4.夜に

 その夜、ぼくたちは近くのビジネスホテルに泊まった。本来であれば患者さまの気配がする地域で寝泊まりするのは自殺行為だが、青山さん曰く「心配ない」らしい。


「この地域に、アレ以外の患者さまはいねぇよ。実際に視てわかったが、さっき感じた気配は全部アイツのだ。他の特奇症患者とっきしょうかんじゃは……アイツに喰われでもしたんだろうな」


 患者さまから夜襲を受けない、というのは朗報だった。逆をいえば、あの超弩級の患者さまの異常さが、かえって際立っただけともいえる。


 ぼくはずっとあの患者さまのことを考えていた。気が付けばとっくに日が沈んでいて、時計は午前二時を回っていた。窓の外には、ぽっかり空に浮かんだ満月が、藍色の空に淡い光を浮かべていた。旧東京の夜は過ごしづらい。夏の風情なんてどこにもなくて、ただ暑さだけの残留している大気が、なんとなく落ち着かない気分にさせる。


(特奇症の患者の行きつく先が、あの生物なのだろうか……?)


 自立神経特奇症じりつしんけいとっきしょうは、ストレスに応じて肉体を急激に変化させる症状だ。それは、全身がガン細胞に侵された状態ともいえる。細胞の制御機構がバグって、無限に増殖する部位をもった状態。それがガンだ。


 自立神経特奇症じりつしんけいとっきしょうは、まだまだ判明していないことの方が多い。ならば、今回のケースのように、急激な体細胞の変化に歯止めが効かず、肥大と膨張を繰り返すパターンが、決してないとは言い切れない。


(だとしても……だとしてもだ。仮に、一個の生物が600m以上の巨体でいられるのか……?)


 地上で生存できる生物の最大重量9.4トンまでと言われている。それにもっとも近い生物がアフリカゾウだが、その体長はせいぜい7m程度。仮にあの患者さまがどんな質量をしていようと、体積比の関係で矛盾が生じることになる。学のないぼくからすれば、物理法則を無視しているとしか思えない。

 規格外の存在は、脳裏に神という言葉をよぎらせた。あの肉塊がもとは人間だったなど、どうしても信じられない。


(……考えても仕方ない話か)


 ぼくは考えるをやめて眠ろうとした。どうせ明日になれば、青山さんが意気揚々とあの患者さまを施工しに行くのだ。なら、今の内にすこしでも体力を回復させておこう。


 しかし、眼を閉じるたびに青山さんが問いかけてくる。「あの患者さまをどう治療するか?」と。そこにボブ爺さんが現れて、わらいながら言うのだ。「クヨクヨ悩んで動けない状態が、人間の身体にとって一番よくねぇぞ」。


「……仕方ない」


 ぼくは意を決して、青山さんに夜這いを仕掛けることにした。純粋に、青山さんの可愛い寝顔を見たくなったのだ。それだけだ。


「青山さん、起きてます?」


 部屋の扉を三回ノックする。返事はない。ドアのノブを回す。鍵がかかっていない。ゆっくりと扉をあける。

 そこには、青山さんが小さく寝息を立てて……いなかった。部屋には電気が付いていて、青山さんはベッドの上で、胡坐あぐらをかきながら大麻を吸っていた。


「……青山さん、なにしているんですか?」


「なにって――大麻を吸っているだけだが?」


「そうじゃなくて」


 ぼくが言いたかったのは、なぜ戦闘用の装備をばっちり整えているのかということだ。ピンクのフリル付きドレスに身を纏い、カラシニコフを背負い、削岩式注射器を見据え、銀縁メガネを光らせながら、モクモクと大麻を煙らせているその姿に、ただならない雰囲気を感じた。まるでこれから仕事に出かけるかのような……と、そこでようやく思い至った。


