五章 伏流

 使い古された音楽が流れる。閉館の合図だ。利用客を追い出そうとする曲を、金髪の少年は不快に感じながら聞いた。少年は仕方なく、机に突っ伏した上半身を起こす。何十分ぶりかに周りを見てみると、図書の貸し出し手続きをする人が受付へ集まっていた。少年は自分に注目する者がいないの確認し、空調の利いた施設を出た。

 外は日が落ちたが、完全には暗くなっていなかった。日長な季節なのはいい。だが少年はこれ以上気温が高くなるのを憂鬱に思う。

(涼しいところ……他にもさがさねえとな)

 屋外は蒸し暑さが残っている。もとが温室で育ってきた少年にはこたえる季節だ。家に帰ればきっと母が快適な温度に調整しているのだろうが、まだ帰宅する気になれない。

(いまは飯食ってる時間かな……)

 あてもなく歩きながら、実家ですごす人々の行動を想像した。母と妹、そして父親──二人めまでに感じた温かい情が、三人めでどん底まで失われる。胸糞がわるくなる記憶を振り払うように、少年は歩みを速めた。

 無心に歩くと体が熱くなる。少年はむだに体力を消耗したくないと思い、手近な休憩場所へむかう。そこは無人の公園だ。以前まではよく滞在した場所だ。ある一件を境に寄りつかなくなった。そのときの辛酸がこみあげてくる。忌々しい思い出だ。その記憶を直視しつつ、公園に設置されたベンチで休んだ。

(あんな、のうのうとした連中に一杯食わされるなんざ……)

 喧嘩には強いと思っていた自分を、上回る同世代がいた。それが腹立たしい。また、その男子を保護しにきた教師もいけ好かない。

(善人ヅラしやがって……)

 教師の口ぶりは穏やかだが、少年への仕打ちは手酷いものだった。教師の警告に従わなかった非が少年にあるとはいえ、納得しきれない。ためらいなく他者の首を締め上げてくる物騒な男だというのに、彼は依然として教師であり続けている。職務で求められる人格と、その残忍な本性が一致しない人物に対して、少年は憤りを感じる。少年の父がそういった二面性のある人間だということも、この不快感に一役買っている。

 あの教師に一泡吹かせてやらねば、少年の気が済まない。しかしどうやって報復したらいいのか、良策は出なかった。多対一で襲撃したとしても勝てる相手ではない。教師は刃物を持つ敵への対処法を心得ていた。あの落ち着きぶりと無駄のない攻撃を考慮するに、修練を積んだ格闘家だとわかる。そんな強者をどのように無力化するか。直接本人にはたらきかけるのでは到底かなわないだろう。

(やっぱり、生徒をかっさらうか?)

 教師に近しい学校関係者を人質にする──その計画は思いつきこそすれ、実行を移すには至らない。自分より強い者には勝てない腹いせに自分より弱い者に八つ当たりする、という行為に嫌悪感があるせいだ。せめて自分と同程度の者に打ち勝ち、その結果をダシに教師を呼びよせる。その段取りを果たすために教師のいる学校近辺を偵察したものの、ある生徒との遭遇によって計画は頓挫した。そいつは行動の読めない女子だ。彼女が巻き起こす奇天烈な言動に、少年はかなり参った。

「くそっ……あのフザけた女……」

 あの女子には怒りとはちがった不快感を味わわせられた。これも不愉快な感情にはちがいないが、女子への憎悪はあまり湧かなかった。女と張りあっても得られるものはない。おまけに、常識の枠から外れた変人をどうこうしようとするのがまちがいだ、と諦観する気持ちが先立った。

 あれこれ思索するうちに、空にはわずかな青も夕日の色さえも無くなった。完璧に夜だ。

 次はどこへ行こう、と少年が思った矢先、じゃりじゃりと砂を踏む音がする。なにかが公園内を歩いているようだ。

「だれだ……?」

 もし自分に敵意のある者が接近していたら。そう警戒した少年はベンチから立ち上がった。足音が近づいてくる。外灯の光が照らす地面に、人影がよぎった。だがその影をつくる人自体はよく見えない。

 少年はポケットに入れた携帯電話のライトを発光させる。光は男の胴体を映した。一般的な身長の男ならば頭のある高さに、胸が見える。相手はかなりの長身だ。くわえて筋骨隆々な体型のように見えた。この体格では少年が勝てる見込みは薄い。負けそうだからといって、少年は強者に媚びへつらう気がさらさらなかった。

「危害は加えない。お前がこちらの要求を飲むのなら」

 低い男の声にはいかなる感情も伴っていない。機械的な言い方が一層凄みを増した。

「他校の生徒へ報復するつもりだろう。それはやめておけ」

 まさにいま考えていたことだ。その計画は実行に移せるかどうか未確定。正直にそう言っても虚偽にならないだろう。にもかかわらず、あまのじゃくな少年はつい虚勢を張る。

「だれに吹きこまれたか知らねえが、いまさらやめてたまるか」

 少年は「外野は黙ってろ」と吐き捨て、男から離れた。自分が練った計画をわけのわからない者に邪魔されたくはない──と頭では理屈をこねたが、それは建前だ。本心ではこの男の尋常でない威圧感に恐怖を感じる。それゆえ逃走を選択した。しかし肥大化した自尊心のせいで、無様に走るのだけはやめた。

「お前のためでもある。やめるんだ」

 後方からの語り掛けを少年は無視した。振り返らずに歩く。すると男の手がぐいっと肩を引っ張り、歩みを止めさせた。少年は意図しない妨害に憤慨する。

「しつこいな! てめえになんの関係があるってんだ」

「やめないと言うのなら、できないようにするほかない」

 その脅しは実現可能なのだと、少年は男の印象から感じた。それでもなお他者に屈さない姿勢をつらぬく。

「オレを痛めつけたってムダだ。仲間たちはオレの指示なしでも実行する」

 男の手が少年の肩から離れた。あきらめたか、と少年は胸をなでおろす。少年が公園を発つ際に、引き止める声は聞こえなかった。

 少年は道路のわきを歩きはじめた。黙々と、さきほど起きたことを整理する。遭遇したのは見知らぬ男だ。やつの要求を飲むことで得する者はだれか。それは少年が復讐を考える出来事に関わった連中だ。そう考えるのが妥当だが、その連中にはさっきの男がふくまれない。声も体も、合致する者がいないのだ。しいていえば低い声は暴力教師と似てたが、彼はあそこまでいかめしい外見ではない。

