三章 転換
◆
日付がもうじき変わるころ、ヤマダは夜道を歩いていた。その動機は父が勤務先の店でわすれてきた手帳を取りにいくこと。いまの父は酩酊しており、足元がふらつくありさまだったので、娘が代わりに店まで向かう。娘を送り出す父は例の大男の出没を心配し、家にある木刀を持っていくよう勧めたが、ヤマダは断った。そんな棒切れで対処できる相手ではないとわかっていたからだ。それに、大男が気に掛ける少女はしばらく夜間の外出をしない。その男が出る可能性は低かった。
ヤマダが歩を進めていると、街灯の光の中に影がよぎる。ヤマダはびっくりして、足を止めた。目を凝らし、影が何者なのか確認する。背の高い人だ。高い位置にあるつば広の帽子、父以上に大きな体。それらの特徴をありのままに目にすると、ヤマダの全身に緊張が走った。
噂に聞いた対象が、いる。よもやあらわれはしないと思っていた存在だ。
(引き返す?)
だが遺失物を一晩放置しておくわけにはいかない。店にはせっかちな店員がいる。その人物はジモンの母。彼女は息子とちがって効率的、かつ人情に欠けた速断をする場合がある。この状況下で起こりうるのは、店内の清掃の邪魔になる遺失物をばっさり廃棄すること。というのも、店の本格的な清掃は従業員が帰ったあとにジモン一家がおこなう。それゆえ、忘れ物を回収するならいまがチャンスだ。
どうしたものかとヤマダは迷う。
(でも、あの人におそわれると決まっちゃいないし……)
まだこちらに勘付いていないのかもしれない。ここは待機し、大男に先行させることにした。ヤマダは電灯付きの電信柱の影に隠れる。
(だいたい、あの人がわたしを捕まえる意味がある?)
大男は不審者ではあるが、変質者とは毛色のちがった人物。なんらかの信条にもとづいて行動する男性であり、その行動理由にヤマダは抵触しないはずだ。そのように考え、ヤマダは平常心をとりもどした。
問題の人影が見えなくなる。不可解な対象は遠のいた。ヤマダが歩こうとしたとき、後方に奇異な気配を感じた。体を圧迫するなにか。
(なにもいないはず……)
と思いつつも、右拳を思いきり後ろへ振る。放った裏拳は、なにかに接触する。
(え、人?)
ヤマダの右手は大きな手の中に収まった。何者かが拳を受け止めたのだ。その人物は、ヤマダの視界では顔が入りきらなかった。いま見えるのは、厚い胸元だ。
「……よく、気が付いた」
低い声だった。ヤマダが声の主を見上げてみる。相手の目元は黒いレンズの眼鏡でおおわれていた。暗い夜にもかかわらずサングラスをかけた大男。拓馬が伝えてくれた通りの外見だ。ヤマダは瞬時に自身の危急をさとった。
「大人しくしていれば痛いことはしない」
次の瞬間、視界が旋回した。大男に腕を引っ張られ、ヤマダは背後をとられる。痛めつけない、との宣言と捕縛術のごとき行動は言行が一致していない。そう感じたヤマダは不信がこみあげる。
「わたしを捕まえて、なにする気だ!」
ヤマダはさけんだ。その行為には、緊急事態を近隣住民へ伝える意図もあった。
「力を分けてもらう」
案外、大男は素直に答えた。話せばわかる人かも、とヤマダは希望が湧く。だがその言葉の意味はよくわからない。
「チカラって? 栄養ドリンクじゃダメ?」
「……こちらの人間が摂る栄養では足りん」
「『こちら』って……じゃあ、あなたはちがう世界の人?」
拓馬には年上の知人がおり、その人物が訪れたという異世界がある。その知人はそこから特殊な犬猫らを呼び出し、日々人助けをしているのだ。彼は拓馬の知り合いゆえに、ヤマダは直接話を交わした経験がない。かの人物に、いろいろとたずねてみたいという知的好奇心をずっとおさえていた。欲求を満たせる人物がこの場にいる。ヤマダは大男への恐怖よりも好奇が上回ってきた。
「いずれわかる」
大男の手のひらがヤマダの顎に当たる。彼の指がヤマダの頬をつつんだ。思いのほかソフトに触れられており、ヤマダはこの態勢に危険を感じなかった。そのまま話を続ける。
「力をあなたにあげたら、わたしはどうなるの?」
「どうもしない。眠くなるだけだ」
「いまねちゃったらマズイよ。オヤジの忘れ物を取りにいくところなんだから」
大男は返答しない。ヤマダがあまりに普通に物を言うので、彼が当惑したかのような雰囲気が伝わった。ヤマダ自身も、この状況下で平常心をたもつ己が奇特だと思う。なぜだか、彼とは常識的な出会い方をすれば友人になれる気さえしていた。ヤマダは大男への理解を深めたいと考えたが、徐々に体の力が抜けてきて、思考がにぶくなる。
(ほんとに、眠気がきた……)
大男の宣告通りだ。彼が手にかけた被害者のように、野宿させられてしまうのだろうか。ヤマダは外でねたくない、と意思表明したかった。しかし声が出なかった。
ヤマダが睡魔におそわれる中、かすかに人の声が耳にとどく。声は一種類のみ。電話を通じての会話中らしい。電話中の人物がヤマダの視界に入る。ヤマダは内心驚いた。あの長めな金髪は三郎たちが挑んだ不良集団のリーダーだ。
「……このあたりの野郎だってわかってる──」
金髪はずんずんとヤマダたちのいるほうへ近寄ってくる。彼は通話に夢中になっているのか、ヤマダたちを視認できる範囲に入っても反応はない。
「…………あんな暴力教師にビビってられるか! 情けねえ──」
自分を痛めつけた者たちへの報復を画策しているようだ。その場にいたヤマダも対象だろう。ヤマダはこの現況こそをマズイと感じた。こちらは穏便にすませられそうにない。
「馬鹿なことを……」
頭上より憤慨が混じる声が漏れる。大男の非難は金髪がヤマダらの目の前を通過する際に発せられた。至近距離での発話があっても、金髪は無人のごとき態度をつらぬく。
(もしかして、わたしたちが見えてない?)
