四章 試合
1
クロア一行はティオに傭兵の試験を受けさせるべく、屋敷へもどった。馬車は厩舎へ向かうまえに一時、敷地内に停まる。クロアはカゴを抱えて馬車を降りた。そこへ手ぶらな衛兵がやってくる。通常、彼らは槍をたずさえているのだが、物騒なものは持ち場に置いてきたらしかった。
「お帰りなさいませ」
衛兵が持ち場を離れてまで公女に声かけをする、という事態は慣例にない。この衛兵は見たところ年若い。経験の浅い者だと思ったクロアは「出迎えをありがとう」と礼を述べる。
「けれど、わざわざわたしにあいさつをしにこなくてもいいのよ」
「カスバン殿からクロア様に言づてがありましたので──」
「あら、なにかしら?」
クロアは衛兵の伝言に傾聴した。その内容はきっと戦士採用に関係することだと予想できた。
「第三訓練場にて、挑戦者と試験官を競わせるそうです」
「そこへ行けばいいのね」
「もう挑戦者を見つけられたのですか?」
言うと衛兵の視線は馬車から出てくる少年に注がれた。注目に気付いたティオはうんうんうなずく。
「オレは弓使いなんだけど、どう競うんだ?」
ティオはここでも他者に気さくに話しかけている。これから実施する試験に対する緊張をただよわせていなかった。
衛兵は兜をかぶった頭を左右に振る。
「そこまでは存じておりません」
「そっか。んじゃその訓練場ってとこに行くよ」
ティオはクロアを見た。クロアが案内してくれるという期待を持っているようだ。
「そうね、行きましょう」
「あの、失礼ですが……」
衛兵はクロアの持つカゴに着目する。
「そちらのお荷物は、持ち歩かれるのですか?」
「え? ああ、これはわたしの部屋に置きたいものなの」
「手が空いている者をつかまえて、お部屋まで届けさせましょうか?」
「そうよね……お願いするわ」
クロアはいまの自分に無用なカゴを衛兵に渡した。その際にこのカゴに必要とする物を連想する。
「あ、そうだわ。敷物とか毛布も……」
「お部屋に運ぶのですか?」
「屋敷に余っている布類を探してほしいの。この招獣の寝床に使うのよ」
クロアは自分の背に張り付くベニトラを衛兵に見せる。
「そのカゴに敷物を詰めるつもり。でもなかったら無いでいいわ。そんなふうにカゴを運ぶ者に伝えてちょうだい」
「承知しました」
衛兵は一礼し、屋内へ向かった。カゴの処遇が片付いたクロアはレジィに振り向く。
「レジィ、ついて来てちょうだい」
「はい、第三……ですもんね」
レジィが意味深に答えるので、ティオは「なにをするところだ?」と怪訝そうにたずねた。訓練場への移動中、レジィが説明する。
「簡単に言うと、一対一で模擬試合をする場所です」
「矢を……人に向けて撃つのか?」
ティオは痛ましい表情をつくる。
「当たり所がわるかったらどうする?」
「本物の矢は使いません。当たってもあまり痛くない矢があるんです」
「痛くないんなら、どうやって勝敗を決めるんだ?」
「それは……体に命中した部位や早撃ちで判断するんだと思います。あたしが観戦できた術士同士の試合は、そんな感じでした」
「弓士同士は見たことないんだな」
「弓の腕を競うときはたぶん、射場の的当てをするから……」
「フツーはそうだよな。人をねらって矢を撃ちあうなんて、やったことない」
ティオから合格を勝ち取る自信が薄れてきた。いままでの会話において、彼の心の余裕は的を正確に射る練習によって培われたのだとわかる。それをいきなり、予測不能にうごく対象を、かつ自分に攻撃を仕掛けてくる者を、相手にするのだ。この試験内容では少年の経験不足が露呈するさまが容易に想像がつく。クロアは好ましくない結果を迎える覚悟をしておいた。
クロアたちは網目状の柵で囲まれた一画にやってきた。柵の高さは一丈〔三メートル〕近く、縦は五丈、横は十丈の幅がある。人が出入りする部分には柵がなく、扉となる遮蔽物もない。あるのは柵と柵の間に掛けられる鎖だけ。その鎖が柵の片側に引っ掛かった状態で、地面に垂れ下がっている。
鎖のそばに、革鎧を着た男性が待ちぼうけていた。木剣を肩にのせた、色黒の三十歳くらいの戦士。彼は隣国出身の元傭兵だ。怪我が原因で傭兵業をやめ、このアンペレで戦いのない仕事を探しにきた過去がある。本人は平和的な仕事に就くつもりだったはずが、現在は武官として従事している。そうなった要因は、彼が剣以外の戦いの素質を有していたことにある。
「ユネス、あなたが試験官を務めるの?」
「そうですよ。ボーゼン将軍の言いつけでね」
ボーゼンとはアンペレで最高位に就く武官だ。彼は代々アンペレに仕える武家の出身であり、その一族は武才に秀でる。人材の発掘にも精を出しており、戦士生命を絶たれたユネスに新たな戦い方を提示したのも彼だ。そんなボーゼンこそ、新人の発掘に向いていそうなのだが。
「ボーゼンが試験官ではないのね」
「はい。カスバン殿は将軍にやってもらいたかったようですが、将軍は年齢を理由に辞退されましてね。おれに役がまわってきたわけです」
ボーゼンは五十代のなかば。並みの人間では白兵戦に自信がなくなっていく年齢ではある。だが本当の理由は別のところにありそうだ。
「ボーゼンが新人に負けたら、将軍の威信がへってしまうもの。ユネスならワケありだし、負けても平気ってことなのかしら」
「まあそんなところです」
ユネスは服の