 謎への仮説を立てられないまま、少年は街灯の下を歩く。いつもは帰りたくない家が、行き先の候補に挙がった。家に帰ればあの男も近寄ってこれないだろう。自分が家族から白い目で迎えられたとしても、もはや慣れたことだ。そんな帰宅念慮が芽生えた瞬間、路面に映る少年の影がゆがんだ。影が増大した──と思うと、首筋をつかまれる。恐怖を感じる間もなく、無理やりに押し倒された。

「お前の仲間三人とも、計画には消極的だ」

 その声は公園にいた男だ。こいつは少年の仲間の様子を見にいっていたらしい。この短時間で仲間の居所をつきとめるとは、ますます異様な男だ。

「三人に中止するように言え。それが皆の幸せになる」

 少年は抗えない圧力を全身に受け、承服の念がよぎった。

「……これが最後だ、私に従え」

 絶体絶命の窮地。そのさなかにいながら、少年は男の言いなりになるのをためらう。無言でいると男は「なにを迷うことがある」と言ってくる。

「その身を危険にさらしてまで、意地を通すべきことか?」

 まったくの正論だ。少年に恥をかかせた連中への仕返しと、少年の体が無事でいることのどちらが大事かはわかりきっている。だが正論を聞き入れる器量は、いまの少年にはない。高圧的な男への反意が燃え上がる。

「……絶対、やってやる……」

 反骨精神のおもむくままに、本意とは多少異なることを口走った。男の意思にそむく表明をした直後、なぜか拘束が解かれる。

「再三の忠告は無意味だったか」

 解放されるのか、という期待も無体に、無骨な手は少年の顔面を襲った。頭が割れそうなほどに握りしめられる。頭をつかまれた姿勢で宙へ持ち上げられた。少年の全体重が自身の頭部へ集中する。その荷重に耐えかねた少年は苦悶の声をあげた。

 少年はすこしでも頭部にかかる圧を下げようとして、自身の体を持ち上げる男の手首をにぎる。懸垂の要領で支点を増やし、体重を分散させたが、痛みはあまり変わらなかった。

 少年の頭部をつかむ手の隙間から、男の顔がのぞく。男は色の濃いサングラスで目元を隠している。少年はせめてもの反抗として、その憎き面構えを見てやることにした。片手で乱暴にサングラスをはぎ取る。存外簡単に外せた。それができたわけは、そんなくだらない抵抗をされるとは男が予想しなかったためだろう。

 街灯が男の顔を照らした。明らかにされた顔に、青い光が二つ浮かぶ。冷たい瞳だ。感情が灯っていないその目を見て、少年は別の人物を想起した。それは己をたやすく負かした教師だ。彼も目の色は青かった。その教師の目つきからも、無慈悲さを感じていた。

 少年は手にしたサングラスを捨て、男の腕を両手でつかむ。

「オレに、なにをする気だ……?」

、体に巣食う恐怖を抑えつけながら問う。前途の明るい回答を得られないとわかっていながら、されるがままでいることは自身の反抗心が許さなかった。

「我が同胞の糧となれ」

 意味不明な言葉が投げられた。と同時に、少年の視界が真っ暗になる。頭部に感じた痛覚はなくなり、体がふわついた。

 どれだけ時間が経ったのか、数分も経たなかったのかわからない。少年はいろんな感覚があやふやになった。

 少年はかたい床の感触を頬や腕から得た。自分が地面に倒れているとわかると、目を開ける。暗がりを照らす灯りが点々とあった。だが色や形は街灯とはちがう。灯りは火のように揺らいでいる。いまどき松明を照明に利用する場所があるのか、となにげなく考えた。

 灯りの下に、うごめく黒い物体を発見する。少年は黒いものがなんなのか気になった。視界を広げるために上体を起こす。両腕を支えにして座位に変えようとしたが、突然腕を引っ張られた。少年の腕をつかむその手は大きい。大柄な男性の手だ。

(さっきの男?)

 少年の予想は当たり、自分を襲った男が少年を捕まえている。いやな予感がするものの、男を遠ざけるには少年の力が足りなかった。

 男は少年を力任せに立たせる。

「皆、喧嘩をせずに分け合え」

 少年は黒い物体の群れの中へ投げられた。硬い床に体を打ちつけ、衝撃にむせかえる。痛みをこらえていると、黒いものたちは少年を取りかこんだ。それぞれが頭部らしき部分に二つの光を灯している。光の多くは赤い色だ。創作の世界ではよく敵意を示す目の色だが、果たして通例通りなのか。少年はそうでないことを祈った。

 不気味な生き物は少年の腕、足、腹など体の至るところに顔らしき部位を近づける。二つの光の下に縦長の楕円形に開いたへこみができ、その中へ少年の肉体の一部を入れた。

(まずい!)

 少年は身の危険を感じた。体をよじるが、無数の生き物は少年の逃亡を見逃してくれない。少年は仰向けの状態で手足を拘束された。自力での脱出がかなわないと判断すると、一縷の望みをかけて、少年以外の人間を捜す。男は冷然と少年を見つめている。

「悔いても遅い。お前には助かる機会を与えた」

 むげにしたのはお前自身──と男に突き放された。

 少年の視界一面に黒い物体が集まってくる。少年は恥も外聞もなく悲痛な声をあげた。次の瞬間、肉をちぎられる痛みが駆け巡る。苦痛は少年の意識が途絶えるまで、無間地獄のように繰り返された。


1

 公園でヤマダらを待つ拓馬は、ふと気がかりなことを思い出した。一緒にいたはずの、シズカの犬をさっきから見ていない。拓馬は犬の所在を気にしたが、あまり心配にはならなかった。犬が不在になる理由はいろいろあるからだ。一つはヤマダたちについて行ったこと、二つは逃げた大男を追いかけること、三つは獣の出番がこずじまいだったためにもう帰ったこと。いない可能性が高いと思いつつも、拓馬は園内を捜してみることにした。

 最初に拓馬が待機していた茂みへ向かう。そこに薄茶色の小型犬がいまも伏せていた。

「なんだ、ずっといたのか」

 拓馬と目が合った犬は茂みを突っ切り、広場へ出てくる。トコトコと歩く先には大の字に寝るノブがいる。その顔の横で、犬が尻をノブに向けて伏せた。もっとも無防備な人を守っているようだ。もしかすると、拓馬の目のとどかないところでも同様に見守っていたのかもしれない。それを拓馬の心配がないよう、わざわざわかりやすい位置まで来てくれたようだ。その配慮はありがたい。だがこの犬が拓馬たちの護衛を優先することに対して、拓馬は違和感をいだく。

(せっかく敵を見つけたのに、そいつの居場所を知ろうとは思わないのか?)