姿が消え、発した言葉も常人には感知できない──それは人ならざる者たちが有する特徴だ。どういうわけか、ヤマダもその同類と化しているらしかった。
金髪の少年は暗がりに溶けた。ヤマダは眠気で立つ力を失い、体の重心を後方に預ける。ヤマダを拘束する両手が離れた。大男は自由になった手で、ヤマダの腹部を支え、頭をなでる。ヤマダは彼の行為を不快に感じなかった。むしろ庇護されているような安心感を得た。
ヤマダは睡魔に屈し、まぶたを落とす。本格的に寝に入ると大男に体を持ち上げられた。その抱え方は横抱きだった。
(先生……?)
ヤマダはいまの自身の姿勢をもとに、金髪らと衝突した直後のことを思い出した。あのときも、ヤマダは横抱きで運ばれ、その移動中をねてすごした。偶然だろうか、と考えるうちに意識が混濁してしまい、それ以上の思考はとだえた。
1
日がのぼったばかりの早朝、電子音が室内に鳴った。拓馬は寝台で寝ており、うっすら覚醒する。この音は電子メールの通達音。即時返答を要求されるものでない。なので二度寝をしにかかった。だが電子音がまた鳴る。拓馬は妙だと思い、しぶしぶ枕元にある携帯用通信機を手にする。あおむけで機器を操作してみると、ヤマダから送られた文章が二つあった。ひとつめを読んでいく。
(『昨日の夜に、大男に会ったよ』……?)
拓馬の眠気が一気に冴える。
(週末だとか須坂は関係ないのか?)
これまでの事跡から推察できる、大男の出現条件がもろくもくずれた。あの大男は須坂の保護以外にも活動理由があるのだろうか。
拓馬が親友からの報告を読みすすめるも、手応えのある情報はなかった。どんな形で大男と遭遇したか、どんなふうに接されたかは記載がない。今日拓馬と一緒に登校したいと綴ってあり、そのときに語るつもりらしい。
二つめの文章には、大男のことをシズカに聞いてほしいという依頼が載っている。拓馬はそうしようとしたが、思いとどまる。
(そのまえに、全部聞いておくか)
あやふやな情報のまま伝えては、あとあと混乱をまねくかもしれない。そう配慮した拓馬はヤマダに会うことにした。彼女がたったいま文章を送ってきたのだから、送り主も起きているはずだ。拓馬はこれから会うことをヤマダに伝える。私服に着替え、家を出た。
拓馬は早朝特有の澄んだ風を体に受けて、小山田宅を訪問する。呼鈴を鳴らしてから玄関の戸を開けたところ、すでにヤマダは廊下で待機していた。彼女も私服を着ている。
「タッちゃん、外で話さない?」
「お前んちじゃダメか?」
「お母さんがもう起きてるんだけど、まだゆうべのことは言ってない。いま聞かれたらタッちゃんに話せなくなりそう」
ヤマダの母が取り乱すような体験をしたのか、と拓馬は言外の意図をさぐる。それなら外で話すのも差しさわりがありそうだ。
「じゃあ俺の家で」
「お父さん以外の人に知られると、ややこしくならない?」
その心配は適切だ。拓馬の父は拓馬が現在かかずらう事柄に理解を示すが、母と姉には適当な理由をつけ、はぐらかしていた。
「そうだな、俺の部屋にしとくか」
普通の会話程度なら盗み聞かれる心配がないほど、拓馬の部屋は防音が利いている。それゆえ二人は根岸宅へ会話の場を移した。拓馬が帰宅すると飼い犬が玄関まで出迎えにくる。白黒の犬は一家の就寝時にかならず檻に入れるため、家族のだれかが檻から出したらしい。母は朝の家事が一段落つくまで犬を開放しないし、姉はこんな早くから活動する人間ではない。おそらく父がそうしたのだ。
ヤマダは犬の歓迎によろこび「トーマ、おはよう」と長毛犬の被毛をなでまわした。彼女がかまったせいか、二人が拓馬の部屋へむかうとトーマもついてくる。せっかくなのでそのまま自室へ入れた。拓馬は椅子に、ヤマダは寝台の上に座る。トーマはヤマダの足元に座り、じっと来客の顔を見つめた。ヤマダが犬に触れつつ、昨夜のことを話しはじめる。
「昨日、というか今日に変わるころの夜中ね、うちのオヤジが仕事から帰ってきて──」
ノブは職場に忘れ物をした。それをヤマダが取りに出かけた道中、大男につかまった。この際に大男は異界の者だとほのめかしたという。
「その人、わたしから元気を吸い取ってさ。もしかしたらその人がだれかを襲うの、こっちの世界で生きるためにやってるのかもね」
「栄養補給で、か……」
「シズカさんならあっちの世界の生き物の面倒をみれるでしょ? シズカさんに紹介したらいろいろ解決するんじゃないかな」
「それで『シズカさんに伝えてくれ』と?」
「うん、よろしくー」
ヤマダはトーマとたわむれだした。彼女の情報共有したいことは以上らしい。
(これじゃシズカさんがどうしていいか……)
拓馬は判断材料の不足を感じた。彼女の要望をかなえられない事情を、大男が抱える危険性を秘めているからだ。
「そいつ、なんでここにいるんだろうな?」
「わからないけど……やっぱりそこ重要?」
「ああ、シズカさんはここで活動する異界の連中を、良いふうに言わないときがある」
「わるさをしにくるやつもいるから?」
「そうだよ。だからシズカさんに伝えるけど、お前が期待する結果にはならないこともあるってこと、わかっててくれよ」
拓馬が考えうる悪い結末とは、シズカが大男と敵対すること。現時点では大男が悪人だと決まっていないが、大男がシズカからの排斥を受ける可能性がないとも言えない状態だ。ヤマダが善意で思いついた行動が、逆に相手を苦しめることにもなるうる。
指摘を受けたヤマダは表情をくもらせる。
「……言いたいことはわかるよ。なんたってうさんくさいもんね」
「シズカさんに知らせていいんだな?」
「うん。もしその異界の人が悪事をはたらいていたら、止めないとね」
ヤマダの同意を得、拓馬はさっそくシズカへメールで通知する。その最中にヤマダは拓馬にとある方針を打ち出す。
「あ、わたしが大男さんに会ったことは、学校のみんなには内緒にね」
「三郎がまた張り切るからか?」
