第2話 戦神の住まう地

♯第一章


1. 戦神の住まう地




 鹿島神宮駅を一歩出ると、レンガ造りの歩道が坂道へと続いている。その赤い坂道を上りきったところで左手に見えてくるのが、鹿島神宮のニの鳥居である。


木ではなく石で組まれた巨大な鳥居は、祭神の威光を示すかのように雄々しく地面に両脚を突き立てている。鹿島神宮に祀られている神は、戦神、建御雷神。戦と剣の神であり、雷神としても知られる猛き神である。


 その鳥居の下を、武見衣乃理たけみいのりは決意を込めた表情とともにくぐっていた。


「鹿島の神様……。わたしのお願い、聞いてくれるよね?」


 そうつぶやきながら、衣乃理は掌の硬貨を握り締めた。今日のお賽銭は、特に奮発して五百円玉である。


「大丈夫だよね……五百円だもんね。中学生にとっては、これでも大金なんだから……。それに、小さい頃から今日までのお賽銭をぜんぶ足せば、けっこうな額になってるはずだし……」


 などと、神様を相手に細かく支払額を計算してしまう衣乃理。


中学生女子がここまで懸命にお祈りする事柄と言えば、高校受験か、または……。


「お願い、神様! わたしの気持ち、大和先輩に伝えて!」


 そう。恋愛祈願である。


 祈願のお相手は、衣乃理の憧れの先輩、剣道部主将の大和一郎だ。


 きりりと引き締まった細い眉、きらりと光る白い歯、意外とたくましい二の腕……。整った容姿と爽やかさとを併せ持った大和は、衣乃理にとってドがつくほどのストライクなのだ。


……が、ひとつ残念なことに、大和は校内の多くの女子にとってもストライクであった。


要するに、ライバルが多いのだ。


そんな激戦区を勝ち抜くには、衣乃理はあまりに武器に乏しかった。


成績は普通だし、運動もそれなり。顔は可愛くなくはないと思うけど、まだまだ子供っぽい。プロポーションは……まだ中学二年生だから問題ない! これからだ! これから!


 そんな風に自分を励ましながら、衣乃理は境内を進んでいく。


 今の衣乃理は、恋愛戦争を勝ち抜かんとする戦士だ。


 自分を信じて、ポジティブ思考でどこまでも突き進むのだ。


 ……まあ、「自分を信じて」とは言っても、やることと言えば神頼みなのだが。


 のしのしと境内を進み、お守り売り場を通過する。さらに進んでいくと、木々に囲まれた参道の左手に鹿園が見える。


 鹿園は「ろくえん」と読む。鹿園の横には鹿の餌売り場があり、餌やりを楽しむことができる。


 ちなみに鹿島の鹿園で売られているのは奈良のような鹿せんべいではなく、野菜の細切れである。


「おう、衣乃理じゃねえか。珍しいな。今日はどうした?」


……と、突然、鹿園の中から衣乃理を呼び止める声がした。


「お前も餌やりに来たのか?」


「えっ……?」


 衣乃理が振り向くと、鹿園の中の雄鹿もこちらを向き、黒い瞳をしばたたかせた。


 ま、まさか……鹿が話した? などと阿呆なことを考えていると、鹿園の間から白髪頭の老人が飛び出した。


「どうした? もう学校は終わりか」


「あ……なんだ、お爺ちゃんか……」


鹿たちに野菜を与えながら歩み寄ってきたのは、衣乃理の祖父、鹿平であった。


「こんなとこで何してるの?」


「何してるのってお前、鹿に餌やってんだよ。神様のお使いは大切にしねえとな」


 鹿島という名の通り、鹿はこの地にとっては大切な神の使いである。鹿せんべいで有名な奈良の鹿も、元をたどれば鹿島から連れて行かれたものだとされている。


「いや、餌やりはわかるんだけど……」


「なんだよ、何か文句あるのか?」


「お爺ちゃん……ニートなんだから、他人の……っていうか、鹿の世話してる場合じゃないでしょ?」


「お、お前……! 実の祖父をニート扱いかよ」


「だって本当のことじゃない!」


 鹿平は、かつては腕のいい宮大工だったと聞いている。


 当時は全国の寺社から依頼を受けて日本中を飛び回っていた……らしいのだが、衣乃理は鹿平の働く姿を見たことがない。


 衣乃理が物心ついた頃には鹿平はすでに引退し、仕事もせずに神宮近辺をぶらついているばかりだった。少なくとも衣乃理が五歳の頃には仕事を引退していたから、祖父のニート歴はざっと十年にもなる。