 拓馬たちを降した大男はいずこかへ去っていった。その追跡を図れば今後の対策もしやすくなるだろうに。ただし、これまでの調査に関して犬が派遣されたためしはなかったので、この犬が調査向きの個体ではなさそうなのもたしかだ。

(ほかの子がもう突きとめてる、とか?)

 そんな仮定を思いついた頃合いに、ヤマダとジュンがもどってきた。ヤマダは拓馬に走り寄ってくる。

「やっぱり、あの金髪の子だった」

「オダっていうやつだったか。そいつ、どうなった?」

「ケガはしてないけどぜーんぜん起きないから、病院に運ばれたよ」

「そのことは家族に報せたのか?」

「うん、家族の連絡先が携帯電話に登録してあって、話は通じたみたい」

 あとは病院の人まかせ、とヤマダはそっけなく言った。それが正しい反応だ。どちらかといえば敵対している他人同士ゆえに、深入りをする筋合いはないのだ。

 野暮用がおわり、拓馬たちは帰宅の支度をする。いつの間にかノブは寝返りをうっていて、犬の背中に顔をうずめていた。彼の両腕はしっかりの犬の腹を抱えている。きっとこれが抱き枕状態だ。拓馬は自分がその被害者にならなかったことに安堵した。

 ジュンははじめて見る犬の存在に気付き、「その子はだれの飼い犬?」とたずねる。

「トンちゃんちはペット禁止だと思ってた」

「うん、わたしんちの子じゃないよ。今晩だけタッちゃんがその子をあずかってる」

「ふーむ、首輪が無いね……ワケあり?」

「そう。いろいろフクザツなの。くわしく聞きたい?」

「いや……それより帰ろうか」

 ジュンはノブに「家に帰るよ」と声をかけた。その返答はいびきである。ノブの自力での帰宅は無理そうだ。そのようにジュンも判断したらしく、彼はノブの胴体を抱えた。起こしたノブの右腕を、自身の肩へとのばす。

「トーマ、片側を頼む」

 拓馬もノブの左腕をかついだ。質量のあるノブを、半分背負った状態で立つ。その瞬間、足全体に負荷がかかった。重りのせいで体がふらつきそうになる。どうにかこらえ、直立した。ジュンのほうが拓馬より背が高いためか、相棒役のジュンはやや前屈みだ。姿勢が安定した拓馬たちは酔漢の運送をはじめた。

 男二人が大荷物を運ぶのを先導するように、ヤマダが拓馬たちの前を歩く。ヤマダは武器の入ったリュックサックを背負い、シズカの犬を抱きかかる。彼女は犬にかまけているようで「きみはおりこうさんだね~」としゃべった。実際ノブに捕まってもあばれなかった犬なので、シズカの命令が行き届いているか、おとなしい気質にはちがいない。

 ヤマダはすっかり一人と一匹の世界に入っている。なので拓馬は気晴らしがてらの話し相手をジュンに絞る。

「ジュンさん、今日はムチャ振りを聞いてくれてありがとな」

「ん? まあね、私はトーマとトンちゃんとも友だちだからね」

 ジュンとは親子ほど年の離れた間柄だが、ひとりの人間として見てくれていることに拓馬は照れくささを感じた。

「それにしてもさっきの男、かなりの猛者だったね。今年は負けが続くよ……」

「ジュンさんが負け続き? 本当に?」

 拓馬にとって身近な武芸者のうち、トップに座する実力者がジュンだと思っている。齢四十を越えた現在、全盛期と勝手がちがうだろうが、それでも拓馬の手のとどかない人だ。

「トーマは買い被りすぎだよ。上には上がいる……だけど若い人に負けるの、堪えるね」

「あの大男の年齢がわかるのか?」

「いや、別の男の人のこと。その人は会長に仕事をもらいにきてたね」

 会長とはジュンが勤務する会社と、その系列で最上位に偉い人物だ。警備の仕事から情報処理の業界まで、いろんな分野で商売をしているらしい。ジュンが勝てなかった武人が就く職務となると、やはり荒事に関係する内容だろう。

「それは警備の仕事の面接で?」

「いんや、普通の学校の先生」

「え……なんで腕試しするんだ?」

「会長は物好きよ。相手がツワモノだと知るとその度合いを測りたくなるね」

 そういう友人は拓馬にもいる。三郎だ。あんな酔狂な人間がほかにもいるのか、と拓馬はなんだかしんどくなるが、そこは無視する。

「えっと、その人は学校の先生になれた?」

「なれたよ。トーマとトンちゃんの学校に青い目の先生がきたはずね」

 今年やってきた、変わった目の色の教師はひとりしかいない。

「シド先生が……なんでジュンさんの会社の偉い人と会えたんだ?」

「うん? そんな名前だったかな」

「あ、シドってのはあだ名なんだ。ほんとは……デイルって言うんだっけな?」

「ああ、それ。彼は元うちの会社系列の人。数年前に傘下に入った会社の者だそうだよ」

「へー、そんな繋がりがあったんだ」

「私よりその先生に協力してもらえればよかったね。いい勝負になったと思うよ」

 戦力的には正しい意見なのだが、そうできない理由を拓馬は説明した。ジュンも本気で言ったわけではないようで、すぐに納得する。

「いい大人が、子どもの火遊びに付きあってられないか」

「俺らの先生って立場じゃなきゃ、手伝ってくれそうな人なんだけどさ……」

「先生をあんまり困らせちゃいけないよ。彼はもうじきお役御免になる身。後腐れがないようにしたいね」

「わかった……っと、ヤマダんちが見えた」

 ノブを二人がかりで運ぶ役目がようやく終わる。玄関の上がりかまちにノブを座らせた。ジュンが「あとは私がやっておくよ」と言う。彼はノブの背後へ回る。ノブに腕組みをさせ、その腕をつかんで引きずった。