「うん、いまはシズカさんに任せておきたいからね」
ヤマダは「じゃあまた学校で」と言い残し、部屋を出た。拓馬が報告を終えたころには飼い犬の姿もなかった。ヤマダの見送りにいったのだ。
(ほーんとあいつは媚び売るのがうまいよな……)
犬の平生と変わらぬ対応が、厄介事をかかえこむ拓馬の気遣わしさをかるくした。
2
ヤマダが根岸宅を出たあと、拓馬は早々に制服に着替えた。いつもの登校時間より早いが、家にいても落ち着かないので、とっとと登校しようと思った。
拓馬は食事をしに居間へ入った。居間と一体型になった台所に父が立っている。拓馬の家ではたいてい母が朝食を用意するのだが、早起きした父が家事をこなすこともままあった。父以外はまだ起きていないらしい。
拓馬は父に簡単な挨拶をしてから「食うもんある?」とたずねた。父は四角いフライパンで玉子を調理しながら「昨日の残り物が電子レンジにある」と答える。
「いまあたためてる。拓馬が食べると思って」
「ああ、ありがとう」
拓馬は昨夜のメニューがシチューだったのを思い出し、引き出しからスプーンを取った。
「さっき、小山田さんの娘さんがきてたね」
父はやはり気付いていた。拓馬はどこをどう教えていいものやら言葉に詰まる。
「え、ああ、ちょっと話があって」
「今日の夜中にあったこと?」
「へ? なんで知ってる?」
まさか父が盗み聞きをしたか、と拓馬は父の顔をのぞきこんだ。父は苦笑する。
「話すとすこし長くなるんだが、いいかな?」
どうやら拓馬らの会話から得た知識ではないらしい。拓馬は父への信頼を取りもどし、稼働中の電子レンジのボタンを操作する。
「じゃ、飯を食いながら聞く」
拓馬は電子レンジ内にある、ほんのり温まった陶器をテーブルに運んだ。
「昨日はゴミ置き場の鍵を開けるのをうっかり忘れてたから、夜中に出かけたんだ」
父は事の次第を説明しはじめる。
「それから家について、さあ寝ようと思ったら、家の外から男性の話し声が聞こえてきて、その話が気になったから物陰に隠れてたんだよ。そうしたら、妖怪かなにかが、だれかとしゃべってたんだ」
「どうやって人間じゃないとわかったんだ?」
「断片的にしか聞き取れなかったが、言ってることが普通の人じゃないみたいで──」
父は「いや、ちがうか」と自身の説明を否定する。
「話し声が聞こえたときは、内容をわかってなかった。だから勘だな。『この話し声は人間のものじゃない』と、なんとなく感じた」
父は霊的なものに対する感覚が人一倍すぐれている。そのセンサーがはたらいたことを、拓馬は疑わない。
「父さんの勘は、きっと合ってると思う」
その思いはたとえヤマダの体験を聞かされていなかったとしても変わらない。それだけ拓馬は父の能力を信じていた。
「そいつがうちの家の前を通りすぎたのを見計らって、顔を出したら、ずいぶん大きい人影が小山田さんちへ入っていった。ますます気になって、その後ろを追いかけたんだ」
父は平皿に不格好な玉子焼きをのせた。しゃべりながらの作業のせいで、きれいに焼けなかったのだろう。この一家は見た目の不出来を気にする性分ではなく、食べられれば成功作である。父は完成した料理を切り分けた。そのうちの極端に小さくなった部分を三切れ小皿にのせ、拓馬に渡した。残った見た目のよい部分は弁当のおかずに入れるのだ。
次に父は片手鍋に水を入れ、コンロで熱しはじめた。お湯で食材を茹でるのか汁物を作るのか。しかし父はただ突っ立っている。
「そうしたらその大きい人が玄関口で、小山田さんちの娘さんを寝かせて、その子にまた話しているんだ。とても親しげにね……」
「そのデカイやつはヤマダが好きなのか?」
「どうだろう……彼女に
ヤマダに
「もしかして、クロスケが?」
その呼び名はヤマダがつけた。彼女につきまとう人外のことを、父も見聞きしている。父は「そうかもしれない」とうなずく。
「……そんなことがあったから、今朝の拓馬が早起きしたことも納得できるんだ」
説明の区切りがついた父は調理を再開する。冷蔵庫から水菜を一袋出して、水洗いした。鍋の湯は水菜を湯がくための下準備だ。
「拓馬と娘さんの話は短かったようだし、本当はまだ話せることがあるんじゃないかな」
「そう言われれば……あっさりした言い方だったな。『自分がこんな目に遭った』ってことは二の次で、『そうしなきゃいけない訳ありな人を助けて』と、たのみにきた感じで」
「たのむって、拓馬に? お坊さん?」
「警官やってるお坊さんのほう。俺はなんにもできねーもん」
シズカと拓馬とは大きく異なる点がある。人外が見えるだけの拓馬とちがって、彼は人外への対処法を持つ。そのことを父は知っているのに、わざわざ確認してくるのを拓馬はわずらわしく感じた。
「拓馬だからできることだってあるとも」
「どんな?」
「今日は早く学校に行って、あの子の話をじっくり聞いてあげなさい。彼女もたぶん、家でのんびりしてる気分じゃなさそうだ」
「よくそんなにあいつの行動が読めるな。父さんが直接話を聞いたんじゃねえのに」
「長く生きてたらそれくらい想像ができるように……ならない人はならないな、うん」
父の予想は経験にもとづく推察だ。それは他者に関心をそそぐ者にだけ培われる能力である。自分にしか興味のない人間はどれだけの歳月をかけても習得しえない。
「あの子は拓馬だからなんでも言えるんだよ。これは、よその大人じゃできない」
ふいに拓馬の足元があたたかくなった。テーブルの下をのぞくとトーマが足にまとわりついている。拓馬だけがさきにご飯を食べるのを、うらやましがっているのだろうか。拓馬をじっと見上げる目には愛嬌があった。
「ほら、拓馬はトーマが自分のところにきたら、うれしくなるだろ?」
「え? まあ、そりゃ……」
「そばにいてくれるだけで、気持ちが楽になる……それは素敵な能力だよ」
父がトーマのことを口にする意味──拓馬は会話の前後をかえりみて、これは一続きの話題なのだと察する。
