二章 準備

1

 クロアは自室の寝台で朝を迎えた。寝返りをうつと、手にあたたかいものが当たる。ほわほわした毛皮だ。毛皮をもちいた衣類や小物なぞ持っていただろうか、と不思議に思ったクロアは目を開ける。枕のそばに、朱色で縞柄の毛玉が置いてある。毛玉には長い尾と丸みを帯びた耳がついていた。

(ネコ……?)

 クロアはこのような獣を飼っている認識がなかった。

(どこから入ってきたのかしら……)

 どうしてこの動物が自室にいるのか、クロアは思い出そうとした。とりあえず猫に触れて、体にきざんだ記憶を刺激してみる。

 クロアはほわほわした猫の毛をなでる。何度か繰り返していくと、猫はうすく目を開けた。そしてなにも言わずに二度寝をする。その冷めたような、あるいは愛撫を受け入れているかのような反応には見覚えがあった。

(あ……この子は昨日……)

 クロアの記憶がもどってくる。町に危険物が侵入した際に鳴る警報、飛馬で空を駆ける感覚、町を襲撃した魔獣を山中の洞窟まで追い詰めたときに見た、魔獣の牙。目まぐるしい一日の思い出だ。それらが脳裏によみがえったクロアは上体を起こした。乱れた掛け布団を直しつつ、昨晩の自室の様子を想起する。

 就寝前、猫型の魔獣は寝台の布団の上にいた。その位置はクロアの足元だった。それが今朝、クロアの頭のちかくに移動している。猫がこうする理由はおもに二つあるだろう。クロアは自分が信じたいほうの理由を口にする。

「あら、わたしの顔をながめたくて、こっちで寝たの?」

 ベニトラは半開きの目でクロアを見る。

「おぬしは寝相がわるい」

 姿は愛らしい幼獣が、クロアの寝住まいをたしなめた。クロアはかよわき者に迷惑をかけた気がして、無性にはずかしくなる。

「ごめんなさいね、寝相は自分の気持ちじゃどうにもできないわ」

「それゆえ、こちらの寝場所を変えた」

 先日の荒々しい魔獣の態度がどこへやら。クロアはベニトラを押しつぶすか蹴りとばすかしただろうに、この獣はその失態に反抗する意思がない。実に寛容だ。クロアはすっかりベニトラを自身の保護者のひとりとして信用しはじめた。

(うーん、この寝方じゃあこの子がかわいそうね)

 ベニトラはいまの位置取りが安全だと思っているらしい。が、クロアはそこでは不十分だと思った。なぜならクロアが寝返りをうった際にベニトラにさわったからだ。クロアが寝台にいるかぎり、寝台上に完全な安置はない。ベニトラが棚や椅子で寝ればクロアと接触せずにすむはずだが、そうしなかった理由は。

「あなた、お布団の上でねるのが好きなの?」

「どこでも寝れる。だがやわらかいものは寝心地がいい」

「それなら、あなた用の寝場所を用意しましょうか。どれくらいの広さがいい?」

「いまのこの身がおさまるほどに」

「わかったわ。考えてみる」

 ベニトラと言葉を交わすたび、クロアはこの猫が野生の魔獣とは異なるという印象を受けた。妙に人間への理解が深いのだ。

 そもそも、ベニトラの名は招術士が付けたと言っていた。つまり、クロアに出会う以前からだれかの招獣だったということだ。魔獣は複数の術士と招獣の関係を持つことができるので、それ自体は珍しいことではない。だがベニトラはこれまで、石付きの魔獣として人々に恐怖を植えつける害獣でいた。

「ねえ、どうして石付きの魔獣なんかになったの?」

「……」

「だれも助けてくれなかった? 前の招術士は?」

「知らん。とうに、呼ばれなくなった」

「そう……」

 空を飛べる招獣は移動手段として珍重する。そんな有用な招獣を招術士が長期間放置する事態──考えうる可能性を、クロアはあえて言葉にしなかった。

 とはいえ、ベニトラの招術士には興味がある。クロアはその人物を聞きだそうと思ったが、自室の戸が叩かれたせいで意識がそちらに向く。音の出所は廊下でない。クロアの部屋と隣接する部屋のほうだ。隣室はレジィの寝室である。そこは女性従者の部屋として長年使われている。

「クロアさま、入ります」

 クロアが「どうぞ」と言うとレジィが入室する。彼女はすでに普段着を着ていた。レジィの裁量でクロアも身支度を整える。顔を洗ったり、服を着替えたりしたのち、鏡台の前に移動する。そこで自身の長い髪をレジィにすいてもらった。

 レジィは複数の年下の兄弟を世話してきた少女。クロアの身支度を整える手つきも慣れたものだ。レジィはクロアより年少でいながら、時々母親を思わせる雰囲気がある。クロアは口にこそ出さないが、レジィは将来良い母になるだろうと感じていた。同時に、さびしさもこみあげた。

 従者とは、良き母と両立できない職務。レジィが母になるのはつまり、クロアの従者ではいられなくなることを意味した。そういった別離をクロアは経験している。いずれはおとずれる別れだが、いまはその未来から目をそむけた。


2

 朝の支度の最中、クロアは異変に気付いた。いつもの寝覚めのお茶が用意されていない。お茶出しの担当者はダムト。彼の姿が見えないのだ。不審に思ったクロアはレジィに彼の所在を尋ねた。レジィはクロアに耳打ちする。

「手始めに賊のねぐらをさがす、と言って出かけました」

 クロアは己の眉が上がるさまを鏡で見てとれた。

「今日の夕方にはもどるそうです」

「お父さまが反対なさったのに?」

「はい。クロアさまはきっと引き下がらないだろうから、と……」

「ふふん、よくわかってるわね」

 ダムトの欠点は口の悪さのみ。それ以外、雑務から荒事にいたるまで期待以上の仕事をこなす男だ。

「態度がわるくても頭は回るから重宝するわ」

 ダムトの腕っぷしは強いのだが、彼の能力は護衛よりも斥候に適している。情報収集能力はさることながら、身を隠す術や望遠の術を扱え、小回りの利く飛獣を有する。これらの長所を活かせば、偵察を担う偵吏、町中で噂を集める稗官でも十二分に務まるだろう。

