二章 小康

1

 拓馬は外科の診察を終えた。総合受付前にある、背もたれつきの長椅子に座る。手持無沙汰ゆえ、自身のこめかみに施された処方をさわった。厚みのあるガーゼの上に、つるつるした紙テープが格子状に貼ってある。素人でもできそうな処置だ。医者は看護師が血を拭きとった傷口を見て、軽傷と診断した。そのうえでこの簡素な処置を最善とみなした。

(父さんを呼ばなくてもよかったかな……)

 病院へ向かう道中、ヤマダが「保険証を持ってきてもらおう」と言いだし、それぞれの親に連絡をした。拓馬はなりゆきで父に連絡を取ったが、いらぬ心配をかけたという後悔が湧きあがる。また、ほかにも気がかりなことがあった。ヤマダが自身の携帯電話を使用したあと、ずっと眠りこけた。あれは睡眠ではなく、意識を失っていたのではないか。

(どこで聞いたかな……車にぶつかられた人が、見た目の傷はなかったのに急に死んだ話)

 その話の人物は、事故直後に病院で治療を受ければ生きのびる可能性があったという。「これぐらい平気」と楽観したがゆえの悲劇だとか。だがそう楽観するのも仕方がないらしい。人間は突然の事故に遭遇すると脳が興奮状態になり、痛覚がにぶることもある。そのときは痛みを感じなくとも、体内では着実に異変が進行し、取り返しのつかない事態におちいる──ヤマダもその危険はあるのだ。

 拓馬が冷静に状況整理をしていると廊下の角からシドがあらわれた。彼はまた女子を横抱きで運んでいた。拓馬は互いの状況確認をし、ヤマダは無事だと聞けて、安心した。

 シドはヤマダを拓馬の隣に座らせた。彼女の体を支えながら、シド自身も椅子に腰かける。ヤマダはまだ寝ている。彼女のポニーテールの房の中に、黒く丸い物体がこそっと姿を出した。これは拓馬が昔から見える、なんらかの異形だ。ヤマダに憑いているようだが害はなく、拓馬たちは長年放置しつづけた。

「こいつ、ずっと眠りっぱなしだな」

「はい。お疲れなのでしょう」

 ヤマダはシドの二の腕にもたれかかる。さながら電車内で居眠りをする乗客のようだ。

(先生、ムリしてるんじゃないのか?)

 家族や親友を枕がわりにするのはいい。だが他人に甘える行為を続けさせてよいのか。そう思った拓馬は「いい加減起こしたら?」と提案した。シドは首を横に振る。

「私はこのままでかまいません」

「無事なやつを甘やかさなくたって……」

「危険な思いをしたのですから、充分に休んでいただきたい」

 一番の危険人物が言うセリフか、と拓馬は心中で指摘した。この男はひとりの少年を絞め殺す寸前まで苦しめた。刃物を向けてきた相手とはいえ、過剰防衛に相当する。

(その話、いましとくか)

 気乗りしないが、教師の常軌を逸した行動はやはり捨ておけない。二度めがないよう、彼のゆがんだ認識にゆさぶりをかけておく。

「先生はどうしてあの不良を……半殺しの目に遭わせたんだ?」

 拓馬は受付を見ながら話す。このときばかりは相手と顔をあわせる度胸がなかった。

「ああいう手合いは執念深いのです。あのまま帰しては貴方たちに仕返しをしてきます」

「それで、あんなに痛めつけたと?」

「はい。報復の意欲をそぐようにしました」

「もし死なせたらどうする?」

「さきほども言いましたが、手加減は心得ています」

 確固たる自信を持った返答だ。その自信にふさわしく、シドの武芸の腕前は拓馬を数段しのいでいる。未熟な拓馬が、実力者にけちをつけることはできなかった。

「私は貴方たちに傷ついてほしくありません。それをわかっていただきたい」

 その言葉に嘘偽りがないと、拓馬は感じる。

(俺たちの安全を考えて、か……)

 良心から出た言動ならばなにをしても良いわけはないが、拓馬は反論の意思がついえた。

 しばしの沈黙が続く。拓馬は重い空気のまま親を待つことに耐えられず、雑談をする。

「先生は警備員だったんだってな」

「はい、そうです」

「警備の仕事っつったら、俺がパッと思いつくのはデパートとかマンションの見張り番だ。オッサンか爺ちゃんがよくやってるやつな」

「ええ、中高年の守衛さんは見かけますね」

「でも、先生がしてた仕事はもっと危険なやつじゃないか?」

 そう言った直後、拓馬は自分がまた重たい話題をもちかけたことに気付いた。だが後戻りはできない。この機会に質問をしておく。

「人が死なない範囲の手加減を知ってるっていうの、普通の警備員には無い技術だよ」

 人がギリギリ生きていられる責苦を熟知するということは、逆説的に人が死ぬ境界線を知っていることにもなる。そんなことを知れる職業には、本当に人が死ぬところに立ち会う仕事内容がふくまれるのだろう。人死にが出る、戦闘技術を要する職種とは──

(軍人とか……殺し屋?)

 平和な世界を生きる拓馬には現実味のない職業だ。しかも仮説の二つめに出てきた職業内容は犯罪である。そのような汚れた前職嫌疑をかけてはシドに失礼だ。拓馬はもうすこしマシな職種や話題を考える。

「……エスピーって言ったっけ。偉い人を守る仕事な。先生はそういうのやれるくらい腕が立ちそうだ」

 今日のシドの戦いぶりを見て、教師には過ぎた戦闘能力を持つことが顕在化した。今度はそういう流れにもっていく。

「転職するにしても、武道家や警察官でもやっていけそうだ。なんで教師になろうとしたのかわかんねえよ」

 シドは返答しない。拓馬は無礼な質問をしたかと不安になる。

「あ、言っとくけど、先生が教師に向かないってわけじゃないからな」

「そうなのですか? 貴方は私に格闘技術を活かす職を勧めたように聞こえましたが」

「そうじゃない。先生は知らないだろうけど、去年、教師になったばっかりのヤス先生と比べりゃ全然ちがうよ」

 若手の社会教師は新任当初、見るも無残な授業を行なっていた。緊張のしすぎで声がどもったり、授業の時間配分がうまくいかずに予定した試験の範囲をせばめたりした。これがもし受験勉強にはげむ上級生の受け持ちをしていたなら、大ヒンシュクを買う失敗だ。それでも当人の一生懸命ぶりはみなが認めるところであり、人柄でどうにか今年度の勤務を継続できたような人物である。そういった失態を、シドは一度もやらかしていない。

「ヤス先生は、あれで愛嬌があっていいんだけどさ。シド先生は安心して見ていられる。一学期だけで終わるのはもったいない、と思うくらいだよ」

 拓馬はシドと対比する若手教師をおとしめすぎない程度に、シドの指導力を称賛した。その言葉は拓馬の正直な感想だ。急ごしらえの美辞麗句では決してない。

「だからさ、俺は純粋に、先生が教師を目指したわけが気になるんだ」

 こういった質問はヤマダが口にしそうなものだ、と拓馬は我ながら思った。拓馬がこれほど他人に関心を示すことはあまりなかった。武芸家のはしくれとして、やはり強者には心惹かれるものがあるのかもしれない。

「たしか先生は今年で二十七歳になると言ったな」

 その個人情報は彼の初授業時、シドへの質疑応答のときに彼が答えたことだ。

「その武術はたぶん、教師を目指すよりまえに、身に着いてたもんだろ?」

「それは……そうですね」

「それも、ほんの数年鍛えてとどく域じゃない。幼いときから仕込まれたんだろ?」

 拓馬は幼少時から父の希望に沿い、さまざまな武芸に師事した。その師匠たちは達人級の者もいれば素人に毛が生えた程度のうさんくさい者もいたが、拓馬はそれなりに強者を知っているつもりだ。拓馬が知る強者とは、幼少時から武術に慣れ親しんだ者ばかり。

「それだけ強くなるのは大変だったはずだ。で、教師になるときはまた勉強で大変な思いをするじゃないか。そんなことしなくても先生は生きていけるだろうに、なんでまるで正反対な世界に入ったんだ?」

 シドは口元を手で覆い、黙考した。拓馬は疑問の補足が出尽くしたので、沈黙が続く。

「……ネギシさんの言う通りです」

 ぽつぽつと、独り言のようにシドがしゃべりはじめた。

「私は物心がついたころ、あらゆる武術を学びました。不出来なもので、どれも半端な修練のまま終えます。学ぶのをやめたあと……私にとって争い事は身近な存在になります」

 拓馬がはじめて聞いた過去だ。シドは口にあてた手をおろす。

「それが嫌になったのです。これが、私が戦闘にかかわる職業を避ける理由です」

「戦うことが嫌いになったってことか……」

「次の質問は『なぜ就任の条件が厳しい教職をめざしたのか』でしょうか」

「まあそうだけど……でもそれはいいや」

「なぜです?」

「先生は教師に向いてると思うからさ。戦いのがイヤで、ほかの仕事をするとなったら、ほっといても教師になってそうな気がする」

 シドは拓馬の言い分に釈然としないようだ。しかし拓馬は彼が腑に落ちる言い方が思いつけない。もっと伝わりやすい言葉を、と考えていると、突然わしわしと頭をなでられる。

「拓馬もケガしちまったのか?」

 拓馬はびっくりしたが、その聞きなれた声に安心感をおぼえた。

「男はそれぐらい、わんぱくやってるのがちょうどいいぜ」

 ふりむけばヤマダと目鼻立ちが似た、大柄な中年が立っている。目じりがつりあがるせいで性格のキツそうな印象を受ける反面、人懐っこい性格をしていた。彼がヤマダの父だ。シドはこの中年が教え子の親だと察し、頭を深く下げた。


