一章 紅の獣
1
山中の岩壁に洞窟があった。洞窟の中は横幅および高さがある。広さは人ひとりが雨宿りに利用するには広すぎるほど。その洞窟内に、一体の獣が逃げこんだ。それを二人の男女が追いかける。獣は洞窟内の突き当たりで止まり、追跡者のいるほうへ向きなおった。
獣は虎に似た特徴をもち、燃えるような朱色の毛皮を逆立たせている。いまにも飛びかからんという姿勢で人間に牙を見せた。獣は闘争心にあふれている。そんな猛獣を目前にした人間は落ち着きはらっていた。彼らは簡単な武装をしており、獣との応戦はこの場へ行きつくまでに何度か交わした。形勢は人側が優位である。だが二人は慢心しなかった。追い詰められた獣が死力をふるうあがきには、容易に人命を刈り取る暴力が内在するからだ。
長身の女は先端に宝石のついた杖を構える。
「こわがる必要はなくってよ」
杖の先端で獣の喉元をしめす。彼女のねらいは一点、獣の喉に埋まる赤い石だ。
女は杖の柄にある小さな突起物を押した。宝石がいきおいよく射出する。弾丸となった宝石は獣へ直進した。獣は跳躍し、女の攻撃を回避する。宙に上がった獣の頭上に、網が展開した。これは女の後方にひかえた男が放ったものだ。網の端々には重りがついていた。その重量にしたがって網は下降する。獣は網の下敷きとなり、地べたへ落下した。朱色の獣は網を外そうともがく。そのせいで余計に網が絡まっていった。これで拘束は成功した。
「でかしたわ、ダムト。あとは赤い石を壊すだけ……」
獣はうなり声をあげた。咆哮を放つために頭をもたげた瞬間を、女は見逃さなかった。
あらわになった獣の首元に、杖を一突きする。ぱきん、と乾いた音が鳴る。同時に獣の叫びが洞窟を震わせる。男女はあわてて耳をふさぎ、轟音に耐えた。
耳をつんざく音が鳴りやんだ。朱色の獣はぐったりとその場に伏す。そのさまを確認した女は堂々と獣のそばでしゃがんだ。地面にはたったいま破壊した赤い石がちらばっている。女は赤い欠片をつまみ、その石を観察する。
「この石が魔獣を支配する道具ね。さ、回収してちょうだい」
女はあまり関心のない雑事をダムトという男に押し付けた。従者である彼は素直に応じる。ダムトは持参した空の巾着をひろげ、石の破片を入れていく。彼の視線は次第に獣へうつる。
「クロア様、魔獣のほうはいかがします?」
ダムトが主人に問うた。しかし彼は主人が獣をどうするつもりなのかわかっていた。この問いは彼なりの確認である。
クロアはふふんと鼻をならす。
「持ち帰るわ。石付きの魔獣を救助したあとは、仲間に引き入れるものなのよ」
それはクロアがここ最近の伝聞で知ったやり取りだった。赤い石によって正気を失った魔獣を、人が打ち倒し、その健闘をたたえて魔獣が人の仲間になるという。
「そういう事例はありますけど、この魔獣がクロア様を認めるかは別の話でしょう?」
ダムトはクロアの見込みが軽率だと言いたげだ。この従者はいつも主人に対して不遜な物言いをする。そのわるいクセが出たのだとクロアは不快に感じる。
「またそんなイジワルを言うのね」
「危機管理の面で苦言を申しているのです。魔獣がみな、助けられた恩義を感じる保証はありません。むしろ人がしでかした不始末を恨んで、我々に牙をむくやもしれません」
赤い石に狂わされた魔獣とは人の手によって生み出された生き物だ。魔獣を苦しめる人と助けた人が別ではあっても、他種族である生き物から見れば同じ人間の仕業だと判断するおそれはある。クロアは従者の意見が正論だろうと思い、
「そのときはもう一回、負かすわ」
と、彼らが想像する魔獣と大差ない好戦的な判断をくだした。
「領民への被害が出ないようにしてくださいね」
ダムトは主人の意向にそむかぬ助言をしておいた。主人はこの魔獣を欲する理由がある。だからどんな説得も聞きはしないというあきらめがついていた。
従者の赤い石を集める作業はおわった。彼は石の入った袋を自身の腰に提げる。次に魔獣の捕獲に使用した投網を再度魔獣に巻きつけ、申し訳程度に拘束を強める。彼が魔獣を担ごうとしたのを、クロアが止める。
「わたしが運ぶわ」
魔獣の運搬はクロア個人のわがままだ。そのため、クロアは自分の手で行なうべきことだと思っていた。なにより、単純な腕力ではクロアのほうが秀でている。それが彼女の生まれついての特性だ。人でない魔障の者の血が、その身体能力を開花させていた。
クロアは魔獣を仕留めた杖を腰の携帯用帯に差した。空いた両手を魔獣の腹の下に入れる。獣の巨躯を軽々と持ち上げ、右肩に獣の腹を乗せる。獣の後ろ足が自身の胸当てにかかった。獣を担いだ状態で歩いてみると、獣の太く長い尾を引きずってしまう。クロアは空いている左手で尻尾を持つ。毛の密集した尾はふわふわして温かい。
「あら、いい毛並みね」
「愛玩用にするのですか?」
「まさか。かわいいだけのものはいらないわ」
クロアは実用性のあるものをこのむ。そうでないと玩具をほしがる子どものようだ、という強迫観念にも似た嫌悪があった。幼く見られたくない理由は両親にある。クロアの両親はいまだに娘を子どもあつかいして、単独での私的な遠出を許可しない。こたびの魔獣討伐も、民衆を助ける名目での公的な職務である。クロア個人が希望した外出ではない。
(これだけの成果をあげたら、一人前だと思ってもらえるかしら)
クロアたちが追ってきた魔獣は町民をおびやかしていた。当然、町の安全を守る兵は魔獣を倒そうとしたが、彼らでは力かなわず、クロアに出番が回ってきた。難敵をくだしたクロアにはきっと周囲の称賛がもらえる。こうした功績を積み重ねていけば、いずれクロアは両親から一人立ちを認められるだろう。
いっぱしの大人あつかいされることは誇らしい。反面、厄介だと思う気持ちもあった。クロアが立派な大人になってしまうと、親の跡目をいつでも引き受けてよいということになる。それは父親が重大な責務を背負う立場でいる以上、困難が多数待ち受けることを意味する。その重圧は測りしれない。とにかくいまのクロアでは到底掌握できない責務だと思っている。大人が有する自由はほしいが、課せられる義務の多さには尻込みしてしまう──いつしか、そんな矛盾した思いを抱えるようになった。
討伐の成果を得た二人は洞窟を出る。外には装飾品を帯びた有翼の馬がいた。この馬は二人がこの場へ到着するまでの移動手段にもちいた。一般名称を飛馬という。
ダムトが飛馬の鞍に手を置く。鞍の幅は一般的な成人が二人乗れるくらいだ。
「魔獣の重さはどうです? 人間二人分なら飛馬に運ばせることもできますが」
「たぶんそれぐらいだわ。乗せてみましょ」
クロアは魔獣の後ろ足を鞍に乗せようとした。だが飛馬は離れていく。クロアがまた一歩飛馬に寄ってみても結果は同じ。
「怖いのかしら」
「捕食される側ですからね」
飛馬は意識のない魔獣をおそれているらしい。クロアはその根性にあきれる。
「だらしない飛馬ね。これが飛竜だったら魔獣の一匹くらい、なんてことないでしょうに」
「戦闘向きの調練をしていない個体なんでしょう」
クロアは飛馬での魔獣運搬をあきらめ、自力で運ぶことにした。ダムトが飛馬の手綱を握り、町へと歩を進めた。帰路の最中、二人は今日の討伐を反省する。
「無事捕縛できたからよいものの、魔獣退治は普通、こんな少人数で行なうものではないですよ」
「わたしとあなた以上の適役がいないのだもの。当然の結果よ」
「そんな状態が異常だとは思いませんか」
「思ってどうなるの。思うだけで強い兵士があつまるのなら、お父さまは苦労してないわ」
クロアの父は現役の領主。住民に危害を加える物事への対処が政務のうちに数えられる。実情、その危害に対して領主は十全な対策が実行できていない。彼自身には戦う能力があるのだが、たったひとりの将が奮闘しても、やれることには限界がある。
(どーしたら強い人があつまるのかしらね?)