「これから挑戦者の力試しにとりかかります。見たけりゃどーぞ」
だれ宛てなのか、この一言では推察できない。クロアはユネスの石を持つ手が下がったのを見計らい、「だれと話してたの?」とたずねた。ユネスは肩をすくめる。
「将軍と同格の御仁ですよ」
「カスバンが、見物しにくるの?」
「そうみたいですね。きっと不正がないようにしたいんでしょう」
「あの爺はまーたわたしのことを疑っているのね」
「そう、なんでしょうか?」
ユネスがめずらしく自信なさげに答えた。クロア以外にもカスバンが信用ならないものが、ここにあるらしい。
「そんな話より、とっとと準備に入りますか」
次にユネスは近くの試合観戦用の長椅子を指差した。そこには試合用の、刃の付いていない武器がずらりと置いてあった
2
「じゃ、挑戦者にはあそこにある武器を持たせてください」
ユネスが示す椅子の上には、木剣や棍棒、槍と杖の代替となる長い棒、そして弓矢がある。この矢は
「パチモンが気に食わねえなら本物でもいいんだが」
「むやみに医官の手をわずらわせたくないわね」
クロアは「あれでよろしいかしら?」と若い弓士にたずねた。ティオうなずいて「そうする」と素直に応じた。
ティオは肩に乗っていた茶色の鼬を長椅子に下ろした。次いで担いでいた自前の武器も椅子に置く。そして用意されていた矢の
「ちょっと撃ってみていいかな?」
「ええ、人がいない場所をねらってくださいな」
ティオは弓の弦の張り具合を確かめ、矢をつがえた。ねらいは数丈先に植えた木である。
空を切る高音が鳴る。太い幹の木に矢が命中し、からりと落ちる。
「お、意外と飛ぶんだ」
ティオは木矢が実用に耐える性能だと理解した。信頼に足る武具を借りたと知れた少年は、放った矢を回収しに行く。そこに、さきに矢を拾う人があった。長い裳裾を着た文官である。文官は訓練場に体の正面を向け、高速で接近する。その際に足はうごいていなかった。この移動ができる者はかぎられる。
「うわ、魔物か!?」
移動の仕組みを知らぬティオは高速移動する者が人間だとは思えなかったらしい。後ずさりながら、二の矢を放とうとした。しかし文官の到着が速かった。老いた文官の顔がティオにせまる。
「矢をお返ししますぞ」
声を掛けられた若者は言葉を失い、おそるおそる矢を受け取った。クロアはティオの恐怖心を解消させるため、老官に種明かしをもとめる。
「カスバン、足元の招獣をお見せして」
数寸ばかり宙を浮いた老爺が地に足を着けた。裳裾のせいでよく見えなかった獣の全体像が現れる。それは兜を平たく伸ばしたような甲殻だ。細い尻尾も硬い殻で覆われている。
「私めの足にございます。老躯ゆえ、こうでもせぬと若い者たちに遅れをとるのです。ご理解いただけましたかな」
「は、はあ……オレも招獣は持ってるんで、わかります」
ティオは気を取り直し、訓練用の矢筒を背負う。そしてユネスが待つ訓練場へと入った。ティオの招獣は私物の弓矢のそばで見守っている。カスバンが訓練場の出入口を鎖で封鎖すると柵全体が薄い障壁で覆われ、訓練場の上部には障壁の屋根が出現する。
「これで矢があらぬところへ飛ぶ心配はない。存分におやりなさい」
老爺は挑戦者への応援を投げかけた。しかしその言葉は少年が精一杯の力を尽くすことを勧めたのみ。そこに「勝利を勝ちとってほしい」という意図は介在しない。
(まるっきり、お客さま対応よね)
カスバンの言葉遣いが丁寧なのも、彼がわざわざティオの放った矢を拾ったのも、どうせ官吏にならない群衆のひとりとして丁重に扱っているからだろう。慇懃な態度の中に、相手の力量をあなどる無礼さが見え隠れしていた。
しかし実際問題、ティオの勝機はかなり薄い。見習い弓士は緊張で強張った顔をするのに対し、熟練の戦士はあくびをかいた。少年はむっとして「悠長だな」と試験官の態度をたしなめる。目下の者に注意されたユネスはティオを正視する。
「先に三回、攻撃を相手に命中させた者の勝ちだ」
ユネスはせっつく少年に応えたのか、試験の解説をはじめた。そして肩に置いた木剣を前方へ構える。切っ先は挑戦者の顔に向かっている。
「あんたが使うのは弓矢だけだな?」
「ああ、そうだ」
「だったらこれはいらねえな」
ユネスは左手に持っていた木剣を捨てた。木剣はからんからん、と音を立てる。試験官はいきなり丸腰になった。ティオは「へ?」とおどろいた。
「剣で矢をはじきはしない」
徒手になったユネスが左手のひらを上へ向ける。
「かわりに術で手合せをしよう」
その手の上に水球が生じた。これは彼が訓練のすえ、修得した術だ。ユネスは元々が武芸一本の戦士だったが、アンペレに来て以来は術戦士に転向した。現在は術が彼の損傷した右腕にかわる戦力になっている。
(遠距離から戦う相手には術で戦うのね)
クロアはそのようにユネスの試験内容を理解した。だが、そう思わない者がひとりいた。
「手加減はなしだと言ったはず!」
カスバンが怒号を飛ばした。怒る長官を前にして、ユネスは首を鳴らした。カスバンはなおも吠える。
「ボーゼン将軍がお前を推した理由がわかるか? 剣技と術、その両方を組み合わせた場合において、お前のほうが強いと認めたのだ」
「へいへい、おれだって片方だけじゃ半人前なんだと知ってますよ」
ユネスはめんどくさそうに老爺を見る。