「まったく……体だけは丈夫なんだから、ちょっとくらい働けばいいのに」


「別にいいじゃねえかよ、ウチはお前の父ちゃんと母ちゃんの共働きだし、俺くらい遊んでてもよう」


 眉に皺を寄せ、ぞんざいな口をききながら手をひらひらさせる鹿平。


 恐らく他人が――県外の者が――この光景を見たら、この祖父の言葉遣いはあまりにも乱暴に思えるかもしれない。だが、鹿平は衣乃理に対して怒っているわけでも、まして喧嘩を売っているわけでもなかった。どんな時も、誰に対してもこういう話し方なのだ。


 口調は乱暴だが性格は温厚、ただし、いざ怒れば何者が相手だろうとぶつかっていく……鹿平は、良くも悪くも典型的な茨城県人であった。


 衣乃理もそんな祖父の性格は承知しているので、まったく怯むことなく追及を続ける。


「別にわたしは、お金が欲しくて働けって言ってるわけじゃないの。ただ、元気ならブラブラしてないで……」


「まあまあ。俺は俺で忙しいんだよ」


「毎日神社で遊んでるたけなのに、何が忙しいって?」


「おいおい、もう勘弁してくれよ……」


 さすがの鹿平も、孫娘からの追及に対しては後手に回ってしまうようだ。


「それよりよう。お前はどうしたんだ、衣乃理」


 これ以上の説教はたまらぬと判断したのか、鹿平はいささか強引に話を戻した。


「えっ?」


「学校帰りに神宮に来るなんざ珍しいじゃねえか。何の用だ?」


「えっ、別に……何でもいいじゃない」


 攻勢から一転。自分の事情を詮索されると、衣乃理は途端に口ごもった。


 何せ、相手は暇を持て余している実の祖父。日がな一日神宮周辺をうろついては、土産物屋だの参拝者だのを相手におしゃべりしている二十四時間休業老人なのだ。実の孫が「恋愛成就を祈りに来たの。てへっ」なんていう話題を提供しようものなら、明日には町内の人々全てが衣乃理の恋愛事情を知ることになるだろう。