「じゃあなんだ、俺があいつの癒しになってるってか? 犬といっしょ?」
父はプラスチック製ボウルに入れたサラダをかきまぜた。その顔は笑っている。
「癒し、だったらトーマの勝ちだな」
「だろ? 例えがわりぃよ」
「すまん、言葉が足りなかった。ようは、だれかの役に立つ力には種類がいろいろあるってことだ。お坊さんの問題解決能力はたしかにすばらしい。でもその力が拓馬にないからといって、引け目に感じる必要はないんだよ」
父は拓馬の自己肯定感の低さを見抜いている。もとより拓馬はそういった発言を過去にしてきたのだから、別段おどろくことではない。だがこの場でなぐさめを受けるとは思っていなかった。拓馬がどう返答していいものか考えあぐねると、足音が近づいてきた。
「あら、もうご飯の支度をしてるの?」
朝食作りの主役な母がようやく起床した。父は調理役を母と交代し、成果物を皿と弁当へ盛る作業に徹する。そうしてできた弁当を拓馬が持ち、早足で家を出た。
3
学校には早朝の部活をしにくる生徒がまばらにいた。けれども拓馬のクラスにはだれもいなかった。普段の拓馬の登校時間帯は、生徒の半数前後があつまるころ。無人の教室を目にするのは、帰宅が遅くなったときくらいだ。見慣れた教室でありながら、現在の雰囲気は異質だと感じた。
(ヤマダはきてないか……)
彼女の弁当と朝食も、おもに親が用意する。拓馬の場合は父が気を利かせてくれたおかげで早く出発できたが、小山田家ではうまく事が運んでいないのかもしれない。
拓馬は自席に着く。時間つぶしがてら教科書類をながめた。数分が経つと廊下から足音が響く。せわしない音だ。音と音の間隔がみじかいため、走っているようである。その音が拓馬のいる教室のまえで止まった。リュックサックを背負うヤマダが入室する。彼女は息を切らして、拓馬の付近にある椅子へ座る。
「タッちゃんといっしょに学校へ行こうかと思ったんだけど、もう行っちゃったって親御さんに言われてさ、いそいできたよ」
「まだ俺に言うことが残ってたのか?」
「うん、けっこう大事なこと! まえにケンカやった金髪の子、おぼえてる?」
拓馬は大男の話が展開されると身構えていた。想定外からの質問を受け、混乱する。
「え……金髪?」
「
拓馬は通算二回会った。一回めは道ばたで通りすがり、二回めはヤマダたちと同じ場で。
「髪が長くって、ちょっと女っぽい子ね。今日の夜中、その子も見かけたんだよ。だれかに電話してる最中で……わたしたちに仕返しする計画を立ててるみたいだった」
あの金髪が復讐をくわだてている──シドが恐れていたことだ。それゆえ、かの教師は蛮行としか思えぬ体罰を金髪にふるった。金髪の復讐心を削ぐために、恐怖心を植えつける作戦だったとか。それが功を成さなかった。
(だいぶ執念深い相手なんだな……)
金髪とシドとの力量の差は歴然だ。そんな強大な相手が拓馬らの後ろにいると知ってなお、あの少年は対抗心を燃やしているとは。
「先生が負ける心配はないんだけど……だれかが人質にとられでもしたら、先生が大変でしょ? しばらくはひとりで外をうろつかないほうがいいのかな」
「みんなが危ないな……声かけとくか」
ヤマダは「ただね」と心配そうに言う。
「サブちゃんにこのことを言ったら、またなんかやりだしそうじゃない?」
「興奮はするだろうが、やれることはないんじゃないか? いまはあの不良連中がどこにいるのか、わかってないだろ」
「その居場所を探す──とか?」
ありえそうではあった。そして三郎ならば見つけた不良らに「そんなに負けたことがくやしいならもう一度手合せしよう」という具合に、彼らの思惑とは明後日の方向へ突き進んでしまいかねない。彼らはおそらく、正攻法で三郎たちに勝つ気などないのだ。憂さを晴らせれば手段はなんでもよいはず。
「また藪蛇をつつくのも、どうかと思って」
「……三郎にはだまっとこう」
「シド先生はどうしよう?」
これもややこしい質問だ。この件に深く関わったシドにも注意をうながすべきではある。しかし彼の職務外の負担が大きい。拓馬らが直接教師に救援を求めたなら、彼は万全の対策を講じる必要性が出てくる。真面目なシドがほどよく手を抜くことは考えにくい。
「あー、うーん……俺らからは知らせないほうがいいんじゃないか?」
「うん。あの先生だと背負いこんじゃいそうだしね」
「それに、あの地獄耳な校長がどっかで聞きつけてくるだろ。校長が『まずい』と思えば先生のほうにも話がいくって」
「じゃあわたしたちだけで注意しようか」
「教えておくやつは、ジモンと、千智?」
この二人に注意をよびかけたとして、その後どうなるか。拓馬はすこし考えてみて、たったいま決めたことのひとつをムダにする気がした。
「その二人に言ったら、サブちゃんにも伝わっちゃいそうだね」
「隠し事はできねえもんな、あいつら」
どちらも三郎の友人。会話のついででぽろっと言う様子は拓馬も想像がついた。
「先生以外にはぜんぶ言っちゃう?」
「そうしとこう。お前に任せていいか?」
「うん、今日中に伝わるようにする。あとね、これはあつかましいかもしれないけど」
ヤマダはうつむく。この態度は拓馬に対する遠慮ではなさそうだ。
「シズカさんに言ったら、その金髪くんをおさえられるかな?」
その依頼はおそらく大男を捕縛するよりも難度は低い。だが、そうであるからこそ頼みにくい。拓馬は首を横にふる。
「それまでシズカさん頼りじゃ、気が引ける。あの人は無限に働けるわけじゃないんだ」
「あのキツネを呼ぶのも、疲れるんだっけ」
「本業でもそいつらを頼るときがあるんだってさ。あまり力を無駄遣いさせたくない」
「わかった。金髪くんはこっちで対処する」
ヤマダは立ち上がった。彼女自身の席へと移るつもりだ。拓馬はこれで会話を切り上げてよいものか迷う。
(父さんが見たこと……ヤマダは知らないんだよな?)
