第21話 黄印の背中

 国主近隣公園。

 鹿島神宮の南に位置する、住宅街に囲まれた公園だ。神宮の近くに住む衣乃理にとっても馴染みが深い。ただし、良い子の衣乃理は、このような夕食後の時間に訪れたことはなかった。

「はむ、はむ、ほむほむ……もぐ……」

 そんな衣乃理の前で、食べ物が入ったコンビニ袋を奪い取るなり猛然と中身を貪っているのは……黄印博士。衣乃理の宿敵(?)であり、警察の手から逃れている真っ最中の男であった。

「あの……用事って、食べ物を買ってこいってことだったの?」

 挨拶もなく、一言も交わすことなくパンとおにぎり、水を流し込む黄印におずおずと話しかける衣乃理。

「いくらだ」

「え?」

 黄印からの唐突な問いかけに、衣乃理は言葉を詰まらせる。

「本題の前に、この食料は総額いくらか聞いている。ちなみに伝えたとおり、予算はこれだけだ」

 黄印がずいっと差し出した手の平には、三枚の百円玉が乗っていた。

「え……あ、はあ。じゃあ、貰っておきます」

「駄目だ

」 勢いに押された衣乃理が手を差し出すと、黄印が手を引っ込めた。

「…なにがしたいの?」

 説明不足のまま一方的に話を進める黄印に、さすがの衣乃理のも険のある物言いになる。

「貰っておきます、ではなかろう。予算を教えろ。領収書くらいあるだろう」

「……っ」

 妙に細かい黄印にイラつきながら、衣乃理はポケットからレシートを取り出す。

「はい、これ!」

 額面を確かめてから、黄印の眼前にレシートを突き出す。そこには、おにぎり、あんぱん、ミネラルウォーターの三点で三百五十円ほどの価格が記されていた。

「こっ、これは……」

 レシートを見て、黄印が声を震わせる。

「これは、予算をオーバーしているではないか! 私は三百円以内と指定したはずだぞ!」

「別にいいよ。三百円でいいから、早く用件を……」

「いいことがあるかっ! この私が、中学生の小娘に借りを作るなど、あってはならない! きっちり代金は払う!」

 胸を張って、威張りながら言い放つ黄印。どうやら、けっこう律儀な性格らしい……が、今の衣乃理にとっては余計なこだわりでしかない。

「そんなのどうでもいいってば! なら、後で返してくれればいいでしょ!?」

「それでは借金だ! やはり借りができるではないかっ!」

「そんなこと言ったら、こうやってお買い物してきてあげただけでも貸しでしょ!」

「そ、それは……あくまで私とお前の信頼の上に成り立つ頼み事だ! 金銭的な借りとは違う!」

「なーにが信頼なのっ! あなた、私とミカヅチの敵でしょ!」

「うぐぅ……と、とにかく、借金はいかん! これは返す!」

 そう言うと黄印は、手にしたあんぱんの半分をちぎった。

「ほら、これを食え」

「……へ?」

「レシートによれば、そのあんぱんは一〇八円。半分で五十四円だ。四円分は……袋は私が持っているから、それでよしとしよう」

「よしとしようって……別に、いらないけど」

 黄印から差し出されたあんぱんを拒否する衣乃理。夕食を食べたばかりでお腹は減っていないし、だいたい、よく知らないおじさんとパンを分け合おうとは思わない。

「なぜだ。食え!」

「いや~、だって……」

 あらためて黄印の姿を観察する衣乃理。もともと黄印とまともに顔を合わせたことはなかったが、たぶん、現在逃亡中の彼は普段よりくたびれた格好なのだろう。白衣の裾は破けているし、肩にかかった髪の先端は、まるで爆発コントのように軽く焦げて縮れている。

(なんか、ちょっと不潔そう……)

