6.めざめ
優雅な小鳥のさえずりで目を覚ます。窓から射しこむ太陽の陽ざしが、今日も暑くなりそうだと予感させる。しかし、ぼくが危惧していたのはもっと嫌な「予感」だった。
青山さんの部屋は既にもぬけの殻だった。開け放たれた窓から、ひゅう、と生ぬるい風が吹く。その風を受けて、背筋が一気に凍り付いた。気が付けば、ぼくは部屋を飛び出していた。階段を三段飛ばして駆け抜けて、扉を蹴とばしながら外に向かう。
「いつもいつもいつもいつも一人でそういう危なっかしいことをするから! おちおちコカインの夢にも浸ってられねぇんだよ!!」
危ないと分かっているなら、ぼくを盾にしてくれればいいのに。こういうときに限って優しくなんてしないでほしい。
ホテルの駐車場に九八年式ランドクルーザーは無かった。仕方ないので、とにかく走る。幸い、スカイツリーまでそう遠くない。日頃の運動不足を考えても、十分あれば着くだろう。問題はその先だ。
いままでに遭遇した患者さまには、近づいただけで強烈な胃酸を吐き付けてくる個体がいた。またある個体は、こちらを捕食対象として捉えた。患者さまに近づくというのは、本来それほど危険な行為だ。ましてや、600mの超ド級クラスになど……。
「………っ!?」
東京スカイツリーが見えた時、ぼくは足を止めた。声が聴こえたからだ。でも、いくら耳を澄ましたところでなにも聞こえなかった。気が急くあまり、幻聴を捉えたのかもしれない。東京スカイツリーを占領している肉塊にも、これといって変化はない。でも、だとすればどうしてぼくは足を止めたのだろう? 焦っている。ぼくは再び地面を蹴った。
スカイツリーの足元に到着したとき、ぼくの心臓はすでに張り裂けそうだった。汗が尋常じゃなく吹き出していた。太陽が強烈な日差しを伴って降り注ぎ、どこからか蝉の鳴き声が聴こえた。Tシャツは汗で重くなっていたので脱ぎ捨てた。
入り口はすでに、青山さんが文字通り突破口を開いた痕跡があった。飛散した肉塊と、空の
心臓が痛くて、脇腹が痛くて、酸素が足りなくて、肺が痛くて、手足が痺れた。視界がぐらぐら揺れた。すべては日々の運動不足が原因だった。それでも無理やり腕を振る。肩甲骨ごと腕を振る。そうすれば人体の構造的に、嫌でも足が前に進むから。青山さんが教えてくれた。どうしても限界を超えて走らなくちゃいけないときはそうしろと。――まぁ、お前がそれほど一生懸命になる日なんて来ないがな――とも言っていた。その通りですよ。本当にその通りなんですよ、青山さん。
ぼくはいつまで経っても、自分のやりたいことがわからない。なにをすればいいのか分からない。だから自分に対して一生懸命になんてなれない。自分のためだけに頑張ることなんてきっと無理だ。それでもぼくは、いまその無理をどうにかしようとしています。不思議ですね。自分のために頑張ることなんて絶対できないのに。
思考と声がごちゃごちゃになりながら、三階の踊り場を通過する。派手なピンクのドレスが視界の端に入った。
青山さんは踊り場の壁に背を預け、ぐったりとうなだれていない。血は流れていない。外傷こそ見当たらないが、尋常じゃない憔悴っぷりだ。
「青山さん!」
「……ああ……うるせぇな、いま全員助けてやるから……うるせぇ、黙って待ってろ……」
「う――うるさい?」
と、その時。ピンポンパンポン、というアナウンスの後、強烈なヒビ割れ音が絶叫した。耳の錯覚かもしれない。ぼくにはそれが、どうしても人の声に聞こえた。
『あ、あああァァァァァァァァ嫌ああああああああ! 助けて、助けて、苦しい嫌だもう死にたい死にたい死にたい死にたいあ、ぁぁぁアアアアアアアアァァァァァ!!!!!』
スピーカーは狂った音響で、狂った言葉を吐き出し続ける。こんなものをずっと聞かされていたら頭がおかしくなりそうだった。青山さんも、先ほどからずっと頭を抱えている。
さっき聴こえたのはこれだったのか、とぼくは思った。恐らくこの患者さまの声だろう。スカイツリーの機能すら乗っ取っているのか。とんでもない規模の話で、気が遠くなる。
「苦しいのは分かったから……辛いのも分かったから……少し静かにしてくれよ。私がすぐそこに行って楽にしてやるから……」
意識を保つのすら辛そうなのに、それでもまだ青山さんは立ち上がろうとしていた。見ていられなかった。第六感を覚醒させたデメリットが、如実に
もう止めましょうと言いたかった。なのに気が付くと、ぼくは青山さんに肩を貸していた。一緒に階段を登りながら、ぼくは訊ねる。
「どうして一人で行こうとしたんですか」
「……うるさくてしょうがねぇからだよ。朝まで我慢できなくなっただけだ」
「もっとぼくを頼ってくださいよ。言ってくれたら、最初から肩くらい貸すのに」
「けっ。そういうことは……もっと頼もしくなってから言うんだな」
ひとしきり笑った後、青山さんは「大体わかった」といった。
「総合コントロール室に向かえ。最上階だ。そこに行きゃすべてカタがつく」
東京スカイツリーは、そもそも電波塔である。634mとは、建築構造物込みの高さであって、最上階自体の高さは400m程度。そこから上は、八十基ものテレビアンテナやラジオ用アンテナ、マルチメディア放送用アンテナが設置されている。それら施設への電波受信・発信を統御する施設が、総合コントロール室と呼ばれている。
「そこになにがあるっていうんですか?」
「母体――とでも呼ぶべきかな」
青山さんが、懐から大麻を出したので火を点けてやる。「母体?」とぼくは訊き返した。
「最初はたった一人の寂しがり屋から始まった。発症前に、そうとう言いたいことを溜めこんでいたんだろうな――。ストレスが溜まった人間ってのは、往々にして話を聞いて欲しがるもんだ」
「ちょっと待ってください。たった一人から始まったって、つまり――」
「寂しい。苦しい。悲しい。そんな気持ちを分け合いたいって感情くらい、患者さまにだってあるんだろう」
青山さんはそれから、かなり本格的な仮説を語り始めた。その内容を要約すると、ぼくが今まで一つの生物だと思っていたのは、患者さまの巨大なコロニーだったらしい。この塔を支配する母体は、スカイツリーの電波塔という構造を生かして、同じ患者さまを呼び寄せていた。ここに来るまで必死で目もくれなかったが、スカイツリーを覆う肉片は、それぞれ別の患者さまの成れの果て。
つまり、それだけ多くの患者さまが、あの悲痛な声に誘われて、ここに辿り付いたということで。
「患者さまに感情があるのは、ショックか?」
「いや……」
元はといえば、患者さまも同じ人間だったのだから、当然といえば当然だ。だが、とぼくはあたりを見渡す。壁に付着した肉塊を見て、これに感情があるなんて、どうにも奇妙な感触がする話だった。
「逆に考えると、こんな姿になってまで感情を捨てられないってのは悲劇だよな――死ぬほど苦しんでいるんなら、尚更な」
そうしなければ頭が崩れてしまう、というほどに強く額を抑えていた。その視線に気が付いたのか、「私を頭のおかしい奴だと思うか?」といいながら、青山さんは笑った。
「いや……」
ぼくは、少しだけ逡巡しながら言った。
「おかしいのは、この世界の方ですよ。とっくの昔からそうなんです」
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