「だがね、おれは十歳から戦いで飯を食ってきたんです。相手の強さぐらい、ちょっとやり合えばわかります」
「強さを測ってなんとする。お前が勝たねば──」
「採用していいじゃないですか。半人前状態のおれに負ける兵士なんざ何人もいる。そいつらよりよほど見込みがあるってことでしょう」
「この試合の目的は兵士補充ではない。公女をお守りする手練れを──」
ユネスは左手を払った。その手の上に漂っていた水球が、クロアたちがいるほうへ一直線に飛ぶ。方向と角度的に、カスバンをねらったものだ。術攻撃が顔面にせまった老爺はのけぞった。
水球は柵の障壁にぶつかる。弾けた水滴は柵内の地面に散った。障壁は水しぶきさえも通さないようだ。
「趣味の悪いいたずらを!」
「人手不足なのにゼータク言ってんじゃないよ」
とうとうユネスがしびれを切らした。文官が頭ごなしに指示するのを、いつも不服としていた男だ。それは彼の出身地では武官のほうが尊ばれる文化にあったせいもあるのだろう。実害がないだけ、理性的な反抗だと言えた。
「
老爺はユネスを狂犬のごとく侮蔑した。不快のあまり、招獣を用いずに立ち去る。その様子は、己が不興を周囲に見せつけているかのようだった。
3
老爺の監視はなくなった。クロアは発言力のある外野がいなくなったおかげで気持ちがゆるむ。
(これで観戦に身が入る──?)
と思いかけたが、べつの事態も思いつく。
「カスバンがいないんだったら、試合はしなくてもいいのかしら」
クロア自身はそれが適切な判断だと考えていない。ティオの実力がいかほどか、この目でたしかめたいと思っていた。
だがユネスにはそんなクロアの思いなど関係ない。今朝がた上の者たちが決めたことを、彼はいきなり押し付けられている。つまり良いようにこき使われているのだ。それゆえ、クロアは規定にない職務の不履行をユネスが選択してもよいことを暗に提示した。
色黒の術戦士は自身の短いあご鬚をなでる。彼のあごに触れる手は、右。彼の右手は極端に握力が落ちているものの、日常の動作に不都合はなかった。
「んー、そうしたいのは山々なんですがね」
手抜きの誘いを試験官が難色をしめす。クロアはその反応におどろいた。ユネスは不良ではないが品行方正な官吏でもない。クロアの提案を飲む余地のある男なのだ。
「将軍からは『クロア様の助力となる戦士を見極めよ』とも言われたんです。手合わせをしなかったとバレたら、どやされますよ」
ユネスが苦笑いした。彼はボーゼンによる叱責回避を理由に、任務を遂行するべきだと主張したいらしい。
「あら……ボーゼンがそんなことを?」
「将軍は公女贔屓なんです。予定通り、やらせてください」
「わかったわ。術士としてのあなたの力も、見せてちょうだい」
クロアとユネスの会話は終わった。力をためされる少年はいよいよ試験がはじまることを察し、弓矢をかまえる。
「試合開始の合図は?」
「あんたが一本射れば、それが始まりだ」
ユネスは無防備に突っ立っている。術の発動待機もしていない。相手が力を見せる時間を充分に確保するために、積極的な攻撃を控える気でいる。しかしティオは自分をなめた態度だととらえたらしい。弦を引きしぼり、自身の眉尻を吊り上げる。
「ぜったい、当ててやる!」
弦が弾けた。矢はユネスの胸へ飛来する。壮年の術士は横へ一歩うごいた。矢は乾いた音を立てて落ちる。
ティオが続けざま矢を放った。矢はユネスの移動先を捕えていたが、彼が屈んでことで、またも外れた。
「矢は残り十本だ。よくねらえ」
忠告が終わる直後、新たな矢が地面を滑走した。ユネスの前方に落ちた矢は、弦を引ききらぬうちに発射されたようだった。速射を意識するあまり、飛距離が出なかったらしい。
「あと九本。こっちも当てさせてもらうぞ」
いよいよ試験官が攻勢に入る。彼の手元に小さな水の粒が集まり、膨張していく。最初に披露した水球と同等の大きさになるまでの所要時間は、ティオの矢の準備よりみじかい。
水球が弓士めがけて飛ぶ。ティオは矢をつがえたまま、横へ走る。避けた先で矢を放った。次なる水球と上下にすれ違う。
矢はユネスに当たらなかった。矢の下を通った水球は、回避の遅れたティオの太ももに当たる。水が一面に地面をぬらす。被弾者が「くっそ」と悔しがった。そうしている間にも術の攻撃はせまり、一方的な試合が継続する。
弓士は矢を撃つ姿勢を保てず、回避に専念する。徐々になさけない顔になっていった。少年の戦意は見るからに失われていく。勝利を確信したユネスが水球を手の上に浮かせた状態で、少年に声をかける。
「降参するか?」
ティオは自身の足元を見た。雨が降ったように変色し、表面がぬかるんだ地面。靴のあとが幾重にもできている。これらは防戦に徹した証拠だ。
「……ああ、オレに勝ち目……ないな」
ティオががっくり肩を落とす。ユネスは水球を握りつぶし、その場に水をしたたらせた。
試合を終えたユネスが訓練場の出入口へきて、鎖を外した。周囲を覆っていた障壁が消える。
「クロア様、この結果で納得してもらえるか?」
ユネスは少々申し訳なさそうに聞く。せっかくクロアが見つけてきた戦士が不合格になったことを、彼も残念に思っているのだ。しかしこうなることはクロアも予測できていた。
「ええ。二人とも、よく戦ってくれたわ」
敗者は場内をとぼとぼ歩き、自分が飛ばした矢を回収する。ティオの意気消沈した姿は一同の同情を誘った。が、ユネスは大いに笑う。