その問題はこの地域を管轄する領主が長年なやみ続けてきたことだった。
2
クロアたちは自分たちが住む町をめざした。クロアが魔獣を担ぐ間は飛馬が使えないので、行きの数倍の時間をかけて歩く。町を発ったのが午前。魔獣を捕獲し、町の遠景を発見したころには昼食時を大きく過ぎていた。飛馬を利用すればまたたく間に行ける道のりが、徒歩ではかなりの時間を食う。クロアは飛馬のありがたみを痛感した。
クロアの住む町の名はアンペレといい、周囲が外壁でかこまれている。その壁は何度かの拡張の痕跡があった。この町は種々様々な工房を擁する。ゆえに、事業が発展していくと必要な敷地面積も広くなる。
(工業がさかんなのは誇らしいことよ。でも……)
クロアは外壁に立つ哨兵を見あげた。彼らは外壁の上で警護の任に就いている。同種の警備兵が町中や領主の屋敷にも配備してあった。それらの外見はいかにも兵士である。だがその実態は兵士の存在を人々に見せつけるための、武芸の腕は素人の寄せあつめ──とはクロアの感覚だ。すべての兵士には基礎的な武術を仕込んである。一応はずぶの素人ではない。だがいざ町中に不届き者が現れても取り逃がす、そんな失態が多々起きた。そのほとんどはクロアがその場にいれば捕縛できたであろう、ただの盗人だった。
今回クロアが捕まえた魔獣も、本来は見張りの兵士が撃退できるだけの備えがあった。この朱色の魔獣は翼こそないが空を飛べる。この個体も飛馬同様の飛獣である。町の外壁には、こういった飛来する敵にも対抗しうる投擲兵器が設置してあるのだ。兵器をうまく使えば魔獣を遠ざけ、民衆の被害をなくせた。彼ら兵士には自力で戦う能力も、兵器を有効活用する技術も欠けている。その事実を思い出したクロアは思わず嘆息した。
「クロア様がため息を吐くとは、らしくありませんね」
飛馬の手綱を引くダムトが言う。
「魔獣の運搬をしたせいでお疲れになりましたか」
クロアの肩には朱色の魔獣が全体重を預けた状態でいる。いまなお気絶中だ。この獣の重さにクロアの不興は生まれず、むしろ毛皮の温かさに幸福感を得ている。
「このくらい平気よ」
クロアは片手に持っている獣の長い尾を振ってみせた。その尻尾のうごきをダムトはじっと見る。
「その魔獣、ずいぶん気に入ったようですね」
「ええ、この子は空を飛べるし、戦えるんだもの。仲間にできたらいい戦力になるわ」
「クロア様は戦いの想定ばかりなさいますね」
「みんながわたしに期待することも、それでしょ?」
「はい、クロア様は戦闘以外の能力が並以下ですから」
従者は無礼な真実を打ち明けた。クロアは機嫌をそこねるが、彼の言葉を否定はしない。クロアは次期領主に要求される内政能力には日々不足を感じている。貴人のたしなみとしてそなえるべき教養にも抜けがある。婦人の美徳とすべき家事仕事も下手だ。取り柄といえばこの怪力と、強敵にも臆さず戦える胆力。これらの長所はまっこと戦闘で存分に発揮できる能力だ。このように明確な長所と短所をもつクロアは、町の戦力問題は自分が解決すべきことだ、という義務感が自然と芽生えた。
クロアに不遜な物言いをするダムトもまた、戦闘面に秀でている。それゆえ彼はクロアの護衛役になった。クロアの幼いころから側仕えしているので、クロアの隣りにいることが当たり前になっている。だがいまのクロアは幼少時とはちがい、自分で身を守れる。腕扱きの護衛はもはや必要ない。代わりにダムトの能力は戦力不足にあえぐ町に活用させたら、という発想がクロアに生まれる。
「ねえ、あなた警備兵の指導をしてみない?」
「突拍子がないですね」
ダムトは別段その提案が良いともわるいとも感じていなさそうな、いつも通りの顔でいる。
「俺の小言にうんざりしたから、別の部署に回すおつもりですか」
「そうではないの。アンペレの兵士は……弱小でしょ」
「はい。長年、弱いままです」
「強い指導者が訓練をほどこせばマシになるんじゃなくて?」
「その指導者をどう見つけるんです?」
「それがあなたよ」
あらたな職務が提示された従者は「ムリです」と断言する。
「俺は槍や剣のたぐいを他人に教えられる技量がありません」
「使えないことはないじゃない」
「我流ですよ。俺個人に合った動作を兵士に習わせるのは効率がわるい」
「じゃああなたならどうするの?」
「ごく一般的な槍術を学んだ方をお呼びしたらよいかと思います」
「槍がいいの?」
「素人は槍の扱いを学んだほうが、早く使いものになります」
この国の軍隊も、兵士には一般的に槍を支給する。その理由には宗教的な論もあるが、内実は合理的だ。武器が大量生産しやすいこと、兵士の能力差に関わらず訓練がしやすいこと、たとえ棒立ちしかできぬ一般人であっても槍を構えていれば牽制には使えること。アンペレの弱卒はとりわけ消極的な利点によって槍を装備する。だがこれといった槍の名手はこの町にいない。
「んー、槍の名人をうちにまねく方法……」
「剣でも弓でもよいのですがね。そういう方をこちらから捜しに行くのはむずかしいでしょう」
「わかってるわ。わたしはめったなことじゃ外出許可が出ないし、長い期間あなたを遠方にやらせるわけにもいかないんでしょ」
「そうです。俺はあなたの護衛役ですから、何十日も町を離れていられません」
「強い人がくるのを待つしかないのかしら?」
「アンペレに武芸の達人が訪れるとしたら、隣りの剣王国か聖都に用事のある『ついで』な方ばかりでしょう。この町に根差すことはないと思いますよ」
「だから大都市の聖都や強い戦士を重用する剣王国に人材が流れるわけね」
「そこであぶれた弱い戦士がこの町に集まる仕組みです」
ダムトが容赦なく言い捨てる。まぎれもない事実だ。クロアは無言で肯定した。
外門より人影が走ってきた。その人物は橙色の短髪を上下に揺らしてくる。背丈こそそれなりにあるが、体つきはか細い。どこから活力が湧くのか不思議なくらい貧相だ。
「レジィ、あわててどうしたの?」
橙の髪の少女がクロアの前で止まる。深呼吸をしたのち、クロアに笑顔を見せる。