2

 ヤマダを迎えにきた保護者は頭にねずみ色の手ぬぐいを巻いていた。それは彼が飲食店の勤務中によく着用する頭巾だ。

「ノブさん、仕事を抜けてきたのか?」

「ん? ああ、まだ客が入る時間じゃねえ。抜けるってもんでもない」

 ノブは快活な笑みを見せた。彼の視線は拓馬からスライドして、銀髪の教師でとまる。

「その髪……あんたがシド先生か。娘から話は聞いてる」

「はい。先日はジャージを貸していただきまして、ありがとうございます」

 両者の衣服の貸し借りは先日の体育祭のときに行なわれた。シドは運動着を持たない。そのため彼は普段のスーツ姿で体育祭の予行演習に参加した。それを見たヤマダはシドが不便だろうと思い、自身の父のジャージを貸した。シドとノブは背丈がほぼ同じだったので、そのジャージはシドの体にも合った。

「礼はいいさ。あんなもんじゃ、あんたにかけてる苦労がチャラになりゃしない」

 この言葉は、現在進行形で娘が迷惑をかけることを指すように拓馬は聞こえた。婉曲的な謝罪にシドは「承知のうえです」と答える。

「そのために私は雇われたのです。オヤマダさんが気に病む必要はありません」

 気にしないでとシドは主張するものの、自身が迷惑を被ったことを肯定する言い方だ。あまりノブへのなぐさめになっていない。実際問題、しなくてもいいことをしでかした生徒を、教師がてずから病院へ移送する事態は、本来の業務外である。それを迷惑でないと断ずるのは空虚なウソになる。これがこの教師なりの誠実さなのだと拓馬は思った。

 ノブはシドの言う「承知」の意味に見当がつき、「あんたも災難だな」と言う。

「生徒が藪蛇をつつく連中で、大変だろ?」

「いえ、私がのぞんでやっていることです。不満はありません」

「ずいぶんと人ができてるんだな……」

 ノブは率直に感心した。その感想自体はいいのだが、彼はずっと娘をほったらかしにしている。拓馬には常識外れな行動に見えた。

(まずはケガした娘を気にしねえかな……)

 この反応には一応の理由がある。ノブは電話口で娘の元気な声を聞いていた。だから被害を軽視するのだろう。しかしずっと雑談ばかりもしていられない。拓馬はノブに本来の目的を告げる。

「ノブさん、早いとこ受付で診察代を払ってくれるか? 受付の人がにらんでるぞ」

 本当に受付の職員がノブを見ている。ただ注目の原因はノブの騒がしさにある。彼は声も体も大きい。存在感が強烈なのだ。

 ノブは「おう、行ってくる」と応じて、今度は受付の職員に話しかけた。新人教師は本日まみえたヤマダの保護者を見つめる。

「あの方が、オヤマダさんのお父さんですね」

「そうだよ。顔はヤマダと似てるけど、体格と中身はジモンだな」

 ノブはジモンの実家の飲食店で勤務している。その影響で、客からはノブがジモンの父だとまちがえられることがあった。二人に共通する特徴は、第一に筋力秀でた身体、第二に豪放磊落な性格。そのうえノブは娘と同世代な男子を実の息子のように目をかけるふしがある。それらノブの特徴は、他人がジモンの親だと勘違いするに足るものだ。そして拓馬自身も、付き合いの長いノブには家族にも似た親愛の情をもっている。

 疑似親が病院の職員に「あんがとさん!」と礼を述べた。ノブが拓馬たちのもとに舞いもどってくる。彼はここにきてやっと「最近よく寝るんだよなぁ」と娘に関心をそそぐ。

「それでよ先生、娘はなんともないんだろ?」

「はい。ですが念のため、今日明日中は安静にするようご配慮をお願いします」

「わかった。母親から言いきかせりゃ、おとなしくするはずだ」

 ノブは娘のまえにしゃがむ。娘の顔に手をのばして、頬を左右に引っ張ったりもどしたりする。まるで子どものいたずらのようだ。

「ノブさんは全然、心配してねえのな」

「なんの、平気に決まってるだろ」

 ノブが破顔一笑する。

「おれの子どもの中で一番つえー子だからな!」

 ヤマダの父親は底抜けに明るく言った。その明るさが逆に、拓馬の同情心を湧かせる。

(ヤマダの兄弟……か)

 拓馬は伝聞によってその存在を知っている。この目で見たことはなかった。


 ノブは拓馬との雑談を切り上げると、しゃがんだ状態のまま、くるっと背を向ける。彼はヤマダの両腕を自身の両肩に乗せる。

(おぶっていくんだな)

 拓馬は移乗の補助をする。ヤマダの上半身を、ノブの背に預けさせる。ヤマダが後方へ倒れてこないよう、その背中を押さえた。

 ノブが娘のひざ裏に手をかけたとき、ヤマダの目が開く。彼女は寝起きにぼーっとしやすいことを拓馬は知っていたが、手短に事情を説明する。

「ノブさんが迎えにきた。一緒に帰れよ」

 ノブは娘の了承を得るまえにヤマダを担ぎ上げた。寝ぼけるヤマダはノブの背にもたれかかっている。が、急にノブの両肩に手を置き、ぴんと腕を伸ばす。

「ヤだな、先生がいい」

 ヤマダは父親を拒絶する。ごねる娘の態度に、ノブはわかりやすい不満顔をつくる。

「ゼータク言うな、ありがたーくオヤジの背中を借りてけ」

「先生は油くさくないんだもん」

 ノブの職務上の臭いか加齢臭かはわからぬ体臭を、ヤマダは嫌っているらしい。臭いに心当たりのあるノブは臭気の存在を否定せず、別の観点で反論する。

「だいたいな、先生みたいな立派な男前とちんちくりんなお前じゃ釣り合わねえってもんだ。身のほどをわきまえろ」

「図体がデカイだけの大飯食らいのくせに」

「体が大きいぶん、たくさん食うのはしゃーねえだろ」

「先生は背が高くても、昼飯をコーヒーですます少食派だぞー」

「そういう人は朝飯と夕飯をたーんと食ってんだよ。なぁ先生?」

 親子の罵り合いにシドが巻きこまれた。彼は「え?」とかつてないうろたえを見せる。拓馬は助け舟を出すことにした。

「ここは病院だ。親子喧嘩は外でやってくれ」

 拓馬は「帰った帰った」と二、三度手をはらう。ノブは「そりゃそうだな」と拓馬の指示にしたがった。ヤマダを背負ったノブが数歩進み、ふいに立ち止まる。

「そういや、先生に聞いておきたいんだが」

 ノブが体の向きを変える。シドは「なんでしょう」と聞き返した。

「先生の知り合いに、先生の体をもっと大きくした感じの、若い男はいるか?」

「……存じあげないですね。その男がどうかしましたか」

「そいつの目や髪の色が……先生と似てると思ったんだ。変なことを言ってすまん」

「いえ、お気になさることではありません」

「あと、もうひとつ言いわすれてた。娘たちを守ってくれてありがとな」

 ノブは大きく口角をあげてみせたのち、出口へ向かう。彼らが病院を出ていく。あたりは嵐が過ぎ去ったかのごとく静かになった。拓馬たちは次に、拓馬の保護者の来訪を待つ。

 拓馬が電話をかけた相手は父親だ。父にとって今日は休日出勤をした代わりの休み。外出の予定はなく、一日家にいるはずだった。それなのに出勤していたノブより出遅れるとは、と父親の鈍くささをうらめしく感じた。


 拓馬がひまつぶしに無言の教師を見てみると、彼の黄色いサングラスがないことをあらためて気づいた。取り立てて聞くべきことではないと思いつつも、そこを話の起点とする。

「先生、サングラスはどうしたんだ?」

「慌てていたもので、学校に置いてきました」

「へえ、学校で外すことがあるんだな」

「色ペンを使うときは外しています。使いたい色ペンとちがう色を使うおそれがあるので」

「めんどくさいことやってんな。最初からサングラスなしでもいいんじゃないか?」

 ヤマダが収集した話によると、シドのサングラスはコンプレックスを隠すためのものらしい。青い瞳が周囲の奇異の目にさらされるのを、嫌がってのことだとか。拓馬にはそこまで気をつかわなくてよい事柄だと思える。

「先生の目が青いからって、からかったり怖がったりする生徒はいないと思うぞ」

「実はその理由は建前です」

「え、ウソなのか?」

「まったくの嘘でもないのですが、私にこだわりがあるのです」

 どんなこだわりだろう、と拓馬は思ったが深追いをやめた。

(俺が聞いていい話じゃなさそうだな)

 簡単に他言できることなら建前なぞ用いないはずだ。詮索すると無礼にあたりそうで、拓馬はだまった。

 拓馬がなにも言わないでいると、やはりシドも説明を加えなかった。みずから教える気はないらしい。

 会話のネタが尽きた拓馬は出入り口の自動扉を見張る。何人かそぞろに出たり入ったりする。そんな中、やっと待ち人らしき中年を発見する。中年は周りをきょろきょろ見ながら歩き、拓馬と視線が合うとまっすぐに近寄ってきた。ノブを見たあとでは貧相な体型に思えるが、十人並みな容姿だ。これが拓馬の父である。

「ごめん、待たせたね」

 父は拓馬の額にある、ガーゼの上にそっと手のひらを置く。

「傷は……この一か所ですんだのか」

 父の手からじんわりと温かい感触が広がった。拓馬が負傷したとき、父はよく文字通りの手当てをする。原理は不明だが、父がこうやると傷がはやく治るのだ。浅い傷ならば一晩で完治できるほどである。霊視だけの拓馬とはちがい、父はいろいろと器用な能力を持つ人だ。

 次に父はシドに深々と頭を下げる。

「先生、お忙しいのに息子を病院に連れてきてくださって、ありがとうございます」

 これが拓馬にとっての常識的な言動だ。

「もう平気ですから、どうかお仕事にもどってください」

 お騒がせしてすいませんでした、と父がもう一度シドに頭を下げる。一連の動作中、なぜかシドは返事も身じろぎもしない。茫然自失でいる。傍目にはだれも奇矯なことなどしていないのだが。