「ダムトのはたらきを無駄にしないよう、戦士を集めなくちゃね」

 言うのは簡単だ。しかし、たやすく成果を挙げられないことはクロアもわかっている。

「どう人を集めようかしら」

「お触れを出したり、同業組合で斡旋してもらったりしてはどうです?」

 同業組合とは種々様々な職種の人員募集を代行する場だ。工房の職人や飲食店の従業員、町の警備兵の追加補充など、あらゆる職務の紹介が一挙に任されている。この町の求人は近隣の都市にも公表されるので、町の外から働き手が来ることがある。その形態は裏を返せば、ほかの土地との待遇差が比較検討されやすいことも意味する。

「うーん、組合で紹介してもらうとなると……」

「なにか問題があるんですか?」

「報酬の相場がよくわからないの」

 クロアは金銭感覚がそなわっていない。参考までにレジィやダムトの給金を聞いたとしても、通年で雇用される者と一時的な傭兵では勝手が異なる。

「あんまり安いと人がこないし、高すぎるのもよくないわ」

「そうですか? 公女がお出しになる募集なら、奮発しても──」

「ほかの募集にいく予定だった人手をごっそり奪ってしまうもの」

「あ~、よその求人の邪魔をしないようにしたいんですね?」

「そう。それに、実力のない人たちもくるかもしれないし、その選別をどうするかって考えると……手を出しにくいわね」

 これらの懸念はクロアの知識と経験不足が起因する。父は戦士の募集を許可したものの、その募集に協力してくれるわけではない。すべてクロアが取り仕切ることになる。領主が公女の要望に消極的なので、それは仕方がなかった。

 クロアが前途を思いなやむかたわら、レジィは普段の明るい調子をたもつ。

「では地道に勧誘します?」

 クロアは少女の発想にびっくりした。自分はそう簡単に外出できない立場だと思っており、町を練り歩く行為は不可能だと見做していた。だが昨日、その規制が緩和されたことを思い出す。

「そうね……わたしは外に出てもいいと言われたんだったわ」

 ただしクノードが「行ってもいい」と具体的に指定した場所は一か所のみ。この町にある招獣の専門店だ。ほかの店や場所への訪問には言及されておらず、たしかな外出許可が下りたとは言えない状態だ。クロアはそのあいまいな指示を拡大解釈する。

「お父さまはわたしがお店を見に行くことだけをお考えでいらしたけれど、町の中ならどこへ行ってもいいわよね。そうでなくちゃ強い戦士なんて見つからないもの」

「はい。旅人のいそうな場所に行って、強そうな人を捜してみますか?」

「そうね、剣王国から聖都へ出稼ぎに行く戦士なんかがねらい目ね。ビンボーそうなのは特にいいわ」

「それじゃ、午前の仕事が終わったら外出しましょうよ」

 仕事、と聞いてクロアのやる気ががくっと落ちる。クロアは休日以外、午前の職務はかならずこなすことにしていた。午後もやるときはやるが、後日に回してもよい職務内容が多いので、そちらは任意で行なう。だがクロアは昨日の職務をほとんどやれていない。ベニトラに関わるあまり、仕事は後回しになっていた。その分の蓄積を考えると、とても午前中で終われるとは思えなかった。

「え、えーと、今日はどんなことをするの?」

「魔獣の被害があった建物の修復費用の確認と、魔獣を討伐した結果報告書の作成ですね」

「それだけ? 昨日、わたしがやれなかった仕事はたまってないの?」

「はい。クロアさまが魔獣退治にむかっててできなかった分は、クノードさまがおやりになったそうです」

「そう……お父さまが代わりになさってくれたのね」

 その発言は実態と相違があることをクロアは自覚していた。クロアが担当する職務はあくまで領主の補佐。領主が行なう職務のうち、平易なものは公女に回される形式だ。公女がいなければ仕事はすべて領主かその補佐役にいく。つまり、公女が領主の代わりを一部担当しているだけなのだ。

 しかし今日の職務は事情がちがう。ひとつだけ、代替の効かない仕事がある。

「報告書はわたしにしか書けないわ。とっととやってしまいましょう」

「はい、まず朝餉をとりましょうね」

 クロアの朝食は一家専用の居室に用意される。クロアの希望次第では、自室で食べることもできる。

「クノードさまたちとご一緒に食べます?」

「んー、顔は出しておくべきね」

 クロアは父との言い合いの件を気にする。

「まだふてくされてると思われたくないわ」

 クロアは自室を出る際、寝台へ振り返る。ベニトラはのびのびと腹を天井に向けていた。この獣はもっと休んでいたいらしい。

(ムリに連れていく必要はないわね)

 クロアが放置しようとしたところ、猫はころんと体を起こす。四肢を布団につけて、ぐぐっと前足を伸ばした。伸びをしたかと思うと、なにを言うでもなく、クロアのあとをついてきた。


3

 クロアは猫に擬態したベニトラとともに居室へ入った。室内にはすでに家族が着席している。父と母、そして母方の祖母。父たちが笑顔で「おはよう」と挨拶してくる。クロアもそつなく返事をした。

 クロアの家族はこの三人以外にもいる。妹と、弟。妹たちは聖都の学生寮で寝泊まりするので、この場に集まることは最近とんとない。現在、アンペレに在住する公子公女はクロアだけだ。

 クロアの後ろを追いかけてきた猫は食卓の下にもぐりこんだ。一家の視界外にてくつろぎはじめる。この獣は人間の邪魔にならぬ場所でゴロゴロするつもりなのだろう。クロアは猫の良識を信じ、自由にさせた。