父が今朝拓馬に告白した内容は、ヤマダが寝ている間に起きたことだという。自身の身に降りかかったことはなんであれ、知りたいと思って当然だ。その判断のもと、拓馬はヤマダに父の目撃証言を伝えた。知られざる出来事を知ったヤマダはやはりおどろいた。だがおどろきのポイントが拓馬の予想とちがった。彼女の開口一番に発した感想は「よくバレなかったね」だ。拓馬の父が大男の様子観察を果たしたことを、意外そうに言う。
「あの大男さんって、人の気配に敏感だと思ったんだけど」
たしかにそうだと拓馬も思った。だが父と話す際は感じなかった疑問だ。その根底には父の有する異能力への信頼がある。
「父さんはいろいろ特殊だからな……」
「『気付かれないように』と願ったら、ほんとうに気付かれなくなったのかな?」
「たぶん、そんな感じだな。ケガを治すときも『早く治れ』って念じるらしいぞ」
「便利だね。その力でトーマの考えてることも、わかるかな」
トーマは根岸家の飼い犬の名だ。あのオス犬は情緒豊かなタチである。
「それは見てりゃだいたいわかるよ」
二人の会話がたわいない雑談に変じたころ、足音がかさなって聞こえはじめた。多くの生徒が学校に着く時間帯になったのだ。拓馬は自席にて、朝早く登校する生徒をながめた。
4
拓馬は登校した友人らに挨拶を交わした。いつもは登校時に挨拶される側の拓馬が教室にいるのを、友は大なり小なり不思議がった。
拓馬にもすくなからずおどろきはあった。早くくる理由がないであろう千智が、早々にあらわれたのだ。朝勉強をしにきたり、不測の事態がおきても遅刻しないように用心したり、といった勤勉さのない千智がなぜ──と考えたところ、拓馬は、彼女がおしゃべりだから、と応急の理由をこしらえる。友人と雑談するために早くきている、と見当をつけた。
千智は拓馬に近づくなり「今日はなんで早くきたの?」と率直に聞いてくる。拓馬はヤマダとの約束にしたがい、大男のことは伏せて話す。たまたまヤマダが夜に外出したら例の金髪を見かけ、彼の不穏な計画を聞いた、ということにし、その経緯をヤマダが朝早くに拓馬へ伝えてきたために、拓馬は早起きさせられた、と。
すると千智はにやけて「やだー」と言う。
「あのキレーな子が? けっこうなファイトをもってんのね」
「『キレイ』……?」
「あの金髪よ。かわいい顔してたじゃない」
拓馬の記憶では金髪の邪悪な笑みが印象に残っている。顔の良し悪しはあまり意識しなかったが、たしかに均整のとれた顔であったようにも思う。しかし確実なことは言えない。
「俺は雰囲気しか見てねえから……」
「そうなの? まあ男同士じゃ、相手が美形だからってなんとも思わないわよね」
「キレイとかブサイクだとかは関係ねえんだ。外に出るときは警戒してくれ」
「具体的にどうすんの?」
千智は真顔で聞いてきた。拓馬は対策を熟考していないながらも、それらしく答える。
「何人かで固まってうごくとか、用事は日が明るいうちにすますとか……」
「部活やってたらムリじゃない?」
「帰りが遅くなるのはわかるが、だれかとつるんで帰るのはできるだろ?」
「あっちは三、四人で行動してくるんでしょ。そんなやつらが、女の子が二人や三人ならんでいて『今日はやめとこう』って気分になると思う?」
その抑止力は並みの女子では持ちえない。よほど体格に秀でた女子たちでなくては、相手は引き下がらないだろう。拓馬は自身の読みの甘さを痛感する。
「あー、効果ないな、それは……」
「ね、もっといい撃退法がないかしらね」
拓馬が頭を悩ませていると「ねえ」と声をかけられた。その声の主は須坂だ。拓馬が視線を変えると、須坂の体の正面は千智に向かっている。
「だれかにねらわれてるの?」
「え、うん……」
千智が不気味なほどにおとなしい返事をした。勝気な彼女らしさがなくなっている。その原因は、あまり親交のない生徒からいきなり話しかけられたことにあった。
そんな戸惑いはおかまいなしに、須坂が話を続ける。
「だったら防犯ブザーを借りたら? この学校、貸し出しやってるから」
「よく知ってるのね」
「『使ったら』って、先生にすすめられたの」
「へー、いつから?」
「この学校に通うと決まったあたりに……私、ひとりで暮らしてるし──」
須坂は防犯グッズの貸し出し手続きについて説明した。事務室で事務の人に話をし、用紙に必要事項を記入しればよいのだという。拓馬はこの場ではじめて知った。千智も初耳のごとく傾聴するので、須坂はいぶかしがる。
「この貸し出しって、ここの生徒ならみんな知ってるんじゃないの?」
「入学したときに言われてたかもねえ。でも、そんなの聞き流しちゃってるわ」
「平和だったから?」
「そうよ、こんなにゴタゴタしてるのって今年だけじゃない?」
千智が拓馬に話をふった。拓馬はとりあえずうなずいておく。拓馬個人の身辺においては去年もさほど変わらぬ忙しさだったように思えて、全面的な肯定はしにくかった。
須坂らが防犯対策の談義を終えかけたころ、三郎が入室した。彼は荷物を背負っている。これが彼の登校時間帯なのだろう。拓馬は若干意外に感じた。なんとなく、優等生な彼ならもっと早くに学校に着くものと思っていた。
三郎は千智が須坂と接する様子を見て、あからさまに驚愕した。その反応はいたしかたないことだ。須坂は三郎をうっとうしがっているし、その仲間とも積極的に関わろうとしていなかった──駅での一件をのぞいて。