「先生? 固まっちゃって、どうしたんだよ」

「え……いえ、すいません」

 シドは頭をかるく振る。どうにも反応が変だ。

「今日の私は調子が悪いようです。早々に失礼します」

 シドは席を立ち、父に深々と一礼する。そしてこちらの反応を待たずに去った。父はきょとんとした顔をする。

「先生はお疲れなのかね?」

「うーん、いろいろあったし……」

 思えばシドがなんでもないことで驚愕するシーンはまえにもあった。ヤマダが彼にあだ名をつけたとき、ただのニックネームだというのに、彼はいまと同じように当惑した。拓馬にはなんでもないことでも、シドの感受性では真新しいものを感じているのだろうか。

「ま、いいや。早いとこ帰ろう」

 拓馬は見飽きた広間に別れを告げるべく、父に清算を急かした。財布を広げる父の後ろ姿を見ると、ズボンの尻ポケットからナイロンの袋がはみ出ている。その袋はよく犬の散歩のときに持ち歩くものだ。

(トーマの散歩に行ってたのか)

 拓馬が父に連絡をしたとき、父は外出中だった。そこから家へ引き返すロスがあり、病院到着が遅れたのだと拓馬は納得がいった。


3

 病院帰りのさなか、拓馬の父は息子の負傷の経緯をたずねてきた。拓馬は電話口では話せなかった仔細を、包み隠さず話した。すると父は息子が友人のために傷を負ったことを理解し、かえってその心意気を奨励した。ただ一点、苦言を呈する。

「小山田さんとこの娘さんには、危険なことをさせてほしくないな。あの子は、あの家族の心の支えだから──」

 ヤマダを精神的支柱とする人物──拓馬はヤマダの母親を一番に想像した。拓馬はヤマダの母にもノブ同様の疑似親的な情愛を感じている。当然、彼女を悲嘆に暮れさせる真似はのぞんでいない。それでも父の願いを「わかった」とは即答できなかった。もとよりヤマダは自分の意思であの状況下におちいった。拓馬にできることとは、危険に首をつっこむ彼女と運命を共にすることくらいだ。それゆえ拓馬は「努力はする」と返答した。


 拓馬たちが他校の少年らと再戦した翌日、拓馬の傷口はふさがった。早く治癒できた理由は自身の回復力と、父の手当てのおかげだ。拓馬はガーゼを外し、なに食わぬ顔で登校した。教室に入ると、ジモンがびっくりする。

「拓馬! ケガはどうしたんじゃ、ちゃんと看てもらったんか?」

「病院に行って、ガーゼを貼ってもらったよ」

「もう外してもええんかの」

「だって、傷はないだろ」

 拓馬は昨日出血したこめかみを指差した。ジモンは目を丸くしながら拓馬の額を見る。

「医者いらずの体じゃな!」

 ジモンは感嘆と同時に拓馬の背を叩いた。その力の入り方は強い。拓馬は痛みにむせる。

「うぐっ……もうちょっと加減を……」

「いやースマン! うっかり力んでしもうた」

 ジモンが豪快に笑う。楽天的な性格とはいえ、傷を負った友人の心配をしていたらしい。

「ほんで、拓馬はヤマダと一緒に病院に行ったんじゃろ? あいつの調子は聞いとるか」

「ああ、元気にしてたよ。病院の帰りはノブさんにおんぶされていった」

「おとなしくノブさんにおぶさるようじゃ、元気とは言えんの」

「あいかわらず悪態をついてたから平気だよ」

 ジモンもヤマダが父親と仲がわるいのを知っている。顔をあわせればつい憎まれ口を叩くのが小山田父娘の在り方だ。ノブと波長がマッチするジモンは「あんなにいい人なのにな~」とヤマダの嫌悪を理解できないでいた。

「ジモンには合っててもヤマダには合わねえ人なんだよ」

 拓馬はそれらしいことを言っておいた。ジモンと話がすんだ拓馬は自席に向かう。付近の席にいる、名木野という内気な女子と簡単な挨拶を交わす。彼女はヤマダと親しい女子で、拓馬とも多少の親交がある。拓馬は彼女との話はこれで終了したと思ったが、名木野が「あの」と続行する。その表情は暗い。

「根岸くん、ケガしたんだって?」

「ああ、ちょっとだけな」

「ごめんなさい、痛い思いをさせて……」

「なんで名木野が謝るんだ?」

「私、仙谷くんの計画を知ってたのに……先生に言おうかどうしようか、ぐずぐずして。それで先生に知らせるのがおそくなったの」

 拓馬はこの事実を想定していなかった。

(先生が独断で、助けにきたのかと思ってたが……)

 本摩が「体育祭がおわるまでは待て」と言っていたのだから、その直後に仙谷らが活動を起こすことは容易に予想がつく。その推測のもと、あの教師がタイミングよくあらわれたのだと拓馬は想像していた。

「まえに校長の呼出しを受けたんでしょう? 先生に知らせるとまた叱られそうで……」

 名木野の迷いとは、拓馬らの不利益が出ると考えたために生じた。彼女らしい気遣いだ。

「先生に言ってくれたおかげで、軽いケガだけですんだよ。ありがとうな」

 名木野の心が幾分か晴れ、表情が明るくなる。名木野は「ありがとう」とつぶやいた。

 拓馬は授業の準備をした。その最中、ヤマダが入室する。彼女の手に平たい小箱があった。なにを持ってきたのだろう、と好奇がつのったが、そこへ三郎が話しかけてくる。

「拓馬、医者にかかってきたんだろう?」

「そうだよ。もう傷はもう治ったから──」

 拓馬は同じことを何度も言うことに気怠さをおぼえた。だがその感情は瞬時に吹き飛ぶ。

 拓馬に一枚の紙幣がつきつけられた。それはこの国で二番目に価値の高いお札。生徒が携行する昼食代金や交通費にしては高すぎる。

「なんだよ、この金?」

「見舞い金だ」

「なんでまた……」

「オレが言いだしたことだ。なのに診察料も出さんのでは義にそむく!」

「べつにいいよ、友だちだし……」

「『親しき仲にも礼儀あり』だ!」

 三郎はお札を拓馬の胸へと押しつけた。拓馬が返却しようにも、三郎が離れていってしまった。三郎はヤマダにも同様の見舞い金を支払っている。

(勝手についてきたやつにもか)

 拓馬は三郎から同行をたのまれていた。そのため拓馬がこうむった損害を三郎が保障することは理にかなっている。しかしヤマダは三郎による参加依頼を受けていない。自由意思においての負傷は自己責任になりそうなだが、三郎は動機の区別をしていないらしい。

(それはいいけど、どっから出た金なんだ)

 三郎はヤマダにも拓馬と同額の紙幣をあげている。合計すると、学生のポケットマネーでポンと出せる額ではない。部活と勉強と生徒会で忙しい彼が、学生バイトで稼いでいるとは思えないのだが。

(親からもらったこづかいだと、気の毒だな)

 そういった遠慮をヤマダも感じている、と拓馬は思いながら二人の動向を見守った。ところがヤマダはあっさりお金を受け取る。そしてそそくさと退室した。どうも彼女は気持ちが明後日の方向へいってしまって、三郎が眼中に入らないようだった。

 義理を果たした三郎は得意満面に席へもどる。これで拓馬たちへの負い目を解消できたらしい。

(もらっておくのが、礼儀か)

 かたくなに拒否すればきっと三郎が不愉快になる。それは彼に対して失礼だ。拓馬はもらったお金をいったん預かっておき、あとで三郎のために使おうと思った。ありきたりな使いどころは誕生日プレゼントだろうか。

(そういや、いつの生まれだか知らないな)

 拓馬は付き合いの長いヤマダやジモンの誕生日を知っているものの、三郎とは高校で知りあった仲なので、案外知らないことがあるのだと気づく。機会をみて三郎のプロフィールを知っていそうな人に聞こう、と見当をつけた。

 なんとなく、三郎の誕生日を知っていそうな生徒の様子を見る。いま教室にいるのは千智だ。彼女は名木野相手に、昨日起こったことをしゃべっている。シドが起こした暴挙への言及もあり、あまり他言してよい内容ではなかった。話をやめさせようか、と拓馬はあせったが、別段シドから口止めされていないことだ。拓馬の判断で「しゃべるな」と千智に言っても彼女が不満を感じるだけかもしれず、拓馬は友人の口外を止めなかった。


4

「拓馬、聞いてくれ!」

 本日最後の授業がおわったとたん、今朝に見舞い金をくれた友人が話しかけてきた。

(まだなんかあるのか……)

 拓馬が三郎を見てみると、彼は授業でよく使うノートを持ってきている。

「近所に出没する不審者の話、していいか?」

「また俺らで退治しようってのか?」

「その前準備だ。ほら、シド先生との約束があるだろう?」

 喧嘩の処分が決まるまでは問題を起こすな──シドはそう忠告した。三郎はその言い付けを守るつもりだ。彼は自己の正義に反しない範囲において、教師に従順な優等生である。

「オレとて数日は自粛しようかと思ったんだが……計画を伝えるだけならきっと平気だ」

「計画ぅ?」

 拓馬は「聞きたくない」と言わんばかりに口をすぼめたり眉をうごかしたりして、拒絶の意思表示をした。ところが三郎はどういうプラス思考なのか「ふふふん」と笑う。

「案ずるな。作戦決行日は金曜の夜だ。それまでにオレたちの処遇は決定するだろう」

「前回は反省文を書かされたろ? 昨日の件で一回、その計画とやらでもう一回反省文を書いてもいいのかよ」

 それでは見せかけの反省だ。生徒らの不遜な態度を知った教師陣は「反省文では罰に値しない」と判断しそうである。そうなれば作文が優しい処罰だったと思えるほどの罰が待ち受けているかもしれない。

