ボクと明智光秀
備成幸
ボクと明智光秀
起きたら時計の針は、昼の一時十五分を指していた。湿気た布団に、窓から明かりが染み込んでいる。外は静かで、土鳩が一羽どこかで鳴いている。そして遠くから聞こえるチリ紙交換、そんな日だった。
昼を回っているけど、歯磨きぐらいはやっておかないと、残り半分の一日を浪費したような気持ちになる。歯磨き粉を買い足すのを忘れていた。ローラーで潰されたチューブをさらに圧縮し、どうにか一回分捻り出す。人が五時間前にやってたことを、俺は今やっている。
「明智光秀って」
シュールだと思った。どうしてまた俺は「明智光秀」と言ったのか、よくわからなかった。まだ下顎の歯も磨いてないのに。脣から、歯磨き粉で白くなった唾液が垂れた。
近頃、明智光秀のことが無性に気になっている。といっても俺は研究者じゃないし、特別その時代が好きなわけでもない。それでも最近、やることがないとなんとなく『明智光秀』と検索して記事を漁り、織田信長が出てくるドラマや映画を観ると「後ろに座っているこの男が、光秀役なんだろうか」と思ったりしている。
先述のことと少し矛盾するかもしれないが、俺は光秀が好きだ。しかし戦国に興味が無い、というのは、歴史的背景や情緒でなく、明智光秀という人が好きだからに他ならない。でも何が好きなの?
名前がカッコいい、とは思っている。苗字が「明智」というだけでも知性的で聡明な印象を受けるし、名前が「光秀」というのも、日本刀のシュラっとしたイメージでカッコいい。でも名前だけでここまで執着しているわけじゃないのは、俺が一番よく知っている。
そうだな、鉄砲の名手だったというのはあるかもしれない。戦国時代といえば、顎髭胸毛ボーボーのおっさんがぶっとい刀を持って「出撃じゃわりゃあ」と安い兜をかぶって飛び出し、戦場で石を投げたり馬で駆けたりするイメージを持っている。しかし光秀はそういう男を冷静に残酷に見つめて、引き金を引いて仕留める。クールだ。
いや、それだけなはずはない。後は……そう、本能寺の変だ。天下統一目前までせまり、第六天魔王を自称した織田信長の栄光を、光秀は一夜で消し炭にした。強大な敵に立ち向かい、謀反であってもそれを成し遂げる。ううん、泣かせる。
いやいや、そこじゃないだろ。俺が好きなのは。
ううん、今日はいつも以上にこの男のことが引っかかる。
近くの古本屋で行って、光秀の本を買ってこようと決心した。本屋にジャージを着ていく勇気はないので、それなりのヤツに着替えて。
そのまま道端で寝込んでしまいそうな晴空だった。じんわりと暖かくなる服、それでいてどこか涼しげ。そういや「すずしげ」ってのも武将みたいな名前だな「鈴繁」みたいな。
アスファルトやコンクリートのブロック塀を見つめながら、また考え始めた。桔梗文が染め抜かれた、水色の旗。それを翻し、彼は戦国の世で織田信長の下、各地を回った。
金ヶ崎の戦い。突如織田軍を裏切り退路を塞いだ浅井軍。流石にテンパる信長。退却を決断するにも、追い討ちを防ぐために誰かが残らなきゃいけない。それを殿という。決断したのは明智日向守光秀と、羽柴藤吉郎秀吉。三千人を率いて、見事務め上げた。実務能力の高さもさることながら、殿を決断した度胸。惚れる。
今堅田城の戦い。ついに信長を討つと決心した足利義昭。元々彼に仕えていた光秀は二択をせまられ、ついには信長につくことを決断。痺れる。
長篠の戦い。多分いて活躍したんだろう。燃える。
越前一向一揆。右に同じ。萌える。
高屋城の戦い
天王寺の戦い
信貴山城の戦い
雑賀攻め
毛利攻め
神吉城攻め
有岡城攻め
甲州征伐
山崎の戦い
……違う。俺はそういう、戦争の中に彼を見出したわけじゃない。
あ、車。
キュルルルルル。ビデオみたいなブレーキ音。
ドッ。全身に走る衝撃。
え、俺悪くないよね。だってほら、歩行者用の信号、青信号だもん。いや、あれ赤色か。ああ違う、赤いのは世界だね、信号はいつもと同じ。生真面目にそこに在る。