とはいえ三郎のリアクションは行き過ぎていた。目をひんむく様子は顔芸のようでもあり、拓馬は吹き出してしまう。その笑い声を聞いた三郎が「いや、失礼した」と取り繕う。
「仲良くしているようでなによりだ。なんの話をしていたか、聞かせてもらえるか?」
「あー、それがな──」
「例の不良どもがなんかやらかす気なのよ」
拓馬の説明は千智にとって代わられた。三郎はその説明を受ける間、表情が悲喜こもごもに変化したが、口をはさむことはなかった。
「女子たちはその対策でいいか」
「男はどうするつもりだ?」
「むろん、遭遇したあかつきには再戦を──」
拓馬は三郎のブレなさに諦観をおぼえる。
「せめて、だれかと一緒にいるときにやってくれ」
そのだれか、は戦力にならなくてもかまわなかった。有事の際は他者の助けを求めに行ける、そんな人物でよい。さほどむずかしい要求ではないはずだが、三郎は難問に出くわしたかのようにしかめ面をする。
「といっても、オレは拓馬やジモンとは登下校の方向がちがうから……」
彼は戦力になる同行者を想定している。拓馬がその考えを正そうとしたとき、三郎の目が千智にいく。千智が「あたしぃ?」と渋る。
「やーよ、またあんたに夢中な先輩とかお嬢にやっかまれるじゃない」
三郎と千智は同じ地区から通っている幼馴染。だがこの二人は学校の行き帰りを共にしない。その理由は、恋人の疑いを回避するためだ。三郎の身辺には一部の女子の目が光っており、その被害に千智が
「あたしはあんたが嫌いなんじゃないのよ?」
「ああ、それはわかる」
「でもあんたが優柔不断なせいで、あんたを友だち扱いする女子が困るわけ。わかる?」
「その、千智が迷惑だと言うのもわかるが、オレは決断を先延ばしにするつもりは──」
「だったら先輩かお嬢のどっちかを恋人にみとめちゃいなさいよ。そしたらほかの子だってあきらめがつくの。ちなみにあたしのオススメはお嬢ね、逆玉よ逆玉!」
お嬢とあだなされる女子生徒は親が美容関係の社長だという。裕福な家の出であることは彼女の普段の身だしなみや言動からも知れ渡った。そのような庶民とは不釣り合いな女子に懸想されることを三郎は知っていながら、「そんな底の浅い話はいい」と切り捨てる。
「千智が人目を気にするのはわかった。なら部活帰りはどうだ? 先輩はもう引退したし、お嬢のほうも帰るのが早かったと思う」
「部活が終わる時間はバラバラでしょ。どっちかが終わるまで、片方が待つの?」
「そうだ。せいぜい十分二十分くらいの時間だろうが、惜しいか?」
「それくらいは平気だけどね、あんたからちゃんと先輩たちに話を通しておきなさいよ」
「そこまで周到にやるか?」
「そうよ。あの人たちはじかに見てなくたって、あんたのネタを拾ってくるんだからね」
三郎の要請は認可が下りた。黙していた須坂が「モテるのも大変ね」と微笑つきで三郎を冷やかす。そうして須坂は自席へもどった。三郎はぽかんとした顔で須坂を見ている。
「……人が変わったみたいだな」
三郎の感想に皆がうなずく。拓馬の目にも、難物な転校生が友好的な態度に変わったことはわかった。そのときに予鈴が鳴り、須坂の軟化に関する話題は立ち消えた。言葉をかさねずとも三人が感じた印象は同じだろう。
(友だち……に、みとめてくれたか?)
須坂にまつわる騒動に関わる際、拓馬自身は損な役回りが多かった。だがその結果、肯定的な変化が芽生えた。自分が巻き込まれたことは結果的にメリットのあることだったのだと、拓馬は前向きに受け入れた。
5
須坂が拓馬たちに友好的に接してくれた日の放課後、拓馬はヤマダとともに帰宅した。校門を出てまもなく、例の金髪とその手下の刈り上げの少年と出くわしたが、大した騒動にはならなかった。彼らは偵察にきただけで、事を起こす気はなかった。なにより、彼らはヤマダのスカート姿におどろいた。彼らが見たヤマダは私服のズボン姿であり、それゆえ彼女を女子だと認識しなかったようだ。そのあたりの会話を聞くに、金髪は女子には手を出さない性分だと知れて、友人女子への被害は出なさそうだと拓馬は安心した。また、今回は反対にヤマダが金髪に危害をくわえた。金髪に対し、ヤマダは変人をよそおい、その奇行ぶりに金髪はドン引きしていた。関わっても疲れるだけの相手、との偽装は効果があったようで、金髪たちは割合、無抵抗で逃走していった。
拓馬は自宅付近でヤマダと別れた。玄関へすすむとそこに猫が座っている。全体の毛皮は白いが顔のまん中や耳先、足先が黒い。シャム猫のような柄だ。拓馬はいつもの調子で玄関に近づくも、猫は逃げない。
(人に馴れてる? それか──)
拓馬は今朝自分がシズカに報告したことを思い出した。この珍客が普通の猫ではないと仮定して、白黒模様の獣のそばでしゃがむ。
「どうした、俺に用か?」
猫はちいさな頭を縦にうごかした。その仕草は偶然か、と拓馬が半信半疑になったところ、猫は玄関の戸に頭をつっこんだ。猫の耳や鼻はするっと戸をすり抜ける。またたく間に胴体が半分見えなくなった。
(シズカさんとこの、化け猫か……)
おもに二匹の猫がシズカの指示のもと、諜報活動を行なうという。拓馬はこの猫たちに何度か会ったようなのだが、彼らはその都度体毛の模様と色を変えてくるので、どの猫がだれかという区別はついていない。
(なにかを伝えにきたのかな)
拓馬は玄関の鍵を開けた。猫のあとを追おう──と思いきや、猫は玄関内でまた座っていた。勝手に家屋へ侵入するのを遠慮しているのだろうか。鍵のかかった玄関を通過した時点で、不法侵入相当だと拓馬は思うのだが。