「はっはっは! そう落ちこむなよ」
「え?」
ティオはしゃがんだ姿勢のまま試験官の顔を見上げた。
「賊の討伐隊にゃ入れられんが、弓部隊なら歓迎するぞ」
「だけど、高速移動の爺さんが言ってたことと……」
「いーんだよ。武官の編成に関しちゃ将軍の権限が強いんだ。さっきのじーさんは将軍が決めたことを変えられん」
「オレは一本も当てられなかったのに、いいの?」
「お前は的をねらえる正確さがある。その精度はいまいる正規兵よりもいい」
「精度って言っても、当たってないし……」
「今回、おれに当てられなかったのはお前が実戦に慣れていないせいだ。あわてたり、相手のうごきを予測できなかったりな。ようは経験不足」
ユネスはティオの敗因を列挙する。
「あとな、弓士は普通、一対一での戦いなんかしなくていいんだ。できりゃあこしたことはないが、そんな芸当は並みの弓兵に要求しない。おれの攻めに耐えられただけ、お前はよくがんばったよ」
みるみるうちにティオの顔に自信と活力がもどってきた。ユネスがひらひらと手を振る。
「んじゃ、矢が回収できたら将軍に会ってみるか?」
「ああ!」
新米の弓兵がよろこんで、自分が使用した矢をすべて集めた。
4
ティオの試験は終わった。訓練場内に散らばった矢をティオが集めるさなか、レジィが「あのう」とクロアに話しかけてくる。
「このまま、ティオさんのことをユネスさんに託してていいんでしょうか?」
「なにが心配なの?」
「ティオさんの親御さんは、息子が武官になるのを反対してるんでしょう?」
クロアはティオの家事情をうっかりわすれていた。レジィの言うとおり、ティオの家族は少年が戦いに身を置くのをこばんでいる。その意思を軟化させないうちは、今日の出来事がすべて白紙になってしまう。
「そうだったわ。家族の了解も必要ね」
「はい、でもティオさんだけじゃ家族とうまく話がまとまらないかも」
「そうなるとボーゼンがティオさんの任官を認めても、ムダになってしまうわ」
「きっと将軍はそのせいでティオさんを武官にさそわなかったんですよ」
ボーゼンがティオの存在をすでに知っている──そのレジィの推測には裏付けがある。
「将軍から見たティオさんは息子のお友だちで、いまじゃ娘の義弟ですもん。将軍が知らないはずないです」
クロアたちは今日はじめてティオという人物を知ったが、その実、彼はクロアたちに近しい存在だ。そうなる要因にはボーゼンの一家が関係する。彼の娘と息子はティオと交流があるのだ。
「……ボーゼンが知ってて、ほうっておいた人材なのね」
「あのままティオさんを家に帰したら、ティオさんも家族も気まずくなるんじゃないですか?」
レジィがティオの近未来を案じていると、その不安の一端を担うユネスが困り顔になる。
「そんなフクザツな家庭のやつだったのか?」
「それは否定できないけれど……」
クロアは訓練場内にいるティオを見た。彼はクロアたちが不穏な会話をしているのを、眉をひそめて静観していた。クロアは少年の不安をぬぐいされるよう、笑顔をつくる。
「だからあきらめる、というわけにはいかないわ」
「じゃあどうします。将軍かクロア様がティオの親に直談判してみますか」
「そこまでやるとご家族の心臓にわるそうね……」
この町における大物を使っては事が大きくなりすぎる。公女、あるいは将軍が目をかける逸材という評価は、素朴な少年には不相応なもの。その風評は今後のティオにとっての重荷にもなりうる。
「もっと手ごろなやり方がないかしら」
ティオの親の意思を変えることができ、かつティオへの周囲の期待値が上がりすぎないような、説得要員──そんな人物はひとり、いた。
「エメリに口添えをしてもらう……?」
彼女はすでにティオの家族となっている身。身内による交渉を行なえば妙な外聞は広まらず、内輪にも穏当なやり取りで済む。
「エメリっていうと、いまは厩舎の係だったか」
部署違いながらユネスもエメリの現職は知っているようだ。クロアは情報共有を省き、具体的な計画を述べる。
「エメリにはこれからティオさんを家へ送ってもらって、そのついでに、家族を説得してきてほしいとたのんでみるわ」
「そりゃいい。一度に二つのことが済ませられるな」
「ユネスはボーゼンに話をつけてきて」
「ああ、登用の件がうまくいってもいかなくても、こっちの話がおわったらティオを厩舎に向かわせます」
次なる行動は決まった。クロアとレジィが厩舎へ行こうとしたところ、ユネスが「ちょいと待った」と引き止める。
「今日はもう挑戦者を集めないってことでいいんですか?」
「そうね。日中はしないわ」
「『日中』? 『今日』じゃなく?」
「夜に出かけるつもりなの。昼間は戦士らしい人があまり町にいないものだから」
「はぁ、なるほど。夜ねえ……」
ユネスは長椅子を見た。そこには依然として試合用の武器が並べてある。
「じゃ、これはもう片付けていいってことですね」
「そうなるわ。もし今晩いい人を見つけたら、明日の朝に試験をすることになるかしら」
「それはいいんですが、夜の外出は許可が出てるんですか?」
クロアは返答に窮した。夜の戦士捜しは自分の中で確定事項になっていたが、それをやれる環境は整っていない。
「……これから、お父さまに許可してもらうわ」
「クロア様にも交渉役が必要なようで」
