一章 不芳の再会

 日が完全に沈んだ頃、パーカーを着た少年が住宅街を走った。これは彼のトレーニングだ。鍛えた体は異性にもてはやされる、という思想のもと、少年は自身を研磨した。

 少年はふと足早に道行く者を見つけた。街灯を頼りに目をこらしてみると、髪留めを後頭部につけた少女だとわかった。そのいでたちは美人の同級生によく似ている。そうと気付いた少年は、目的の進行方向を変える。二人の距離は縮まっていく、かに見えた。

「うぅわっ!」

 少年は悲鳴をあげた。何者かが少年の顔を掴んだのだ。不測の事態におちいった少年は、逃げなくては、と思う一心で、自分を拘束する手首を握りしめた。その手首は太く、強靭。少年の力では振りほどけない。その事実がわかっても、抵抗は止めなかった。

 少年は体に力が入らなくなり、徐々に立つこともままならなくなる。ふらつく体を、拘束者の手と腕が支えた。少年がだらりと手を下ろす。すると顔を捕捉する手が離れた。

 少年の体はゆっくりと地面へ置かれた。あたりに少女はいない。少年の身に起きた不幸を気づかず、立ち去ったようだ。少年は薄れゆく視界の中で襲撃者を見上げた。巨大な体躯の影があった。人相のわからないシルエットは、物音を立てずに去る。その行き先は少女の進路と同じであったように見えたが、無力な少年はその場に寝入ってしまった。


1

 今日は授業が午前中で終わる土曜補習。一日の余暇時間が多い日ゆえに、生徒らは活気づく──のが通例だった。拓馬が登校したところ、教室内には異質な空気がただよう。同級生たちが不安そうに話し合っているのだ。

(テストでもやるのか?)

 成績にかかわる授業がある日は生徒たちがざわつくものだ。ただ、拓馬はそんな授業があるとは聞いていない。そこで拓馬は友人たちに「今日はなんかあったっけ?」と質問をする。質問相手は、たまたま拓馬と目があった長身の女子と小柄な女子だ。

「あったのは昨日!」

 長身の女子が答えた。彼女は千智といい、なぜかにらむように拓馬を直視する。

「昨日の夜に襲われた生徒がいるんだって」

 拓馬が想定した答えとはかけ離れた、物騒な出来事だ。拓馬はにわかに信じがたい。

「襲われたぁ? だれが?」

「うちのクラスのスケコマシよ。転校してきたばっかりなのに運が悪いわねー」

 被害者は今学期に転入してきた男子、と拓馬は察した。その男子の本姓は成石なりいしという。彼は女好きなようで、早くも同学年の女子たちと親しくするとか。拓馬はそんな軽薄な成石には思い入れが無いながらも、その被害状況がいかほどか、心配になる。

「襲われてどうなった? 学校には──」

 来れるのか、と噂をすれば話題の本人が入室してきた。成石は教室中の生徒の視線を一身に集める。見栄っ張りな彼にとってその注目が快感だったのか、成石は得意気に笑んだ。

(なんだ、元気そうだな)

 人騒がせなやつである。いらぬ心配をした拓馬はかるい怒りすら芽生え、あえて成石を視界の外に追いやる。この態度なら彼の不興を買えると思った。

 拓馬の反抗とは反対に、小柄な女子が成石へ駆け寄る。彼女はあだ名をヤマダといった。

「ナルくん、ケガはないの?」

「なあに、平気さ。きみはいままで僕のことを心配していたのかい?」

 ヤマダは自身のポニーテールを左右に振って「ううん」と否定する。

「それよか、どんな相手に襲われたの?」

 吊り目な彼女はそのキツそうな顔に似合う冷淡な態度をとる。だがヤマダなら拓馬と同様、被害者を案じたはずだと拓馬は思った。彼女と拓馬は幼少時からの古馴染みであり、おたがいに性格や信条を熟知する仲だ。

「余計なことを言わずに『心配してた』と言ってくれてもいいじゃないか」

 ヤマダの性情をよく知らない成石は大げさに落胆した。そこへ拓馬たちの担任の教師が教室に入る。本摩という中年の男性教師だ。白髪交じりの教師は成石の姿を認める。

「お? 成石が来ているな。その様子だと、体は大丈夫そうか」

「僕は体を鍛えていますからね」

「トレーニングもほどほどにな。危険な目に遭ってまで体力作りをするもんじゃあない」

 本摩は成石をいたわったあと、教壇に立った。教室全体を見渡し、神妙な顔を見せる。

「あー、実は昨晩ランニング中の成石が何者かに気絶させられた。今後も同じような被害が出るかもしれん。みんな、夜の一人歩きは控えるよーに」

 本摩は前列席にいる長髪の女子生徒を見た。彼女は須坂といい、成石と同時期に転入してきた。美人ではあるが社交的でなく、まだクラスに馴染めていない。

 須坂は担任から顔をそらした。これらのやり取りがなにを意味するのか、拓馬はよくわからなかった。

 突然、須坂の隣席にいる男子が大きく挙手する。

「先生、この襲撃事件は今回がはじめてですか?」

 この男子は仙谷三郎という、正義感あふれる剣道部員だ。生徒会の役員を率先して務めるところなど、とかく他人の役に立つことをやりたがる稀有な男子である。そのため人を困らせる悪党がいると聞くや、みずから成敗しに行く行動力がある。その付き添いに彼と同じ部の男子や、空手家の拓馬が連行されることがしばしばあった。拓馬はイヤな予感をしつつも、三郎の動向を静観した。

「わからん。前例があれば警察が知ってるだろうが、そんなことを聞いてどうする?」

「もちろん、不届き者を成敗して──」

「まえに不良連中とモメたのを忘れたか?」

 拓馬たちは以前、デパートの一画を占領する不良たちを立ちのかせるため、彼らと争った。この件はどこから漏れたのか校長に知られ、拓馬たちは反省文を書かされていた。本摩はそのことを言っている。