「お迎えに来たんです。朱色の獣を担ぐ赤銅色の髪の人と、飛馬を引く空色の髪の人が町の外にいると聞いたものだから」
「そう、出迎えてくれてありがとう」
レジィはダムトと同じ役職にある従者だ。ただし得意分野が異なる。彼女は傷を癒す療術使いである。戦闘には不向きなために今回は置いてけぼりをくった。
「おケガはありませんか? あの、魔獣のほうも」
「わたしたちは無傷よ。でも魔獣は検分していないの。屋敷に着いたら看てあげましょ」
はい、とレジィが元気な返事をする。
「荷台にその魔獣をのせませんか?」
「荷台を用意してくれたの?」
「そうなんです。クロアさまが徒歩で帰ってこられているから、きっと飛馬は使えない状態なんだろう、って話になって。ここからは魔獣の運搬をほかの者に任せてください。屋敷には飛馬に乗ってもどりましょう。クノードさまは飛馬の使用許可を出しています」
この町では空を飛べる獣の使用には制限がある。基本的に領主の許可がないときは普通の牛馬と同様、町中では地べたを移動させねばならない。その規則は領主一家にも適用される。この徹底ぶりは外敵への対処方法にとぼしい町における自衛策でもあった。もしこの規則がなかったら、ならず者たちが大量に飛獣を町の上空に飛ばせてもよいことになる。それだけですめばよいが、その際に町への攻撃を仕掛けようものなら、町には甚大な被害が出る。人為的な空からの奇襲を未然に回避するための規則だ。
ただし今回は飛来した魔獣の討伐のためにクロアが飛馬を駆りだした。そのことは周知されている。帰還のおりに飛馬を飛ばす状況は予想しうること。わざわざ帰りの使用許可を出さずとも兵士らは見逃しそうだが、そこを丁寧に配慮してくれた父の厚意にクロアはうれしくなる。
「わかったわ。お父さまの指示に従います」
クロアがレジィと話すうちに、荷台を引く馬が到着していた。馬の進行方向が町中へ向きなおるのをクロアが待ったあと、荷台に獣を載せた。そのあとは馬を引く者たちが対処する。網で巻いた獣がずり落ちないよう、縄で固定していった。ダムトが「帰りましょう」とクロアに飛馬の騎乗をすすめる。
「レジィと二人で行けますか?」
「あら、あなたはいいの?」
「魔獣の監視が必要でしょう。俺は荷台についていきます」
たしかに魔獣のそばには強者を付けさせておくべきだとクロアは思った。もし魔獣が輸送中に起きた場合、ダムト以外の兵士では対応しきれず、また逃がす可能性が高い。
「そうね……レジィ、さきに乗ってくれる?」
クロアは少女の従者に同乗を勧めた。レジィが飛馬に乗り、その後ろにクロアがまたがる。二人が騎乗するとダムトは飛馬の頬をなでて「屋敷までたのむ」と言った。飛馬はゆっくり上昇する。外壁を超える高度に上がると、まっすぐ屋敷へ飛んだ。その速度は魔獣を追いかけたときとは段違いに遅く、のんびりしていた。
3
クロアは飛馬のおもむくままに行かせた。クロア自身は飛馬を操縦した経験があまりなく、いつもはダムトが付き添う。信頼する保護者がいないいまでは空中散歩をたのしむ余裕はなかった。しかしここでビビっては同乗するレジィに不安をいだかせてしまう。それゆえ、平常をよそおって「この景色を見ておきなさい。いつもは見られないからね」ともっともらしく語った。
飛馬は屋敷の厩舎のあたりで着地した。この場にいない乗り手が出した命令に忠実に沿ったのだ。クロアとレジィが下馬するのを厩舎担当の官吏が手伝う。地に降りたクロアは官吏に
「ダムトがくるまでこの子の荷物はこのままにして」
と言い置いた。この飛馬には魔獣捕縛用の道具が胴体の左右にくくりつけられてある。ダムトが用意した荷だ。他人が勝手にいじってはいけないとクロアは思った。飛馬自体はこの屋敷の所有物であり、けっしてダムトの私物ではないのだが、クロアの言葉に異を唱える者はいなかった。
クロアが屋敷へ入ろうとするとレジィが「クノードさまに会いにいきましょう」と言ってきた。それは優先事項だとクロアは思う。公女にも主君に成果を報告する義務があるのだ。
「どこにいらっしゃるのかしら?」
「射場におられるとか」
「そう、では報告しに行ってくるわ。あなたは魔獣が到着したらわたしに教えてくれる?」
「はい、じゃあ外にいますね」
クロアとレジィは別行動をはじめた。クロアは父のいる射場へ向かう。射場は弓術の訓練をする場所だ。クロアにはあまり縁がない。弓が弾けないわけではないが、性格と体型的に不向きだ。大ざっぱな性格ゆえに正確に的を射る技術はなかなか身に付かず、また、弦を引き絞る際に胸が邪魔になった。クロアの胸は母譲りの豊かさをもつ。
(胸と髪の色はお母さまに似たわ)
クロアは胸当てに防護された自身の胸を下から支えた。自分には不要だと思う、豊満な肉体だ。母も似たような色気のある体つきである。そのためか母は無意識にいろんな異性をとりこにしがちだ。しかしなぜだかクロアのほうはそうでもない。ただ無駄に胸が出ているだけだ。
クロアは自身の色香が足りないことをダムトになじられることがあった。クロアはその言い分に腹が立ったが、ダムトにはそう感じるだけの理由がある。彼の感性は独特だ。ダムトはクロアの母の蠱惑的な姿態に微塵も興味を示さない。多くの男性がまどわされる母の魅力を、ダムトは跳ねのけているのだ。そのように領主一家の女人を異性として見ない男性だからこそ、彼はいまなお従者でいられる。信頼のおける仲間を欲するクロアにとって、けっしてわるいことではない。彼は大事な戦友だ。
(お母さまは武器をふるうことがないからいいけれど、わたしには邪魔よ)
戦闘において、大きな胸が有利になる場面はない。扱える武器は制限されるし、攻撃をかわす際は余分に体をうごかさねばならない。術士に転向したなら激しい動作は抑えられるだろうが、クロアは術が不得意だ。
(術がヘタクソなのはお父さまに似たんだわ)
父は術が不得手な反面、弓馬を得意とする。父からは唯一、武才を受け継いだのだとクロアは自身を納得させていた。