でもおかげで、光秀の何が好きなのか、わかった気がするよ。さっきもあげた山崎の戦いはわかるよね。中国大返しによってとんでもない速さでやってきた羽柴秀吉と、惟任日向こと明智光秀は、文字通り天下分け目の大戦に臨む。それが山崎の戦い。
両軍が激突する前、光秀は本能寺の変後によって乱れた京の治安維持活動に奔走していた。その時、秀吉がこちらに向かってくる報を、重臣の左馬之助が伝えた。
「殿、筑前殿の軍勢がこちらに向かっております」
「毛利は足止めできなかったか。ということは、俺が毛利に、味方してくれるよう頼んだ密使は殺されたということになる。弥三郎、南無……」
「そんなことより筑前はどうされます」
「軍勢がこちらに向かってるっていうのは、二つの意味がある。味方として馳せ参じてくれているか、それとも敵として俺を討ちに来るか」
「そりゃあ、戦をするときは敵か味方しかいないんですから、そうでしょう」
「俺は羽柴筑前守という男をよく知ってる。あれは野心を孕んだ怪物だ。義のために俺に味方するような奴じゃない」
「では」
「うん。急いで西側の守りを固めてくれ。でもまあ、そこまで力入れすぎなくても良いよ。完成度より、スピードを優先して欲しい」
「いいんですかそれで。西っつうと筑前殿の他に、四国攻めをやろうとしてた大坂の信孝さんや長秀さんもいるじゃないですか。あの人たちが一斉にぐあああああっと来たら……」
「信孝は若くて経験に欠けるから、参謀の長秀の言うことに従うだけで重大な決定なんかはビビッてできないし、その長秀は長秀で、大それたことを前にするとリスクを恐れて決断が鈍るタイプだから、まず大坂の連中は大丈夫。秀吉は、こっちに来るまでは多少時間がかかるだろうし、最優先事項じゃない」
「最優先事項っていいますと?」
「越前の勝家。あれは信長に忠誠誓いまくりだったから、この報聞いたら一人ででもすっ飛んでくる可能性がある。しかもただでさえ北陸全土を治めてる上杉さんとこに喧嘩ふっかけようとして大軍集めてるし、それが一斉に勝家の号令で雪崩れ込んでくると非常にヤバい。これの対応が最優先。つまり今は西より北と東を頑丈に固めて欲しいわけ」
「なるほど。じゃあ西は後で良いんですね?」
「そりゃ、何もするなってわけじゃないよ。でも人材の六割は北に裂いちゃって欲しい」
「分かりました」
「じゃあ早く行ってくれる? わかりましたーじゃなくてさ。命じられたら即行動して」
「分かりました。でも最後に聞きますけど、本当に大坂方面は適当でいいんですね?」
「早く」
「あい」
光秀は今、大量に手紙を書いていた。多方面の大名や国衆に『信長さんはこんな悪い事してたんで、私が成敗してやりました。でもそんな私を誤解して攻撃しようとする悪徒がいるので、是非味方して一緒に正義の味方になりましょう』といった内容の書を送り付け、味方を増やす算段なのだ。織田家の重要人物・柴田勝家や丹羽長秀、羽柴秀吉に滝川一益が畿内に戻って「てめえなにさらしてくれとんじゃ」となる前に、自分の周囲を味方で固めなくてはいけない。何しろ前述の人物たちは、自分と並んで織田家では随分偉い方々。
まずの戦闘力、知略、人望、信長への忠義、織田家臣に在籍した日数を五段階で評価するとして、一般人の能力をオール1の合計4ポイントと仮定し、織田家宿老たちの能力を見ると
柴田勝家は5、2、4、5、5の合計二一
丹羽長秀は2、4、3、4、4の合計一七
羽柴秀吉は3、5、5、2、2の合計一七
滝川一益は4、4、3、3、2の合計一六
となる。そしてここで、京の光秀を討伐するにあたっての距離と、性格等から判断して光秀に攻撃をしない可能性を合わせた「光秀と交戦する確率の低さ」を五段階で評価すると
柴田勝家は距離で3、性格で1、のマイナス4
丹羽長秀は距離で1、性格で5、のマイナス6
羽柴秀吉は距離で4、性格で2、のマイナス6
滝川一益は距離で5、性格で1のマイナス6