「問題を起こすと校長が黙っていないぞ」

 三郎はがたっと椅子をずらし、立ち上がる。

「では、悪人の好き放題にさせておけと?」

「そうは言わんよ。お前たちが危ない思いをする必要はないだけだ」

「我らの力を合わせれば不審者など!」

 三郎は「なあジモン、拓馬!」と前回の戦友に呼びかけた。ジモンというあだ名の大柄な男子は「おう!」と握りこぶしをつくる。対照的に拓馬は「俺も?」と他人事のように答えた。中年の教師は三者三様の生徒を見回す。

「正義感が強くて結構だ。でもな、来月に中間テストがあって、その後には体育祭が控えている。体力自慢のお前たちが万一ケガで欠場したんじゃ、クラスのみんなも面白くないだろう。犯人捜しはそのあとにするんだな」

 本摩は生徒の犯人捜索を引きとめなかった。起きた事件が一過性の出来事だと信じてか、生徒を止めても無駄だと思ったか、いずれにせよ現状は無難な説得だった。

 三郎はさきほどの勢いが削がれ、「わかりました」と言って、大人しく着席した。三郎の勝手な行動はクラス全体の迷惑になりうる、との可能性を聞いて、三郎は我を通しにくくなったのだろう。

「素直でよろしい。それじゃ、授業をやるぞ」

 本摩は話題を切り替えた。事件のない日と変わらぬ要領で、英語の授業を執る。だが拓馬の意識はなお事件に留まった。その解決ができそうな助っ人に思いを馳せる。

(このこと、シズカさんに言ってみようか)

 その予定を頭の片隅に置いておきながら、拓馬は授業に集中した。


2

 補習の夜、拓馬は自室のパソコンの電源を入れた。目的は古典の授業の予習をすることと、知り合いと連絡をとること。連絡相手は他県に住む寺の人で、現役の警官だ。なにかと厄介事を抱えがちな拓馬にとって、この警官は守り神のごとき存在だった。

 拓馬が予習作業を続けていくとピコピコと音が鳴る。音声通信を打診する音だ。拓馬は作業を中断し、マイク付きのヘッドホンを用意する。そして通信の許諾ボタンを押す。

「シズカさん、こんばんは」

『こんばんは、拓馬くん。いまはなにをしてたんだい?』

「古典の予習を……」

『お、えらいね。勉強の邪魔はしないほうがいいかな』

「いえ、平気です。もう終わりますから」

『そうかい。なら聞きたいことをひとつ』

 シズカのこの言葉は、拓馬との音信不通の期間が長かったときによく出てくる。

『二年生になって、変わったことはある?』

 問われた拓馬はひとりの新任教師と二人の転校生を連想した。いずれも個性的な人物だ。彼らの紹介をしようかと思ったが、そのうちのひとりが何者かに襲われたことを思い出す。それこそが本日シズカに連絡すべきことだ。

「転校生の男子が最近、不審者に襲われたんです。夜に走っていたら急に、という話で」

 シズカは早速この事件を追究してきた。しかし情報がすくない状況ゆえに、事件解決の糸口は一切見えてこない。

『わかった、未知数の事件なんだね。いまから友だちをそっちに送るよ』

 シズカの言う「友だち」とは特殊な動物を意味した。シズカの目となり手となる、変わった生き物で、シズカの本業で役立つ存在である。そのことを知る拓馬は気が引ける。

「え、でも、深刻な騒ぎじゃないんですよ」

『ここ一ヶ月くらい送ってなかったから、ちょうどいいんじゃないかな』

 拓馬は断る理由もないので承諾した。シズカが『そっちに着いたら連絡をちょうだい』と言い、通信が中断する。拓馬は耳にあてていたヘッドホンを首にかけ、椅子の背にもたれた。

 このような派遣は過去に何度かあった。そのときも拓馬の近辺に変事があり、シズカが対応した。別段拓馬に危険がせまるような出来事ではなかったのだが、シズカは親切に対応してくれる。今回の協力姿勢といい、彼はつくづく人が良いのだと拓馬は思った。

 拓馬が思いふける中、ガラス窓の叩く音が聞こえる。拓馬は部屋の窓を見た。そこに白い羽毛を持つ烏と、白い毛皮の狐がいた。拓馬が再度ヘッドホンを装着し、通信を始める。

「着きました。白いカラスとキツネです」

『白いキツネのほうがお世話になるよ。その子は調査半分、ヤマダさんにベッタリが半分になるかな』

『ヤマダを? なんでまた──』

 ヤマダは今朝、成石に被害状況をたずねていた女子。彼女は成石の事件になんら関わりがない。そんなヤマダを守る意味とはなにか。そう拓馬が問いかけたのを、シズカは笑う。

『あはは、そのキツネはヤマダさんを気に入ってるんだよ』

 大した理由ではないらしい。そう言うとシズカはまた連絡をしてほしい旨を告げ、通信を終えた。


 拓馬は一番にやりたかった目的を達成できた。ふーっと一息つく。そうやって小休憩していると、部屋の戸が叩かれた。縁の太い眼鏡をかけた中年が戸を開ける。彼は拓馬の父だ。興奮ぎみに「白い狐がいたぞ! お稲荷様かな?」とはしゃいだ。拓馬はその喜色に水を差す事実を告げる。

「ああそれ、シズカさんの」

 父が一転して、不安そうな顔をする。

「若いお坊さんの? また……厄介なことが起きたのか」

「そんなオオゴトじゃないよ。父さんは心配しなくていい」

 父は息子の言葉を信用しきれない様子で、顔をしかめた。拓馬が無理に笑顔を作る。

「大丈夫だって。シズカさんの手にかかれば悪党も悪霊も逃げていくんだからさ」

 正確にはシズカではなく、その友が悪者を退治する。この際、同じこととして扱った。

「……わかった。邪魔したね」

 父は戸を閉めようとして顔をそむけた。ぴたっと動作が止まる。

「あの狐は人に姿を見せないつもりかな。まえに、野良猫を装う猫がきたけれど」

「そうだと思う。町中に野良狐がいちゃ、目立っちまうもんな」

「それなら知らんぷりをしておこうか。私たちには区別がつきにくくて、すこし困るよ」

 父は冗談のように本当のことを言い、戸を閉めていった。


3

 シズカの狐は幽霊と似た存在だ。それを見える者はシズカと、拓馬の父と、そして拓馬。普通の人には見えず、狐がなつく対象であるヤマダは狐を見れない。それゆえ拓馬は彼女に狐のことを伝えておいた。動物好きなヤマダは不可視の動物を気味悪がることなく、むしろどんな愛らしい姿なのか気になっていた。