クロアは屋内に設けた射場に着いた。現在は十数名の弓手が鍛錬を行なっている。皆が一様に地味な胸当てを装備する中、一人だけが色の異なる武具を身に着けていた。白銀の防具とそれに合わせた白塗りの弓。白い武具の中年は弦を引きしぼる。彼の横顔は真剣そのもの、視線はすでに数間先の的を射抜く。矢は視線と同じ軌跡を描き、円盤の中央に刺さる。射手は深く息を吐き、弓を下ろす。茶色の髭をたくわえた顔がクロアに向けられる。
「よく無事で。クロアが魔獣討伐に行っていると思うと、落ち着かなかった」
「ご心配をおかけいたしました。このとおり、大事なく帰還できましたわ」
「赤い石は破壊できたかな?」
「はい。残骸はダムトが回収しました。あとで届けさせます」
「彼はクロアと一緒にもどらなかった、と」
「いまは捕えた魔獣の運搬に付き添っています」
「そうか。ところでその魔獣を、どうする気でいる?」
「わたしの仲間にしたいと考えております」
中年の顔に緊張の色が見えた。その反応は正しい。人が魔獣を友とするとき、かならず魔獣と意志疎通がはかれる状態でなくてはいけない。それはつまり、覚醒した魔獣がクロアに危害を加えられる状況でもある。その危険な可能性を、父は案じている。石が破壊されても魔獣そのものの性格が凶暴でない保証はないのだ。
父娘の会話途中、射場に少女が駆けこんでくる。それがレジィだとわかったクロアは「魔獣が着いたの?」とたずねた。少女は「もうすぐです!」と元気よく答える。
「外へ出ませんか?」
「ええ、行かなくちゃね。魔獣を荷台から下ろす人手がいるでしょうし」
クロアは退室のまえに礼儀として父に一礼する。彼は「待ってくれ」と娘を引き止める。
「私にも会わせてほしい。町を荒らした者の顔は見ておきたい」
クロアは父の申し出を快諾した。どのみち父に魔獣を見せるつもりはあったので、断る理由がなかった。
中年は弓矢を保持したまま射場を離れる。訓練中の者たちは手を止め、中年に一礼した。
4
屋敷内の門の下を荷台が通過する。荷を引く馬が進行を止めないうちからクロアは荷台に駆けよった。朱色の魔獣は荷台に縛りつけられてある。ねむっているかのようにおとなしいが、その口元はモソモソうごいていた。起きているのか、夢の中でなにかを食べているのか。クロアはその判断ができそうなダムトをあおぐ。
「この魔獣、寝てるの?」
「そのフリをしているようです」
ダムトがそう言ったとたん、馬と荷台の見張りをしていた兵士たちがどよめいた。馬を誘導していた者まで慌てだすので、馬はその場に停止した。
クロアはビビる兵たちを一瞥した。だが彼らの軟弱な対応を責める気はない。やはり魔獣はおそろしいもの。その畏怖の対象を従わせようとする行為は危険なのだと、クロアはひそかに自戒する。
「ふーん、起きてるのね」
その感想は強がりでもなんでもなかった。すでに目覚めているのなら本題に入れる、とクロアは判断する。
「荷台はここで止めていいわ。さきにこの魔獣と話をつけるから」
魔獣の輸送にたずさわった者はダムト以外、荷台から距離を置いた。反対にクロアとともに魔獣を出迎えにきた領主と少女はクロアのそばに寄った。
クロアは強制的にうつ伏せになる獣を見下ろした。伏せる獣は咀嚼するかのように口をうごかす。
「空より来たるもの、大地から涌き出るもの、生命の根源となるもの……」
獣は呪文めいた言葉をつぶやき、まぶたを開いた。眼孔がクロアに向かう。
「わかるか? 魔障の娘よ」
呪文はクロアへの問いかけだったらしい。だがこの質問には中年が反応を見せる。
「私の子を『魔障』と呼ぶな。四分の一、魔族の血が入っているだけだ」
温厚な父がめずらしく刺々しい物言いをする。静かな怒りには娘への庇護の情があった。失言をもらした朱色の獣はふんと鼻をならす。
「
「お前の処遇は娘のクロアに任せる。だが無礼が過ぎればただでは済まぬと心得なさい」
「了解した。ではクロア、我になにを所望する?」
獣は物憂げな瞳をクロアに向けつづけた。敵意は感じられない。その瞳に宿すものは疲労や怠惰の念だった。
「わたしの招獣になってちょうだい。見返りに快適な住まいを提供してさしあげますわ」
招獣とは人と協力関係にある魔獣を指す。魔獣を招獣とする技術を、招術といった。クロアがこの魔獣を仲間にする、と言うのは魔獣を招獣として使役することを意味した。
招獣は人の呼びかけに応じて、瞬時に招術士のもとへ招喚される。この術を利用すれば、領内の防衛力不足になやむクロアにはちょうど良い戦力が確保できる。おまけにこの朱色の魔獣は飛行能力がある。その背中に人が乗れるのなら、飛獣としても重宝するだろう。それゆえクロアは是が非でも捕縛中の魔獣が欲しいと思った。
「我が心は山野に有り。人中での
魔獣は大自然の中ですごしたいらしい。クロアは条件を譲歩する。
「では呼出しに応じてくれるだけいいですわ。それ以外のときは山でぶらぶらしていてかまいません。招術を使えば一瞬でわたしのもとに移動できますもの」
「ならば良し。盟約を交わそう」
獣が太い前足をうごかした。その足は荷台の縄の拘束は受けていないが、ダムトの網のせいで自由に可動できない状態でいる。
「この足に己が手で触れ、精気を流せ」
魔獣を招獣とする際は相互に精気を渡しあうという。そのやり方を魔獣本人から教わるとは、クロアは心外だった。クロアの考えていた予定ではダムトかレジィに聞きながらやろうかとしていた。
「そうだったわね。できるかしら……」
クロアは以前、招獣を持っていたことがある。しかし忘却力の強いクロアは、当時のやり取りの大部分をわすれてしまった。とどこおりなく招術を使う自信はなかった。
クロアは毛むくじゃらな魔獣の足を一本、両手で包んだ。深呼吸を繰り返し、集中する。ふさふさした毛皮の温かさと共に、別の感覚が手中に集まる。それがクロアの精気。この精気を獣の足へ押しこむよう想像すると、別種の力が自身の指先から手首へと伝わってきた。これは魔獣が招獣となることを受け入れた合図だ。外部からくる力は手首にとどまる。その堰を外し、腕から肩へと流した。同時に自分からの力の注入は継続する。二方向の精気の行き来が判然としなくなってくると、獣の前足が上下にうごく。