 クロアが食卓に着く。そのとき、目の端に異物を捕捉する。家族ではない老爺が、部屋のすみに居るのだ。クロアは思わず顔をしかめる。

「カスバン、こんな早くになんの用?」

 かの老爺は先代の領主にも仕えていた高官である。いまなお現領主の補佐役を務める。忠臣と言って差し支えない人物だ。その評判と功績自体は称揚すべきことなのだろうが、クロアは彼を嫌悪している。この老爺の実直さはクロアにとってわずらわしく感じることが多々あるのだ。

 老爺は鉄面皮の口元をうごかす。

「今朝からダムトの姿が見えません」

 やはりクロアの素行をつつく話題をしかけてきた。クロアは身構える。この老爺はこれからご飯のまずくなるような指摘をしてくるにちがいないと思った。

「クロア様なら行方をご存知かと思いまして──」

「ダムトなら調べものをしに出かけましたわ」

 クロアは老爺の質疑がただの談話で済むよう、当たり障りなく答える。

「夕刻までにはもどるそうですから、あなたが心配する必要はなくってよ」

 だから部屋から出ていけ、といった旨をクロアは言いたかった。しかし高官を邪険に追い返す行為は父の手前、できなかった。

「私めが知りたいのは、なにが目的でダムトを派遣なさったか、ということです」

 老爺はクロアが伏せた核心を突こうとしてくる。それが癪に障ったクロアは臣下をにらみつける。

「ダムトはあなたの部下ではありませんの。わたしの直属の護衛です。出過ぎた詮索はおよしなさい」

「どうやら他言できないご様子」

 舌戦に長けた老爺はクロアの非難を物ともしない。

「伯にお聞かせできぬことを指示なさったのですかな?」

 伯とはクノードのことだ。各地の領主は自分の臣下、および領民からそう呼ばれる。ほかにもいろいろ呼び方はあるが、礼にのっとった範囲ならば各々の好きに呼んでよいことになっている。

「おおかた、野盗退治のために偵察に行かせたのでしょう?」

 老爺は無表情だった顔に静かな怒りをのぼらせる。

「伯のご意思を無視したその指示こそ、出過ぎた越権行為というものですぞ」

「あら、お父さまは兵が集まれば討伐に行ってよいとおおせになったのよ」

 クロアも負けじと反論する。

「どうせ行くのですから、物事の順番が前後したって同じことですわ」

「そうはおっしゃいますが、使いものになる戦士がどれだけ集まりましょう」

 老爺は数歩、前に進みでる。

「アンペレの正規兵の中でもっとも強い者と同等……それくらいは戦えませぬと、伯はご安心になりますまい」

 この町の精鋭と同格の技量を持つ者、となると、それは実際に両者を戦わせてみなくては判別がつかない。つまり、老爺はクロアの集めた戦士の実力を試したいようだ。クロアは彼の主張が自分にとって好都合だと思う。

「わかりましたわ。うちの最強の戦士と手合わせして、勝った者を登用するという条件でよろしいわね?」

 どうしようかと二の足を踏んでいた事柄が、どんどん先に進むような快調さをクロアは感じた。次なる課題は実際に戦士の実力をはかる試験官の選出だ。これにはクロアの一案がある。

「ま、最強といえばわたしなのでしょうけど……」

 一対一の戦闘ではクロアがこの町で随一の実力者だと自負していた。しかし今回の試験官には不適当だともわかっている。

「わたしが相手では不満でしょ?」

「ええ。クロア様が戦士の獲得に執着なさるあまり、わざと負けることも考えられますゆえ」

 クロアが不正をはたらく可能性が無いとは言えない。だがそれを老爺が臆面もなく当人に告げるとは、不敬に相当する。クロアは臣下の態度をあげつらってもよかったが、やめておいた。むしろ強気な提案をしたほうが自分にとって有利になる、と判断する。

「だったら力試しを担当する武官はそちらで決めてちょうだい」

 そう、試験官選びはこの高官に押し付けてしまえばよいのだ。だれもが結果に納得するし、クロアの負担が軽減する。一挙両得である。

 老爺は片眉をあげた。口答えはせず「いいでしょう」と承諾する。

「私のほうで戦士の腕試しをする者を捜します。クロア様は挑戦者を『多数』お集めになってください」

 多数、という言葉を老爺は強調してきた。クロアは彼がどの程度の人数を多いと思うのか、予測がつかない。

「いったい何人必要なの?」

「合格者は五人以上……どうですかな伯、何名の豪傑がおればよいとお考えになりますか?」

 急に話をふられたクノードが生返事する。

「ああ、五人、でいいんじゃないかな」

 よく考えてはいなさそうな、適当な回答だ。募兵をかけろ、と言った本人といえど、実際に何人の精鋭が必要か、という勘定はしていなかったようだ。討伐対象の勢力を把握できていない状況では無理もなかった。

「期限は決めないから、気長に待ちなさい」

 悠長な言葉だ。実際問題、有能な傭兵がすぐ現れる保証はない。クロアは早期にケリをつけたい気持ちをこらえ、父の言葉にしたがうことにした。

「討伐の褒賞金は融通するが、法外な額にしないように」

「はい、心得ましたわ」

 正式な合意が成立した。家族の団らんを阻害してきた官吏は「失礼いたします」と退室する。閉まる戸を、クロアは誇らしい気持ちで見つめた。

「ふーんだ、偉ぶれるのもいまのうちよ」

 老爺は五人の猛者が集合することなど無理だと決めてかかっている。その思い込みが崩してみせる。クロアは賊の捕縛にかける情熱と同等かそれ以上に、老爺への反抗心をたぎらせた。