 狐が派遣されて半月ほど経ったころ。拓馬は連休明けの中間テストの真っ只中にいた。いまの時限の試験監督者は銀髪の英語教師である。彼は今学期から赴任した新人だ。新人といってもその年頃は三十歳ちかい、垢抜けた大人である。

 新人教師のあだ名をシドという。これはヤマダの命名だ。由来はミドルネームをふくめた、教師の名の頭文字である。このあだ名を使っていいか、ヤマダが申し出たときの彼は、奇妙なほどに戸惑っていた。だがすぐに快諾し、以後多くの生徒は彼をシド先生と呼ぶようになった。

 シドは諸事情により一学期のみの就任をするという。以前は警備員を務めたと自称する、経歴の異色な男性である。一般的でない髪色もさることなから、色黒で、黒いシャツを着て、黄色いサングラスをかける風貌もまた稀有だ。風変わりな姿とは裏腹に、その人柄は温厚で愛想がいい。それゆえ生徒からは高い支持を得た。なお彼は身の丈一八〇センチを超えた偉丈夫なせいか、女子の人気が特にあるようだ。

 拓馬もこの偉丈夫には好感をもっている。拓馬はさきの連休中、飼い犬の散歩の際にシドと出会っていた。彼は拓馬の犬をいたくかわいがってくれ、犬もまたこの教師を気に入った。両者の態度を間近で見た拓馬は、シドの動物好きぶりに親しみをおぼえた。

 ただこのときの邂逅はけっして平和的なものではなかった。新任教師は校長の指示を受け、拓馬たちと衝突しかねない不良少年らの動向を時々さぐっているのだという。彼の採用目的は、拓馬たちを守ることでもあるとか。だから前職が警備員という男性が急遽配属されたのだと、拓馬は腑に落ちた。

 試験監督中のシドは教卓の椅子に鎮座する。彼は連休中に拓馬と会って以来、スーツのジャケットを羽織らなくなった。黒い長袖シャツをひじのあたりで腕まくりするスタイルでいる。ジャケットを着用する間は目立たなかった筋肉がありありと見えるようになり、体育教師に見間違う雰囲気をかもしていた。

 試験開始からしばらく経過し、体格の良い教師がやおら席を立ちあがった。彼は教室の後方へ進む。

「はい、どうぞ」

 シドがそう言うと、次に男子生徒の謝辞が聞こえた。どうやら生徒が筆記用具を落としたのを、シドが拾ったようだ。試験中は通常、生徒の離席ができない。その規則を生徒が順守するために、監督者が適宜対処することになっている。雑用を終えた教師はすぐ教卓にもどる、はずだった。

 教室中に鈍い音がひびく。その音には重量感があった。只事ではないと思った拓馬が室内を見回す。こういった異変に対処すべき教師をさがすと、いつも高い位置にある彼の銀髪が、生徒の机と同じ高さにあった。

「失礼! つまづいてしまいました」

 弱るのは髪の色素だけで充分、とシドは軽口を述べた。拓馬は彼がただの不注意で転倒したのだと思い、ほかの生徒もそう楽観する。教師が教卓へ鎮座すると、なにもなかったかのように試験が続行した。

 試験が無事終わり、答案が最後列から前へと渡った。それらの紙束をシドが回収する。

「皆さん、お疲れさまです。結果は後日、授業で」

 監督者は人のよさそうな笑顔を生徒に向けたのち、教室を出た。今日で試験は終わりである。重大なイベントを終えた拓馬は帰り支度をした。その最中にヤマダがやってくる。

「タッちゃん、いまから暇ある?」

「答えの確認でもするのか?」

「シド先生、あのまんまだと本当に倒れそう。だから一緒に帰るように誘いたいの」

 ヤマダは教師の転倒を一時の不注意として見過ごす気がない。拓馬は先日、シドが休みを返上して町中を練り歩いたのを思い出した。彼は疲労がたまっているかもしれない。

「そんなにつらそうだったか?」

 ヤマダが二度うなずく。

「とにかく、話をつけてくる!」

 ヤマダとそのお守りの白い狐が教室を走り出た。拓馬が廊下に行ってみると、答案の束を持つ教師が他の女子生徒に捕まっていた。シドが女子らに解放されたあとで、ヤマダが声をかける。その会話は拓馬に聞こえない。

「あれ、帰らないの?」

 鞄を持つ千智が拓馬に話しかけてきた。拓馬は状況を正直に話した。彼女はうなずいて「まあ、ヘンよね」とヤマダに同意する。

「先生は三郎の攻撃を全部かわせるのに、なにもない床でつまづくなんて」

 三郎は剣道部員だが、徒手での戦いにも興味を示す男子だ。それゆえ彼は武芸家だと見込んだシドに徒手で稽古をつけてもらったことがある。拓馬は稽古風景を終始観戦してはいないものの、シドの回避行動の中で、彼の足がふらつくところは見なかった。

「あ! 危ない!」

 千智は鞄をその場に放りすてた。

(まさか先生がたおれて……)

 拓馬の不安は的中しかけていた。大柄な教師は、女子生徒にもたれかかる。小柄なヤマダでは教師の体を支えきれない。両者が体勢を崩す。大きな音が廊下中に伝わった。

「先生、ヤマちゃんがつぶれちゃう!」

 千智は倒れる彼らの耳元でさけんだ。女子に覆いかぶさった教師の意識はなく、下敷きになった生徒も反応がない。さいわい生徒の後頭部は教師の右手で守られてあった。

 拓馬は「先生をどかすぞ」と宣言した。ヤマダの上半身だけでも負荷を取り除く必要がある。そう判断して教師の肩を押そうとしたとき、教師が目を開ける。倒れたときの衝撃で彼のサングラスはずり落ちており、青色の目が露わになる。