「盟約は成った。次は我が名を定めるべし」
「ご自分の名前は持っていらして?」
「若き招術士が授けた名はある。『ベニトラ』……それが唯一の我が名」
「ではわたしもそうお呼びしますわ。よろしいかしら」
「可もなく不可もなし」
ベニトラと名乗る魔獣は体を縮めた。体積が小さくなり、子猫のような大きさと顔になる。縮小したベニトラは縄と網の間をすり抜ける。
「今後、魔獣を捕えるときは術が使えなくなる道具を用いよ」
尊大な助言とは裏腹に、弱々しい幼獣がクロアの足元にすり寄る。そのしぐさに、クロアは庇護欲をかきたてられた。内面は老爺のようだが現在の姿は子猫。クロアは子猫に変じた獣の両脇を持ち上げ、父に見せる。
「ふふ、あたらしい仲間ができましたわ」
「強い招獣がほしい、とよく言っていたからね。これでその獣はクロアの友だ」
クロアの手の中で幼獣は体を増長させた。おどろいたクロアは獣を取り落としそうになる。だが獣の肥大化した胴体は再度、両手におさまった。体の大きさは成猫と同じくらい。顔つきには幼さが残っていた。
5
クロアは自室にもどり、武装を解こうとした。その際に抱いていた猫を寝台のふちにのせる。猫は脱力した状態で、ふかふかな布団に腹這いになった。その様子を見たレジィが「あ、いいんですか?」と申し訳なさそうに言う。
「お布団のうえは清潔になさったほうが……」
「この子、よごれてる?」
この子、とは体を小さく変じたベニトラのことだ。よごれらしいよごれは見当たらず、クロアはこの生き物を清いものとして見ていた。
「いえ……ずっと外で生活をしてた子ですし、一回は体を洗ったらいいかな、と」
「うーん、きれいにしておいて損はないわね」
これから母にも見せるのだから、とクロアは思った。現在、クロアの母はこの国の中心都市へ出かけている。母の帰りは今日の夕方前後。クロアとその父はもともと、本日の職務を終えたあとに居室で母を待つ予定でいた。いまのところ、母の到着の報せは入っていない。
「お母さまが帰ってくるまで、時間はありそうね」
「お風呂に入れさせます?」
「そうしましょう。ベニトラ、お湯は平気?」
朱色の猫はこっくり頭を上下にうごかした。
クロアはまず武具を外してかかる。身軽になったのちにレジィとともに風呂場へ行った。そこはクロアの家族が自由にいつでも使用できる場所だ。浴槽の広さは成人が二人ばかし入れるほど。貴人の屋敷の浴場にしてはこじんまりとした規模かもしれない。この領地の財力をもってすれば大浴場を領主一家の風呂場にすることも可能だが、広さよりもむしろ手軽に入浴できる利便性のほうをクロアやクノードは好んでいる。水道からは常にお湯が出せる仕組みになっていて、入浴準備に時間がかからないのだ。
浴槽内には入浴者の足場となる段差がある。その段差を超えない程度にお湯を入れる。すくなめの湯の中にベニトラを漬けた。ベニトラは浴槽内の段差にあごをのせ、目をつむる。四肢の太い猫は無抵抗をつらぬくようだ。クロアは安心してレジィに入浴介助をたのんだ。
ベニトラの湯あみが完了した。クロアは洗われたベニトラを抱いて屋敷の居室に集合する。居室はクロアの家族が食事をとったり歓談したりする憩いの場だ。まだクロアの父母はいない。だがダムトは在席している。彼は室内の清掃に取りかかっていた。
ダムトはクロアと別行動している間、荷台の片付けや飛馬にあずけた荷物の回収などをしていた。それが終わると今度は下男の仕事をこなしている。これは彼の普段の職務のうちだ。クロアはとくに気にせず、椅子に座った。
クロアは自身の膝にベニトラをのせた。ベニトラは幼獣に変化した以降、ずっとクロアに身を任せている。その無防備さやしぐさは飼い猫となんら変わりない。
「かわいい猫ちゃんですよね~」
レジィが朱色の猫の頭をしきりになでる。彼女はすでにこの獣を一家の一員と認め、かわいがっているのだ。
「この子、ヤギのお乳は飲めるんでしょうか?」
「水で充分よ。自在に変化できるほどの強力な魔獣には飲食が必要ないというもの」
「でも、病み上がりでしょう?」
意外なことにレジィが食い下がる。慈愛の心が人一倍強い者には通説など関係ないようだ。
「なにか栄養になる食べ物をあげてはどうでしょうか」
「うーん、そう言われてみると……精のつくものをあげたらいいわね」
この獣は見るからに疲労困憊している。最良の状態を早期にとりもどせる方法があるのなら、それを実行するべきだ。招獣をいたわることは招術士の役目でもある。それに、自身の片腕たる従者には気分よくすごしてほしいとクロアは思う。クロアとレジィの意思が合致することは積極的にやっていきたい。
「招獣の場合、体力よりも精気の回復を優先させるといいんだったかしら?」
「はい。精気がもどれば体力も、ケガをしたところも早くよくなるそうです」
ベニトラには目立った外傷がない。だが赤い石が埋め込まれていた首元には円形のハゲができている。現在小型化したおかげでハゲの面積も小さくはなったが、やはり気にはなる。抜けた毛が生えそろう時間にも、きっと精気の多寡が関係するだろう。
「失った精気を回復するものといったら、なにかしら?」
「術酒……はお酒だからちょっとあぶないですね」
レジィは猫をめでつつ招獣向きの食事を思案する。
「あ、聖都の清水がありますね。子どもも飲める精気回復薬なんですよ」
「いいわね。もらってきてちょうだい」
レジィは小躍りしながら退室した。その態度を察するに、ベニトラの面倒を看たくてたまらないようだ。クロアはこの反応が彼女らしいと感じた。
レジィの性格は世話好きだ。そうなったきっかけは彼女に年下の兄弟がたくさんいること。レジィはクロアより年少でいながら、弟らの世話をこなす姉でもある。愛情豊かな少女は目下の子どもや小動物を見るとほうっておけなくなるらしい。
そしてなにより、いまのベニトラは愛嬌たっぷりな姿でいる。普通の猫とはちがい、体が骨太だが、その特徴には並みの猫にないかわいげがある。
(ダムトも「かわいい」と思ってるのかしら?)