 ヤマダが「タッちゃんも入る?」とたずねたが、拓馬は断った。早くシズカに結果を報告したいと思ったためだ。

「じゃあこの子はタッちゃんにあずけるね」

 ヤマダは犬の脇を持って、拓馬に渡した。犬は拓馬の腕の中でじっと抱かれている。そのちいさな頭をヤマダがなでて「また会おうね」と笑顔で送りだした。


2

 拓馬は子犬を連れて帰宅した。家族が犬に注目するまえに、自室へ向かう。犬を抱えたまま電子機器を稼働させた。その状態でシズカと通話してもよいのだろうが、この犬は正体不明の人外だ。無礼を働くとあとがこわい。そこで寝台の上に犬を放した。犬は寝台でうずくまる。ふくふくとした寝姿だ。愛らしいと拓馬は感じたが、かまわずにおいた。

 シズカとの連絡は早々に開始できた。相手方はとっくに通話態勢をスタンバイしていたらしい。拓馬は手短に、今回の計画は仕損じたことを報告した。シズカが『失敗を気にしなくていいからね』となぐさめる。

『あの人は国のエリート軍人も出しぬく逃げ上手なんだ。捕まえるのはむずかしいよ』

「それを知ってて協力した理由は何です?」

『きみの友だちの三郎くんに、お姉さんがいるのは知ってるね?』

「はい、シズカさんの同僚だと聞いてます」

『お姉さんが弟くんの暴走を心配してる。お姉さんは実家をはなれて暮らしてて、なかなか弟くんの面倒が見れない。弟が正義をふりかざすうちにケガをしたらどうしよう、って不安に思ってる。そこできみたちの出番さ』

「はぁ……」

『きっときみたちの計画に弟くんも加わる。そのとき、一緒に痛い目にあってもらったらおとなしくなるかな、と思ったんだよ』

 つまり玉砕前提で拓馬たちを後押しした、ということだ。その効果が三郎の鎮静化だというなら拓馬にもありがたい。

「これであいつがムチャ言わなくなったら、俺もたすかります」

『うん……あとは、おれの自己満足だな』

 シズカは次点の理由をくわしく話さず、『ほかにもおれに言うことはあるかな』と質疑の立場を入れ替えた。拓馬は今日の出来事をさかのぼって思い出す。ノブを小山田家まで運んだ、その道中で、ジュンが過去にシドと会っていたことを知った、ノブを運びだすまえの拓馬は公園で待ちぼうけていた──

(なんで、すぐ帰らなかったんだっけ?)

 ジュンがいなくなったからだ。彼はヤマダとともにどこかへ行った。その理由は──

「あ、道ばたでたおれてる男子がいたんだ」

『それはどんな子?』

「他校のやつで、俺たちとは仲悪いです。今日は俺の知り合いがそいつを見つけて、ぜんぜん起きなかったから病院に搬送したとか」

『ぜんぜん起きない……で、たおれてるか』

「なんか知ってます?」

『うーん、おれがまえに関わってた事件にそっくりだな。その男の子のこと、くわしく聞かせてもらえるかい』

 拓馬は断片的な情報を伝えた。オダという呼び名で仲間うちによばれたこと、金髪で背は拓馬より高いが顔立ちが女っぽいこと、雒英らくえいという進学校の者であること。

『わかった、あとでその子の居場所をさぐってみるよ』

「さぐって、どうするんです?」

『どうしてその子がたおれていたのかを調べる。もし調べがついたら、拓馬くんは理由を聞きたい?』

「気にはなります。でもシズカさんが言いにくかったら遠慮します。そういう事件って、部外者にはあまり言えないんでしょう?」

『お気遣いありがとう。お言葉に甘えて、この件はおれが勝手にやっとくよ』

 会話の終着点が見えてきた。拓馬は最後に犬の処遇をたずねる。

「で……こっちにいる犬はどうします?」

『拓馬くんがやり残したことがないなら、すぐ帰らせる。モフっておかなくていい?』

「俺はいいですよ、犬飼ってるし……」

『それじゃ、しばしのお別れだ』

 寝台で休んでいた犬が体を起こす。ぷるぷると全身をふるわせる。そうして部屋の窓辺に跳びのり、ガラス窓をすり抜けていった。

『今日はお疲れさま。ゆっくり休んでねー』

 本日の課題が終わった。拓馬は椅子にもたれかかり、暗い窓の外を見る。

(あの犬、モフってもよかったのか)

 さきほど犬にふれるのを我慢した瞬間が、なんだか惜しいような気がしてきた。

(まあいいや、とっとと寝よう)

 就寝の前支度として、汗でべたつく体を洗いに風呂場へ向かった。


3

 翌週、拓馬は教室で浮かない顔をした三郎に会った。正しくは、拓馬が入室した途端に三郎の顔色がくもった。拓馬を見かけたのをきっかけに、大男の一件が連想されたらしい。

「あの男、めちゃくちゃ強かっただろ?」

「ああ……完膚なきまでに負けた」

「まだ俺たちで捕まえる気はあるか?」

 失意の男子はひかえめに首を横に振る。

「無理だな。間近で見て、はっきりわかった。やつにとってオレたちは赤子同然だ」

「俺もそう思う。ありゃ普通の警察もお手上げだな」

「シズカさんはやつをどう捕縛するつもりだ? 真っ向勝負では勝機がないぞ」

「くわしくは聞いてないけど、対策は練ってる。あとはシズカさん任せでいいか?」

「わかった……口惜しいがオレたちでは打つ手がない」

 真っ当に学業に励もう、と三郎は優等生らしい方針を述べた。その気持ちは実直なようで、彼は席に着くと教科書を読みはじめた。

(いっつもこうならいいんだけどなぁ……)