4

 クロアが苦手とする老爺は去った。クロアはあらためて食卓に気持ちを向ける。すると家長が困ったかのように視線を机上に落としている。

「あまりカスバンを悪く思わないでくれ」

 クノードは老爺の対応を弁護する。これはクロアの予想できていた父の反応だ。

「彼もクロアに大事があってはいけないと心配しているんだ」

「いいえ、その表現は正しくありません」

 クロアはあの高官がそんな人情家ではないという自信がある。

「あの者が案じるのはアンペレの将来だけ。領地をとりまとめる旗頭はたがしらの血筋さえ保てたら、ほかのことはどうでもよいのですわ」

「それは……」

 父にも心当たりがあるらしく、言葉を濁した。クロアはさらに続ける。

「カスバンはこのわたしに、そこらへんの良家や商家の息子の縁談を持ちこむのですよ。名前だけの凡夫なぞ、わたしに釣り合うはずがありませんわ」

 クロアは夫の条件を不当に高望みしているつもりはなかった。なぜならクロアは次期領主である。だがクロア自身はあいにく政治能力に秀でていない。ならばこそ伴侶には自分の短所を補える知恵者を求めたいと考えている。並大抵の男性を婿にとる気は毛頭ないのだ。

 このようなクロアの意に反して、老爺が婿候補として挙げる人物はどれも凡人だった。まるでクロアの為政方針は平々凡々でよいと言わんばかりの選出だ。それがクロアにはおもしろくない。

「これでもあの者がわたしを気遣っているとおっしゃるの?」

「……なかなか言うようになったね」

「ええ、言いますわ。お父さまがガツンとお言いにならないんですもの。だからあの老骨は調子に乗るんですのよ」

 クノードは一転してにこやかに笑う。

「その勝気な性格はいったいどこからきたんだろうね」

「さあ……きっとダムトの影響ですわ」

 クロアは先日の従者との小競り合いを思い出す。

「ダムトと一緒にいると口が減らなくなりますの」

「彼はクロアの情操教育には良くない男だったかな」

「いまさらお気づきになっても遅いですわよ」

 クロアが笑って言い返した。その一言によって家族の談笑が巻き起こる。やっと重い空気が晴れて、クロアは朝食に口をつけた。


 朝食後、クロアは自身と従者用の執務室にこもった。午前中はこうして従者とともに事務に従事する。それがクロアの果たすべき義務だ。だがクロアに付き添う従者のほうは、本来の職務とは言いにくかった。

 従者はもともと、クロアの護衛と世話のために設置された職分だった。それがいまではクロアの事務作業にたずさわる。そういった補佐も職務の一環となった。いわば公女の補佐官だ。

 従者のあらたな職務追加は、クロアが日々の公務を課せられたときに行なわれた。その際、従者とは別個にクロア用の文官を付けるか、という話は持ちあがったらしい。だが、自然消滅した。当時は試験的に公女の事務作業を導入する段階だったので、政務専門の官吏は必要ないと判断されたのだ。

(仕事の量はだんだん増えてきてるのよね)

 最初のころは学問が優先された。そのため事務仕事はおままごとのような平易かつ少量で済んでいた。年を経るごとにあれやこれよと量が増え、とうとう学習に使っていた時間が丸々職務に取って代わるまでになった。

 そろそろクロアお付きの文官が用意されてしかるべき環境になりつつある。なのに、増員は検討されていない。その原因は、クロアに付きあう従者が事務作業にも優秀だったことにある。彼らに任せておけばよいという認識がクロア以外の者たちにこびりついていた。

(うーん、でもレジィは……)

 年若い従者はけっして不出来ではない。彼女の物覚えのよさはクロアをはるかに超えている。経験を積めば前任者以上の優秀な補佐役になりうる人材だ。しかし現段階では、クロアの短所を補填するまでには成長していない。就任から一年程度では無理もないことだ。ただ、彼女の成長を待つにはクロアの心の余裕が足りなかった。

 クロアは文書作成と数字の確認が苦手だ。とくに文章をまとめる作業には時間と労力を多大に吸われる。ダムトが不在な今日、クロアは自身のいたらなさを痛感する。

(ダムトがいたら、もっと楽なんだけれど……)

 報告書に必要な情報は彼と共有できている。忘れっぽいクロアでは要点に抜けが出るのを、ダムトがおぎない、そして文章の体裁をととのえる──そんな助けが、いまは期待できない。

(戦士だけじゃなくて、政務の助っ人も勧誘しようかしら?)

 自身の不得意分野を長所とする人材を、この機会に見つけたい。クロアはそう思ったが、文官の登用は今回の勧誘と方向性がちがうことに気付く。この件は外部から呼びこまずとも、すでに仕官している者の中から選んでもよい。さいわい文官には不足していない町だ。現在の部署から異動しても業務に支障がない程度の、普通な者でいい。そこそこに仕事ができて、クロアに忠実な者をひとり、公女の側近に引き抜く。そんな願望を胸に秘めながら、遅い筆運びをどうにか継続する。昼食時にはようやく今日の職務をまっとうできた。

 クロアの仕事の成果を、レジィがほかの部署へ提出しにいった。それが終われば彼女は昼食を執務室まで運んでくれることになっている。

 クロアは食事にありつくまでの待ち時間を、ベニトラと触れあいながらすごす。この獣は職務遂行中の二人を尻目に、室内をうろうろ闊歩してみたり窓辺で日向ぼっこしたりと遊んでいた。その自由さをクロアはうらやましいと思った。こんなふうに安全な場所で、高貴な者に飼われる獣は、いいものである。これといった義務はなく、ただそこに居るだけでよいのだ。しかしベニトラ自身は安逸をむさぼることを良しとする気質かどうか、まだわからない。初日は真逆なことを言っていたおぼえがある。