「シド先生、気がついた?」

 千智が意識確認の言葉を投げかけた。教師は返答するよりさきに上半身を起こす。

「……無様なところをお見せしました」

 シドは座位に体勢を変えながらつぶやいた。いたって冷静に、落ちかかったサングラスをかけなおす。彼はその場で立膝をついた。ヤマダの肩と腿の裏に腕をとおす。

「オヤマダさんを保健室へ運びます。ネギシさんは答案を職員室へ届けてくれますか?」

 いましがた昏倒した男が、気絶中の女子を運ぼうと言う。拓馬は無謀だと判断する。

「俺がヤマダを運ぶよ。先生は休んでて」

「私は平気です。もうなんともありません」

 シドがヤマダの上体を起こした。するとヤマダが目覚め、拓馬と目が合う。

「……あれ? 学校?」

 次にヤマダは自身の体を支える者を見る。すると彼女は固まった。反対にシドは笑みを浮かべる。

「痛いところはありませんか?」

 ヤマダは視線をそらして「えっと……」と口ごもった。状況がまだ飲みこめないらしく、返答に窮している。そこへ慌ただしく廊下を駆ける音が近づいてきた。

「おい! 先生が倒れたって……」

 拓馬らの担任が騒ぎを聞きつけてきた。本摩はシドと生徒たちを見て、ぽかんとする。

「小山田が倒れた、のか?」

 本摩は聞いた情報と現実との相違に困惑していた。教師たちが事実を共有したのち、この場は解散となる。シドは即時帰宅することとなり、拓馬とヤマダも二人で一緒に帰った。


4

 若い英語教師が昏倒した日から十日あまりが経った。その間、拓馬はあることに気付いた。ヤマダを見守る狐が、いなくなった。これはおそらく、シズカが狐にあらたな指示を出したせいであろう。拓馬はその確認を取るため、電子メールをシズカに送っておいた。また、どうしてヤマダの護衛派遣をやめたのか理由を直接聞くつもりで、連日パソコンを起動する。電話を掛けてもよいのだが、シズカは不規則な時間で就労する社会人。電話をかけると仕事に差し支えが出そうで、気が咎めた。


 一学期の授業で学ぶ英単語を調べ尽くそうとする平日の夜、音声通信の承諾を求める音が鳴った。拓馬は即座に通話の準備をする。通話者はいつものとおりにあいさつをした。直後、『ごめんね』と謝られる。

『きみにキツネの件を知らせなくて悪かった』

「どうかしたんですか?」

『状況報告をしに帰ってもらったんだ。気になるネタをつかんできたからね』

「どんなネタか聞いてもいいですか」

『大型連休あたりの金曜の夜だったかな。また道端で倒れてる男性がいた。それを発見した人が、拓馬くんの同級生の須坂って子』

 同級生の名を言われた拓馬はおどろいた。シズカにはまだ転校生の詳細を教えていない。

「なんで須坂の名前を知ってるんです?」

『きみたちのそばにいた子はちゃーんと、きみたちの話を聞いてるんだよ』

「あのキツネが教えたんですか」

『そういうことだ。ツキちゃんが聞いた情報だと、須坂さんが最初の被害者も発見したという話だけど……それで合ってるかい?』

 拓馬は初耳だったので、正直に「聞いてないです」と答えた。

『ん? じゃあヤマダさんはまだきみに伝えてないのか。先走っちゃったね』

 成石が被害に遭った以後、ヤマダは事件解決に乗り気な三郎から情報を聞いていたようだった。須坂の名を知れた狐なら、二人のやり取りもこっそり見聞きしたのだろう。拓馬は「あとでヤマダに聞いておきます」と答え、この話題は終結した。

 シズカは『ほかに言うことはあるかなぁ』と話題を模索した。拓馬もなんだか引っ掛かりを感じて、通話を終わらせる気になれない。

(俺がシズカさんにメール出したきっかけは……キツネがいなくなったからだ。そのキツネを最後に見たのは……?)

 シズカが狐経由で入手した新情報とは、連休中の出来事。その次の週に中間テストがあった。テスト期間中は狐がこちらにいたはず。

(テストが終わったあとにキツネを見なくなった……じゃあ、テスト前に須坂が二度目の被害者を見つけたことは、キツネがいなくなったことと関係ない?)

 シズカは狐の直接的な帰還理由を述べていない──そう察した拓馬は詰問にならないよう細心の注意をはらい、質問する。

「それで……キツネは連休がおわったあともこっちにいたと思うんですけど、その、連休中に起きた事件とはべつの理由があって、帰らせたんですか?」

『お、鋭いね。その通りだよ』

 シズカはクイズの正解を当てたかのように称賛した。拓馬は相手に悪気はないのだと知りつつも、自分の質問をはぐらかされていたことに寂しさを感じた。

『だけど有益な情報をゲットしてないんだ』

「その話、俺に言えます?」

『いまは教えられない。これはイジワルで言ってるんじゃないよ』

 シズカなりに最善の手を考えているのだ。拓馬は疑問が解消されないことを我慢した。その思いが伝わったのか、『これは言っておこう』とシズカが落ち着いたトーンで言う。

『拓馬くんの近くには狐が見える人がいる、かもしれない』

「幽霊の見える人がいる?」

『すこしちがう。おれの友だちが見えても、幽霊は見えない人もいる。現におれがそう……いい機会だ、幽霊じゃない人外が見える人についておさらいしよう』

 シズカは前にも説明したことを話す気だ。知識の正確さに自信のない拓馬は静聴する。

『ざっと三種類のタイプがいる。一つめ、生まれつき見える人。これは拓馬くんだ。二つめ、おれの友だちが住む世界へ行って、帰ってきた人。これがおれ。三つめはわかる?』

「向こうの世界からきた人、でしたっけ」

『そう、向こうの住民だ』

 シズカは過去にこの世界とはべつの世界へ迷いこみ、そこで狐などの仲間を得てきた。向こうの世界から帰ってくるにはとある装置を使うという。その装置はシズカが二つの世界を行き来できるように取り計らったとか。しかしそうすることで起きる弊害もある。

「向こうから悪意をもって来る連中が、きっとあらわれる……シズカさんはそいつらの警戒をしたくて、警察官になったんですよね」

『うん、それが警官になった志望動機だね。冷静に考えたらあんまり意味がなさそうなんだけど』

 警官になったことが無意味だという理由──それは各々の時間のありようにあるという。

(あっちとこっちで行き着く時代がバラバラだとか、言ってたっけ?)