 拓馬が不安を掻きたてるのとは反対に、三郎は胸の前に握りこぶしをつくる。やる気に満ちた顔で、拳をぶるぶると震わせる。

「弱者をおびやかす悪の実態をあばくためだ。その程度の罰に屈してはならん!」

「反省文よりきっつい罰だったら?」

「そのときに考える!」

「学校を出てけと言われたら?」

 退学は生徒にとって最悪の処罰である。校長は変人といえど温情のある大人ゆえに、校長ひとりの判断では下されにくい決断だ。しかし、権威ある教員は校長以外にもいる。校内の二番手である頭デッカチな教頭が、退学処分を最善だと主張したなら、あるうる未来だ。

「オレは出ていこう。だが拓馬たちは巻き添えをくわないよう、懇願する」

 決然とした態度だ。そこに「そんなことが起きるはずがない」という楽観は無い。

「そこまでしてやることか?」

 自己犠牲の精神を尽くす動機があるのか。拓馬には提案者の並々ならぬ気迫を感じた。

 三郎が神妙にノートをめくりだした。無地の裏表紙と、ノートのタイトルが書かれた表表紙が見える。表のほうには大きく「極秘」の文字がマジック書きしてある。

「ずいぶん自己主張の強い『極秘』だな」

「些末な……話をすすめるぞ! オレが引き下がらん理由は、須坂だ」

 須坂は男子とまともに口を利かない女子。暑苦しい性格の三郎とは接点がなさそうだが。

「え、あいつ男嫌いだろ。どういう仲だよ?」

「仲はよくない! 事情を聞けただけだ」

「どうやって?」

「連休中にオレはバイトをしていたんだ。ヤマダの提案でな。そのときに須坂と会った」

「俺の姉貴が通ってる店か?」

「ああ、その喫茶店だ」

 ヤマダと拓馬の姉は同じ店で短時間の仕事をしている。ヤマダは勤めだしてから長い経験者だ。一方で拓馬の姉はまだ半年経たない新任者。姉はあまりに家事下手なので、その矯正代わりに就労している。拓馬の身内がはたらく店に、三郎もいたとは。

「どういう風の吹き回しだ?」

「ヤマダに『友だちに頼みごとをするのにも限界がある』と言われた。拓馬たちの善意に甘えるばかりではいけない、というわけだな」

「で、今朝の見舞い金か?」

「そうだ。事件がおさまるまで、オレたちが危険にぶつかっていくことは予想できていた。万一だれかが負傷したら……そのときの治療費を確保しようと思って、ヤマダのいる店で稼がせてもらったわけだ」

 拓馬は謎がふたつ解けた。三郎が気前よく支払うお金の出所と、そのお金へのヤマダの反応がうすかった原因。もとよりヤマダは見舞い金の存在を認知していたのだ。朝に感じた疑問はそれですっきりした。しかし三郎が転校生の女子と接触した経緯はまだわからない。

 がらがらと教室の引き戸が鳴る。三郎が教室の戸口を見た。拓馬も音の鳴った方向を見ると、そこに担任がいる。本摩は「いい報せが入ったぞ」と笑っている。

「お前たち、今回の反省文は無しだ」

「ほんとうに? オレたちの処分はそれでいいんですか」

 三郎はおどろきと望外のよろこびを顔に出した。反対に本摩は渋い面構えをする。

「ああ、その代わりにシド先生が校長にコッテリしぼられたそうだ」

 歓喜していた三郎が悲痛な面持ちに変わる。

「どうして……シド先生はオレたちを助けてくれたんですよ」

「生徒の監督の、度を超えたらしいな」

 拓馬は「度を超えた」の意味することが、シドの行き過ぎた対応を指すのだと思った。

「そうせざるをえない相手だったんです」

 三郎も同じ解釈をし、シドを擁護した。本摩は微量の不安をうかべながら拓馬を見る。

「仙谷がシド先生のしたことを好意的に見てるのはいい。だが、ほかの連中はどうだ? 肝を冷やしたんじゃないか」

 本摩にとっては拓馬の反応がより平均点、常識的なもの、と思っているらしい。拓馬は無言でうなずいた。本摩はにこやかになる。

「これに懲りて、ムチャはしないことだ」

 本摩は「命あっての物種だぞ」と言い残した。三郎は申し訳なさそうに拓馬に向き合う。

「シド先生にも謝礼をあげるべきだろうか?」

「いらねえと思うぞ。あの人は全部『仕事だから』で今回のことをすませようとしてる」

「むむ、そうなのか……?」

 三郎が恩義に報いれないことを残念がる。そのなぐさみというわけではないが、拓馬は教師が必要とする物をひとつ提案する。

「あ、でもネクタイはいけるか」

「おお! そういえば先生のネクタイがダメになったな。ではネクタイの弁償を──」

「好みの色や柄があるだろうし、買うなら一回、先生に聞いてからがいいんじゃないか」

「そうだな! では『拓馬との話がおわったあとで』聞きにいく」

 三郎は計画の発表をまだ続けるつもりだ。 拓馬は内心、三郎の関心がシドにむかえば彼の計画がうやむやにならないかと期待していた。しかしまがりなりにも三郎は才子だ。彼は自身の目的を見失っていない。ジモンならはぐらかせたのに、と拓馬はわずかばかりのくやしさが浮上した。

(ま、次やらかしても即退学はなさそうか)

 新任教師が身代わりになったことにより、加速度的な罰則の強化は中断できた。これならあと一度くらい、三郎の趣味に付き合っても平気かと思えてきた。

「えーと、オレのバイト中、喫茶店に須坂がきたんだ。もちろん客でな」

 三郎は本摩登場まえの会話を再開する。

「おかげでいろいろ聞けた。須坂が夜に駅へ行き、その帰りで倒れた人を見つけた、と」

 シズカもそのように言っていた。その情報源は三郎なのだから当然である。

「そいつが成石だったんだよな」

 三郎は目をかっと見開いた。だがすぐに元通りの顔になる。

「ヤマダに教えられたか?」

「シズカさんに聞いた。成石が襲われた話を伝えてみたら、調べてくれたんだよ」

 三郎は「おお!」と感嘆した。彼もシズカのことは知っている。三郎の姉はシズカの同僚だ。そのつながりから三郎はシズカの仕事ぶりを聞いているらしい。だが異界に関することだけは、三郎は知らされていない。ゆえに三郎はシズカの功績を、彼自身の卓越した能力によるものと見做し、全幅の信頼を寄せている。

「それなら犯人の目星はついているのか?」

「そうかもしれない。だから俺らがうごくのはやめに──」

「それとこれはまたべつの話だ」

「なんでだよ? シズカさんにまかせりゃいいじゃねえか」

「せめて今週は付きあってくれ。須坂がこわがっているんだ」

「あいつがそんな弱音を?」

「いや、本当は須坂本人じゃないんだが……まあ近しい人だ」

 三郎は拓馬が知らぬ第三者の詳細を明かさないまま、ノートのページをめくる。

「その人は、成石が被害にあったのを、タイミング次第では自分が襲われていたかもしれない……と思っている。だがもっと悪質なケースも考えられる。成石を襲った犯人が、須坂たちにつきまとっている可能性だ」

「須坂『たち』って、だれのことなんだ?」

「須坂の姉だ。姉がいることを須坂は秘密にしたいそうだから、ここだけの話だぞ」

「へえ、あいつにも姉貴がいるのか……」

 拓馬は須坂のしっかりした雰囲気ゆえに、上の兄弟姉妹がいるとは思っていなかった。彼女の学内での素行や成績は平均以上でそつがなく、おまけに一人暮らしをしていると言う。精神的に自立した生徒だ。しかし精神面では拓馬も似たようなものである。拓馬の姉はおっちょこちょいゆえに拓馬がその尻拭いをさせられ続け、その結果、拓馬はいやがおうにも長子的な自立精神がそだった。須坂も、どこか隙の多い姉をもっているのかもしれない。

「お姉さんのほうはまだ協力的でな、オレたちが須坂の見張りをしたことがバレても怒らないと思うんだ」

「じゃあなんだ、俺たちが須坂の夜歩きをストーキングするってことか?」

「そうだな」

 三郎はあっさりと認める。自分らが不審者と同じことをやる、という側面を理解しているのかいないのか。

「須坂が移動するルートは決まっているから、一人ひとりが区間を担当して──」

「俺とお前だけで?」

「二人では手が足りん。ほかにも声をかけるつもりだ」

「それがいいな。俺らがそのストーカーにおそわれても、何人かでバラけていりゃ全滅はしなさそうだ」

 三郎が眉をあげて「盲点だった」と言う。

「そうか、オレたちも襲撃の対象になるか」

「そりゃあな。俺らが須坂の仲間だなんて、他人にはわからない」

 だから成石が被害に遭った、と拓馬は自分の推論を肯定した。

「みなが気絶の危険がある……そのうえで単独行動とくれば、女子の参加は厳禁だな」

「ああ、そっちはカネで解決できる被害じゃすまなくなるかもな」

 二人は口外しづらい懸念を明言することなく意識を共有した。実際にそういった被害を受けたという地域の声は聞かない。とはいえ、現在進行形で不審者が夜道に跋扈ばっこするいま、軽視はできない危険性だ。

 三郎はノートをぱたんと閉じる。

「よし、くわしい作戦は人手があつまったときに話そう。それでいいか?」

「ああ、まあ……」

 拓馬は正直乗り気ではない。だが盛り上がっている三郎に水を差せば、会話が長引く。それゆえあたりさわりなく答えた。

(須坂が夜に出かけなきゃいいんじゃ……)

 と、考えるのはなんの事情も知らない外野だからだろう。聡明な女子が危険をかえりみずにすることだ。きっと彼女の敢行には理由がある。そして、それは三郎が須坂から聞かされるたぐいの内容ではなさそうだ。そのため、拓馬は疑問を疑問のままにしておいた。