 そうは思っても、さすがに口にはしない衣乃理。

「どうした、食わんと話が進まんではないか」

 話が進まないのを、まるで衣乃理のせいのように急かす黄印。

「ええと……じゃあ、それ、ご馳走します」

「ご馳走?」

「う、うん。借りとか貸しとかじゃなく、プレゼント。その、えと、あんぱんだって、私よりあなたに食べられた方が幸せかもしれないし」

 黄印をなんとか言いくるめようと、高そうな彼のプライドを刺激してみる。

「…………」

 黄印はと言えば、黙って衣乃理とあんぱん半分へと視線を泳がせている。

「そうか……そういうことなら」

 言葉と同時に、黄印がごくりと喉を鳴らす。よほど腹が減っているのだろう。それなのにあんぱん半分を差し出したのは、ある意味では大したものだ。

「私の優秀な脳を動かすためには、糖分も必須だからな」

「うんうん」

 よく意味もわからずうなずく衣乃理。とりあえず黄印はその気になったようだ。

「では、貴様からの献上品、食ってやるとするぞ!」

「は、はい、どうぞ」

 プレゼントが献上品にランクアップしているが、とりあえずあんぱんを押し付けられることはなくなったのでよしとする。

「はぐ、はぐ、もごっ……」

 食事を再開する黄印。とはいえ、おにぎりとあんぱんが一個ずつなので、あっという間い黄印の細身の体に流し込まれてしまう。

「ふう……人心地がついた。ほら、受け取れ。三百円だ」

「なによ、偉そうに」

「さて……で、例の化け物についてだが」

「あ、そうだ! 私もそれが聞きたかったんだった!」

 黄印の余計なこだわりのせいで話が逸れたが、こうして会えたのだから、衣乃理も黄印に聞きたいことはたくさんある。

「あの化け物はいったいなんだ?」

「あのお化け、いったいなんなの?」

「…………」

「…………」

「……なぜ、私に聞く?」

「……聞きたいのはわたしの方なんだけど」

 同時に口をついて出た質問に「話のわからん奴だな」とでも言いたげに顔をしかめる黄印。おそらく、鏡を見れば衣乃理自身も似たような表情を浮かべているのだろう。

「私に聞かれてもわかるか! ああいうオカルトじみた存在は、おまえやミカヅチの親戚だろう!」

「そ、そんな言い方ないでしょ! わたしたちをあんな化け物と一緒にしないで!」

「同じようなものだろう! お前は、あのガラクタがどんな動力で動いているのか把握しているのか?」

「うっ。そりゃ、わたしにもミカヅチが動いてる理由は謎だけど……」

「だろう? なら、おおかたあの化け物もミカヅチの同類に違いあるまい」

「だからって、同類なんて……あれは、さばえ……なす? 化け物だから、ミカヅチとは別物だって希ちゃんが言ってたし」

「さばえ? 五月蝿なす神……という奴か。で、それがどうしてうちの杏奈くんに、我が重機キルガメシュに憑りついているのだ!?」

「それはわたしが聞きたいよ! あれは、あなたがミカヅチを倒すために呼んだ怪物じゃないの?」

「馬鹿もの! 私がオカルトなどに頼るかっ! 何より……助手を危険にさらすほど堕ちてはおらぬわっ!!」

「……!」

 普段から声の大きな黄印の、ひときわ張り上げられた大声。その迫力に、衣乃理は返事ができずにうつむいた。

「……っと。大声を出しすぎたな。警察が来たら大変だ」

 興奮したことを恥じるように咳ばらいをひとつ。そして。

「……頼む、協力してくれ。私の助手を、杏奈くんを化け物から解放せねばならない」

 真面目な表情で、衣乃理の目を見る。この男がこんなに冷静に、まっすぐに話すのを初めて見た気がする。

「協力……してあげたいけど、わたしには何もできないよ」

「できない? 馬鹿を言うな。私の知る限り、お前以外に適任がいるか?」

「え?」

「残念ながら、私の愛機は大破した。なら、戦えるのはお前だけだろう? あのオカルトじみた化け物と戦うには、こちらもオカルトをぶつける他ない」

 当然といった風に答える黄印。

「なあに、私も指揮してやる。私の頭脳とお前たちのインチキな力があれば」

「無理だよ」

「さしあたって、無線機くらいは作らねばなるまい。警察に見つからないよう指揮をしなければ……と、待て。今、なんと?」

「無理だよ」

「無理? 何がだ?」

「わたしは、あの化け物とは戦えない」

「ど、どういうことだ?」

 衣乃理の言葉に戸惑う黄印。