口の達者なクロアの味方といえばダムトだ。しかし彼は外出中。その帰還を待つ間、なにもしないのではクロアの居心地がわるい。
「そのくらい、わたしがやれるわ」
「じゃ、クロア様はエメリにティオのことを任せてきてください。そのあとで伯を口説く方向で」
「わかったわ。ではあなたはまず武器の片付けをしておいて」
「はいはい、長い時間放置してると『片付けてない』と叱られますんで」
ユネスは待機していたティオに振り返る。少年は長椅子の下でじゃれ合う鼬たちを見ていた。
「ティオ、片付けを手伝ってくれるか?」
「ああ、いいよ」
男性二人はめいめいに武器を手に持つ。クロアとレジィも次の用事を果たしに行く。女性二人が訓練場から離れると、遅れて黄色の鼬が主人を追いかけてきた。レジィはしゃがみ、鼬と目線を合わせる。
「ドナちゃんと遊んでてもいいよ。マルくんにきてほしかったらよぶからね」
自由行動をうながされた鼬はじっとレジィの目を見つめる。そうして、くるっと方向転換した。その行き先は茶色の鼬のもとである。
「やっぱり同じ種族の仲間って、そばにいるとうれしいんですかね」
「そうなのかもね。オスとメスなら恋もできるし」
レジィは立ち上がり、遠い目をする。
「マルくんの子どもかぁ……」
「いきなり話が進んでるのね。あの子たちは今日会ったばかりなのよ?」
とは言うものの、クロアとて人に馴れた魔獣が増えることはよろこばしいと思う。なぜなら招獣にできるからだ。クロア自身、まだ戦える者はほしいと思っているし、妹たちにも複数体の招獣がいれば安心だと考えている。
「でもうまくいったらいいとは思うわ」
「はい。子どもが産まれたら、クロアさまの招獣にします?」
「また気が早いことを」
クロアたちはなごやかに、このましい将来を思い描いた。しかしそんな悠長なことを今後言っていられるか、まだわからない状態だ。ティオが武官になれなければきっと鼬たちも今日でお別れである。
「イタチたちが一緒にいるためには、ティオさんが仕官できなくちゃね」
「そうですね……」
ほかにも鼬たちがともに生きる方法はある。だがクロアはその話題が不要だと思い、深掘りしなかった。
5
クロアは厩舎にいるエメリに会い、ティオの試合結果を伝えた。本来の目的は果たせなかったが、武官に取り立てる算段をつけていると。
「まだボーゼンが承諾するとは決まってないのだけれど……」
「父は断りませんよ」
「わかるの?」
「父もティオのことは気にしてたんです。むかし、ティオとオゼが仲良くなって──」
ボーゼンは息子のオゼが武術の訓練相手にする少年を気に入り、この少年は将来有望な戦士になると見込んでいた。しかし少年の親は息子が戦いの道に行くことをのぞまなかった。それを知ったボーゼンはティオにもその親にも「ティオを武官にしたい」という声掛けをしなかった、という。
「それでも父はあきらめていませんでした。ティオが弓術に励んだきっかけは父なんです」
「剣や槍より身の危険がすくなくなるから、弓をすすめたのね?」
「はい。聖王様の幼少期の逸話にのっとって」
聖王ゴドウィンは弓術に巧みだ。そうなった原因は彼が物怖じをしなさすぎたことにあるという。剣にしても槍にしても、自身の身をかえりみない戦い方をこのんだとか。
聖王の家系にはこういった戦士気質な者がたびたび生まれた。歴代の王にはつつましい人物が多いのだが、現王は戦士の国の王と引けを取らない勇猛さをそなえている。その性格の影響か、両国の王は王子のときから仲が良い。そしてこの国の民衆も古くから勇敢な王を支持してきた。
対外的にはゴドウィン王の性分はこのましいものに見られた。だが先王は嫡男の猪突さを気に病んだ。子が武術に傾倒したせいで、早死する可能性を危惧したためだ。
先王は青年の時分に子宝にめぐまれなかった。それゆえ何年も神に子をくださるよう祈りつづけたそうだ。祈りが通じ、神が男児を下賜した──そう思った先王は王子を掌中の珠のごとくかわいがった。そんな子煩悩な親は王子を失いたくない一心で、息子から武器を取りあげた。だが武芸をこのむ王子は不平を垂れる。子の不満を見かねた先王は唯一、弓術の修練を許可したという。
「弓で戦うなら、負傷する危険は低くなる……そのように妥協する王がいたのですから、ティオの親にも通用するかもしれないと父は思ったんです」
「それでティオさんは弓士になったわけね……」
少年が弓を極めるきっかけはわかった。その選択に他者の思惑があったことを、彼は気付いているのだろうか。
「本人はボーゼンの考えを知っているの?」
「いえ、父からは『弓の適性が高い』と言われただけだと思います。その適性の意味が家庭環境にあったとは知らないかと」
「そう……自分に弓の才能があると思ってた人が、そうじゃなかったと知ったらガッカリしそうね」
「いましばらく伏せておきましょうか」
「そうしましょう」
クロアはエメリにティオの送迎と家族への説得をお願いした。エメリが快諾したので、クロアは安心して厩舎を離れた。
「さて、お父さまはどこにいらっしゃるかしら」
「もうそろそろ、みなさんのお仕事がおわるころですよね……」
レジィの言うとおり、日勤の官吏たちの終業時刻はせまってきている。
「まだ執務室においでなんじゃありませんか?」