 大人たちも同じ感想を持つだろう。本人の心中はどうあれ周りには好ましい変化だ。

「おっと、そうだ」

 三郎が机の側面に掛けたリュックサックに手を入れる。そこからノートを一冊出した。表紙に極秘とマジック書きされている、大男に関する情報をまとめた記録物だ。

「これを拓馬にあげていいか」

「なんで俺に?」

「ここに、まだシズカさんに伝えられることが残っているかもしれん」

 拓馬はこの提案に気乗りしなかった。どこまでシズカが例の男のことを把握しているのか、不透明だからだ。既知情報を伝えても時間の無駄である。

「えー……どれをシズカさんに言ったか言ってないかはおぼえてねーぞ」

「使える記録がなければ、処分していい」

 処分のほうが重要なのだと拓馬は察した。彼がこの件から手を引くケジメだ。そのように考えた拓馬は友人のノートを受け取った。

(捨てるくらいならヤマダに渡そうかな)

 ヤマダは日々の記録を書き留めている。その材料になりうる素材だ。あとで彼女に渡そうと思い、拓馬は自席に向かうと、女子に呼びとめられる。声をかけた者は須坂だ。

「あなたと、あなたの知り合い……どっちもケガはしてないの?」

「平気だ。あの男が手加減してくれた」

 須坂の表情がなぜかくもる。

「……私だけなんにもされなくて、不公平だと思わなかった?」

 須坂は自分があの場で唯一無事だったのを、引け目に感じている。拓馬は首を横にふる。

「俺らはあいつにケンカふっかけて、返り討ちにされた。それだけのことだ」

 反撃を食らうのは承知の上だった。これは予見できた被害である一方で、須坂は予想外の展開に巻きこまれていた。

「そういやノブさんに抱きつかれてたろ?」

 須坂が顔をそむけた。恥ずかしがっているようだ。やはり彼女には抵抗のある状況だったのだと拓馬は同情する。

「イヤだったろうな、男が苦手なのに……俺からあやまるよ」

「べつに、あなたがわるいんじゃ……」

「フォローになるかわかんねえけど、ノブさんに下心は全然ないんだ」

「それはわかってる。あのお父さんは私を自分の娘だと思って、ああやったんだもの」

 須坂は好意的な解釈をしてくれている。やせ我慢をしている様子はなく、ノブへの嫌悪感は伝わってこない。

「あんなふうに、父親に頭をなでられたことがなくって、ちょっと、うらやましかった」

 拓馬は耳をうたがった。繊細な須坂とがさつなノブは反りが合わないものだと思っていたのだが。須坂は自分とタイプの異なる異性でも受容できる余裕ができつつあるようだ。

「だいぶ、変わってきたな」

「え?」

「いや……転校したばっかのときだったら、そんなことを言わなさそうだと思ってさ」

 須坂は自嘲気味に笑う。その顔には悲壮感もあった。

「クズな男に振りまわされてたせいね」

「お姉さんを追ってきた記者のことか?」

「それもあるし、自分の父親も……」

 気丈な女子がネガティブな心情を吐露する。

「あいつは娘のことなんか愛してない。お姉ちゃんの稼ぎがあったから私たちを引き取っただけなの。……母さんが死んじゃったとき、父さんに会えると思ったら悲しくなくなったのがバカみたい」

 直後、須坂が目を閉じた。長い髪をゆらす。

「こんなことを言いたかったんじゃない。私は、あなたたちと一緒にいられて、よかったと思ってる。私がめんどくさい女だとわかってるのに、イヤな顔しないで話してくれて、ありがとう。それだけは伝えたかった」

 須坂が顔を赤くする。その赤面を見られないようにか、顔を伏せながら席にもどった。彼女にとってはかなり勇気の必要な告白だったようだ。その相手に、男子がえらばれた。

(俺に言うのが、いちばん気楽なのか?)

 ほかにも同行した女子、とくに拓馬と同じ状況を知るヤマダ相手に話してもよい内容だ。

(俺、あんまり男だと思われてないのかな)

 異性だとわかっているが、そういう目では見ない──ちょうど拓馬がヤマダに接するのと同じ態度だ。それが男として良い評価かはさておき、信頼を築けたことはうれしかった。

 拓馬も席に着こうと視線を変える。その先に、歯を食いしばる成石がいた。拓馬は思わずのけぞった。鬼の形相ともいうべき苦渋に満ちた面に驚いたのだ。

「薄ぼんやりしてるきみが、あの子の凍てついたハートを溶かすとは!」

 女好きの男子が言いがかりをつけた。どうやら須坂と親しい拓馬に嫉妬しているらしい。

「冴えない見た目の男子にリードを取られてしまった!」

「そんなアホなことを言ってるから、あいつに見向きもされねーんだよ」

 拓馬は自分を貶してくる男子に相応の返事をした。

(こいつは須坂にゃ信頼されねーだろうな)

 下心が先立つ男子にイライラさせられながらも、拓馬は授業へ意識を持ち直した。


4

 拓馬たちが大男に大敗を喫したあと、なんの進展もなく時間が経過した。とうとう期末試験の期間に突入する。この時期は多くの生徒が愚痴っぽくなる。だれしも無残な試験結果を残したくないのだが、かといって万全の試験態勢でいどめるほどの勉強はしたくない。その葛藤が不機嫌な態度にあらわれた。

 試験のさなかでも平素と変わらぬ生徒はいる。普段から学習を続けている勤勉な生徒と、なるようになると諦める生徒と、赤点をとらない程度の試験範囲をきっちり把握する生徒。拓馬の場合は赤点の回避対策をしている、そつのない生徒だ。それゆえ試験に対する不安はかきたてられなかった。唯一の不安をあげるとすると、それはヤマダの英語の試験結果だ。彼女は筆記の試験になるとあまり点数がのびない。言語分野を感覚で理解するせいで、正確な読解や文法問題は苦手なのだ。

 ただし今回は彼女の試験結果が良くなる見通しがある。英語の試験内容の大半は直前の授業で教わり、一字一句変更なく試験に出すという。これほど広範囲の正確無比な「ここ試験に出るよ」発言はいままでの英語の授業にはなかった。答案作成者が新人の教師であり、彼が今期を最後に退職することもあって、ご祝儀的な試験になったらしい。英語が苦手な生徒にはよろこばしいことこのうえない。