 たとえば向こうの世界からくる悪人が、シズカの生まれる前や死後にこの世界へおとずれたら。それではシズカがどんな生き方をしていようと、対処しようがないのだ。

『でも向こうではおれの時代からきた日本人とたくさん会えたし、なにか運命的なものを惹きつける世代だと思うんだ、おれたち』

 シズカの発想に対して拓馬は実感がわかず、「はあ」とややめんどくさそうに答えた。拓馬が対話に飽きてきたことを感じたシズカは『本題にもどすとね』と軌道修正をかける。

『拓馬くんの近くには異界の者が見える人がいる、としたら、その人を刺激したくない。そんなわけで、いまは普通の動物をよそおった猫を送るよ。最近野良猫が増えたと思ったら、その中におれの友だちがいるかもね』

 別れの挨拶を交わし、通信は途絶えた。拓馬の勤勉な高校生期間はいったん終わる。次なる目標は体育祭。拓馬は早めに床に就いた。


5

 体育祭は例年通りのにぎわいで、無事に終わった。その後の授業日の放課後、拓馬のもとに三郎がやってくる。

「これから空いているか?」

「やることはないが……」

「ならば好都合! 折り入ってたのみたいことがある──」

 三郎は成石を襲った犯人捜しを提案した。本摩との約束通り、体育祭を終えたいま行動を起こすつもりだ。手始めに最近、公園でたむろしだした少年らに話を聞きにいくらしい。彼らは夜にも公園に集まるというので、もしかしたら、彼らが成石を襲った連中かもしれない、との推測を三郎は立てた。そうでなくとも、近隣住民は不良少年らをこわがっている。それゆえ年たちにふたたび立ち退きをたのむのだとか。拓馬は嫌々ながらも、三郎が知り得た情報には耳を傾けつづける。

「相手は金髪が特徴的な首領を合わせて、四人だという。こちらはオレとジモンと拓馬の三人で、数的には不利だが……なにも喧嘩が目当てで行くつもりはない。話し合いですませるつもりだから、なんとかなるだろう」

「なんとかならなかったから反省文を書かされたんだぞ」

 三郎は首を縦にふりながら「たしかに」と同調する。

「しかし行かねばなるまい。もし犯人がべつにいるのなら、あの男子たちも成石のような被害を受けかねない」

「言って聞いてくれる相手かなぁ……」

 拓馬は反論するかたわら、三郎の博愛ぶりに感心した。彼は不良たちの身も心配している。罪を憎んで人を憎まずの精神だ。

「それで、拓馬はきてくれるか?」

 拓馬が抜ければ三郎はジモンと二人で行くだろう。相手方との人数差が増えるほどに危険は大きくなり、拓馬は気が気でなくなる。いっそ彼らを見守ったほうが精神的にましだ。

「もう俺を勘定に入れてるんだろ?」

 付き合ってやると拓馬は渋々言い、拓馬を懐柔できた三郎は大いによろこんだ。拓馬は協力する条件を付け足す。

「だけど話をするのは三郎に任せるぞ。俺は相手が手ぇ出してきたときに助けるだけだ」

「ああ、それで充分心強い。さっそく帰宅して、私服に着替えてきて──」

 拓馬たちのもとに千智が詰め寄ってきた。なぜか怒り顔だ。

「まーたあたしを除け者にして、おもしろいことをやるのね!」

 今度はそういかないわ、とまくし立てた。彼女の剣幕に押された三郎は後ずさりする。

「いや、お前が邪魔者なんじゃなくてだな。お前までわざわざ行かなくてもいいと……」

「ヤマちゃんは連れて行ってたじゃない! あたしとなにがちがうってのよ」

 千智は教壇を踏みつけた。壇の底が抜けんばかりの大きい音が鳴る。

「いっとくけど、脚力ならあんたに負けてないからね!」

 千智は陸上部で学校の記録を塗り替えることもあるスポーツウーマンだ。三郎も運動神経が良いものの、瞬発力においては千智に軍配があがるようだった。

「ヤマダ……は拓馬の協力要請要員だ。前回はヤマダが乗り気だったし、ヤマダの行くところに拓馬もついて行くからな」

「金魚のフンみたいに言うなよ」

 拓馬は不本意な評価に難癖をつけた。結果的には三郎の言う通りになったとはいえ、心から望んだ行動ではなかった。

 三郎の弁明を聞いた千智はまだ不満げだ。

「ふーん、そう。あたしはなんにも役に立たないから、連れて行かないってわけね」

 千智は空手の構えに似た姿勢をとる。

「そこに立ってなさい。あたしの蹴りを味わって、まだ立っていられたら諦めてあげる」

「待て待て! そんなに思いつめることはないだろう」

「じゃあ一緒に行っていいの?」

「あー、拓馬と固まっていてくれれば、な」

 要望が通った千智は「ぃよしっ!」と拳を握りしめた。蹴撃の制裁を回避した三郎は深く息を吐いて、安堵した。

 三郎が目先の痛手を避けるがために、拓馬の役割は増えてしまった。守る対象が増えること自体はかまわない。だが物見遊山で危険に首をつっこむ者を連れていくことに不安を感じる。