となる。さらに彼らの進軍を阻んでくれる算段の軍勢とその強さを評価すると
柴田勝家は近畿の国衆たちでマイナス2
丹羽長秀は筒井家と細川家、近畿の国衆でマイナス4
羽柴秀吉は筒井家と細川家、近畿の国衆たちでマイナス4
滝川一益は北条家、甲斐信濃の国衆たちでマイナス5
これらを先ほどの武将たちの能力値から引いて割り出せる「光秀から見たその人物の危険度」は
柴田勝家は⒖
丹羽長秀は7
羽柴秀吉は7
滝川一益は5
光秀の中でこの危険度は、5を超えたら「ヤバいけど、俺なら対処できる」というレベル。⒑を超えると「マジでヤバい。切腹の覚悟決めなきゃいけない」というレベルを意味する。よって、北陸から攻めてくる勝家は、一番の脅威なのだ。
そのため光秀にとって、彼の運命を大きく変えることになる羽柴秀吉は「まあ怖いかもしれないけど、勝家の後」という具合の認識だった。
しかしその後、すぐに連絡が入った。
「光秀様、筑前殿が来ました!」
「え、筑前? てっきり勝家が来ると思ってたよ。あいつめ、スピードあるな」
「呑気なこと言ってる場合じゃないですよ」
「左馬之助、お前らしくもない。良いか、あの距離から早馬で来たのなら、まだ大勢の兵は中国地方岡山県か兵庫県に置き去りのはず。うちには八千人いるんだから、ちゃちゃっと手薄になってる先鋒を倒しちゃって」
「ええ、まあその……思ったより集まってるっていうか……」
「五百人ぐらいにビビるな。うちの鉄砲隊でどうにかなる」
「ええ、まあ五百人くらいならそうでしょうが……」
「千人か。ううむ、こりゃこっちも犠牲を覚悟しなきゃならんな」
「いえ、もう少し数が……」
「何、この短期間で三千人を引き連れて帰ってきたのか。ううん、筒井家の兵を合わせれば一万ぐらいだし、これでなんとかなると良いが……先ずは坂本城で会議だ」
「本当に三千人ならそれでも良いと思います」
「ご、五千人……細川にも声をかけなくてはな。いやしかし、どうも様子がおかしいのだ、細川は。返事が遅い。……何もないと良いが」
「まあ五千人ならそうですね」
「いい加減にしろ。何人の兵を引き連れて帰ってきたんだ、あの筑前は」
「現段階で二万人。大坂方面の信孝さんや長秀さんも加勢するみたいで」
「………………」
「二万人です」
「うちは?」
「北方面に全員回しちゃってますし、さっき言われた通り八千人です」
「敵は?」
「二万」
「うちは?」
「八千」
「敵が八千でうちが二万?」
「逆です」
「うちが八千で敵が二万」
「そうです」
「無理じゃん」
「ですね」
矢継ぎ早に家臣が入って来た。その男の顔色は大層悪く、光秀は雲行きが怪しくなってきたのを肌で感じていた。空は、晴れていたが。
「細川家から返信が来まして、味方はしてくれないそうです」
「え、嘘。待って、娘婿だろあいつ」
「信長のため喪に服すみたいです」
「絶対嘘じゃん、つか味方してくれるって言ってたじゃん……」
もう一人、家臣がやってきた。やはりこの男も、顔色が悪かった。
「筒井家から返事が来まして」
「そっちもダメだったか……」
「いえ、オッケー出ました」
「なんだよ、なんだよもおおお! ビックリさせんなよ」
「ただ、城から一人も出てくる気配がありません。多分あれ内通してます」
「誰と」
「おそらく筑前殿」
「ファック」
光秀は慌てて家臣たちを呼び寄せ、ミーティングを開いた。
本能寺で信長を討った次の日は、あれほど皆浮かれていたのに。今はただ、ぼんやり床を眺めていたり、なんども「くそ」と言いながら舌打ちしたり、うろうろ歩き回ったりするばかり。誰かが「そもそもさあ、最初から無理な計画だったじゃん」と呟いたのから始まり責任問題の追及と責任者のつるし上げ、それからの逃避と保身、ただの罵詈雑言、これらが矢玉のように飛び交った。
それでも光秀は、手を叩いて皆の視線を集めた。
「山崎に行く」
すなわち「秀吉と一戦交える」の意。
「いやいやいや秀吉軍二万ですよ? ぶつかって死ぬとか、ちょっと嫌です……」