「ねえあなた、山や野原ですごすのがいいって、言ってたのよね?」

 クロアは自身の膝の上で横たわる獣に話しかけた。朱色の猫はクロアに腹を見せた状態で、太い尻尾をぽふぽふとクロアの手に当てる。

「いかにも」

「家の中にいたんじゃ、退屈でしょう。どうしてわたしのそばにいてくれるの?」

「他出の念、いまだ湧かず」

「まだ外が恋しくないわけね?」

「そうだ」

「そう。ちょうどよかったわ。今日は午後からあなたに必要なお買い物もしたいの。それまではわたしについてきてね」

 猫はクロアの顔を見上げた。喉元の毛のハゲた部分を前足で触れる。

「ここを隠すものを買うと?」

「そうよ。きっと首輪を買うことになるわ。だけど首輪がイヤなら足輪でもいいの。あなたが招獣だってことを人がカンタンに見分けられるものを身につけてほしいのよ」

「承知した」

 ベニトラはクロアの膝を離れ、空中を浮遊する。そのまま日当たりのよい窓辺で外をながめだした。クロアは膝のぬくもりが冷める感触に、わずかなさびしさがこみあげる。しかしレジィが入室してくると、その感情はかき消された。


5

 クロアは昼食をレジィと一緒にとった。こたびは女子二人の食事だ。ダムトに気兼ねしない、自由な雑談を交わす。

「わたしに事務方の側近ができたら、レジィも助かるんじゃないかしら?」

「あたしは、いまのままでも平気ですけど……」

 レジィは日々、前任者の女性が達していた域に自分を高めようとしている。それゆえ、外部からの助力を得ようとは思わないらしい。

 健気な少女は「あ」と声をあげる。

「政務を補佐してくれる男性をお婿さんにしたらどうです?」

 クロアは今朝、父に告げた縁談話を思い出した。あのときは老爺が凡夫ばかりすすめてくるのをクロアが不服とする話だけで終わった。レジィが切り出す話題はもっと前向きなものだ。クロアはいまいちど冷静になり、自身の婿について考える。

「家督を継がなくてよくて、政治に理解のある人……」

「政治に関わるお家で育った人なら、そういう教育も受けておいでなのでしょう?」

「為政者の一族のこと?」

「はい。うちの国にはコリオル第二公子がいらっしゃいますよね」

 コリオルは同国の中で東に位置する領地。西を守るアンペレとは反対の場所だ。その公子の噂はクロアも聞いており、次男は秀才らしい。だが長男の評判はよくない。

「あそこは長男がボンクラだもの。次男が家督を継ぐわね」

 領主の後継者は第一子がなるものと相場が決まっている。ただしその下の兄弟が優秀ならばそちらに家督がいく事例はある。コリオルはその前轍を踏むだろうとクロアは予想している。

「あまった長男をもらう気はさらさら無いわ」

「そうですか……家督を考えなかったら、ロレンツ公がピッタリだとは思うんですけど」

 それはクロアも一度は頭に浮かんだ候補だ。ロレンツ公は博覧強記な青年。彼にはかつて兄がおり、その兄は「弟に領主の座を譲りたい」と評していた。

 ロレンツ公の兄も兄で、「聖王の長女の婿にどうか」という話題があがる英才だったという。聖王には子息がおらず、長女が跡目を継ぐことが内定している。つまり女王の夫たりうる器だったのだ。兄弟そろって聡明という、クロアにはうらやましいかぎりの血筋である。

「レウィナスさんね。たしかにケチのつけどころのない方だわ」

「でも結婚するとしたらクロアさまが嫁ぐことになりますよね」

 レウィナスは兄を失くした。そのほかの兄弟はおらず、両親も他界した。だが天涯孤独ではない。直近の親戚には父の妹がおり、叔母とその家族はこの国のどこかで生きているという。レウィナスに万一のことがあればそちらに継承権が移るだろう。が、それはロレンツ家が断絶の一歩手前に追い込まれたときに起こりうる緊急事態だ。レウィナスが生きている間、彼はロレンツ公であり続けなければならない。

「アンペレにはクロアさま以外にも公女と公子がいますもんね」

「わたしがアンペレを離れるのなら、だれが結婚相手でもよくなるわね」

 それもいいのかもしれない、とクロアはひそかに思った。妹たちに家督を任せ、自分はよそで暮らす。理想の住居は、有事の際はこの町にすぐ飛んでいける近場。そういう観点ではロレンツは格好の嫁ぎ先だ。そこはアンペレの南東に位置する場所であり、直線状は山々にはばまれているのだが、ベニトラに騎乗すれば難なく行き来できるだろう。

(でも、あの方の補佐がわたしに務まるとは……)

 レウィナスは優秀な政治家である。そんな彼の妻は才徳兼備の女人がふさわしいはず。クロアが伴侶にするにはもったいない男性だ。クロアは気が引けた。

 レジィがおずおずと「だれでもいいんでしたら……」と伏し目がちにしゃべる。

「ダムトさんも……クロアさまに合ってるかな、と……」

 クロアは耳をうたがった。そんなことは露にも思ったためしがない。

「あいつのどこがわたしと合っていると言うの?」

「え、だって……ダムトさんはクロアさまのことをよく考えているし……」

「それが仕事だからよ。それでお給金をもらってるだけよ」

「でも、今日のダムトさんはクロアさまの指示にないことをやってるんですよ。そうすればクロアさまがよろこぶし、もしだれかに責められてもクロアさまの責任にはならないからと──」

 責任の所在まで考えての独断だったとは、クロアは思いもしなかった。彼の意図を汲みとれず、老爺にはクロアの意思でダムトを外出させたものだと言ってしまった。実際クロアの希望に沿う行動なので、そこを否定する気はない。しかしダムトのほうはそれで満足しないだろう。せっかく批難の矛先をクロア以外へ向かわせる準備をしておいたのに、クロアがダメにしたのだから。