クロアはもう片方の側近を見た。彼は雑務中で、長机に茶器を並べている。
「フュリヤ様は聖都からおもどりになったそうです」
ダムトが言葉を発した。彼はもうじきこの部屋にあらわれる当主とその夫人を待っている。
「もうお見えになってよい頃合いですが……」
彼の思考には新参の招獣がいない。クロアは彼の反応に素っ気なさを感じた。だが彼がかわいいものに興味のない仕事人間であることはクロアも知っている。いまさらその性情をつつく気になれず、ダムトに話を合わせる。
「みんなにお土産を配っているのかしら」
母フュリヤは遠出のおりに、家族だけでなく官吏にも土産を買ってくることがある。アンペレが擁する官吏はざっと千人を超える。大人数に配布できる土産となると、たいていはお菓子だ。母は官吏の数の倍ほどの菓子を購入しているはずだが、全員に行き渡ることはまずないらしい。母が土産を持ってきた日にたまたま出勤していた者はもらえる、というざっくりした配布だとか。
「お母さまったらマメよね」
「はい、繊細なお方です。それなのに──」
ダムトがじっとクロアの顔を見る。
「どうして娘はガサツで荒々しくなったのでしょう」
彼は無表情のまま女主人にケチをつけた。クロアはぷいっと顔をそむける。
「こんな性格でないと、魔物や悪党を叩き伏せられないでしょ」
クロアは従者の罵詈をはね返した。ダムトはアンペレ家に仕えて以来、身内には口のわるさを隠そうとしない。特にクロアに対しては顕著だ。彼の刺々しい指導のもと、クロアは悪口にへこたれない図太い精神に育った。
「ああ、きっとダムトのせいね」
クロアは負けじと嫌味に対抗する。
「あなたと言い合ううちにわたしの心も薄汚れたのだわ」
「俺の責任ですか。ご自身の生来の気質ではないとおっしゃるのですね」
「そうよ。わたしの幼いころにダムトがいなければ、もっと上品な公女になれたはずだわ」
クロアの記憶はさだかでないが、ダムトが屋敷に来た時期はクロアが五歳前後のころ。そのときから彼は勤続しつづけ、優に十年は経過している。勤めはじめは二十代の青年で、現在もその見た目のままという、彼もまた人ならざる血を引く者だ。ただし本人は素性を一切もらさない。
「俺がいなくても変わらなかったと思いますがねー」
「どうだか。あなた以上に口のよくない者はこの屋敷にいなくってよ」
会話は平行線をたどる。クロアは話を打ち切り、膝の上で丸くなる獣の横腹をわしわしとなでた。
6
ベニトラ用の飲み水を取りにいったレジィはまだもどらない。クロアはダムトと話していてもまた口喧嘩に発展しそうだと思い、自身の膝でくつろぐ朱色の猫に意識を向ける。この獣はさきほど「人里には住めない」とクロアに告げた。孤高な生き物のような宣言だ。しかし実際の態度はとてもお高くとまった感じには見えない。ベニトラは人に触られることをこばまないのだ。
(いやがる気力が出ないほど、よわっているの?)
捕縛された魔獣の瞳は疲れきっていた。クロアが猫の顔をのぞくと、やはり目をつむっている。
「よくねむる子ね……」
「本調子ではないのでしょう」
ダムトがクロアの話にのってきた。主題が魔獣であればクロアへの精神攻撃はしようがないだろうとクロアは思い、会話を発展させる。
「思いきりあばれて、つかれたのかしら?」
「そう、でしょうね。まったく、迷惑な研究者がいたものですね」
魔獣を攻撃的な性格に変え、各地に放逐した犯人がいる。その目的は不明だ。はっきりわかることは、そのせいで魔獣による被害が続出していることだけ。
「うわさによると、近辺に出没する盗賊団も石付きの魔獣を囲っているとか」
ダムトがクロアの初耳な情報を提示してきた。クロアはいくつか問いただしたい事項が湧き、まずは根本的な疑念を解消しにかかる。
「まだ盗賊の集団なんているの?」
この土地はもともと賊に好都合な条件がそろっていた。アンペレの町ではさまざまな物品が作られる。それらの製作物の多くは商品として隣国へ輸出される。アンペレからもっとも近い都市は商売がさかんな場所だ。そこで商品と金銭が行き交う。職人と商人の間で取引される金品を、賊がねらうのだ。そういった事件は過去に数えきれないほど発生しているという。だが隣国は戦士をとうとぶ国風がある。賊をこらしめる戦力は持っているし、現に近ごろ賊を討伐した話はクロアの耳に届いている。
「剣王国の王子が壊滅させたんでしょ?」
「ねぐらのひとつやふたつを潰した程度でしょう。それだけで盗人はいなくなりませんよ」
「なによそれ、またあたらしい盗賊団ができたの?」
「たしかなことはわかりませんが……そうなってもおかしくはないですね。かの勇猛な王子は剣王国内の不届き者を倒せても、この聖王国にはやすやすと乗りこめません。国境の自治を任されるクノード様か、さらに上位の聖王ゴドウィン様の許可が必要になりますからね」
「つまり、この国へ逃げてきた賊がいると言いたいの?」
「はい。危険な場所から逃れてきた者が、より安全な土地に拠点を設けることは自然のなりゆきかと」
クロアは悪党の群れが再結成したらしい事実に眉をひそめる。
「盗賊のなにがいいんだか!」
「と、言いますと?」
「そういう人たちって、山の中で風呂にも入らずに人をおそって生きるんでしょ? やだわ、そんなの。町の中で仕事して、体をきれいにしてすごすほうがいいじゃない。おいしい料理だってあるんだもの」
「では人を痛めつけることが好きで、粗食で満足できて、仕事と風呂が嫌いな連中が賊になる、ということで納得していただけますか」
クロアが挙げた盗賊暮らしの難点をダムトがすべて言い換えてしまった。そう言われてしまうとそんな人間もいるのだろう、とクロアはなんだか得心する。
賊の向き不向きはクロアにはどうでもよい雑談だ。次なる疑問にいく。
「その連中が連れている魔獣は、このベニトラではないのね?」
「ええ、そのような朱色の獣ではないそうです」
「そう……気になるわね」