5

 週末の夜、拓馬は駅近くの小売店で紙パックジュースを購入した。買った飲料は家ではあまり飲む機会のない種類。せっかく買うのなら普段飲まないものを、と思って選んだ。この不明確な購買意欲のとおり、拓馬の外出目的はジュース以外にある。その目的とは、須坂の身辺警護もどきだ。ただし守られる側の了解は得ていない。

 拓馬が家を出る際は、物を買う気などさらさらなかった。いざ来てみると、店の利用客が店の外で待機する少年に視線を投げていく。そのいぶかしげな目が視界に入るたび、拓馬はこのままではよくないと感じた。

(『高校生ぐらいの不審者がうろついてる』って評判になったら、まずいぞ)

 ここは深夜も営業する店だ。時刻は小学生の就寝には早いくらいとはいえ、普通、こんな夜に未成年が店にたむろしない。するとしたら不良だろう。もしも不良らしき少年が才穎高校の生徒だとうわさされれば、教師陣の風当たりが強くなること必至だ。学校の評判を下げる行為は理由の如何いかんに問わず、処罰されかねない。

 買い物客の体裁をたもつ拓馬はふたたび店の外に立つ。そこは室外機横の、客の行き来を邪魔しない区画だ。店員がそえたストローをジュースの口に差し、水分補給する。ストローをくわえた状態で、拓馬は駅へ向かう人影を見張った。

(ぜんぜん、連絡こないな……)

 三郎が決めた配置についてから三十分は経っただろうか。連絡をとるのは異常が発生したときのみ、というふうに仲間内で決めてあった。通信機器の使用により、須坂または不審者に見つかるおそれがあったためだ。とくに不審者はどこにひそんでいるかわからない。不用意な行動をひかえる必要があった。

 連絡をとるにふさわしい異常事態には「今晩は須坂が外出しない」こともふくまれる。その異常を察知する係はアパート付近担当の三郎だ。彼がそう判断すれば各自解散になる。音信不通である現状、事は順調にすすんでいるか、三郎があきらめていないかのどちらかのようだ。

 この見張り作戦にはほかにも参加者がいる。家業を切り上げてくるジモンと、拓馬とはべつクラスになった男子である。彼は名木野と親しく、その名木野が拓馬たちを案じるのを知って、今回協力してくれることになった。

 こうして三郎は三人の同志をあつめ、今日の昼間に計画を発表した。その発表には予想外な情報があった。須坂の姉は芸能人だという。水卜みうら律子といい、小さな子どものころから俳優業を続ける有名人だと。三郎自身は律子に会ったときに気付かなかったが、あとで同じ場にいたヤマダにそう教えられたそうだ。須坂は家族が有名人だという好奇の目にさらされたくなくて、学校では姉の存在を隠したがっているとか。

(水卜さんか……けっこうキレイな人だよな)

 拓馬は熱心にテレビを見るタチではないが、水卜の活動期間の長さゆえに、彼女の活躍を見かけることがあった。子役時代をすぎてからの役どころはクールビューティ―なものが多く、須坂のとっつきにくさとイメージが被る。その人格はあくまで演技上の性質であり、本来の水卜その人とは異なる。拓馬は三郎の「お姉さんのほうはやさしそう」との説明を受けて、そのように感じた。


 現在の拓馬たちは個別に見張り活動をしている。須坂の住むアパートから駅までの道のりを、各々が一定の間隔をあけて待機する。須坂の通る経路をおさえる必要はあるが、彼女に見つかってもいけない。とくに姿を見られやすい場所は照明や人通りの多い、駅前だ。駅前は身体的に目立たない者が適任者だといい、拓馬が配置された。

(俺が地味なのはわかるけど──)

 須坂とは日常的に会っている。顔を見られれば気づかれるはずだ。

(バレたらすげえ怒られそう……)

 彼女が拓馬個人へ冷たく当たったことはないものの、性格的にありえそうだと拓馬はうれえた。

 手にもつ紙パックがかるくなってきたころ、長髪の女性が店の前を横切っていった。女性の背格好は須坂と似ている。足早に移動すること以外、平常な様子である。

(なにも起きなかったってことかな)

 それは仲間たちが無言をつらぬく現状と合致する。拓馬は彼女を須坂だと推定した。もし推定が確定へ変化した際には「須坂は駅に着いた」と仲間へ伝えることになっている。駅前は通信機器を使う人が多数いる環境ゆえに、不審者に気取られる危険がすくない、との判断にもとづく決定だった。

 須坂らしき人物は電灯がひときわ明るい駅舎へ入る。そこで彼女の姉を待つのだろう。

 須坂が夜に外出する動機は、遠方からくる姉を出迎えるためにある。三郎の人物評によると須坂の姉はおだやかそうだったとか。その人がいれば拓馬らの張りこみが知られても、いくらかの弁護は期待できそうだ。

(お姉さんと須坂が合流するまでは近づけないな)

 須坂だとおぼしき相手が須坂本人なのか、まだ確認しにいけない。いましばらく待機を続行した。

 駅舎に電車が入っていく。拓馬が見張りの任に就いてから何度めの停車だったか。停まった電車がまたうごくころ、駅から人が出てきた。仕事帰りらしき男性や背のちぢこまった老人などが先行する。駅を離れようとする人々の中に、駅舎の外壁にそって移動する者が二人いた。駅の軒先にある照明のおかげで、片方は須坂だとほぼ断定できた。もう一方も女性らしい姿だ。おそらく須坂の姉である。この二人は壁の曲がり角で、身を隠した。

(どうしてすぐに帰らないんだ?)

 拓馬は姉妹の行動に疑問をもち、ある仮説を思いつく。

(電車の中で、変なやつに会ったとか?)

 そう考えた拓馬は紙パックを足元に置き、駅舎から挙動不審な者があらわれるのを見張る。

(あ、須坂が駅についたって連絡……)

 拓馬は事前の打ち合わせを思い出した。しかし連絡をとる間は不審者の監視がしづらくなる。拓馬はどちらを優先するか迷ったが、ひとまず簡単な報せだけ仲間内に送る。返信を確認せずに、携帯型の電子機器をポケットにしまった。

 拓馬はすぐに駅の構内を見る。須坂が見知らぬ二人組と対面していた。相手は男性だ。須坂たちはなにか話しているように見えた。

(あいつ、男嫌いなのに……?)

 その違和感はすぐに消える。急に須坂が彼らに背を向け、走りだした。男連中は須坂につかみかかろうとしており、どうやら須坂が彼らを怒らせたようである。彼女らしいと拓馬は思ったが、悠長にかまえてはいられない。ただちに助けに行こうとした。

 拓馬がうごくより先に、異変が生じた。巨大な人影が、須坂と男性たちの間に割って入る。鍔広の帽子を被った大きな影だ。その人影が、男性二人の襟首をつかむ。黒ずくめの人物は成人男性をひとりずつ片手で持ち上げた。拘束される者たちはうめき声をあげている。その様子に拓馬は既視感をおぼえた。武闘派な教師による不良少年への折檻は、まだ記憶に新しい。

(まさか、先生? でも体型がちがう)

 締め上げられる男性たちは平均的な成人男性の体つきをしている。そんな彼らとは比較にならぬほど、男性らを捕縛する人物の背が高い。そのうえ筋骨隆々なようだ。シドも体格がよい男性とはいえ、あの大男よりは細身かつ身長が低い。あきらかに別人だ。

 大男は捕まえた男性らを放した。痛めつけられた者たちが地面にころがった。

 騒ぎの場へ、須坂の姉が急行する。彼女は大男に頭を下げた。どうやらお礼を言っているらしい。そこに突然、光が放たれた。二人の姿が明るみになる。大男の仕置きを受けた連中がカメラを撮ったようだ。須坂がカメラマンに詰め寄り、口論を起こしている。

(須坂のやつ、さっきから喧嘩ふっかけてるみたいだけど……?)

 いくら須坂が気の強い女子といえど、闘牛のごとき暴れ方を学内では見せていない。彼女が怒るなにかを、男性二人組はやらかしたようだ。

 須坂がカメラを持つ男性と取っ組みあう。相手は男性二人。とても彼女がかなう見込みはない。かなりのムチャをしでかすその度胸はおそらく、大男がそばにいるから成立するものだ。奇妙な信頼関係にある大男が、カメラを男性からもぎ取った。

 カメラを持っていないほうの男性が「返せ!」と叫び、大男に突進する。大男は簡単にいなした。男性の体当たりが空ぶり、いきおいあまって転倒した。

 次にもともとのカメラ所有者が大男に掴みかかる。大男はカメラを掲げた。うばい返されないための行為か、と思いきや、大男の手からバラバラと黒い破片が降る。彼はカメラを握りつぶしたのだ。非常識なまでの握力だ。

 男二人は大男の馬鹿力に臆したらしい。力ない悲鳴をあげながら駅舎へ駆けこんだ。

(で……どっちが須坂の付きまといをしてるやつだったんだ?)

 いま、その確認ができるのは怪力男のみ。拓馬はそちらに問いただすつもりで接近した。

 大男は駅舎から遠ざかろうとする。それを須坂が「待って!」と引き止めた。しかし大男は無情にも走りだす。

(逃がすか!)