「あがっていいよ」
『ではお言葉に甘える』
猫は中高年らしき男性の声で答えた。想像以上に高齢な性格の化け猫のようだ。
(化け物なら長生きしてるだろうし……)
と、愛らしい見た目と声にギャップがあることを自分なりに納得した。猫が音もなく廊下にあがる。彼らはもとより実体のない身。通路などあってないようなものだが、そのあたりは人間の常識に合わせてくれた。
拓馬は玄関の鍵をかけた。現在は拓馬以外の人間の家族は不在。すこし仮眠するつもりだったので、防犯用に用心しておいた。拓馬が猫にひとこと「すこしまっててくれ」とたのんだ。自室へいき、制服をぬぐ。よごれてもよい私服に着替えた。その格好で、居間の檻で留守番をした飼い犬を放す。トーマは拓馬の帰宅を全身でよろこんだ。拓馬の手や顔をなめたり、自身の体を拓馬にこすりつけたりする。ひとしきり犬の歓待を受けおえて、拓馬はソファに移動した。シズカの使いもソファのへりに乗る。位置的に猫は拓馬のななめ後ろにいる。視線を合わせるため、拓馬はソファに片足をのせ、体の向きを変えた。床につけた足にはトーマのあたたかい体が触れていた。
「それで……なんの用事で、きたんだ?」
『今朝がたの連絡を受けての返事、と思ってもらいたい』
「シズカさんが忙しくて、あんたがその代わりに話をしにきたと?」
『その認識で大差ない。ゆうても、あやつは今晩におぬしと話すつもりでいる』
夜まで待てない理由があるのか──と拓馬は不安がる。
「夜に話してちゃ、手遅れになる?」
『火急の用ではない。わしが遣わされたのは、言葉では教えきれぬことを見せるため』
「『見せる』?」
『事実を語るためにまぼろしを映し出す。わしの得意分野じゃて』
ほかにもできる者はいるがの、と老猫は自虐めいて言う。
『いままでわしが知り得たことを、おぬしに見せてしんぜよう』
「ドキュメンタリー映画みたいなものか?」
『そうじゃ。抵抗はないか?』
「ん? なんで?」
『幻術なんぞ体験したことはなかろうに、不気味ではないのか?』
現状、拓馬はしゃべる猫と接している。この状況を受け入れる自分が、いまさら故意の幻覚を見せられて、取り乱すだろうか。
(不気味なものは、見るときは見るしなぁ)
幼少時のトラウマがかすかによみがえった。悪意をもった霊が拓馬を自宅まで追ってきたことがあるのだ。その原因は、拓馬がうっかり霊に注目したせいだと記憶している。それにくらべて、見る者をどうこうする気のない幻影はおそれるに足らないように感じた。ただし、苦手な映像自体はある。
「まあ、グロテスクなもんはイヤだけど」
『安心せい。しょっきんぐ映像は出てこぬ』
「ならいいや」
『かるいのう』
老猫は拓馬の感性が常人離れしていると言いたげだ。拓馬は自分が非日常的な能力をおそれぬ理由を、もっともらしく言ってみる。
「シズカさんがいいと思ってやることなら……平気だと思う」
『そうか。信頼しておるのだな』
老猫はしっぽをうねらせて『映画といえばの』となにか思いつく。
『なれーしょんの種類は変更可能じゃぞ。若いおなごの声にしようか?』
「あんたがラクな方法でいいよ」
『そうか、ではこのままでやるぞ』
「どうやって見るんだ? スクリーンがぽんっと空中に出るのか?」
『それはめんどくさいんじゃ』
老猫は技術的に不可能ではないと示唆する。その言い方がなんだか人間くさくて、拓馬は老猫に親しみをおぼえた。
『夢を見るのと同じ要領で、映像を流すぞ』
老猫は拓馬に、横になって目をつむるよう指示した。老猫もへりのうえで腹這いになる。
『りら~っくすじゃ』
拓馬は言われるままにソファに寝転がり、目をとじた。今朝は早起きしたせいか、なんだか寝てしまいそうになる。
「これ、ねたらダメだよな?」
『大丈夫じゃ。そうなれば夢見のほうをチョチョイといじるまで』
寝落ちしても問題はないと知り、拓馬はだいぶ気楽になった。
『これからある男のいめーじを伝えるぞ。おぬしの近辺に出没しておる男と、同一だと思われるやからじゃ』
暗い視界が徐々に明るんでいく。目を閉じても見える光景は、色のない世界だった。
6
まぶたを閉じた視界にモノトーンの景色がひろがる。拓馬が真っ先に視認したものは、机に向かう男性の姿だ。周囲にも机と椅子がならぶ中、男性はひとり、開いた本を見たり紙になにかを書いたりしていた。
『これはこやつが勉強しておるところじゃ』
拓馬は「こやつ」という老猫の表現に引っ掛かった。老猫はその男性のことを教えにきたというのに、名前を明かさないでいる。
『わるく思わんでくれ。こやつには本名がないのじゃ』
(え、俺はまだなにも……)
『いまはおぬしの心の声がわしに届く』
(俺の気持ちがつつぬけになってる?)
幻を見ることよりも不気味な状態だ。拓馬がそう感じると『安心せい』と老猫が言う。
『わしに聞きたい、と思ったことが伝わる』
そう聞いた拓馬は安心した。口に出さなくていいぶん、かえって便利な会話方法である。
視界が男性に接近する。その風貌が明瞭になる。年のころは二十歳前後だろうか。華やかさはないが、角ばった顔や太い首からはたくましさがうかがい知れる。かなり発達した体躯だ。それらは拓馬が知る、帽子を被った大男のイメージと通じる。
『こやつはとある異人に拾われた男……「異人」というのは、おぬしらの世界に住む人間が、わしらの世界にきたときの呼び名じゃ』
(その異人はシズカさん……ではない?)