 本日最後の試験は英語。その直前、生徒たちは休憩時間を利用して、最後の追い込みにかかる。赤点を回避できる答えを写したノートを見返すのだ。ヤマダもご多分にもれず、ノートを穴が開くほどにらんだ。

 数名の試験監督者が廊下に出てくる。生徒は指定の席にもどり、配られた裏返しの問題用紙と答案用紙を机上に置いた。

 スピーカーから試験開始の合図が鳴る。一斉に生徒が裏返しの用紙を表にする。そこには事前に提示された通りの出題が半数あった。

(よし、これなら大丈夫)

 今回の試験はやさしいと拓馬は確信し、快調に問題を解きすすめた。

 告知にあったままの解答部分を書き終える。気持ちに余裕が生まれた拓馬はちらっとヤマダの様子を見る。いまごろは授業で知らされなかった難問に直面し、頭を抱えていると想定したが、ちがった。頭を抱えるどころか机につけている。どうも寝ているらしい。

(いま居眠りするやつがあるか?)

 試験監督の女性教師がその異変に気付いた。この教師は前年度に拓馬とヤマダの担任をしていた人だ。教師は教壇を離れ、ヤマダの肩をゆすった。効き目はないが、監督者は過激な叱咤ができなかった。それは教師の温柔な性格が関係するものの、最大の理由はこの場の雰囲気だ。静寂を求められる試験環境が災いし、とうとう教師はヤマダを放置した。

(最低限のところを書けてりゃいいが……)

 拓馬は動揺をぬぐえないまま、残りの解答に集中する。薄情だが共倒れをする意味もないので、ここは最善を尽くした。

 試験終了のチャイムが鳴る。答案が回収され、ほぼ全員が満足のいく解答ができたおかげか室内はなごやかな雰囲気になる。その中でヤマダだけは気が滅入っていた。彼女は空欄だらけの答案を提出したのだろう。休憩時間になってから、拓馬は彼女の体調を尋ねる。

「お前、寝てただろ。調子よくないのか?」

「わたしは健康だよ。だけど……テスト中にちょっかいかけられて」

「まさか、例の……」

 ヤマダはうなずく。試験中に何者か──おそらくは精神体の大男──に力を奪われてしまい、居眠りをしてしまったらしい。

「試験が終わるまで、シズカさんの友だちに守ってもらおうかな……」

「ああ、俺からシズカさんに伝えておくよ」

「おねがいね。てっきり夜にだけ活動するもんだと油断してた」

「俺も、ちょっとは常識あるやつかと思ってたが……こんないやがらせをしてくるとは」

「悪気があったかはわかんないよ。死にそうなくらいお腹がへってたのかも」

 ヤマダは異形への寛容な理解を示した。たったいま不利益を被ったにもかかわらず、加害者に嫌悪する様子がない。ひとえにヤマダの鷹揚さがなせる反応だ。

「人がいいな、ほんとに……」

 ほめたつもりだったが、ヤマダの浮かない顔は変わらない。彼女は「ああー」と悲嘆に暮れながら突っ伏す。

「追試か……」

 まぬがれ得たはずの好機を失った失望感は大きい。拓馬は彼女の肩に手を置く。

「試験がぜんぶおわってから落ちこめ」

 試験は明日明後日と連続していく。今回の被害を最小限にとどめるには、とっとと気持ちを切り替えるほかない。ヤマダとてそのことを頭で理解できているだろうが、なかなか実行できずに顔を伏せっている。見かねた拓馬は彼女を元気づけるものをエサにする。

「昼飯食ったら、うちにこい。気がすむまでトーマと遊んでいいぞ」

 落胆中の女子が顔を拓馬に向けた。その片頬はいまだに机と密着している。

「うん。癒されにいく」

 承諾はとれたが、傷心中の女子が席を立つ気配はなかった。

「俺は帰るからな」

 拓馬はそう告げて、帰り支度をした。鞄に荷物を詰めおえた際にちらっとヤマダを見る。机に伏せる姿勢は同じだが、顔は反対を向いていた。まだ帰宅する意思はないらしい。

(ほっといて平気かな……)

 時間つぶしがてら、この場でシズカへの諸連絡をひそかにやっておいた。が、それが済んでも幼馴染にうごきはなかった。仕方なく拓馬はひとりで家路についた。


5

 試験結果がすべて発表され、問題の解説を授業で聞く日々。一通りの解説が終わったあとは、試験で一定の点数未満を取得した者に科目ごとの追試が課せられる。そしてヤマダは英語の追試日を言い渡された。その追試は彼女ひとりだけに行なわれる。やはり順調にいけば赤点保持者が出ない試験内容だった。

 チャイムが鳴り、本日の授業はすべて終えた。拓馬は机の上でうつ伏せになるヤマダに、「追試、がんばれよ」とねぎらう。今日の放課後に彼女限定の追試があるのだ。監督者は平易な試験の答案を作成した教師自身だという。余計な職務が増えたものだ、と拓馬はシドの不運も案じた。

「あ、根岸くんは待って」

 たったいま授業を行なった女性教師が拓馬を引き止める。彼女は久間という。ヤマダが居眠りを強いられた試験の、監督者だった。

「雑用を頼まれてほしいの。事務室に届いた本を図書室まで運ぶんだけれど」

「なんで俺が……」

「本摩先生がそうおっしゃていたから。かわりに掃除当番はしなくていいという条件」

 このタイミングではあまり得でない条件だ。これがテスト明けの掃除なら話がちがう。その理由は試験期間中に掃除が免除されること。免除の要因は、生徒が学校に滞在する時間がすくなくてゴミが出にくいという理屈と、生徒がより多くの時間を勉学に励めるようにとの配慮による。引き替えに試験が終了した後日には念入りに掃除をさせられる。それゆえ回避するならもっと早い時期がよかった。

「荷物運びのほうがしんどいだろ」

「腕力あるんだから平気よ。さきに本摩先生に顔を合わせておいてね」

 拓馬が雑務を承諾しないまま、久間は退室した。拓馬は軽いため息をひとつ吐く。

「はー、まだやるとは言ってねえのに……」

 反抗的な態度の拓馬に「いいじゃない」とヤマダが話しかける。彼女は机に片頬をくっつけている。

「頼りにされてるってことでしょ?」

「いいように使われてるだけだ」

 そう答えたものの、ヤマダに反抗してもなんの解決にもならない。おまけに、ヤマダのほうが精神的につらい立場なのだ。

(こいつの運のわるさとくらべりゃな……)