 拓馬は必死に追いかけた。学校では俊足を誇る拓馬だが、大男相手にみるみる引き離されてしまった。そのすばやさは獣のよう。世界陸上選手もあわやというほどの走りだ。

 これは追いつけないと拓馬は判断し、大男の遁走を見逃した。全力疾走によってはずんだ呼吸をととのえる。肩で息をするところを、「ねえ」と話しかけられた。その声は須坂である。

「根岸くんでしょ。なんで走ってるの?」

 いよいよ須坂に気付かれた。拓馬は彼女の叱責を回避しうる、適当な返答をのべる。

「……なんでって、トレーニング、だな」

「駅前で短距離走の練習? 人にぶつかったら危ないじゃない」

 至極当然な指摘だった。ランニング程度のかるい運動ならば通用しただろうが、トップスピードを出す走り込みの場にはふさわしくない。拓馬はどう言い繕ったらいいものか迷う。

「あの走っていった男の人、あなたの知り合い?」

 須坂は拓馬のウソを追及せず、大男のことを聞いてきた。これには拓馬が正直に答える。

「知らないな。お前こそどうなんだ?」

 二人のやり取りを須坂の姉がさえぎる。

「ここで長話もなんだから、お店に入らない? お腹へっちゃって……」

 須坂の姉は食事をとるヒマなく妹に会いにきたようだ。姉妹の夕食に他人が入りこむ余地はない。拓馬はこれみよがしに「んじゃあ、俺はこれで」と去ろうとした。が、拓馬の服の裾を美弥が引っ張る。

「ちゃんと話しましょう。聞きたいことがあるし、あなたも私たちに言うことがあるんじゃないの?」

 拓馬は須坂の言葉から、拓馬たちが独断で須坂の見張りをしたことへの謝罪要求をかぎとる。ここで逃げてはあとがこわいと思い、だまってうなずく。これから夕食の同伴をするとなると、三十分は身動きがとれなくなるだろうか。張り込み中の仲間に事情を伝えなくては、と拓馬は考え、一時的に須坂と離れる策を講じる。

「ちょっとゴミ捨ててからでいいかな」

「いいけど、にげないでよ」

「そんなバカなことしないって」

 学校でどやされたくない、と心の中で答えた。拓馬は紙パックを放置した場所へ急いでもどる。ゴミを回収しつつ司令塔へ通話をする。

「三郎、須坂に付きまとってるやつを見かけたよ」

『本当か! 捕まえられたか?』

「それは無理だった。くわしい話はあとでな。今日はもう引き上げよう」

『了解した。帰還しよう』

 ゴミ箱へ紙パックを投入する間に、会話はおわった。歩道で待つ須坂らのほうへ向きなおると、須坂は冷めた視線を投げてくる。

「やっぱり、捜査ごっこしてたの?」

「ああ、勝手についてきてわるかった」

「あなたが謝らなくていい。どうせあの熱血バカに無理を言われたんでしょ」

 意外にも須坂は拓馬への理解を示した。拓馬からの詫びはほしくないのなら、わざわざ場所を移して話をする理由がわからない。

「? そこまでわかってて、どうして俺と話しをしようと?」

「言ったでしょ、おたがいに話すことがあるって。学校じゃ話しにくいから、いまのうちに伝えておきたいの」

 須坂はそれきり姉と「どの店がいい?」と夕飯談義をはじめた。彼女らのうしろを、拓馬はつかずはなれずで追った。


 美弥の姉──律子はチェーン店での遅まきの夕食を注文し終えた。美弥は姉とともに、同席者の男子と向かい合う状態で、テーブル席に着いている。

 律子は初対面の少年に声をかける。

「おごってあげるけど……なにも頼まなくていいの?」

「おかまいなく……」

 この男子は一向に律子と目線を合わせない。角度的には顔を合わせても、べつのところに視線をやっているように見えた。そんなふうに、男性が律子を直視できない理由はある。律子は子役上がりの女優である。成長してからは容貌にますます磨きが入り、その容姿を前にして照れてしまうのだ。あるいは著名な人物と出会った興奮をおさえる、ということありえそうだ。

 ところが、根岸からは浮ついた感情が伝わってこなかった。美弥には彼の反応が純粋な人見知りのように感じた。あるいは女性慣れしていないウブな少年のようでもある。

(女の免疫があると思ってたけど)

 根岸という男子は女子生徒との交友がある。そのやり取りの印象では、彼はどこかしら女子を異性に見ていないふしがあった。とくにヤマダとあだ名される女子との仲が顕著だ。ヤマダは樺島融子という歌手と似た容姿をしており、その歌手は人を選ぶタイプの美人だ。最大公約数的に好かれる律子とはちがった魅力の持ち主とはいえ、そういった美人に似た女子を友とする男子なのだ。彼ならば律子相手にも平然と接すると美弥は期待していた。

(仙谷のほうはぜんぜん、いつもと変わらなかったのに)

 仙谷とは大型連休中、個人経営の喫茶店で鉢合わせになった。そのときの彼は店の従業員で、料理を運んだり食器を片づけたりといった雑用をしていた。その店は本来、女性従業員ばかり勤めている。仙谷は繁忙期の助っ人に入ったのだという。男性店員がいない店だと思って安心していた美弥には衝撃的な出会いだった。

 そのときの美弥は律子同伴で店を訪れており、仙谷の興味は美弥にばかり注がれた。彼の関心は、美弥が知らぬ間に遭遇する不審人物にあった。その態度は学校で見かけた様子と同じであり、美貌の有名人がそばにいても仙谷は意に介さなかった。

 仙谷の質問を受けるさなか、律子は正直に不審者の存在におじけづくことを話した。それを知ったときの仙谷は、カッコいいところを美女に見せようという虚栄心なく、義憤に駆られていた。その熱意を美弥はうっとうしいと感じた。その反面、この男子は打算抜きで行動する人物だと信じるようになった。

 律子に群がる男にはよく、律子を利用する目的で近づく者がいる。そいつらは律子に損な役回りをさせることで、自己の満足を得ようとするのだ。今晩駅舎で遭遇した二人組がまさにそうだ。彼らは有名人の私生活を暴露しようとした記者。ああいう詮索をするやからを、美弥は嫌う。他人が知らなくてもよいことを根掘り葉掘りほじくる無粋さといい、有る事ない事を書きたてるでたらめさもヘドが出るほど汚らわしく思っている。そういった心無い記者のせいで美弥は以前いた学校から追い出され、転校する事態になった。今日会った連中が、美弥の環境を変えた記者と同一かはわからないが、美弥は自分の受けた不合理を怒りに転換せずにはいられなかった。

 そういった利己的な男どもがいたせいで、美弥は男性を毛嫌いするようになった。しかしそう見下げ果てなくてもいい男性もいると、最近の美弥は考え直しつつある。

 根岸はバツがわるそうに「二人は姉妹で合ってるか?」と美弥にたずねてきた。そんなことは仙谷から聞いているだろうが、これはあくまで確認だ。

「ええ、姉妹よ」

「お姉さんの名字は水卜みうら……だよな。芸名?」

 根岸は姉妹の名乗る姓がちがうのを理由に、まことの姉妹かどうか確証を得られなかったらしい。美弥は「昔は母の名字を名乗っていたの」と事実を話す。

「水卜で名前が通ってるから、戸籍の名前が変わっても仕事ではそのままにしてる」

「お母さんが再婚して、須坂になったと?」

「そう思ってていい」

 美弥は真相を明かさなかった。母が他界したあと、父が娘二人を引き取ったことは、この場ではなんの用も成さない情報だ。いま話すべきは、複雑な身の上話ではない。

 歓談中とは言えない空気の中、律子の注文した料理が運ばれてきた。美弥の姉がひとり、夕食を食べる。

「なんだか悪いわね、一人だけ食べて」

「いいの、私は根岸くんと話がしたいから」

 優しい声色とは裏腹に、美弥は根岸への詰問の姿勢をとる。対する根岸は冷水の入ったコップに口をつけた。

「今日は何人で捜査ごっこをやってたの?」

「全員の名前をあげろってか?」

 根岸は美弥相手には遠慮のない語勢で言ってくる。若干反抗的な態度とも取れなくはないが、美弥は根岸のことを話の通じる相手だと認めているので、そこは見過ごす。

「べつに、だいたいは想像つくから言わなくてもいい」

「じゃあなんで聞いた?」

「あなたもその仲間も、こんなことしててなんになるの? それがわからない」

「三郎の気がすむようにしてるんだ。あいつが騒がなきゃ、俺だって家でおとなしくしてるよ」

 仙谷がいなければ根岸は捜査ごっこをしない。その明言は、根岸が自発的に美弥たちを助けようとしていないことを指している。それが常識的な姿勢とはいえ、美弥は根岸の非協力的な発言に落胆する。

「……そう。じゃ、私がへんな男につきまとわれてると知っても、なにもしたくはないのね」

「なにもしないってことはない」

 根岸は決然と言いきる。

「そういう変質者の対処が上手な知り合いがいるんだ。その人に相談はする」

「へえ、じゃあその人にはこのことを言ってあるの?」

「もう知ってるよ。須坂が駅に行った帰りに、倒れてる成石を見つけたって。それからは成石をおそった犯人を捜してくれてる」

 美弥のあずかり知らぬところで協力者がいる。その事実を知った美弥は胸がかるくなった気した。この土地では、他者に救いの手をのばす者がこんなにもいるのだ。以前の美弥の環境では考えられないことだ。

「その知り合いは警官だ。もし犯人の特徴がわかるなら、その人に伝えれば早く解決できると思う。なにか教えてくれるか?」

「で、私があなたに教えたことは仙谷くんにも伝えるの?」

 美弥は半分冗談で質問した。根岸は「そうなるな」とあっさり認める。

「あいつに言ったところで、どうなるもんでもなさそうだけど……言わなきゃあいつは納得しねえから」

「めんどくさい友だちなのね」

「まーな。でもイヤなとこがひとつあるからって拒んでいられないだろ? そんなんじゃ、だれとも人付き合いができなくなるし──」

 ずいぶん大人びた思想だと美弥は思った。自身はのぞまぬ危険に、友人の要求で立ち向かわされるのを、たった一つの友人の短所として大目に見る。その度量の広さは感嘆に値する。

(冷めてるみたいでも、お人好しね……)