「まさか、一人であの患者さまのところに行くつもりでした?」


「アタシがそんな殊勝しゅしょうな女に見えるかね?」


 青山さんは薄ら笑いを張り付けて、じっとぼくを見つめた。彼女は、決して「なにか言いたいことがあるんだろ?」とは言わなかった。だが、彼女の放つ沈黙にはそういう意味があった。


「……いつもながら、どうしてあんな化物に挑もうとするんですか? あのデカさは尋常じゃないですよ」


「かはは。なにかと思えばそんなことかよ」


 青山さんは心底あきれた表情を浮かべつつ、顔面にフッと大麻を吐き付けた。禁断症状が出るからやめてほしい。


「私はな、あの患者さまを化物だと思わないし、ましてや挑もうなんて気持ちもねぇ。……貴様、まさか私が誰か忘れたわけじゃあるまい?」


「でも……今回はさすがにヤバいですよ。生身で挑むより、ボブ爺さんに頼んで空爆なり、トマホークミサイルを要請した方が……」


「貴様……私と五年一緒にいて、いったい何を見てきたんだ?」


 青山さんの口角がひくひくと痙攣した。今回ばかりは本気で呆れているらしい。さすがのぼくも、これには反省する。


「あのな、患者さまを殺して終わるんなら簡単な話なんだよ。トマホークミサイルだろうと核弾頭だろうとなんでも持ってくりゃいいさ。だが、それで患者さまをぶっ殺してなんになる? ただの殺戮さつりくは徒労と同じだぜ」


 ボブ爺さんはぼくたちの行動を「狩猟生活ハンターライフ」と称した。傍からはそう見えるかもしれない。しかし青山せらぴにすれば、れっきとした治療――施工なのだ。


「貴様は、患者さまをどう思ってる?」


「え?」


 唐突な質問に戸惑っていると、青山さんはつらつらと喋り出した。


「私は、とても可哀想な存在だと思うよ。ストレスに耐えながら必死に生活してきたのに、ワケの分からないまま得体の知れない病気に感染して……そんである日突然、無理やりかに変えられ、挙句、生物として不安定なまま、死ぬまで欲求のしもべにされる……こんなひどい死に方、他にあるか?」


「…………」


「私には聴こえるんだよ。「助けて」って声が、ずっと」


 青山さんは真っすぐぼくを見据えながら、小さな額をなでた。なにかを訴えかけるような視線。痛みを和らげようとする華奢きゃしゃな手のひら。

 その声は青山さんの脳内が作りだした幻覚なのかもしれなかったし、異常に発達した第六感がせる、驚異的な感受性によるものかもしれない。

 ぼくにはその声が、どこから聞こえているのか分からない。誰のものかも分からない。だけど、青山さんには聞こえるのだ。苦しんでいる人の声が。悲しんでいる人の声が。


「いちど聞こえちまったら――そりゃ、聴こえなかったことにはできないだろ」


 それだけで、危険を冒すには十分な理由になる。そう言わんばかりに青山さんが笑う。その表情を眩しいと思った。一生適わないと思った。一生届かないと思った。


 だから、この人の傍を離れられないのだと思った。


「青山さん……」


「おっと、止める気か? よせよ。貴様じゃ私を止められない……そんくらいは、この五年で嫌というほど学んだだろう?」


「それでも――ぼくは」


 貴女を行かせるわけにはいかない。そう言いたかった口元からは、ありったけの空気と鈍い悲鳴が漏れ出した。


「そっから先は聞きたくねぇな。ほら――善い子はそろそろお休みの時間だぜ」


 鳩尾を殴られたのだ、と理解するころには膝が落ちている。思考が酩酊する。現実がどんどん離れていく。青山さんの足音が、どんどん遠ざかっていく。


 ああ――貴女はいつだってそうだ。ぼくを置いて、どんどん一人で先に行ってしまう。


 置いていかないでくれ。そう言おうとした口から何が漏れたのか、もうぼくにはわからなかった。

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