「大丈夫なのか、これで」

 と先行きを案じた。そのつぶやきを、気に留める者はいなかった。

 機嫌を直した千智はヤマダを誘いだした。まるで祭りにでも行くかのような気楽さだ。ヤマダが誘いを承諾したので、拓馬は女子二人のお守りを担当することとなる。

(めんどーなことにならなきゃいいが……)

 拓馬が前途をうれう反面、女子たちはたのしげだった。


6

 拓馬は三郎の勧誘により、拓馬たちが以前遭遇した他校の男子へ会いにむかった。この少年たちはまたも近隣の住民に迷惑をかけているとの評判だ。そのため、三郎は彼らの立ち退きを求めるつもりでいる。同時に彼らが成石を襲った犯人かどうか、反応をさぐる。少年らが犯人であれば早々に事件は解決でき、そうでなくとも住民を困らせる連中を退去させればよし、という計画だ。

 素行の悪い男子らがたむろする場所は公園だった。背の高い木々で囲まれた、広い公園だ。公園内には小学生向けの遊具が設置されてある。遊び場とは別に、休憩用のベンチが並ぶ場所があり、そこに制服を着崩した少年たちが集まっている。拓馬は女子二人とともに低木の茂みに身を隠した。

「あれが拓馬たちがまえに倒したやつら?」

 学校指定の体操着に着替えた千智が問う。彼女は帰宅する手間暇を惜しみ、手持ちの体操着を着る判断をした。私服に着替えてきたヤマダが「うん」とうなずく。

「ノッポくんに太っちょくんに、刈り上げくんは見たね。ひとりだけ制服が全然ちがう、パツキンくんは知らない」

 ヤマダが即席の名付けを披露した。彼女が言うように金髪の少年は以前の騒動では出くわさなかった。だが拓馬は最近、彼とすれちがったことがあった。それは連休中のシドが不良少年らをさがしていたとき、シドが屋内の施設へ入ったのを、犬連れで野外待機していた拓馬がたまたま見かけたのだ。そのときも金髪の彼は制服を雑に着ていた。染髪と乱れた制服の着方はベッタベタな不良像ではないかと、拓馬はすこし思う。

「あの金髪、雒英らくえい高校の人じゃないの?」

 雒英高校に通う生徒は勤勉な優等生ぞろい──学業面では平凡な高校生たる拓馬たちはそう思っていた。

「あんなに頭のいい学校の子が、なーんで不良どもとつるんでるのかしら」

 千智がみなの疑問を代弁した。金髪の取り巻きらしき他校の生徒は、雒英の足元におよばぬ学校の者。どうにも不釣り合いだ。

「あのパツキンくんがいたら、話をわかってもらえるかな」

 ヤマダがそう楽観した。金髪がまとう制服は、着用者の知性の高さを体現している。おまけに三郎が収集した情報によるとあの金髪が不良の頭目だという。つまり、金髪の発言権は強い。

「どうだかな。あいつがいちばん喧嘩っ早いかもしれねえぞ」

 不良とは縁遠い名門校にいながら非行少年のナリをしている相手だ。もっとも手強く、凶悪な性格なのかもしれない。

(向こうが四人で、こっちは男三人か……)

 前回は相手が三人だけだったので、相対する人数は互角だった──はずだが、どうもそのときの拓馬がひとりあぶれていた気がして、今回の人数不利への心配を感じなかった。

 歓談中の不良少年たちに、私服姿の三郎とジモンが接近する。三郎はまず相手に、最近は夜に人を襲う不審者が現れることを伝える。直截ちょくせつ的に「お前たちが犯人か」とは言わず、「夜に出歩くのは危ないから早く家に帰ろう」と早期帰宅をうながす。そこまではよかった。

「こいつら、おれたちをのしやがった野郎だぜ」

 頭の地肌が見えるほど髪を刈り上げた少年がいきり立つ。当時その場にいなかった金髪は「へえ、こいつがか」と言いながら、三郎とジモンを交互に見た。金髪が不敵に笑う。

「お前ら、借りは返してぇか?」

 金髪は好戦的だ。少年たちは一斉に腰を上げた。三郎は自身の両手を前に出す。

「オレはきみたちを二度も痛めつけたくはない! おとなしく家で安全に―─」

 なだめにかかる三郎に、刈り上げがににじり寄る。

「あんときはオダさんがいなくてやられちまったがよ、今日はちがうぜ」

 オダという金髪が一番腕が立つらしい。相手に強力な助っ人がいるうちは、引き下がってくれなさそうだ。そう判断した拓馬は物陰から出る。

「おい三郎! ここらが潮時だ」

 そこまで言えば三郎は退却か抗戦かを決断できる。三郎は拓馬にふりむき、行動決定への迷いを表情にのぼらせた。三郎が敵意ある連中に顔をそむけたとき、刈り上げが三郎の肩をつかんだ。無理やりに正面を向かせ、顔面に殴りかかる。危ない、と拓馬たちが思った瞬間、三郎は身を屈める。三郎の肩に手を置いていた刈り上げはバランスを崩した。刈り上げのあごへ、三郎のアッパーカットが命中する。先制者は地に沈んだ。

「これでも、まだ引いてくれないのか?」

 三郎はリーダー格を見据えて言った。対する金髪は鼻で笑う。

「はん、そいつは居てもいなくても一緒だ」

 不良たちは戦闘不能になった刈り上げに見むきもしていない。

(まえもこんなんだったような)

 と拓馬は数か月前の出来事を振りかえった。刈り上げは以前も三郎の説得に拳で答え、返り討ちにあった。そのときの敵方は、敗北した仲間を放置して、三郎たちに襲いかかった。刈り上げがやられたところで恐れをなさない連中なのだ。

 三郎は相手方の強硬な姿勢を受け止め、「やるしかないようだ」と拓馬たちに言った。それを開戦の合図と見たジモンは上着を脱ぎ捨てる。彼は衣服を破いてしまうと母親にひどく叱られるという。その対策として半裸になるのだ。服を脱いだジモンに、百キロはあろうかという巨漢が挑む。長身の少年が三郎と、金髪が拓馬と対峙した。三郎が拳を交える段になっても金髪は不動。拓馬も金髪の出方をうかがった。金髪が口を開く。