「山崎は今沼地になってる。ということはつまり?」
「靴が汚れる」
「それもあるけど、足場が悪くて進軍のスピードが遅くなるのと、大勢が一斉に来るのは無理ってこと。と言うことは、俺たちが山崎に全兵力を投じれば、ギリギリ秀吉たちの軍勢と同じか、少し少ないぐらいにはできる。筒井細川の援軍は期待できないが、それでも近畿の国衆は俺たちに味方してくれるから、ギリギリ一万には届く」
本当は、全軍合わせて八千七百だが、光秀はたしかにそう言った。家臣たちは一転して「希望が見えた」「猿をぶち殺す」と沸き立ったが、その中の何人かは、光秀の嘘に気づいて尚、狂喜するふりをしていた。
そして光秀は、山崎の決戦に臨んだ。
「あの」
「…………」
「あの」
「うおッ は、はい」
「明智光秀さん」
「ええ、まあ。今は惟任日向守光秀と名乗ってますけど」
「えっと、俺、なんつーかその、むっちゃ好きなんですよ、あなたの事」
「……どうも」
「さっきの皆に嘘言って高揚させたところとか、凄い儚くて、なんか、こう……良い、みたいなそう思うんっす」
「一つ君に言っとく。僕はさっきの言葉、嘘のつもりはない。現段階で味方してくれてる近畿の国衆は確かに七百しかいない。でもそれは今の結果であって、今後増える可能性がゼロなわけじゃない。人の心は移ろう。僕が言うんだから間違いない。あれだけ信長様のことが大好きで、息子さんとも何度も話して笑ったのに、二人供殺したんだから。僕は確かに味方になるはずだった人たちに裏切られたけど、逆もまた然り。もともと室町幕府の役人をやってた連中に声をかけて、こちら側についてもらう手筈になってる。あいつらは秀吉に従うふりだけしてもらっているところさ」
「あーいいっすね、そういうところも好きです。でもあなた、結局はこの戦で負けて、最期は落ち武者狩りにあってるわけじゃないですか。そもそもどうして、本能寺の変なんかやっちゃったんですか? やらなきゃよかったのに」
「やらなきゃ良かった、とは俺も思ってる。でもやっちゃったんだから、仕方ない」
「なんでやっちゃったんですか? 責任者だった長曾我部家と織田家の交渉が決裂したから? 信長にいじめられたから? 彼の目指す世が多くの犠牲を生むから? それともただのボケと過労?」
光秀は白髪を風になびかせて、空を見上げた。暖かい風が雲を流していく。甲冑を着込んだ人間が動くと当然ガチャガチャ音がするはずなのに、世界は、しん、と静まり返っていた。
「絶対、教えてやらない」
老人は皴まみれの顔で、に、と笑った。
「もう良いかな。そろそろ、決戦だから」
「あの。よかったら僕も連れてってくれませんか」
「君を」
「はい、その、下っ端で良いんで」
「正式な手続きは後で良いかな」
「あ、全然ダイジョブっす」
「じゃあ、とりあえず左馬之助のところにこの文、持ってって。後詰でアイツが来る手筈になってるから、その手段を確認しなきゃならないから」
「あ、はい」
「あ、はい、じゃない。命じられたら即行動」
「あ、はい」
丁寧に折りたたまれた和紙を握りしめ、俺は走った。どんな内容なんだろう、多分俺には読めないんだろうな。木々の隙間から、よくわからない家紋や旗が並んでいるのが見える。アレが惟任さんの味方なのか、秀吉側なのかはわからない。
「そういえば、左馬之助のところって、どこにいるんだろ」
左わき腹が熱くなったから「マラソンかよ」と思ってそこを抑えると、ぬるっとした。みると、深々と竹槍が刺さっている。
「え」
顔も名前も知らない男が、ボロボロの服を着て俺を刺している。
「あ。あっ」
鼓膜が破れたような静寂から、爆発のような雄叫びが各地で上がり始めた。泥を大軍が走る音、鎧が擦れる音。刀と刀がぶつかる音。
天正十年の空は晴空。どこかで土鳩が鳴いている。
ボクと明智光秀 備成幸 @bizen-okayama
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