「……ダムトが帰ってきたら、またつつかれそうね」

「あ、『自分がダムトに行かせた』ってクノードさまに言ってしまったんですか?」

「お父さまもご存知ね。わたしが直接言ってやったのは偏屈爺のほうよ」

「あ~、カスバ……」

 レジィは老爺の名を言いかけて、自身の口を手でおさえた。「偏屈爺」がカスバンであると言い当てる行為にはカスバン本人に対して無礼がある、と自省したがゆえの反応だ。

「そこで止めてもムダよ。あなたもカスバンを『偏屈なジジイ』だと思ってるって証拠なんだから」

「え~、ぜったい告げ口しないでくださいよ」

 レジィが半笑いでクロアの指摘を受け止めた。彼女とてクロアがそのような陰険な行為をするとは思っていない。この会話はただの冗談だった。

 とりとめのない雑談に区切りをつけ、クロアは町へ出ることにした。目的は二種類。ベニトラの装身具の購入、それと強力な戦士の発見だ。クロアたちは食器を片づけたのち、屋外へ出た。


6

 アンペレの町は広大である。この町を徒歩で移動していてはたいへん骨が折れる。それゆえクロアは私用の馬車を使うことにした。馬車を牽引する馬は厩舎で飼育している。厩舎には普通の馬のほかにも飛行能力のある魔獣──通称を飛獣──が区分けして管理してあった。

 今回使うのは普通の馬だ。利便性では飛獣のほうが移動速度が速いが、町中では飛獣の乱用を禁止している。領主一族も例外ではない。緊急時以外は馬か馬車での移動をする。その際は厩舎にいる者に声をかけ、馬か馬車の用意を頼む。馬車に乗るときは同時に御者の任にも就かせた。

「今日はだれがいるのかしら……あら?」

 舎内の掃き掃除をする女性がいた。厩舎では見慣れぬ新人であろうが、その体格としぐさが大切な知人とかさなって見えた。姉のような庇護者であった女性に。

「あなた、エメリではなくて?」

 掃除婦は顔をあげた。やはり長年クロアの従者を務めた女性だ。彼女は外面が優しい淑女でいながら、内面は剛毅な女傑である。内なる頑強さをうまく隠した女性がはにかむ。

「はい、そのとおりです」

「子どもをみていなくて平気なの? まだ乳飲み子でしょう」

 エメリは既婚者だ。妊娠と出産を機に従者の務めをしりぞいた。お相手の男性は名うての工房の跡取り息子。資産のある嫁ぎ先なので、彼女自身が勤めにいかなくとも生活は成り立つ。それゆえ、エメリは復職しないものだとクロアは思っていた。

「母が面倒を看てくれていますよ。孫ができたおかげで、張り合いが出たみたいです」

「そうなの……元気そうでよかった」

 クロアは旧知の女性との再会を心からよろこんだ。ただ気になることがあった。彼女がなぜ厩舎に配属されたかということだ。

「それで、どうしてエメリが馬丁ばていをしているの?」

「勤務時間の融通が利いて、お嬢さまとも関われそうな職務が、ここでした」

「わたしと?」

「はい。お嬢さまは飛馬がお好きでしょう? 乗って出かける機会がなくても、飛馬を触りに厩舎へ出向くことがあったので──」

「ここにいればわたしに会えると、思ってくれたの?」

 エメリは笑ってうなずいた。彼女が従者の任を解かれてなお公女を気遣っている。その事実にクロアは歓喜し、照れくさくなった。

「お嬢さまはなんの御用でこちらに?」

「じつはね、昨日お父さまが町中へ出かけてもいいとおっしゃったの」

 新人の馬丁は笑顔のまま「それはよかったですね」と言う。彼女はこの外出がたまの遊興だと思っていそうだ。

「行く場所はもうお決めになったのですか?」

「最初に招獣のお店に行きたいの」

「『最初』とおっしゃいますと、ほかにも目当ての行き先があるのですね?」

「そうなの。強い人が集まりそうなところ、どこか知っていて?」

「……移動の間によく考えてみます。これからお出かけになりますか?」

「ええ、御者をお願いするわ」

「お任せください。準備しますので、しばしお待ちを」

 エメリは床に集まった塵や藁くずを回収し、掃除道具を片付けた。ほかの馬丁にも声をかけて、支度を手伝ってもらっている。その光景をクロアは懐かしい気持ちでながめた。

 レジィも転身した前任者をまじまじと見ている。だがその視線には懐疑が入り混じっている。

「エメリさん……今度は厩舎でずっとはたらくんでしょうか?」

「そうみたいね」

「もったいないんじゃないですか? あの方は戦えるし、療術も上手で……」

「そう、なんでもできる器用な人よ。だけど母親になったの」

 クロアはレジィの横顔を見る。いつかはこの少女もエメリのようになる、という歓迎と不安の気持ちがじわじわと湧いてくる。

「危険も体の負担もすくない仕事をえらぶのは……いいことだと思うわ」

 レジィは急にしょぼくれる。

「やっぱり、従者って危ない仕事ですか?」

「わたしに付き添っていると危険は多くなるでしょうね」

 クロアは十歳にならぬころから武力行使する公務に参加した。どこそこの村に魔物が出てくる、山賊が住みついた、気性の荒い旅人が揉めごとを起こしている──そういった平和的解決がむずかしい問題に関わってきた。クロアは小さいときから尋常でない怪力をそなえていたので、その力を役立てたかったのだ。

「それがどうかして?」

 留意事項は従者に取り立てる際に説明があったはず、とクロアは不思議がった。

 レジィが袖をまくって腕を見せる。筋肉の隆起が目立たない、弱々しい腕だ。

「あたし、クロアさまを守れますか?」

 少女は従者の任を引き受けたのちに、護身用の戦い方を教わったという。それまでの彼女は医官の見習いという、戦いに縁のない分野で奉仕していた。そんな非戦闘員がいきなり戦闘訓練を受けるのだから、よくレジィは従者教育についてこれたものだとクロアは感心している。