 根岸は他者への関心のうすい人間に見えるが、ひとたび親しくなってしまえば情け深い性格が出てくるようだ。その情が、美弥にも発揮されるのだろうか。そんなことを美弥が思ううち、話題は警官への情報提供向けの聴取に変わる。

「今日出くわした、へんな男って二種類いたよな。カメラを持ってた男二人と、馬鹿力な大男」

「あなた、ずっと見てたの?」

「ああ、見張ってた」

 根岸は臆面もなく白状した。美弥が彼を非難するつもりがないことは前もって伝えたため、発言に遠慮や虚飾はしていないようだ。

「須坂はどっちが成石に手ぇ出したやつだと思う?」

「それは大男のほうね」

「なんでそう思う?」

「カメラマンのほうは記者だもの。雑誌のネタさがしにお姉ちゃんを尾行してたわけ。妹の私のほうを追いかけないと思う。今日だってあいつらは電車に乗って、お姉ちゃんのことを調べてたし……」

「そう、か……いまのとこ、須坂が駅にいく道中に不審者が出てるもんな」

 根岸は苦々しい顔で美弥の意見に同意した。その反応の意図が不明である。

「大男が犯人だと、都合がわるいの?」

「そりゃあ、あんなに強いやつは俺らにゃどうしようもないからな。普通の警官でもムリあるぞ」

 大男は怪力のうえに俊敏さもあわせ持っていた。並大抵の武道修練者では対抗できなさそうだ。ならば根岸の知人だという警官も、太刀打ちできないのではないか。

「じゃあ、あなたの知り合いもお手上げ?」

 美弥は率直な疑問を投げた。そこに根岸たちの実力不足をなじる意図はない。「そうだ」と根岸が答えるものと予想していたが、意外にも彼は「いや、大丈夫」と言う。

「居所さえわかれば、あの人はとっつかまえてくれる」

「そんなに強い人なの?」

「強い仲間がいっぱいいる人だよ」

 警官の仲間、といえば同職の警官か。現在の美弥の被害の度合いからは、ひとりの警官さえ動員できる気がしない。夜に出歩かなければいい──そんな短絡的な自衛策を講じられて、あとは無視を決めこまれそうだ。美弥は根岸の主張が絵空事に感じる。

「まだ事件にもなってないのに、警官がたくさんうごける?」

「そのへんは企業秘密ってことで、聞かないでくれるか」

「むりなら『無理』だと言っていいのよ」

「気休めで言ってるんじゃない」

 根岸はやや強い口調で否定した。彼は甘言を弄しているわけではないらしい。

「とにかく、いまはすこしでも手がかりがほしい」

 きつく当たったのを反省してか、根岸の声がやさしくなる。

「あの帽子の男がお前をつけまわす理由、なんか心当たりあるか?」

「ぜんぜんない。いままで会ったことだってないもの」

「目的がさっぱりわかんねえんだな」

「私を守ってくれてるみたいだけど、どうしてなのかがわからきなゃ、不気味で……」

「良い人ぶってるすきを狙って、なにかされでもしたら──」

 不穏なことを言いかける根岸に「ねえ」と律子が口をはさむ。律子はすっかり食事を食べきっていた。

「わたしたち、しばらく会わないほうがいいのかしら?」

 その案は美弥も考えていたことだ。しかし実行するには姉の負担も大きい。

「今日会った男の人、美弥がわたしと会うときに現れるんでしょう。わたしたちが会うのをやめたらいなくなるんじゃない?」

 美弥はしばし姉を見つめた。律子の訪問は律子自身の心の安定のためにしていることだ。彼女がもっとも信頼する者が妹であり、そう自負するがゆえに美弥も姉の来訪を止めないでいた。

「……そうね、それが無難かも。でも、いいの?」

「美弥が心配で会いにきていたけれど、そのせいで心配事が増えるんじゃ意味ないもの」

 律子の言い分と美弥の考えが正反対になっている。これは根岸という第三者に向けての虚勢だと、美弥は判断した。大の女優が未成年の子どもを心の支えにしている、などという弱さをひけらかしたくないのだ。

 律子の承諾を美弥が反対する理由はない。だが賛同を確信できない他人はいる。

「根岸くんもそれでいい?」

「へ? なんで俺に聞くんだ」

 根岸は呆然とした。当然といえば当然だ。彼も被害者のうちである。美弥は彼を経由して仙谷に伝えてもらうつもりで、話をすすめる。

「あの男の人がいなくなったら、捜査ごっこができなくなるでしょ」

「それは俺の趣味じゃない。俺も、騒ぎの原因がなくなれば御の字だよ」

「じゃあ、決まりね」

 根岸の同意を得ての決定なら、仙谷も納得がいくはず。美弥は大男とは別種の騒がしい人物が鎮静化するのを期待した。


 対談のめどがつき、美弥たちは喫茶店を出る。店の外で根岸が「アパートまでおくろうか」と提案したが、その必要はないと美弥はことわる。

「あなたも早く帰ったら? 仙谷くんとつもる話があるんじゃないの」

「まあ、今日あったことは知らせるつもりだけど……あ、そうだ」

 根岸は大男の身体的特徴をたずねてきた。間近で目撃した美弥でしか知り得ぬことを聞きだそうとしているのだ。だが美弥は根岸が気付いた以上のことは言えない。大男はあまりに突然な登場を果たしたため、念入りな観察ができなかった。

「ごめんなさい。あんまり、見てなかった」

「顔も見えなかったか?」

「顔? そういえば──」

 目元がまったくわからなかった。あれは、黒いレンズの眼鏡をかけていたのだろうか。

「たぶん、サングラスをかけてた。そのせいで、ぜんぜん顔がわからない」

「こんな夜に、サングラスを?」

「変装かしらね、お姉ちゃんもよくかけるし」

 律子がバッグから濃い色のレンズの眼鏡を出してみせる。彼女は駅で美弥と会うまで、そのサングラスをかけていた。もちろん変装目当てである。

 根岸はうーんとうなる。疑問がさらに疑問をよんでいるようだ。

「そういう変装って、自分を知ってるだれかに、自分だと気付かれたくないからやることだろ?」

「お姉ちゃんの場合はそうね。だったらなに、あのサングラスの男も、有名人だっていうの?」

「いや……その、水卜さんの知り合いかもしれないと思って」

 その可能性はある。顔の広い律子を慕う者が、ふびんな女性とその妹を守ろうとする、という可能性が。

「須坂たちの知ってる人のなかに、あんなゴツイ男はいるかな?」

「ううん、知らない。お姉ちゃんはどう?」

 律子は首を横にふる。

「ああいう筋肉質な男の人とは仕事で何人か会ったことあるけど、ちがう人ね。まず、声がはじめて聞く感じだった──」

 根岸が「あの男、しゃべってたのか?」と美弥に聞いた。遠巻きに見ていた彼には知り得ないことだ。美弥はサングラスの男の言動を根岸に説明する。

「えっと、たしか……記者のカメラを壊したときに『二度と近づくな』って、連中をおどしてた。私が食ってかかったから、あいつらが私たちの敵だと、あのサングラスの人は思ったんでしょうね」

 現段階では、奇妙な男は美弥たちを助けてくれている。そのことを知った根岸は「話を聞いてるだけだといい人っぽいんだがなぁ」と割り切れない感想を述べた。

「私たちがわかるのはこのくらいね。あとはダメもとで警察官の人にも言っておいて」

「ああ、そうする」

 事情聴取に満足がいった根岸は帰路についた。美弥も下宿先へ向かうつもりで姉の様子を見る。律子はなぜだかほほえんでいた。

「お姉ちゃん?」

「男の子とも、ふつうに話せてるのね」

 律子は美弥の男性への態度が軟化したことによろこんでいるらしい。言外に恋話めいた冷やかしを美弥は感じた。姉が妙な期待を持たぬよう、先手を打つ。

「あの子は……私に興味がないから、あんまり男だと思わずに話せるみたい」

「そうなの? 最初はなんだか照れてるみたいだったけれど」

「あれはお姉ちゃんを意識してたのよ。学校じゃ、ああはならない」

 美弥はアパートを目指しつつ、学校でのクラスメイトの話をした。その話はこれまでにも何度か告げてある。今日はとりわけ、美弥のまわりで起きる事件に首をつっこむ生徒について紹介した。

 今回の帰り道は、倒れている人を発見しなかった。本日あの大男が襲撃した対象は記者二人だけ。それも憎たらしい連中を成敗してくれたのだ。美弥は胸がすく思いがした。


6

 拓馬が不審な大男を見かけた翌週、仲間内にそのことが知れ渡っていた。三郎に一報入れた情報がすぐに伝播したらしい。その結果、拓馬が登校した直後に、早速千智に捕まった。

 だが千智は大男でなく、須坂の実姉である水卜律子を話題にとりあげた。顔の小ささや着ていた服など、拓馬には興味のない質問ばかりだ。千智にとって律子はあこがれの芸能人なようで、話はホームルーム開始まで続いた。