「このまえはもうひとり、お仲間がいたそうだな。そいつはどうした?」

 彼はヤマダのことを言っている。金髪の仲間たちが、彼に報告したのだろう。

「あいつに喧嘩は合わねえんだ。お前がやる気なら俺が相手をする」

「いい子ちゃんがいきがるなよ」

 金髪がついに拓馬に攻勢をしかけた。放たれた蹴りは速い。拓馬は後方へ跳びのく。回避の最中にも追撃の蹴りがくる。すばやい攻撃ゆえに、とっさに腕で防ぐ。さいわい威力はなかった。だが形勢はよくない。どこかで反撃をしなくては、と思う拓馬が防戦一方になると、目の端にヤマダと千智の姿がちらついた。気絶中の刈り上げになにかしているようだった。

「よそ見するたぁ、馬鹿にしてんのか?」

 金髪の罵声とともに拳がせまる。拓馬は両手で彼の拳を受け、その腕を引っ張る。前のめりになる相手に、後ろ回し蹴りを浴びせる。拓馬のかかとは金髪の背中をとらえた。金髪が地面に倒れる。拓馬は彼が起きてこないのを確認したのち、女子たちに近づく。

「ヤマダも千智も、なにやってんだ?」

「忍者の本でみた捕縛術だよ。親指をしばるだけで身動きが取れなくなるって」

 刈り上げはうつ伏せ状態で後ろ手を組んでいた。その両手の親指に荒縄が結んである。

「決着がつくまえに刈り上げくんが起きたらめんどうでしょ?」

 ヤマダがにこっと笑う。参戦しないなりに手助けをしようと思っての行動らしい。

「そうか……でもリーダーを倒したから決着はついたな」

 拓馬は友人の戦果を確認する。すでに三郎は相手を降していた。だが慌てふためく。

「拓馬、横を見ろ!」

 拓馬は三郎の忠告にしたがい、金髪の倒れている方向を見た。金髪が拓馬めがけ、光る物を振りかざす。驚いた拓馬は後ろへさがろうとしたが、刈り上げの体に足を引っかける。バランスをくずし、後方へ倒れる。金髪の攻撃は拓馬のこめかみをかすめた。切ったような痛みが走る。被害はそれだけでおわらなかった。拓馬の転倒により、そばにいたヤマダも倒れる。

「いだっ」

 彼女は運悪く、コンクリートの段差に頭を打ちつけた。拓馬はヤマダの負傷を心配したが、目のまえには敵がせまっている。自分の下敷きになった者に構っていられなかった、拓馬は体勢を立てなおし、あらためて金髪を見る。その手には刀身の短い刃物がある。

(ナイフかよ……)

 どこまでベタな不良なんだ、と拓馬はあきれた。そう思う間にも拓馬の頬に温かい物が流れていく。その液体の色は赤いにちがいないが、確かめる気は起きない。

(あれをうばわねえと、あぶないな)

 だが不思議なことに、ナイフがひとりでに地に落ちた。金髪は自身の腕をつかみ、痛がっている。ナイフの近くにはピンポン玉大の小石も落ちていた。

(なにが起きた? 三郎か?)

 拓馬は三郎が助けてくれたのかと思った。だが彼は呆然と突っ立ている。ちがうらしい。ではだれが、と拓馬は三郎が注目する方向を見る。そこに黒シャツの男性がいた。


7

 公園内をかこむ木々の合間に、背の高い男性が立っている。彼は拓馬たちに歩みよってきた。その人物は色黒で、黒いシャツを着ており、髪色は銀。うたがいようもなく、才穎高校の新任教師である。だが彼はいつもの黄色いサングラスを外していた。青い瞳がはっきり見えるその顔つきは無表情。普段から笑顔が印象的な人だけに、怒っているように拓馬は感じた。

「危険な遊びをしているようですね」

 低い声だった。もともと彼の声は低いのだが、いっそう低音に聞こえた。なにせ、拓馬たちは学校側が禁じる乱闘に身を投じている。教師が嫌悪して当然の事態だ。

 拓馬は教師の叱責が飛ぶのではないかと戦々恐々する。反対にジモンが「おお、先生か!」と歓声をあげた。この大柄な友はのんきだ。およそ子どもたちの遊びに大人も加わるような認識でいる。そんな状況ではないと察した拓馬はおそるおそる、教師に質問する。

「先生が……石を投げたのか?」

 一喝されるだろうか、拓馬は緊張した。しかしシドは「そうです」といつもの調子で答えた。彼はズボンのポケットから紺色のハンカチを出す。

「これで血をぬぐってください」

 そのハンカチは拓馬へ差し出される。拓馬は予想外の温情をかけられて、呆然とした。

「あとで病院に行きましょう」

 シドは気遣いを受け取ろうとしない拓馬の手に、ハンカチを持たせた。次に彼はヤマダのそばにしゃがむ。ヤマダは千智に膝枕された状態で、地面に横たわっていた。

「ノイさん、オヤマダさんのケガの状態はどうですか」

「ヤマちゃんは頭を打って、気絶して……」

 ヤマダは「もうだいじょーぶ」とヘナヘナした声でしゃべった。シドが立ち上がる。

「ではオヤマダさんも病院へ行きましょう。脳の損傷の有無を検査しなくては」

 彼は拓馬にくだしたのと同じ善後策を講じた。そして二人に怪我を負わせた張本人を見る。金髪はナイフを手元にもどし、あらたに登場した敵に刃を向けた。彼の闘志はがぜん燃えたぎるようだが、その手はすこし震えていた。