「その細腕じゃあ期待できないわね」

 クロアはほほえみ、冗談めかして本音をのべた。か細い少女は「すいません」と真面目に謝る。

「がんばって鍛えてるつもりなんですけど……」

「あなたは自分の身を守れたらいいの」

 クロアはもとよりその考えでいた。少女に武芸を習わせる目的は本人の自衛のため。彼女の本業は別にある。レジィならではの役目こそをクロアは求めている。

「わたしがケガをしたらすぐに治す、それがあなたの仕事よ」

「はい……それはわかってるんですけど……」

「敵を倒すのはわたしの専門なんだもの。あなたはいまのままでいいわ」

「でも、エメリさんは武芸が達者なんでしょう?」

「そうよ。だからってレジィがエメリを目標にしなくていいの」

 エメリはアンペレにおいて高名な武官の家の出身だ。生まれ落ちたときから武官になるのを約束された人物と、普通な家庭で育った少女とを、同じ尺度で測ることはできない。なにより、クロアが成長するごとに求める従者の資質も変容していた。

「彼女は幼いわたしの護衛役だったの。そのときはお父さまがわたしに『戦える侍女が必要だ』とお考えになったのよ。いまとなってはわたしがアンペレ最強なのだから、もうそんなふうに考えていらっしゃらないわ」

 レジィはくすっと笑い、袖をもとにもどす。

「それじゃ、あたしが危ない目に遭ったら……クロアさまが守ってくださいます?」

「もちろんよ。レジィを一生守れる殿方が現れるまでは、わたしがぜんぶ守ってあげる」

「ダンナさんが見つからなかったら?」

「ずっとわたしに仕えたらいいわ」

 それが叶わない未来だとクロアはわかっていた。母親となったエメリは十年とすこしで従者生活を終えた。前例にならえばレジィもあと十年前後で退任する。このような心根のよい可憐な少女に、男性が言い寄らないとは考えにくいのだ。

(わたしのそばを離れても……また、わたしに会いにきてくれる?)

 その問いはいつかくる日までにとっておくことにした。クロアたちはこれから町中へ出かける。めったにない楽しみを目の前にして、そんなさびしい話題を持ちかけなくてもいいと思った。

 クロアはふとベニトラの行方が気になりだす。エメリに気を取られ、朱色の獣のことはすっかり放置していた。クロアのあとをついてきたはずの猫はクロアの周囲にいない。

「ベニトラったら、どこに行って──」

「あ、馬車が出てきましたよ」

 エメリが二頭の馬を引き連れてきた。その後方には人間が乗る、屋根付きの四輪馬車がついてくる。御者の席には朱色の毛玉がいた。

「あら、あんなところにいたの」

 クロアは安堵をおぼえた。招獣は術で呼びよせられるとはいえ、そのやり方を熟知していないクロアには敷居の高い技だ。ベニトラが見つからなかったときはその場でレジィに招術を習わねばならぬところだった。

 エメリがベニトラを両手で抱きかかえた。それをクロアに差し出す。

「町中ではこの獣を抱えていてもらえますか?」

「いまみたいにはぐれて、捜すはめになるから?」

「それもありますが、住民は魔獣に敏感になっていますので──」

 クロアは猫を受け取りながら「この子が魔獣だと知っているの?」とたずねた。その事実は家族と一部の官吏だけが認知していると思っていた。

「はい、クロアさまが朱の毛皮の魔獣を招獣にしたのだと聞きましたから」

「昨日の今日で、もう話が広まってるのね」

「町中はそうともかぎりません。住民とおしゃべりする機会があれば、その獣を紹介なさるとよいかもしれませんね。まだ恐怖を抱いている人たちがいると思います」

 「では車内へ」とエメリにうながされ、クロアたちは馬車へ乗りこんだ。クロアは童心に返ったかのようにウキウキして、車窓越しに見える景色を堪能した。


7

 エメリが操縦する馬車は招獣専門店を目指した。馬車内でクロアとレジィは対面して座る。クロアはレジィとの雑談は後回しにし、窓の外を眺めた。

 大通りに面した建物は商いをする店舗が多い。いろんな人が店へ出入りしている。その中に戦えそうな者はいないか、とクロアは捜した。クロアの膝にのったベニトラも窓のふちに前足を置いて、同じ景色を見ていた。

「あのう、クロアさまはロレンツ公と仲がいいんですか?」

 レジィが突拍子なく聞いてくる。クロアは視線を変えずに「知り合いではあるわ」と答えた。

「ロレンツ公にお声をかけて、討伐に協力してもらうのはどうです?」

「人が集まらなかったらそうするわ。でも最初からよその戦力をあてにしてはダメね」

「どうしてですか?」

「いつも援軍を頼んでいたら、そのうちほかの領主や国の者にあなどられてしまう。自衛力のない町だとか、兵をまともに統率できない無力な領主と……そんなの言われたら、わたしがくやしくってたまらないわ」

 現段階でもアンペレを低く見る風評は存在する。アンペレから見て西隣りの国では、その土地の戦士がアンペレの兵士になるのを恥とする噂があるのだ。この町は財政に余裕があり、兵士の給与が相場より良いらしい。その金目当てにアンペレに仕える戦士は卑しいやつ、などと思う人がいるのだとか。やたらと誇り高い戦士の多い国ではクロアに理解しがたい常識がまかり通っている。ただ実際問題、アンペレで武官になっても箔が付かないのはたしかだ。この国で名誉ある兵士といえば聖王のおわす聖都の武官である。そちらに有能な人材は流れていく。