 拓馬はゴネないことに決める。

「……まあいいや、とっとと済ませてくる」

 拓馬は職員室へむかう。廊下にもほかの教室にも、活発になる生徒があふれていた。夏休みが間近にせまる喜びゆえだ。

 拓馬は自身のクラスと同じ階にある職員室に着く。「失礼します」と決まりきった挨拶をしてから入室する。室内は机上にある大量の本やファイル、棚に陳列するレターケースや教材、コピー機など文具関係の物がひしめく。かつ、備えつけのコーヒーメーカーが生みだす香りがひそか充満する。職員はコーヒーを自由に飲めるそうだ。食事風景を見ていないと噂のシドも、この飲料は飲むという。

 拓馬は仕事机に座る本摩に声をかけた。この中年が拓馬に雑用を押しつけた依頼主だ。本摩は背もたれつきの椅子を回転させた。人の良さそうな笑みを浮かべている。

「きたな。久間先生から頼みごとは聞いただろう。やってくれるか?」

「かまわないけど、俺を指名するわけは?」

「体力のある生徒で、ヒマそうだったから」

 本摩は部活動のことを言っている。追試のない生徒の多くは放課後、部活動にいそしむ。本摩が雑用を頼みやすい三郎なども、熱心に部活に打ちこむ。拓馬は空手部に所属するが、ほぼ名前だけの幽霊部員である。無駄な体力の消費をさせても問題がない生徒だ。

「責任感の強い根岸なら安心だしな。終わったら帰っていいぞ」

 拓馬は中年の笑顔にほだされた。手早く用事を完遂させようと思ったところ、珍妙な会話を耳にする。それは理系の老教師と社会科系の若輩教師の談義だ。

「ヤスくん、情報はあったかね」

「ええと、調べてみたら、ソロモン諸島には金髪で色黒の人たちがいるそうです。でも、髪と目の両方が色のうすい地黒の人というと、ちょっと……」

 二人は銀髪の教師の風貌を話題にしている。拓馬は牛歩戦術で歩き、彼らの言葉に耳を傾けた。探究心の豊かな老教師は「人体の神秘が詰まっておるやもしれん」とはしゃいだ。

(やっぱり、先生の外見はいろいろ変わってるんだな)

 だからどうということはない。見た目が風変わりであっても、シド自身は生徒にやさしい教師だ。そんな好人物がまもなく退職する事実がものさびしかった。

 感傷にひたるのをやめ、拓馬は一階へくだる。職員玄関のすぐそばに事務室がある。事務室の戸をノックしたのち、入室する。

「図書室に運ぶ本はありますか?」

 女性事務員が刺すような視線で応えた。この女性は三宅という。仕事が的確だが愛想はよくないと評判だ。彼女以外にも若い女性事務員がいる。そちらは愛想が抜群によいのだが仕事面に不安がある。両者の中間が理想的な事務員、とよく言われていた。

 三宅の冷たい視線は生まれ持っての顔つきだ。そうと知る拓馬は自然体で応答を待った。

「コピー機の横にあるダンボールです」

 壁際に設置されたコピー機を見る。そのそばに茶色い箱がひとつ置いてあった。

「運んだら司書か図書委員に新書が入ったと伝えてください。よろしくお願いします」

 拓馬は「あいよ」と返事をし、箱のまえでしゃがむ。箱の底に指をかけた。腰を痛めないように注意して立つ。戸へ振り返ると、三宅が戸を開けてくれた。さすが仕事のできる人だ、と拓馬は彼女の気遣いに感心しつつも表には出さない。事務員の脇を通り、「失礼しまーす」と挨拶してから事務室を出た。

 次に反対校舎の二階へ向かう。図書室は廊下の突き当たりの部屋だ。室内には数人の生徒と、女性の司書がいた。拓馬は荷物を手近な机に置く。それを見た司書が「配達、ごくろう!」と陽気に話しかけてくる。

「図書委員じゃない子にまかせてゴメンね。かよわそうな子が集まってたもんだから、助かったわ」

 続いて図書委員の名木野が拓馬のもとに寄ってくる。

「お疲れさま。あの、もうひとつ根岸くんに頼みごとがあるんだけど……いい?」

 名木野は英和辞典を見せる。辞典には図書館所蔵の証のシールが表紙に貼ってあった。

「この辞書をヤマちゃんに……追試で使っていいんだって」

「持ちこみ可の追試なのか」

「初耳だよね。だって試験の英単語って、授業で教わったとこしか出ないもの」

「なにを解かせるつもりだろうな……?」

 拓馬は違和感を抱えながら辞典を受け取った。英語の追試会場は二階の空き教室。生徒数によってはクラスとして使用する教室だ。拓馬は連絡通路を通過して職員室の前を過ぎ、二年生の教室前廊下を歩いた。道中、見かける生徒の数は減っていた。各々が自身のやるべきことをしに行ったのだろう。

 拓馬は自分のクラスをのぞいた。教室にはヤマダの姿と荷物がない。彼女はすでに空き教室へ行ったようだ。その空き教室をのぞくと、ひとり生徒がぽつねんと着席している。拓馬の足音に気付いた女子が戸口を振り返る。

