5.ゆめを見る

 長くて懐かしい夢をみた。ぼくと青山さんが初めて出会ったときのことだ。


 ぼくは当時、どこかの会社で新入社員をしていた。でも、それはとくにやりたい仕事ではなかった。年相応の立場にいたいという願望から就職した会社だった。そんな動悸だからすぐに自分を見失った。未成熟で極端な思考回路は、なんのために働いているのかという疑問を通り越し、なんのために生きているのか、という疑問ばかり呈するようになった。その答えが見つけられず、たったの三カ月で会社を辞めた。身に付けた技術や資格などなにもなかった。ぼくは逃げるようにして実家に帰った。そこでぼくを迎え入れたのは、父の、鮮烈な激励だった。


「高い学費を無駄にしやがって。恥を知れカスが」


「おまえは一人息子なのだから、家を継がねばならん。その体たらくはなんだ? 自分の生きている意味を考えろ」


「タダ飯喰らいが。悔しかったらなにか一つでも社会の役に立ってみろ」


 父はしきりにぼくを激励したが、結果としてなにひとつ期待に応えられなかった。やはり、ぼくは自分のやりたいことを見いだせなかった。好きなことを仕事にしようと思って、かろうじて趣味と呼べるものを探してみても、どうしてそれが好きなのか、説明することができなかった。次第に「それは本当に好きなことではなかったのかもしれない」と思うようになった。申し訳なさから、家にいる時間が減った。家に帰るのが億劫になり、外泊することが増えた。自由に使えるお金が底を尽くと、公園のベンチで寝泊まりする生活を送るようになった。


 ある日、公園を根城にするホームレスたちが大麻を吸っている場面に遭遇した。どうしてそんな事態に遭遇したのか、今でははっきり思い出せない。だが、ホームレスがニタニタした顔で近寄ってきて、ぼくにこういったことは覚えている。


「兄ちゃん、こっちに来いよ。負け犬は負け犬らしく、仲良く傷をなめ合おうや」


 負け犬と呼ばれたことに、ぼくは怒りを持たなかった。むしろ「そうだよな」という不思議な安心感さえ感じた。むしろぼくという人間を正当に評価してくれた彼らに親近感さえ覚えた。その日を境に、ぼくは浮浪者の仲間入りをした。


 それからいろんなことに手を染めた。食べ物のために盗みを働き、麻薬を買うためのお金を盗み、警察につかまり、動物の死骸を美味しく食べる方法を模索し、いろんな人に殺されかけた。知らなくてもいいことをたくさん覚えた。しなくてもいい苦労をたくさん味わった。そういう生活を三年ばかり送ったが、両親がぼくを探しに来ることはなかった。


 そんな生活も決して長くは続かなかった。麻薬の副作用と、栄養失調と、ストレスによる自立神経失調症で、現実と夢の狭間をさまようことが多くなった。昨日のことが思い出せなくなり、仲間の顔が分からなくなり、明日のことを忘れた。自分がなにをしたいのか、どころか、自分が誰なのかすら分かっていなかった。

 気が付くとぼくは見たこともない路地にいて、胃の中のものを吐き散らしながらぼろぼろのへいに寄りかかっていた。あたりは薄暗く、建物は軒並み荒んでいた。空架くうか式看板が半分落ちかかっていた。丸々と太ったネズミが、ぼくの吐瀉物に向かってきゅうきゅうと鳴いていた。


 もう死のうと思った。生きていてもしょうがない、何もやりたいことがないし、好きなことがなんなのかも分からないし、社会の役に立てる知識も技術も度量もない。生きている意味が分からない。なら死んでも一緒だろう。でも、どうやったら死ねるのか分からなかった。ぼくはいつの間にか涙を流していた。悲しいというより、苦しいというより、自分の人生すら自分で閉じられない不甲斐なさに泣いた。


 生きることもできない。死ぬこともできない。なら、ぼくはどうするべきなんだろう。なにも分からなかったし誰も教えてくれなかった。七月なのに凍えるほどに寒くて、心臓はどんどん脈拍をあげていく。具合が悪くないのに、胃がを繰り返している。体調が悪いというより、ただただ自分の肉体の存在がしんどかった。あらゆる感覚がバグり、幻覚らしきものすら見えた。ピンク色のドレスを着た女性が、笑いながらこっちを見ているのだ。その手には注射針が握られている。


 かげろうが、ぼくにこう言った。


「やめちまえ、やめちまえ。なにをそんな一生懸命になってんだ? そんなに頑張ってどうするんだよ。やめろやめろ見苦しい。そうまでして生きなくたっていいじゃねぇか」


 ずいぶんと優しい幻覚だと思った。いつ消えてもおかしくない夢想。だが、その女性はかげろうのようにゆらゆらと、目の前で揺れ続けている。


「べつに死んだっていいんだぜ。人はいつ死んでもいいんだ。生きてるってのはそういうことだぜ。つまりいつでも死ねるってことだ。それ以上の意味を求めるなよ」


 いつでも死ねる。その言葉が優しかった。

 いつでも死ねるなら――いま、無理に死ななくてもいいか。


「クックック。良い表情だ。だがまだ安心できねぇぞ」


 女性は、そういってぼくの身体を起こした。そこでやっと、彼女が現実の存在だと分かった。小さいのに力強くて、清潔で、快活に笑って、何もかもがぼくとは正反対だった。


「付いてこい。ちゃんと治療してやるよ」


 それ以来、ぼくは膨大な借金を返済するという名目で、ずっと彼女に付きまとっている。




 

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