石付きの魔獣に関するダムトの話を信じると、その魔獣も現在苦しい状況にあるはず。同様の魔獣を友としたクロアには他人事に思えない。
「それが本当なら助けてあげたいけれど……」
「そのまえに盗賊をどうにかせねばなりませんね」
賊をどうにかする、とはクロアの中で打倒することとつながる。
「討伐しちゃおうかしら」
「簡単に言ってくれますね。いつも兵力不足をなげいているというのに」
「いいじゃない、強い招獣が味方になったんだもの。わたしひとりでもやっつけにいけそうよ」
「またそんなムチャを……」
部屋の戸が叩かれる。クロアの計画はここで一時頓挫した。
クロアの父であるクノードが入室する。その後ろにレジィがおり、彼女は底の高さのある皿を持ってきた。その皿にそそいだ水がベニトラの栄養剤だ。レジィは深皿を床に置く。
「おいしいお水ですよ~」
彼女はクロアの膝にいる猫に笑顔で話しかけた。その顔にはレジィが幼い子どもと接するときと似た慈しみがある。彼女にとってこの獣は愛すべき対象と化しているらしい。
クロアはベニトラを皿のそばに下ろした。ベニトラは鼻づらを水につっこみ、音を立てて水を舌ですくいとる。その様子を見たレジィが「かわいぃ~」と身悶えした。上座に着いたクノードが臣下の無邪気さに苦笑する。
「見た目がかわいらしくとも魔獣だ。そのことを忘れてはいけないよ」
レジィは「はい……」と気落ちした。彼女も招獣を持つ術士ゆえに、招獣の危険性は学んでいる。術士と招獣はあくまで対等な関係だ。招獣側に不服があったなら、いつでも術士に逆らえる。それゆえ、仲間だからと無防備に接することは推奨できなかった。
クロアは従者へのなぐさめとばかりにひとつ提案する。
「わたしと一緒にいるときは、その子をぞんぶんにかわいがっていいわ」
レジィは表情をぱっと明るくした。クロアはほほえみ返す。
「わたしがくだした相手なんですもの、ふたたび牙をむいた時はわたしが責任をもって成敗します。……ね、お父さま」
クノードは力強くうなずいた。父は娘の力量を熟知しているし、なにより招術士は招獣の力に制限をかけることができる。招術を理解し、招獣の変化を見抜ける者であれば、みずからの招獣に倒されることはまずない。
「もしその招獣に反逆の意思が見えたときは力を抑制しなさい。招術士にはできるはずだ」
「はい、心得ました」
と、クロアは即答したものの、実際どうやればいいのかはよくわかっていなかった。これはあとで人に聞けばよい、と楽観した。
ベニトラはクロアたちの会話に意を介さず、水をなめ干す。
「我が望みは果たされた」
言うやいなや、こてんとその場に寝ころぶ。クロアは「のぞみ?」と首をかしげた。この獣が「なにかをしてほしい」と言ったおぼえはないのだが。
「あ、そういえば……この子が出したなぞかけ……」
レジィはベニトラの発言に思い当たるふしがあったらしい。クノードがうなずく。
「水が欲しい、ということだったのかね」
レジィの発想を受けたクノードが推測する。
「空からは雨が降ってくる。地面から湧水が出る。水は草木を育て、人や動物の生活にも欠かせない」
父の解説のおかげで、クロアはなぞなぞを出されていたことを思い出し、その意味を理解できた。まわりくどい表現をする招獣に、めんどくささをおぼえる。
「それならそうとはっきり言えばよろしいのに」
クロアは人の話を聞いているのかわからない猫に言う。
「レジィが気を利かせなかったら、だれも水をあげませんでしたわ」
「素直じゃないんだろう」
クノードが娘の援護をする。言われっぱなしの獣はそしらぬ顔で昼寝をつづけた。その頭をレジィがなでる。
「不器用な子なんですね~」
レジィはひとしきり猫を愛撫すると、空になった皿を片付けにいった。クロアは小さな獣をあやまって踏まぬよう、ふたたび自身の膝に乗せる。獣はつねに無抵抗だ。
クロアはいたずら心から、ベニトラの長い尾をつまんだ。ぷらぷら振ってみる。朱色の獣はうっすら目を開けた。だが、なされるがままにねむる。
「おとなしい子……本当に町を荒らしたやつなのかしら?」
「本当はのんびり屋なのかもしれないね」
獣への警戒心を持ちつづけていたクノードが態度をやわらげる。彼も徐々にベニトラのことを受け入れているようだ。
みなが新参の獣に慣れてきたとき、戸を叩かれた。何者かの入室を知らせる音だった。
7
居室に二人の女性が現れた。レジィと貴婦人。この婦人がアンペレ公夫人のフュリヤだ。外見年齢はクロアのすこし上といったところ。母は父に嫁いだときから容貌が変わらないそうだ。その若々しさの原因は彼女が受け継ぐ魔障の血にある。フュリヤは父親が人でない者だった。そんな片親と人間の親をもつ子は半魔とよばれ、その多くは不老長寿だという。
フュリヤはいつも顔以外の肌を一切見せぬ衣装を纏っている。外出の際は顔さえも薄絹で覆い隠した。過剰なまでに露出を抑えるには理由がある。夫以外の異性を色気で惑わせないためだ。彼女自身は普通に過ごしていても、美貌と魅惑的な肉体に心を乱される男性が出るのだ。この特性も、フュリヤの父親が関係するらしいとクロアは聞いている。
フュリヤは帰宅の挨拶をし、夫の近くの席に座った。手には菓子箱がある。
「これは聖都で流行りのお菓子なんですって。お食べになります?」
「みなで食べよう。レジィも座って食べなさい」
「ご相伴にあずかります」
レジィはクロアの隣りに座った。お茶会に参加する従者がいる一方で、ダムトは当主と夫人に茶を配る。彼と同格なレジィはお茶くみ係をダムトに一任した。
少女従者はクロアの膝にいる獣をなでる。フュリヤがレジィの行動を見ると、見慣れぬ生き物がいることに気付く。
「まあ、その猫はどこで見つけたの?」
「町の上を飛んでいましたの」
フュリヤはきょとんとする。どうもクロアが普通の捨て猫を拾ってきたものだと考えていたらしい。
「猫が空を飛ぶ……?」
「それを飛馬で追いかけて、捕まえましたわ」