『そう、べつの異人。こちらの説明は割愛させてもらうぞ』
(名前や国籍は言えないのか?)
拓馬にとっての異人という語句には、どうしてもシズカが念頭に出る。混同を避けるために、区別のつく情報がほしいと思った。
『差しつかえない。この時代をさかのぼったころの日本人で、
映像の男性は顔をあげた。彼が横を向く視線のさきに、女性があらわれる。女性の年齢は男性と同じくらいの若さだ。男性が大柄なせいでか、かなりの小柄に見えた。そして白黒の世界でもはっきりわかる、黒髪を有している。彼女が日本人だという前情報も、拓馬の確信に役立っているのだろう。
『この異人はこやつを放っておいてはならぬと考え、わしの住処に連れてきよった』
(どういう理由で保護したんだ?)
『人を
拓馬は悪寒を感じた。殺人未遂──そんな凶悪なことをしでかす男なのか、と。
『こやつ自身は人を死なせるつもりがなかった。生まれながらに備わった力を、うまく使えなかっただけなんじゃ。それゆえ教育をほどこそうと、このおなごの異人は考えた』
黒髪の女性が男性のとなりの席に座った。二人がならぶと、その髪と肌の色の濃度差が如実に出る。男性は比較的、髪の色が薄くて肌の色が濃いようだ。女性は彼に笑顔で話しかけているが、男性の仏頂面は変わらない。
『こんな顔でもな、こやつはよろこんでおるんじゃぞ。この異人を姉のように慕っておったでな』
(それはいいんだけど……人殺しをさせないための勉強って、座学でできることか?)
『ああ、それはちょいと話が前後するのう。こやつは言葉をろくに知らなかったゆえ、最初に基礎的な学習をさせたのじゃ』
(意志疎通をとるために、か)
『しかるのちに武術の稽古をつけ、力の使い方を学んでいった。この異人が稽古相手をしておったが、見てのとおりの体格差。おまけに筋力はこやつのほうがすぐれておる。これではまともに教えようがない』
(ああ、俺もそう思う)
『じゃから、こやつと身体的にちょうど合う男が呼ばれた』
あらたに体格のよい人物がやってきた。頭にターバンを巻いた、どことなくアラビアンな格好の男性だ。大男よりは体型が細いようだ。そう見える一因は、彼の腰に提げた大きな曲刀にもあるのだろうか。
『この剣士がこやつを鍛えた師範。剣にかぎらずなんでも武器を扱えるやつじゃて、広く浅く教えたようじゃ。わしはそのしごきを見ておらんので、映像には出せん』
剣士は二人のまえを通りすぎていった。剣士が去った方向からまた別の人物が出てくる。その人は白衣のようなコートを羽織っていた。コートの片方の腕部分が不自然にはためく。
『この方の片腕は戦で失った──』
(いくさで……)
『……これが、わしの住処の家主じゃ。シズカとも仲がよい』
隻腕の人物が机上の紙を手にとった。紙をながめおえると、男性になにやら話している。
『この家主もこやつの勉学を見てやった。こやつがおぬしらの世界へ行くすべを学んだのも、この方の教えによる』
(なんでそんなことまで教えたんだ?)
『こやつが強くのぞんだ。こやつが異人にあこがれて、おぬしらの世界に興味を持ったのじゃと、このときは思っておった』
(いまはどう思ってる?)
『……わしからは言えん。教えてよいという指示は受けておらぬゆえ』
(そこはシズカさんに聞けってことか?)
『そういうことじゃ。これで最低限の職務は果たした。しばらく質問を受けつけよう』
映像はそのままに、老猫の解説がなくなった。拓馬は胸にわだかまりがあるのを感じている。質問の機会をのがしてはいけないと思い、懸命にその違和感の正体をさぐる。すると映像を見るまえに気付けなかった不思議がひとつ見つかった。
(どうして、この男と俺の町にうろつく大男が同じやつだとわかったんだ?)
共通する点は体格と、異なる世界を行き来する技術があるという二点。それだけで断定できるほど、この二点はめずらしい特徴なのだろうか。
『そうさな、厳密には同一人物と言えん。その可能性がきわめて高いだけじゃ』
(可能性でもいい、根拠はあるんだろ?)
『この近辺でこやつを見かけた』
(え、いつ?)
『おぬしがこやつの存在を知るまえじゃ』
つまり、事の発端である成石の襲撃よりむかしのことだ。しかし拓馬は心当たりがない。
『ほれ、黒い化け物を見たと言うておったのじゃろ』
(そうだったっけ……)
『シズカに確認してみい。あやつはマメじゃから記録をつけておるはず』
映像が暗転していく。これで質疑はおわったのかと思いきや、べつのカットで大男が映しだされた。彼は
『ここでのこやつはこんな感じじゃな。色メガネをはずしてやると、こうじゃ』
映像の男性がてずからサングラスを取った。拓馬が冒頭に見た、勉強中の男性と同じ顔つきだ。
『この顔をようおぼえておきなされ』
(俺がこいつの顔をおぼえて、なにか意味があるのか?)
『仮定を確定にちかい状態にしておくと、次の仮定を吟味しやすい』
(次の仮定?)
『なぜこやつがおぬしらの世界にくることになったか、そのいきさつをシズカが今夜、告げる。こちらの話は断言できる裏付けがないゆえ、参考として聞いてもらいたい』
幻影が遠のく。一面暗い視界になると拓馬は目を開けた。老猫はまだソファにいる。
『では失礼するぞ』
老猫が壁をすりぬけた。姿が見えなくなるのを待ってから、拓馬は寝返りをうつ。シズカの話を集中して聞けるよう、いまは休むことにした。寝入るまでの間、脳裏には圭という女性と大男のやり取りが思いうかぶ。
(『姉のように慕ってた』……か)
拓馬には実の姉がいる。だが姉は拓馬が慕えるような人柄ではない。家事はできないしドジは踏むしで、拓馬はよくその尻拭いをさせられる。そのことに嫌悪感をいだくことはないものの、姉というものが頼れる存在だという認識は皆無。老猫が言う姉の定義と、自分の姉との乖離に、おかしみを感じた。
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