「待て、落ち着いて考えろ。たしかに私とお前は敵同士だが、今は呉越同舟。杏奈くんを救うまでは、互いに……」

「そういうことじゃないの」

 彼には似合わぬ、すがるような黄印の声音に胸を痛めつつ、衣乃理が首を振る。

「ミカヅチは、もう自衛隊の人に取り上げられちゃったの。なんとかいう女性の政治家さんに言われて」

「なに!? おのれ! ミカヅチは私が倒すのだというのに! だいたい、国はミカヅチには手出ししないのではなかったか!?」

「でも、やっぱりミカヅチは危ないからって……あなたも見たでしょ? ミカヅチが暴走したの」

「知るか! 多少はパワーアップしたように見えたが、私にとっては大きな違いはない!」

「は、はぁ……」

 あれだけ衣乃理や人々に衝撃を与えたミカヅチの暴走も、黄印にとっては大したことではなかったらしい。マイペースな黄印の反応に、衣乃理は少しだけ救われた気分になる。

 そんな衣乃理の気持ちは知らず、黄印はさらに話を進める。

「それより、これから先のことだ!」

 黄印は先ほどの小型ドローンを取り出す黄印。

「ミカヅチは今、どこに置かれている!? 私も奪還に協力するぞ!」

「えっ?」

「えっ? ではなかろう。愛機を奪われる苦しみ、想像に難くない。とっとと取り戻すぞ! 礼はいらん。ミカヅチの力で杏奈くんを救ってくれればな!」

「待って」

「いいや待たん! 善は急げだ。暗いうちに偵察を終えるぞ!」

「待ってよ」

「ええい、何か準備があるのか? 手洗いなら早く済ませろ」

「そうじゃなくて」

「犯罪者になることを恐れているなら、気にするな。私に無理やりやらされたとでも……」

「わたしはもう、ミカヅチに乗りたくないの」

 大声でもなく、高い声でもなく。だがきっぱりと、衣乃理は言った。その声は、思ったよりもずっと鋭く夜の公園に響いた。

「…………」

「…………」

「……話が見えんのだが」

「だから……わたしは、ミカヅチに乗るのが怖いの。さっき、あなたの言ってたことは正しいと思う。ミカヅチなんて、なんで動いてるのかわからない。わたしの言うことを聞かないことがある。なのに、人の命を危険に晒せるくらいの力がある……あんなもの、わたしが……普通の町にあっちゃいけない」

「…………」

 言うだけ言ってしまってから、 黄印がどんな反論をしてくるかと身を縮める衣乃理。だが。

「……では、杏奈くんはどうする?」

 黄印は、小さくそれだけをつぶやいた。

「そ、それは……わたしには、どうしようもないよ」

 胸の痛み。比喩ではなく、本当に痛みを覚えながら、衣乃理は絞り出すように答えた。これ以外、どう答えろというのだ。自分は、ミカヅチがいなければただの中学生だ。その自分に、自衛隊と戦ってミカヅチを取り戻せとでもいうのか? それに、ミカヅチがいたって、あんな化け物に勝てるとは限らない。

「わ、わたしには無理でも、警察とか、自衛隊とか……」

 少しでも胸の痛みを抑えたくて、衣乃理なりに代替案を出してみる。

「警察も、自衛隊も、おいそれと武力は使わん。使わせてもらえん……、奴らが重い腰を上げる頃には、杏奈くんはどうなっていることか」

 泣き笑いのような冷笑を見せる黄印。

「そ、それじゃ、どうすれば……」

「いい。それは君の考えることではない」

 そう言うと、黄印は幽鬼のように力なく立ち上がる。

「え? でも……」

「あとは私が考える。君は家に帰りなさい。あの化け物が戻ってきたら危険だ」

 優しい、とすら言えるような口調の黄印。衣乃理への呼びかけが「お前」から「君」になっている。

「で、でも、わたしもあの人が心配で……」

「ありがとう。だが、普通の中学生にどうこうできる問題ではない……無理なことを聞いてしまってすまなかった」

 急にしおらしくなった黄印は、ゆらりと揺れるように頭を下げた。

「で、でも……・」

「……ひとつだけ、頼みがある。ここで私と会ったことは、誰にも伝えないでくれたまえ」

「う、うん。でも、あなたはこれから……」

「ではな」

 それだけを言うと、黄印は白衣を翻して公園の茂みに飛び込む。ほんの数秒、茂みはチラチラと外灯の灯かりを反射して揺れていたが、それもすぐに収まった。

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