムトの顔があった。

「大盤振る舞いしてしまったようですね。これをなめて滋養を摂ってください」

 ダムトが封を切った飴を見せる。おそらく普通の飴ではない。それがいまのクロアに必要な栄養をこめた薬だと思ったクロアは口を開けた。その中に丸い飴が入れられた。

「以後は精気の管理も把握してください。いまのように与えすぎては自滅します」

 クロアは「ふぁーい」と気の抜けた返事をした。どうにも元気が出ないのだ。プルケはクロアが正常な判断のできぬ状態だと知りつつ、囚人の処分をみなに問う。

「それで、この夢魔はどうする? 招獣にしたんなら閉じこめる必要はないんだけど」

 プルケの釈放の提案には囚人が喜びいさんだ。この過剰な反応に対し、プルケが「本当に招獣になったの?」と疑いを持つ。

「クロアさまの力をもらうだけもらって、逃げるつもりじゃ」

「だったらアタシの魔力に制限をかけてみて。術士なら魔力の変化が感じ取れるでしょ」

「そうきたか……クロアさま、この夢魔の力を弱められる?」

「えー……どうやるの?」

「たとえて言うと……招獣が弱く、小さくなるような想像をしてくれればいい」

 クロアは足元の猫に目を向けた。ベニトラは自分の意思で勇壮な成獣から愛くるしい幼獣へ変化した。その例にならい、妖艶な魔人が柔弱な女性へと変ずる姿を頭に思い描いた。

「これがクロちゃんの趣味? まあいいんだけど……」

 クロアが牢を見るとたるんだ縄の中に少女がいた。十代前半の少女の耳は獣のように毛で覆われ、翼も温かそうな羽毛が生える。胸の厚みは減ったが一般的な女性程度にはある。

「あらら……ちょっとベニトラの成分が混じっちゃったわ」

 クロアならではの変化だと見たプルケは「鍵を開けよう」と言い、監視役に声をかけた。


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