 午前の授業が終わってなお千智の情熱は冷めなかった。拓馬は彼女と一緒に昼食をとる。

「記者ってのは芸能人を追いかけて、他県までくるんだな」

「知らない? 水卜律子のスキャンダル!」

 千智はゴシップを周知の事実のように言い放つ。芸能関連にうとい拓馬には初耳だった。

「何ヶ月前だったか、同業の男と熱愛してるとさわがれたの。写真もおさえられたって」

「へー、めでたい話……じゃないのか?」

「全然! 相手の男にはほかにパートナーがいたんだから」

 拓馬は耳を疑った。拓馬が会った女性は略奪愛をしでかす毒婦に見えなかったのだ。

「浮気だなんだってテレビでも言われてたはずよ。それで味を占めた連中が、新しい特ダネを集めにきてたんじゃないの」

 水卜が須坂と会うのは週末の夜。意中の人のもとへ足繁く通っているとの邪推が成り立つ。若く美しい芸能人にはありがちな話だ。

「でもあれ、やらせかなにかに決まってる」

 千智が息巻いた。他人の恋愛模様をそこまで言い切れるのか、と拓馬は疑問をいだく。

「なんでウソだとわかるんだ?」

「水卜さんの理想の男性像と全然ちがうもん。雑誌で『知的で優しい人が好み』だと言ってたのよ。あの俳優崩れったら、クイズ番組でおバカタレントといい勝負するバカ」

 知的で優しい男性、と聞いて拓馬はシドを連想した。この場ではだまっておく。

「だいたい、ヤツはまぐれでヒット作を出した程度の落ちぶれた俳優よ。売れっ子で美人な水卜さんがなびかないって」

「じゃ、なんで一緒にいた?」

「罠よワナ! 水卜さんを使って、ヤツが返り咲こうとしてるんでしょ」

「そんなの、水卜さんが否定したらそれで終わりの話だろ?」

「ヤツは話題を集めれば仕事がもらえると思ってんじゃないの。バカだから目先のことしか考えられないのよ」

 千智の意見は理屈に合っているようだ。ただしその根底には「あんな男は水卜律子にふさわしくない」という感情論がある。千智の願望が多分にふくんでいるやもしれず、拓馬は話半分に聞いておいた。

 千智の熱弁が一段落ついたとき、三郎が声をかけてくる。

「くだんの不審者に出会ったときのこと、くわしく話してくれるか?」

 朝は千智に拓馬を奪われ、聞き損ねた質問なのだろう。拓馬はかるく首をかしげる。

「もう全部伝えたよ。あいつは須坂の周りをうろついてる。たぶん須坂を守ってるんだろうけど、理由はさっぱりだ」

「うーむ、襲われた成石はめぐり合わせがわるかった、ということか……」

「須坂はしばらく姉と会わないそうだ。それで大男が現れなかったら一件落着だろ?」

「腑に落ちないが、様子を見てみるか。……協力に感謝する」

 三郎は引きさがった。三郎の話が終わったのを見届けた千智が再度拓馬に話しかける。

「例の男の人を見たんでしょ。どんな人?」

「俺が見たのはシルエットだけだよ。須坂も、男がサングラスをかけてたせいで顔はわからなかったとさ」

「なぁんだ、カッコイイのかわかんないのね」

「カッコイイ、わるいはどうでもいいだろ。いまんとこストーカーだぞ、そいつ」

「そう? かよわい女の子を影で守るのってステキじゃない。あたしも守られてみたい」

 拓馬は思わず出そうになった言葉を飲みくだした。男顔負けの脚力をもつ千智へ「お前は守られる必要がない」と言えば不機嫌になるのは目に見えていた。

「あ、本物のカッコイイ人がきたわ」

 千智の視線は教室の出入り口にある。そこに褐色の肌の教師がいた。手には花柄の包みがある。彼のシックな装いにそぐわない模様だが、拓馬はその包みに見覚えがあった。ヤマダの私物だ。ヤマダが慌てた様子で、持ち物を届けに来た人物に駆けよる。

「先生! その弁当、だれから?」

「貴女のお母さんから預かりました。家にわすれていったそうですね」

「うん、そうなの。届けてくれてありがとう」

 ヤマダは弁当を受け取った。教師が去るために足を引くのを、ヤマダが引き留める。

「あれ……先生、指輪は?」

「え? ああ、ありますよ」

 シドはズポンのポケットから指輪を出した。彼はいつも白い宝石のついた指輪を左手の人差し指にはめていた。

「手をよごしたので、指輪を外して、洗ったままにしていました。よく気付きましたね」

「存在感あるからね、その指輪……タイピンとケンカしないデザインでよかった」

 シドのみぞおち付近にはネクタイピンが装着してある。その装飾品は拓馬たちが不良少年と争ったあとに見かけるようになった。三色の宝石がはめこんであるのが特徴的だ。

「ええ、こちらのタイピンはとても役に立っています。ところで、この宝石になにか由来や意味はあるのでしょうか?」

「なんかあるらしいんだけど、はっきりしたことは知らない。それ、気になる?」

「実は校長がたいへん興味津々でして」

「だったらオヤジに聞いてよ。もし校長と一緒に聞くならジモンちの店でね」

 千智は二人のやり取りを食い入るように見ている。かと思うと深いため息をつく。

「シド先生ってヤマちゃんがお気に入りよね。ちょっと妬けちゃう」

「そうか? いろんな女子に絡まれてるが」

 その中には須坂の姿もあった。ただし彼女の場合はシドから話しかけており、むしろシドは須坂を気にしているように拓馬は感じた。

「そりゃそうだけど、あの二人が一緒なことが多くない? 体育祭の前後がとくに」

「あんときは先生、体操着が無かったからな。その貸し借りのときに接点は増えるさ」

「必要なときに必要な助けをしてあげる、てのがポイント高いのね。見習わなくちゃ」

 千智は拓馬の主旨とは異なる理解を示した。拓馬はその読解を議論する気は起きない。かわりに千智の想い人だといわれる人物について、疑問が生じる。

「そういや、よその学校にいる彼氏はどうなってんだ?」

 千智は人差し指を立てて左右に振る。

「やぁね、校長避けに言ってる彼氏でしょ」

 千智は恋話好きな校長を遠ざける目的で、他校に恋人がいるという建前を吹聴していた。学外に恋愛対象がいれば校長の観測から外れる、という理屈だ。

「多少は仲がよくなきゃ偽装できないだろ?」

「そうは言うけどねえ、あっちはあたしよか拓馬が好きなのよ」

 拓馬は反射的に防御の姿勢をとる。千智はまちがって伝わった語意を弁解する。

「べつにホモホモしい意味じゃなくてね。拓馬は去年、空手の大会に参加してたでしょ。そこであんたが負かした子。おぼえてる?」

「いや、ぜんぜん……」

 拓馬は自身が空手部に所属することさえわすれかけていた。今年から部員が自分だけになってしまい、現在は廃部同然の状態だ。

「今年は拓馬が出ないで県大会で優勝したから、悔しがってね。『あいつを倒さなくては本当の勝利はない』と意気込んでたわ」

「そう言われてもな……部員が卒業して、いなくなっちまったんだから出ようがない」

「個人の部で出場できたじゃない。拓馬ならいい成績だせたんじゃないの」

「俺は順位や勝ち負けに興味ねえんだ。普通に生活できりゃそれでいい」

 拓馬が空手部に入部した理由は自己鍛錬であったり、周囲に流された結果であったりする。大会で優勝を目指す、といった欲求は皆無。そこが陸上部で好成績をのこす千智とは価値観が異なる部分だ。

 そうこう話すうちに二人の昼食が終わる。拓馬はヤマダの様子を見た。すでにシドとは話がつき、彼女は自席へ着くところだった。その席とまわりはなぜか物で散らかっている。拓馬は荒れたヤマダの席へ近づく。

「なんでこんなに物をぶちまけてるんだ?」

「それが、弁当だけじゃなくて財布もわすれて。百円でものこってないか探してた」

 おそらく、弁当がない代替案として昼食を買おうと考えたのだろう。昼食代さがしに荷物を漁った、という経緯だ。ヤマダは整理をはじめる。拓馬も床に落ちた物をひろおうとして、小さな巾着袋をもつ。水色がかった灰色の生地でできている。袋の中央をつまむと細長く硬い物の感触がした。

「それ、中にアメジストのかけらがある」

「紫水晶か。病気に効くとかなんとか、ミスミさんが言ってた気がする」

 ヤマダの母は護符やパワーストーンに関心のある人だ。その影響でヤマダもお守りを常に所持している。

「そうそう、お母さんが私にくれた原石の残り。ほしかったらあげるよ」

「遠慮する。こういうので俺にくる災難が防げるとは思わねえから」

「苦労人の星の下で生まれた子には、効き目ないだろうね」

 ヤマダは笑いながらも着実に収納を進めた。すっきり整頓ができて、ようやく弁当の包みを開ける。ラップにくるんだサンドイッチが並んでいた。そのひとつを拓馬に差し出す。

「これはあげる。サブちゃんのわがままに付きあってくれたお礼ね」

「お、いいのか」

 拓馬は素直に受け取った。ヤマダがサンドイッチを昼食に持ってくるときは大抵多めに用意する。それは友人に与える分だ。たとえ昼食時に満腹でサンドイッチが食べられなくとも、放課後に食べるおやつにちょうどよい。

「お礼といや、シド先生のタイピン──」

「あれはわたしがもってたやつ」

「やっぱりか。たしかノブさんが使ってた」

「そう。オヤジがもう仕事でスーツを着る機会がないから、わたしにくれたタイピンね。まえにタッちゃんにあげようとしたら、いらないって言われた」

「ものすごく高そうで、もらえなかったな」

 子どもが使うには高価すぎる素材でできた品物だった、と拓馬は記憶している。

「あげちゃっていいのか?」

「それがね、先生があんまりノリ気じゃなくて、一学期の間だけ貸すことになった」

「ノブさんには了解をもらったか?」

「『お前の好きにしろ』ってさ。わたしが持ってても使わないし、アグレッシブでジェントルな人に使われるのが一番いいんだよ」

 ヤマダは相容れなさそうな形容詞を並べたが、二つともシドには適合する。あのように活発に動き回る人がそもそもネクタイピンを使わないのが奇妙なくらいだ。

「先生にはちょうどいいか。タイピンがあったらネクタイを損しなくてすんだだろうし」

「あー、あのネクタイはわたしが貰ったよ」

「直すのか?」

「生地を再利用して小物にするつもり」

 ヤマダは「思い出の品になるよ」と付け加える。アレを思い出にしていいものか、と拓馬は心配しつつ席にもどる。不良の件も不審者のことも、これで収まった。平々凡々に過ごせる開放感に浸り、午後の授業を受けた。


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