クノードはよく夕食の時刻まで仕事をする人だ。用事があれば時間を空けるが、今日はそういった出来事の予定は入っていない。クロアはレジィの予測を是とし、そちらへ出向くことにした。
二人は廊下を進み、父の仕事場にちかづいた。そこで執務室の扉をくぐろうとするクノードを見つける。
「あ、お父さま」
クノードは振りかえり、笑顔で娘を歓迎する。
「ああ、クロア。私に用があってきたんだろう?」
「はい」
「では中へ入ろう」
クロアとレジィは領主のあとに続いた。両扉の片側がひとりでに開いている。扉を支える者が室内にいるのだ。
クロアは扉の影に立つ者を見上げた。くすんだ青色の毛皮をまとった男性だ。その毛皮は自前である。狼の顔をした、獣人なのだ。獣人はだれもが普通の人間と同じ姿に変身できるというが、彼はよく毛むくじゃらな出で立ちですごした。
獣人は一般的に身体能力に秀でる。彼はその能力を活かし、クノードの護衛役を任された。つまりクロアにとってのダムトのような人物だ。
領主の護衛役は無言で公女を見下ろしていた。クロアはこの
「ソルフ、ご苦労さまね」
「……オレは席を外したほうがいいですか?」
「廊下で見張ってて。もしカスバンがきたら知らせてね」
獣人の武官はクロアの意図を聞かずに「わかりました」と答えた。そして指示通りに部屋の外へ出る。退室の際に彼の尻尾が左右に振れるのを、クロアは何とはなしに見届けた。レジィも同様だ。扉が閉まるまで、彼の後ろ姿を見ていた。
6
クノードは仕事机とはべつにある机のそばに立った。そこは椅子が六脚ある。クノードが上座に着き、その対面する位置にクロアが座る。レジィは余っている椅子をうごかして、クロアの真横に座った。朱色の猫はゆっくり浮遊し、レジィの膝元におさまる。少女はベニトラが自分を休憩場に選んだことによろこび、顔をほころばせた。
「さっそく志願者を見つけてきたそうだね」
クノードが官吏たちから収集したらしい速報を述べた。クロアが物申したい話題とちかいので、クロアは頭を上下にうごかす。
「はい、結果的には賊討伐にくわわれない人員でしたけれど……」
「気にすることはない。この調子で人材を見つけていけば、そのうち及第する戦士があらわれるとも」
「前向きなお言葉をいただき、うれしく存じます」
クロアは父のやさしい声掛けをありがたく受け取った。この友好的な反応を見るに、夜間の外出も父が許容してくれそうだと思った。
「クロアの話というのは、今日の成果報告だけではないんだろう?」
「そうです。戦士捜しの件で、いくつか許可を得たく──」
「夜の外出、だね?」
「ご存知ですの?」
「ああ、じつはユネスからだいたいのことを聞いた」
クロアは首をかしげた。父がユネスと話す機会があっただろうか、と。
「私はキリのよいところで仕事をおわらせて、訓練場へ行ったんだ。残念なことに、すでに試合がおわったあとだったんだがね。けれど片付け中のユネスには会えたよ」
「そうでしたの。わたしと入れちがいになっていましたのね」
「クロアが私に会いにむかったと聞いたから、この部屋にもどってきたんだ」
「いきさつはよくわかりましたわ。あの、お父さまはわたしの外出をどのようにお考えでいらして?」
「クロアがどうしたいかによって、こちらが譲歩することも変わってくる」
「わたしがどうしたいか……?」
クロアは夜間の外出許可のほかに、自分が特殊な希望を秘めていた感覚をおぼえていた。しかしとっさには思い出せない。
「ええと、それは……わたしが夜に外出すること自体には許しがもらえる、ということですの?」
「そう思っていい。理想としてはクロアが屋敷に残って、ほかの者に行かせるほうが私は安心できるんだが」
「わたしごのみのやり方ではありませんわね」
「そうだろうな。自分の足で捜したいんだろう?」
「いえ、ベニトラに乗ってさがしたいのです」
中年は一瞬おどろき、次に憂いの表情になる。
「飛獣の飛行許可……しかも、先日まで町中で暴れていた魔獣を?」
「わたしたちの姿は住民に見られないようにしますわ。ダムトがいればできるはずです」
「……それなら不必要な騒ぎは起きないか」
口では同意するものの、クノードの顔から不安の色が消えない。
「連れて行くのはダムトとレジィかい?」
「ダムトがいればレジィはこなくてもいいかと……ねえ?」
クロアは横にいるレジィに顔を見合わせた。少女はだまってうなずく。レジィのほうからは「行きたくない」といった発言がしづらいので、それが精一杯の意思表示だった。
「私もそれがよいと思う。かよわい女の子が夜歩きをするものではないからね」
「お父さまはレジィを案じてくださっていたのね」
クノードが心配する何かをクロアはわかった。同時にその配慮に痛み入る。
「お心遣い、ありがとうございます」
「あ、いや……私が言いたかったことは、そこじゃない」
「そうでしたの? ではなにを心配なさっていらっしゃるの」
「クロアの護衛が足りないと思うんだ」
この指摘はクロアの想像になかった。クノードはびっくりした娘に説明をくわえる。
「夜は昼にくらべて予想外なことが起きやすい。だからダムトひとりでは手が回らなくなるかもしれない」
「ほかにも護衛をつけてから、外出せよと?」
「そうだ。戦いに慣れた武官がいい」