 クロアは視線をやや下に落とした。クロアが頼りとする朱色の仲間が、無邪気に景色を眺めている。

「せっかく飛獣を見つけたんだもの。わたしはひとりででも戦う気よ」

「クノードさまがイヤがっていらしても?」

「お父さまに心配をかけるのは、気が引けるけど……」

 父に従順であること以上にクロアが大切にしたいものがあった。

「憧れなのよ、悪党を倒す英雄って」

「きっかけはエミディオ王の英雄譚ですね?」

 エミディオ王とは聖王国の東隣りに位置する国の先王だ。その国は武道第一の国風こそないが、彼は武断の王だった。数々の反乱をみずからの手腕で鎮圧したという。その雄々しい活躍の影には失ったものも多く、先王の生き様はしばしば演芸の場で再現がなされる。クロアは脚本家の脚色が混じった人物像に親しんでおり、この王のことはいたく気に入っている。

「ええ、そう。『あの方のような立派な人になるんだ』って小さいときはよく思ったもの」

 レジィは笑って「変わっていますね」と不躾な感想を述べる。

「エミディオ王はかっこいい人ですけど、女の子は普通『ああなりたい』とは思いませんよ。『ああいう男性のお嫁さんになりたい』と思うんです」

「いいじゃない、わたしは普通じゃないんだもの」

 クロアは自分の腕を見た。衣服で覆うと筋肉が発達していることなぞわからなくなる程度の太さだ。しかしこの腕は常人の臂力の何倍もの力を出せる。

「この腕力を活かさない手はないわ」

「はい、きっと……神さまはアンペレのためにクロアさまを遣わしたんだと思います」

 戦士が集まらない土地に、武勇にすぐれた公女が誕生する──その天の采配は的確だ。

「どうせなら男に生まれさせてくれたらよかったのだけどね」

「クロアさまが男だったらたぶん、バリバリに戦いすぎて早死しちゃいますよ。剣王国の第一王子がそんな危険のある人らしいですよ」

 聖王国の西隣りは尚武の国。それゆえ王族も勇猛果敢な戦士に育つ。特に現王の長男は無鉄砲なきらいがある。住民を脅かす存在を討伐する際にはまっさきに名乗り出て、大怪我をして帰還する──と、いうふうに聖王国内では話題にのぼる。その向こう見ずな性格はクロアと性情が通じるのではないか、とも言われる。

「あの王子はわたしと似たような方らしいけれど、一番のちがいは腕の良い療術士がそばにいるかどうかよね」

 クロアが同意を求めてレジィを見る。彼女は照れて「そ~ですかね」と否定はしなかった。クロアはふふっと笑う。そしてふとした謎が頭をよぎる。

「あちらの国では療術を扱える人が極端にすくないんでしょう? この国だと騎士でも当たり前のように使うのに、ちょっと信じがたいわ」

「剣王国はお国柄、気性の荒い人が多いらしいですから……療術は思いやりのある人でないと習得がむずかしいそうです。もちろん、生まれつきの素質も重要なんですけど」

「血筋の影響が強いのかしらね。カスバンなんか心優しさのカケラもなさそうだけど、療術はちゃんと使えるんでしょ」

「えっと、どうなんでしょう……あ、そうそう」

 レジィは答えづらい話題を転換し、自身の招獣を呼び出した。首輪を巻いた獣が現れる。薄黄色のいたちだ。胴が細長く、一本の襟巻きのようでもある。

「これから招獣の首輪を買うんでしたよね」

 鼬はレジィに胴体を持たれる。その状態でクロアのそばにいる猫を見つめた。

「マルくんは変身しないですけど、いちおうは伸縮自在の首輪をつけてるんです。いつかは変身できるくらいに強くなるかも、と思って」

「ふーん、見た目は普通の首輪なのね」

 鼬の首元には一粒の宝石が光っていた。クロアは飛馬の馬装を思い出す。

「うちの飛馬も宝石のついた飾りを着けた気がするわ。同じ種類なの?」

「ええと、用途がちがうんです。お屋敷の飛馬はみんなが使える招獣ですよね。それは盟約を交わさずに道具で縛りつけているんです。道具でしたがわせられる個体には条件があって、人の言葉を話せるような魔力の高い魔獣には効きませんけど……」

 レジィがクロアの顔色を見ながら説明する。言葉を選んでいるようだ。クロアはレジィの反応の意味がわからない。

「どうしたの? 知ってることは全部教えてちょうだい」

「はい、でも……あたしは仕官したときに『基礎知識だから』と学官に教えてもらったんです。クロアさまもたぶん……」

 レジィは言葉尻をにごす。百官が知り得ることを主君が知らない、無知だとはっきり言う度胸がないのだ。クロアは自信満々に「わすれたわ!」と断言する。

「道具で服従させるのはわたしの好みじゃないの。だいたい呼び出せないんじゃ不便よ」

「それが……呼べるんですよ。飛馬の装身具と対になる道具を持っていれば、だれでも招術が使えるんです」

「対になる道具って?」

「一般的には指輪ですね。飛馬に騎乗するまえに厩舎の人がくれませんか?」

「いつもダムトが飛馬を操るから、よくわからないわ」

「いつも相乗りしてるんですか?」

 レジィが顔を赤くした。クロアはまたも少女の意図がわからない。

「むかしからそうしてたわ。これは変?」

「いえ、変じゃないです。だって、ひとりで乗ってて落馬したら危ないですもんね」

「そうでしょう。みんな過保護なのよ、わたしひとりになにかをさせたら事件が起きると思っているんだもの。だから二人も専属の付き人をはべらすことになってるの。妹たちにはいないのにね」

 クロアたちの体が前後に揺らぐ。車窓から見える景色は止まっている。馬車が目的地に到着したらしい。クロアはベニトラを抱えた。みずから戸を開ける。すると御者台から降りたエメリが笑っている。

「相変わらず気がお早いですね。貴人は御者が戸を開けるのを待つものですよ」

「あら、よその貴族は非力すぎて馬車の戸も開けられないのね」

 クロアの冗談を受け、またもエメリは笑う。クロアはエメリに馬車の見張りを任せ、目当ての店へ入った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る