「あ、タッちゃんどうしたの?」

「お前に辞書を渡してくれって頼まれたんだ。ほら」

 拓馬は届けものをヤマダに手渡す。ヤマダは不思議そうに分厚い本を見ていた。

「それを試験中に見ていいんだとよ」

「へー、そうなの」

「先生から聞いてないのか?」

「うん、文房具を持ってきて、ってだけ言われてる」

 受験者も試験の詳細を知らないとは。なんだかキナ臭さがただよってきた。

「辞典くらいわたしが取りにいけたのにな」

「それか、先生が持ってきてくれればいい。どうせ試験監督するんだし」

 関係者内で物事を完結させないあたりが奇妙である。ヤマダは「さびしいのかもよ」と面妖なことを口走る。

「きっと先生はタッちゃんにもここにいてほしいんだよ」

「どういう発想だ」

「先生はタッちゃんとも仲良いでしょ。最後の思い出づくり用に、タッちゃんがここへくるように仕向けたんじゃない?」

「つっても、俺は追試をやらないし……」

 拓馬はなにげなく黒板に視線を移した。白のチョークで「Wishing you good fortune」と書いてある。

「これ、シド先生の字だよな」

「うん、『健闘を祈る』とか『幸運を祈る』ってことかな。試験にピッタリだね」

「グッドラックじゃねえんだ?」

「ラックもフォーチュンも同じように使えるよ」

 ヤマダは会話をするぶんには英語の不出来な生徒ではない。それが筆記問題になるとうだつがあがらなかった──この追試は不慮の事故で起きたものだが。

 配達業をこなした拓馬は帰ろうとした。が、目のはしに異様な影をとらえる。紫色の光の球だ。それはひとつだけではなく、次々に窓から教室へと、押し寄せてくる。

 紫の鬼火が拓馬を貫通する。とくに痛みはなかった。しかしヤマダの様子が変わる。

「なんか、変」

 ヤマダは両腕を抱いた。彼女は全身を強張らせて、椅子から転げ落ちる。拓馬は倒れる女子をたすけようとした。だがまばゆい閃光に視界を妨げられる。異様な力の流れが、拓馬たちの意識を途絶えさせた。


6

 拓馬が目を覚ますと頬に冷たい感触があった。視界はひどく低い。床にたおれていた、と気付くのにいくらもかからなかった。眼前には机と椅子の足が複数直立する。その中で、髪の長い女子生徒の横たわるさまが見える。

「おい、大丈夫か?」

 拓馬はヤマダに声をかけた。ヤマダはむくっと起き上がる。

「えっと、なんでねてたんだっけ?」

「俺もよくわかんねえ」

 とっさにそう返したが、気絶する直前の光景がパッと拓馬の脳裏に浮かぶ。

「光がバーっと流れてきたみたいだったな」

 拓馬も体を起こす。これといって体の痛みはない。ヤマダも平気そうな顔をしている。

「紫色っぽい光、見えたか?」

「あ……目をつぶってて、見てない」

「そうか。じゃあなにが起きたのか、ほかの連中に聞いてみよう」

 ヤマダは拓馬に同調する気色を見せた。すぐに困り顔になる。

「でも、試験が」

 その拒絶は妥当だった。教室内に備わる時計は、追試の始まる時刻を指そうとしている。

「じゃあお前はここに残ってろ。なにもなけりゃ、そのうちシド先生がくる……」

 それがもっとも安易なやり過ごし方だ。怪奇現象を目の当たりにした拓馬は、その手段が気休めだと感じている。

「まずいことが起きてたら、だれもこねえと思うけど」

「うーん、それだとひとりぼっちはすごーくあぶないよね」

 やっぱりついてく、とヤマダが言う。彼女は机上に置いた文具類を片付け、リュックサックを担いだ。二人は教室を出る。廊下は異様に冷えており、ヤマダは「やたらと涼しいね」とつぶやいた。異様なのは教室も同じで、生徒の姿がない。拓馬はヤマダに会うまでに、そこに数人の生徒がいたと記憶している。

「さっきまで、だれかいたんだけどな……」

「職員室に行こうよ。この時間なら先生たちはまだ帰ってないよ」

 拓馬はヤマダの指摘を是とし、足早に職員室に向かった。そのついでにほかの教室も横目で見るが、やはり人影はない。それどころか建物の内外に発生する生活音もなかった。

 昼間の景色に、真夜中の静けさが合わさった空間。さらに外の木々や雲は静止画のごとく硬直する。二人はあきらかな異常に気付きながらも、話題にしない。いたずらに不安をあおりたくなかったのだ。職員室に自分たちを安堵させる何者かがいると信じてすすんだ。

 職員室を目前にした二人は立ち止まる。職員室前に、なにかがいる。真っ黒な、輪郭のにじんだ人影のようだ。拓馬はヤマダに、音を立てないよう指で合図をした。

 化け物は成人男性なみに大きい。うごきはのろいようで、廊下をのそのそ歩く。その進行方向は二つの校舎をつなぐ連絡通路だ。拓馬たちのいる教室側とは逆向きである。二人は化け物が遠ざかるのを待った。

 安全に職員室へ入る機会をうかがうと、化け物がたちまち消える。黒い異形のいた先には、奇妙な風体の人物がいた。赤いレンズのゴーグルで顔の半分を覆った、朱色の長い髪を持つ人。肌の露出がすくない異国風の服は、どこの国のものか判別できない。また体格は中性的で、男女の区別もできない。赤いゴーグルと目があった瞬間、拓馬は身構えた。なぜか相手は顔の下半分をほころばせる。

「警戒しなくて結構。アナタたちになにもしませんよ」

 声も性別の判断がつかぬ音程だ。ともかくこの異邦人とは言葉が通じるらしい。

「あんた、だれだ?」

 拓馬は率直に質問した。すると「だれでもいいでしょう」とはぐらかされる。

「身の上を語っても、アナタたちには理解できないのですから」

 異邦人は拓馬たちを小馬鹿にした。拓馬は不快感がこみあげる。拓馬が初対面の者を嫌悪するかたわら、ヤマダはずいと前へ出る。

「さっき、黒いお化けがいたと思ったんだけど、あなたは見た?」

「ええ、いましたね。邪魔だったので消えてもらいました」

「どうやったの?」

「ワタシの能力を使いました。ほかにも聞きたいことがあるなら、そこの部屋に入ってからにしませんか。また連中が湧いてくるとめんどうでしょう」

 異邦人が職員室を指さす。ヤマダは拓馬の顔色を見てくる。拓馬は初めから職員室へ行くつもりだったため、拒否する理由はない。目の前にいる人間が敵でなければ、の話だが。その心配もあまりいらなさそうだと感じた。ヤマダが友好的に接することを考えると、悪い気を発する相手ではないようだ。

「わかった。入ろう」

「そうそう、人間は素直が一番ですよ」

 ゴーグルの下にある口が大きく横に開いた。


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