父の提案はもっともだ。しかし夜間の武官の出動はそう簡単にはいかない。昼間なら調練をやめさせてほかの仕事を与えてもいいのだが、夜の勤務には中止してよい業務がない。また非番の者にたのむにしても、緊急事態でもない用事で個人の自由時間をつぶすのはクロアの気が引ける。
「護衛を増やすのはよいのですが、護衛の任を与えられた者の本来の業務や休暇に差支えが出てしまいますわ」
「手が空いている者は私が捜そう」
「ではお父さまにおまかせしてよろしいのですね」
「ああ、夕食までに護衛役を決めておく」
「あまり時間の猶予がありませんけれど……『ちょうどよい護衛が見つからなかったら外出は無し』なんておっしゃいませんわよね?」
「そんなみっともない真似はしない。自分の不出来さを娘に押し付けていては父親失格だろう?」
クノードはなごやかな表情で娘の心配事をぬぐいさった。クロアがある程度予想できていた返事なのだが、それでも父の懐の広さには安堵をおぼえる。
「そうおっしゃっていただけて、よかったですわ。お父さまのお時間をとってはいけませんし、わたしはこれで退室します」
「そうだね、では夕食のときにまた会おう」
クロアとレジィは席を立った。使った椅子をもとにもどしたのち、二人が部屋を出る。執務室の扉のそばにはクノードの護衛役が立っている。彼はなにも言わず、クロアたちが去るのを見ていた。
7
クロアは夕食の時間まで自室で休むことにした。レジィの寝室が見えた頃合いに、レジィにも休養をすすめた。今日はもうレジィにやらせたいことがなかったからだ。
「寝る支度をしちゃってていいわ」
「はい……今日はここでおわかれですね」
ベニトラを抱えていた彼女は名残惜しそうに猫を放した。レジィはまだ猫に触れていたいらしい。その動物好きぶりを見たクロアはほほえむ。
「そのうちあなたとベニトラが一緒に寝られる日を用意するわ」
「えへへ、たのしみにしてます」
レジィは屈託のない笑顔で部屋へもどった。クロアも自身の寝室へ入る。そこにはクロアが今日はじめて見る従者の後ろ姿があった。その健勝そうなたたずまいはクロアを歓喜させる。
「ダムト、帰ってきたのね」
偵察の任務をおえたダムトが振り向く。その手にはなぜか手ぬぐいがある。
「あら、それはどうしたの?」
「俺は知りません。部屋に着いたときにはすでにありました」
彼は数歩横へ移動する。彼が立っていた場所の奥には円卓があり、卓上にカゴが置かれていた。カゴには薬や菓子の入っている。それはクロアが招獣専門店にて譲りうけた品々だ。
カゴのまわりには座布団や膝掛けなどのクロアの私物ではない布類がある。クロアの見覚えはないものの、それらがそこにある理由をクロアは知っている。
「あ……それはわたしが衛兵にたのんだものだわ」
「衛兵に、これらを集めよと命じたのですか?」
クロアは自分の言い方が我ながらまずいと思った。カゴや布類の収拾を、本来の業務とは完全に異なる武官に任せた──そう誤解されてしまう物言いである。そのように解釈したダムトは当然難色を示す。
「屋敷にいる者たちにはそれぞれ本分が──」
「まって! 順を追って話すわ」
ダムトが主人をとがめようとするのを、クロアが制す。間髪を置かず、けして武官に畑違いの指示を出したわけでない経緯を説明しはじめた。
クロアが招獣専門店で起きたことと衛兵とのやり取りについて丁寧に話すと、ダムトは事情を理解してくれた。諫言を取りやめた彼はベニトラの寝床となるカゴに触れる。おもむろにカゴの中身を取りだした。空にしたカゴを持ち上げて、いろんな角度から検分する。
「店の者が使っていたカゴ……」
「ちょっと大きい気もするけど、敷物を詰めていけばちょうどよくなるでしょ?」
「そうですね。しかし気になることが一点」
ダムトはカゴの内側を覆う布のはしをつかむ。
「こちらの布は少々汚れています。まだお使いになるのなら、一度洗うべきかと」
「そう? では洗ってちょうだい」
クロアは視線を落とし、ベニトラが卓上にある布類にほおずりしていくのを見る。この獣が身に着ける首輪は多額の値がついていた。クロアは首輪のためにお金を多く使った自覚がある。それゆえ古い物を捨てて新品に変える行為を極力避けたいと考えた。
「使えるものはちゃんと使って、節約しなきゃね」
「倹約したいのなら首輪に八万も出さなければよろしい。浮いた金で布を大量に買えましたよ」
「いいじゃない、これがこの子にとっての鎧でもあるのよ」
首輪の防御効果は術耐性を高めること。そこに大金を投資する価値がある。
「お金をケチるところじゃないわ」
「クロア様が熟慮なさったうえでの資金投入でしたら、俺が異論をはさむ余地はありません」
ダムトが聞き分けのよいことを言った。クロアは彼の同意を得られたことを意外に思ったが、真意を問う気は起きなかった。あまり長話をしていられる場合ではないのだ。
「このカゴの布をいま洗濯したら、いつ乾く?」
「普通に干せば一晩かかりますね。それでは遅いのでしょう?」
「そう、今夜寝るときには乾いていてほしいの。ベニトラの寝床に使うから」
「わかりました、俺がどうにかします。多少時間がかかりますので、ほかにも俺に言っておきたいことがあるならおっしゃっていただけますか?」
ダムトに伝えたいことはたくさんある。それをいまこの場で喋っていては洗濯物を干す時間どころか、洗う時間まで無くなるだろう。