 シドは他校の少年から敵意をそそがれている。にも関わらず、彼は堂々と金髪との距離を詰めた。金髪はシドの常識はずれな行動に動揺する。

「お前が……こいつらの教師か?」

 金髪が刃物の切っ先をシドに突きつけたまま問う。

「オレをさぐってたヤツか。目的はなんだ」

 金髪は嗅ぎ回られたことに気付いていた。拓馬も、シドがそんな活動をしたことは知っていた。

「オレをどうにかしようって腹か?」

 シドは再び「そうです」と返答をする。

「ですが、貴方が素行を正せば私はなにもしません」

 語勢はやさしいが、内なる強い意志がこもっていた。シドは手のひらを金髪へのばす。

「刃物をこちらに渡してください」

 金髪は和平をこばみ、相手へ飛びこむようにナイフを突く。直線的な攻撃を、シドは半身をずらすことでかわした。俊敏な回避だ。しかしその動作に彼のネクタイはついてこれず、大剣部分が半分切れる。シドはネクタイの被害を一瞬見た。次に、なお立ち向かってくる金髪をにらむ。

「人を殺せる道具をまだ使いますか」

 このときになってはじめて、温和な教師の怒気が声にあらわれる。

「それ相応の覚悟をしてもらいますよ」

 金髪は警告を無視し、武器を突きだす。すると刃物は上空へ舞った。シドの蹴りが、ナイフを持つ金髪の腕に命中したのだ。金髪は腕に二度目の打撃を食らった。その負傷のために痛がる──かと思った瞬間、シドの片手が彼の首を捕まえた。

(先生、なにを……)

 拓馬は胸がざわついた。そのいやな予感は的中する。シドは金髪の首をつかんだ状態で、金髪の頭部を持ち上げた。金髪は地面に足がつかない。金髪はシドの手を両手でつかみ、浮いた足をばたつかせている。教師の暴挙に一同は愕然とした。

「先生、やりすぎだ!」

 拓馬は制止を呼びかけた。教師は腕を下ろさない。次第に金髪が抵抗する力を失くす。

(体当たりをかますか?)

 拓馬は教師の暴走を止めようとした。そのとき、シドのかたく閉じていた口がうごく。

「貴方がいま感じている恐怖は、貴方が刃物を突きつけた相手も感じた恐怖です」

 捕縛者が無感情な声で話しはじめた。金髪の体がすこしずつつ下がる。

「その感覚をよく覚えておきなさい」

 金髪の足が地面についた。シドの手が彼の首元から離れる。金髪は力なく崩れ落ちた。

 拓馬はすぐに金髪の生存確認をする。意識のない少年の鼻と口に手をかざすと、ひかえめな呼吸を感じる。

(よかった、無事だな……)

 大事には至らなかった。そうと知れた拓馬は次に、殺人一歩手前まで踏みこんだ大人をキっと見上げる。

「先生、人殺しになるところだったぞ」

「手加減は心得ています。ご心配なく」

 シドは拓馬の非難を受け流した。過激なことをしでかしたという反省は見られない。

(先生って、こんなに冷たい人だったか?)

 平素の温厚で謙虚な人柄からは信じがたい反応だ。まるで似た容姿の人物が複数いるよう──相手は自身の窮地を救った恩人にも関わらず、拓馬は不信感がつのった。

 冷酷な一面をあらわにした男が、地面に刺さったナイフを見た。刃物の柄は空に向かっている。それを彼は踏みつけた。刀身がぱっきり折れる。使い物にならなくなった刃物が地面にころがった。

 武器破壊を行なった男は不良少年たちに顔を向ける。うつ伏せに倒れる刈り上げ以外、少年らは体をびくっと震わせる。彼らは完全に戦意を喪失している。

「貴方たちも同じ目に遭いたくなければ、身を正して生きなさい」

 もはや畏怖は不要だと思ってか、その声色はやさしげだ。

「貴方たちはいくらでも自分を変えられます」

 不良たちは小刻みにうなずく。彼らは金髪のもとに寄り、退散の姿勢をとった。

 この場が安全地帯になった、と判断したシドは、ようやく教え子に関心を向ける。

「ケガをした二人は、私と一緒に病院に行きましょう」

 青い目はやさしげだ。彼の態度はいつもの温和な教師にもどっている。

「ほかの皆さんは帰宅してください」

 教師は生徒らを叱らずに帰すつもりだ。今回の騒動を見なかったことにするのか、と思いきや──

「この件の処分は後々決定します」

 彼はきっちり校長に報告するつもりだ。叱責は上司任せ、という判断らしい。

「それまで新たな問題を起こさないよう、お願いします」

 シドはおもむろにヤマダに近寄る。千智がヤマダの両肩をつかみ、シドを警戒した。

「オヤマダさんを運びます。私に預からせてください」

 千智は彼の笑みにほだされ、はにかみながら手を放した。

 シドはヤマダを横抱きにした。彼女はあわてる。それは教師を恐れてではなく、その体勢のはずかしさゆえ。

「こんなことしなくたって、歩けるよ!」

「後遺症があってはご家族に申しわけが立ちません」

 金髪への仕打ちとは打って変わっての過保護な主張だ。

「私を助けると思って、言うことを聞いてもらえますか」

 ヤマダは口答えをあきらめた。恥をこらえて、お姫様抱っこを受け入れる。千智がぼそっと「いいな~」と羨ましがった。三郎が千智を小突き、「ほうけたことをぬかすな」と注意した。千智はむくれる。

「なによ、ほんとにそう思ったんだから──」

「無駄口はあとだ。オレたちは撤収するぞ」

 三郎はシドの指示を忠実にこなそうとしている。彼の態度は仲間内に伝染し、ジモンが脱いだ服を着始めた。地べたに座っていた千智は服についた砂埃をはらう。三人の帰宅する姿勢を見たシドは温和にほほえみ、公園の外へと歩いた。彼は病院へ向かうつもりだ。それに拓馬は同行せねばならない。

(まずは治療を受けねえとな)

 シドを弾劾するのは後回しだ。拓馬はシドの後ろを追う。歩き出してふと、自分の手に持つハンカチの存在に気がつく。清潔感のあるハンカチだ。洗い落としにくい血を付着させるにはしのびない。拓馬は持ち主へ返却を申し出る。両手がふさがるシドが「ポケットに入れてください」と言うのを、素直にしたがった。


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