フュリヤはクロアの猫が普通の動物ではないと理解し、
「では住民の苦情が出ていた、魔獣?」
とたずねた。クロアはうなずく。
「はい、石付きの魔獣でした」
クロアはベニトラの両脇を抱え上げた。指の先で、赤い石が付着していた痕跡を示す。
「ここの毛のハゲた部分に赤い石がくっついていましたの」
フュリヤは猫の喉元にある小さな円形脱毛の部位を見た。すると憐れみの表情を浮かべる。
「かわいそうに。毛が生えそろうのにどれくらい時間がかかるのかしら」
「ゆっくり休ませればそのうち元通りになりますわ」
「そう……でも、そのままでいいの? 布でも巻いたら……」
「この子は体の大きさを自由に変えますから、普通の布はまずいですわね。首が絞まってしまいます」
ダムトがクロアの茶を注ぎはじめた。同時に「招獣の専門店に行かれてはどうです」と提案する。
「招獣の変身に合わせて伸びちぢみする首輪があると聞きます」
「あら、便利なものがあるのね」
「いまのベニトラは野生の魔獣と見分けがつきませんし、招獣だという証明も兼ねて、購入を検討されてはいかがです?」
「いいわね。明日、店の者を屋敷によべるかしら……」
クロアは周囲の教育方針のもと、外出をする機会がすくない。着る服を選んだり髪の毛を切ったりするにしても、外部からそれ専門の人をまねく。屋敷内で日常のすべてをすませるのだ。ただし演劇鑑賞や領内の祭りの見物などは別だ。実施できる場所が限定される催し物に参加する場合、外出の許可がおりた。
「出かけたらいい」
クロアは耳をうたがった。発言者の男性の顔を見る。父は慈愛に満ちた視線を娘にそそぐ。
「招獣の専門店にはきっとクロアのいい刺激になるものがある。じかに見てきてもかまわない」
「よろしいんですの? わたし、私用な外出は……」
「ああ、いいとも」
クロアは喜色満面になり、クロアの分の茶をそそぎおえた従者の腕をつかむ。
「よーし、明日はお出かけよ!」
ダムトはなぜか首をひねる。
「ええ、それで満足されるのでしたら……」
「なあに? もったいぶった言い方ね」
クロアはダムトの腕を放した。彼はレジィの茶を用意しはじめる。ダムトは会話を続ける気がない、と見たクロアはさきほどの上機嫌が吹っ飛ぶ。
「言いたいことがあるんなら言いなさい」
「この場では言いにくいことかと」
「お父さまやお母さまに隠し立てすることが、わたしにあると言うの?」
クロアが詰問した。ダムトは下男の務めを中断すると、クロアを正視する。
「……盗賊討伐はいかがします?」
クロアがすっかり失念していた話題だ。その計画も早期に取りかかりたい事柄である。
「その件は情報収集が先決ね」
その役目を担う人物はこの男性従者だ。クロアは言外の前提をもって話をすすめる。
「住処や団員数や所有する兵器諸々、調べてちょうだい」
「承りました」
クノードが「盗賊討伐?」といぶかしむ。優しげな顔にかげりがのぼりはじめた。
「まさか、またクロアが危険なことに首をつっこむつもりじゃないだろうね?」
「ダムトが一緒ですし、いまはベニトラもいます。ご安心なさって」
クロアは本気でそう思っていた。だが父の表情は和らがない。
「今日の魔獣退治は相手が一体だから送り出せたが、敵が複数となると話はちがってくる状況によっては、飛獣に乗って逃げることができないかもしれない」
「その危険はわかっております。それゆえ斥候を出して、敵勢を把握するのですわ」
「私の指示なしで、か?」
途端に張りつめた空気が形成される。ダムトがレジィの茶を注ぐ音が部屋に響いた。
「クロアが民衆のためを思って努力していることはわかっている。だが勝手な判断はいけない。斥候を偵察に向かわせることさえ、私にうかがいを立てるべきなんだ」
「私に割り当てた従者への命令は好きにしてよい、とおっしゃったのに?」
「たしかにダムトとレジィへの指示内容はクロアの自由だ。だけど条件を言っただろう? 危険だとわかっていることをさせないこと、無理難題を押しつけないこと……それと、私の意思に反する命令はしないこと」
おもに三つめの条件に抵触する、とクノードは言いたげだ。しかしクロアはそこをひっくり返す。
「盗賊が討たれれば人々はよろこびます。そのよろこびがお父さまの望みではないと言うの?」
領民の幸福こそが領主の幸福。これは為政者がすべからく抱くべき仁愛の心だ。仁政をほどこす父には的確な反論だとクロアは思った。
「結果はいい。私が不満なのはその過程だ」
しかしクノードは堪えていない。
「私の後継者を危険にさらすわけにはいかない。せめて多くの手練れがそろわなければ、心許ないんだ」
「そうはおっしゃるけれど、このアンペレにわたしを凌ぐ強者がおりますか? 新兵の募集をかけたって満足のいく人員が集まらない町ですのに」
それが工都と謳われるアンペレの最大の欠点だ。職人を目指しに訪れる者はいても、武人になろうとする者は内外問わずすくない。だからこそ、父の認可が下りる条件は実質不可能だと言ってよい。
クノードは憮然とした面持ちになる。
「……討伐に向けて募集をかけなさい。それで人が来なければ諦めるんだ」
「そんな、受け身のままでは盗賊に好き勝手されるだけですわ」
「大きな被害があったときは聖都から援軍を要請できる」
それは最大の後ろ盾だ。この町が自衛力にとぼしくても存続できる理由である。
「クロアが危ない思いをする必要はない。わかったね、この話はおしまいだ」
クノードは次にフュリヤに話題を振る。聖都の学校で学ぶ、クロアの妹と弟のことを尋ねた。今回のフュリヤの外出目的はクロアと歳の離れた幼い家族に会うこと。その話をするつもりでクロアたちが居室に集合したのだ。
クロアは父の言い付けを承服しかねた。それゆえ両親の話に加わらず、ただ茶と甘い菓子をほおばった。
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