「それなんだけど……ちょっと話が長くなるわ。洗濯しながらでいい?」
「でしたら
ダムトはクロアの私物が入った箪笥の引き出しを無造作に開けた。ごそごそとさぐったのち、半透明な宝石を出す。それは今日ユネスがカスバンと連絡をとったときに使った術具と同じ種類だ。
「これに話してください」
ダムトが手のひら大の宝石をクロアに渡した。いくつもの小さな面が組み合わさった、淡い緑色の宝石だ。
「俺はおもに聞くだけにします。独り言をぶつくさ喋っている、と周りの者に思われたくないので」
彼のほうは歪曲した棒を耳にかける。その棒の先には直径一寸〔三センチ〕ほどの宝石がついていて、石は彼の耳の穴付近に位置した。
「その石の使い方はご存知ですね?」
「わかってるわ。話したい相手の姿を思い浮かべるんでしょ」
術が不得意なクロアはこういった術具を使えないときがある。ただダムト相手の通話は高確率でうまくいくので、今回も平気だと思った。が、一応は練習してみる。
「ちょっと廊下に出ててくれる? わたしの声が聞こえたら入ってきて」
ダムトが部屋を一時出ていった。クロアは部屋の出入口に背を向け、宝石を口元に寄せる。
「あー、あー。どう? 聞こえた?」
小声で伝え石の性能をたしかめた。しかし廊下からの反応はない。クロアの念じ方が足りないのだろう。
「ダムトのことを真剣に考えなきゃ……」
やはり伝え石を持つだけでは無意味。認識の甘さを再確認したクロアは目のまえにいない従者を想像する。
(背はわたしと同じくらいで、髪の毛が水色でふわふわしてて……)
外見の特徴を思い起こしていたところ、『まだできませんか』と男性の声が聞こえてきた。その音源は手中の石だ。
「そっちの石でも話せるの?」
『できますよ。本当はそちらから通話してもらったほうがいいんですが、まだまだ苦手なようですね』
「なによ、こんなときまでわたしをためさなくていいじゃないの」
『クロア様が試験をやり出したんでしょう』
言われてみればクロアが率先して伝え石の使用確認をおこなっていた。しかしクロアからの通話をさせたがったのはダムトだ。
「あなたがそう仕向けたんじゃなくて?」
『言い合いをしている時間が惜しいです。俺はとっとと洗濯場に行きますよ』
ダムトが部屋へ入ってくる。カゴを抱え、さっさと退室した。クロアは彼の態度への不満があったが、そんなことよりも情報共有が優先だと考える。
(まずはこれからダムトにしてもらうことを言わなくちゃ)
クロアは長椅子に座り、今日の夜の予定を説明した。その行動計画に対する父の了解は得ていることを告げると、簡単な返事があった。それだけで話を終わらせてはクロアの待機時間がもったいない。ついでに夜の外出をするきっかけとなった今朝の出来事も伝えた。つまりはカスバンとの舌戦だ。クロアがダムトに不適切な命令を出した、という理由でカスバンに絞られたことを正直に話す。「賊の偵察はダムトが勝手にやったこと」とクロアが主張しなかった点で彼がなじってくるかと覚悟していたが、ダムトは『クロア様ならそうすると思っていました』とかるく流した。
(あら、小言を言わないのね)
これほどダムトが傾聴に専念する状況はめずらしい。気を良くしたクロアは昼間にあった出来事も一方的に話しつづけた。
ティオのことを話していて、ふとティオと同時期に会った薬士のことを連想する。
「あ、そういえば組合に行ったとき、強そうな薬士にも会ったのだったわ」
『強そうな、くすりし?』
ダムトが食いついた。彼が反応を見せるのも無理はなく、その形容詞と名詞は組み合わさると異様な響きを放つ。ダムトの好奇心を満たせるよう、クロアは薬士について掘り下げる。
「薬草採取の依頼をしにこられた方でね。その人に傭兵の話をもちかけてみたのよ。でも『争いには関わりたくない』と言われたの。ことわられてしまったけれど、その人は戦う能力には自信がありそうだっだわ。杖を持っていたし、ベニトラを魔獣だと見破れていたし、お強い術士なのかもしれない。あの場で説得できなかったのが残念ね」
『そうですか。その者の名はお聞きになりましたか?』
「いいえ、聞けなかったわ。もしかして有名な方?」
『有名な者の息子、やもしれません』
「へえ、親が有名……」
薬士は片親が特殊であるふうに話していた。クロアはそれが多少なりとも自分に縁のある事柄だと覚えており、その記憶をたぐりよせる。
「その方は……半魔だと言っていたわ。彼が半魔なら、その親は、有名な魔人……?」
『半魔、となると可能性はぐっと高くなりますね』
「だれなの?」
『その件はまた今度お話ししましょう。もう夕食の時間です』
時計は夕餉が居室に出される時刻を指している。いや、すこし過ぎていた。これでは遅刻だ。クロアは夢中で話しこんでしまったのを反省し、ダムトとの会話を終えた。
「ベニトラ、わたしはご飯を食べに──」
クロアが話しかけた猫は円卓の座布団のうえで寝ていた。卓上の敷物は自分のものだと認識しているらしい。
「あなたは寝てていいわ。今晩がんばってもらうから、すこし休んでて」
クロアは猫を置きざりにして、部屋を出る。戸を閉める際、もう一度ベニトラを見たが、うごきはない。クロアはひとりで夕食をとりに向かった。
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