「なんだよ、何しに来たかくらい教えてくれてもいいだろ?」


「う、うん……ええと……」


「どうした? 何かやましいことでもあるのか?」


「べ、別に、やましいことなんか……!」


 自分はただ、憧れの先輩との恋愛成就を祈りに来ただけだ。


 可愛らしい純愛なのだから、やましいことなんかでは、ない。はず。


「あれか? オネショしないようにってお参りに来たのか?」


「わ、わたし、オネショなんかしないもんっ! したことないもんっ!」


「へえ? でもお前が十歳の時……」


「わーっ! わーっ!」


 秘められた悲しい過去を打ち消そうと、衣乃理はわたわたと両手を振りながら大声をあげた。


「なんでえ、何を恥ずかしがる必要がある? ガキのくせによう」


「こ、子供じゃないもんっ! お爺ちゃんも、もうちょっとわたしを大人として……」


「かーっ! お前が大人!? 冗談キツいぜ。お前が赤ん坊の頃なんて、便秘ぎみだったお前のために俺が指でケツのあ」


 がんっ。


「ぐぁ!? お、お前……!?」


 殴った。


 衣乃理は、実の祖父の顔面を迷いなく殴った。


 仕方あるまい。そうしなければ、乙女の尊厳を守れなかったのである。


「くぅ……手加減なしに殴りやがって……」


「もう一発食らいたくないなら、その口を塞いでおいたほうがいいよ」


「わかったわかった……じゃあ話を戻そう」


「え」


「だからよ。今日は何しに来たんだ?」


「べ、別に。ただ、たまには神様にご挨拶しようかな~って」


 衣乃理は鹿平から眼を逸らしながら言った。


 両足をもじもじ動かしながら、ぴぴ~っと口笛など吹いてみる。


 本人はごまかしているつもりなのだろうが、その態度の全てが「わたし、嘘ついてます」と主張していた。


 嘘のつけない性格なのである。いい子なのである。


「ふぅ~ん?」


 鹿平はそんな孫の顔を見ながら片眉を吊り上げている。


「……な、なによ。なにか文句あるの?」


 一方の衣乃理は、追い詰められた人間の常として、やや逆ギレ気味に不機嫌な顔をして見せた。なんだったらもう一発……いや、もう二、三発ほど鉄拳を叩き込んででも機密を守る覚悟だ。


「……いや、ま、いいんだがな。ただ、用事が済んだら早く帰れよ」


 が、案外簡単に鹿平は引き下がった。言い合いになるのを覚悟していた衣乃理は、ちょっと肩透かしを食らった気分だ。


「早く帰れって、なんで? まだ暗くなるには早いけど」


「……そういうことじゃねえんだよ。ほら、最近は物騒だからな」


 鹿平は急に真剣な表情になると、あたりをはばかるようにつぶやいた。


「物騒?」


「お前も知ってるだろ。最近、全国の神社を襲ってる奴らがいる」


「……ああ、そういうこと」


 鹿平が言っているのは、最近、ちょっとだけ世間を騒がせている“オカルト否定団”という連中のことである。


 この間抜けな名称の団体は、近年、全国の寺社仏閣への襲撃を繰り返していた。


 ある時は鳥居を引っこ抜き、賽銭箱を盗んで帰った。


 またある時は、お寺の釣鐘を外して転がした。


 そしてある時は、狛犬を半回転させて後ろ向きにした。


 要するにさほど大きな事件は起こしていないのだが、罰当たりな連中であることだけは疑いようがない。


 そんな阿呆な連中はとっとと捕まえてしまえばいいのだが、厄介なのは、彼らが強力な二足歩行重機を操っている点であった。


 二足歩行重機とは、十年ほど前から世に出回り始めた作業用ロボットである。


 さまざまな現場環境に対応できる汎用性はもちろん、全国のロボット好き男子から「燃える」との評価も獲得したことにより、短期間で急速に普及が進んでいた。


 噂では二足歩行重機に乗りたいがために土木関係の仕事を希望する若者が増えたとか増えなかったとかで、この新しいマシンはおおむね好意的に受け入れられている。


 ただし、やはりというか当然というか、二足歩行重機を犯罪に利用する輩も出現し始めていた。ATMごと現金を強奪したり、宝石店の大金庫を破ったり、発売日前のゲームソフトを箱ごと持って行ったりと、二足歩行重機は悪い方面にも大活躍してしまっているのである。


 そして、中でも特に厄介なのがオカルト否定団なのだ。彼らの違法改造重機は市販の重機を上回るパワーと機動性を有しており、警察も手を焼くほどであった。


「……でもさ、ニュースとかに流れてるのはもっと有名な場所の話でしょ? うちみたいな田舎は安全じゃないの?」


「お前なあ。神様に怒られるぞ」


「だってそうじゃない。ああいう事件って、東京とか京都とかにある、誰でも知ってる神社やお寺が襲われてるんでしょ?」


 衣乃理は、鹿島神宮の真っ只中に立ちながら、「鹿島神宮なんて、マイナーだから襲われないよ」と言ってのけた。


 実に罰当たりな発言であるが、衣乃理自身にはさほど悪気はない。ただ幼少時よりあまりに身近に接してきたため、地元の神様の威光というものがよくわからないだけなのだ。


「だからよう。有名な神社が狙われるってこたあ、ここだって危ないだろうが」


「え~っ? うちのとこって、そんなに有名かなぁ?」


 衣乃理にとっての「有名な神社」とは、修学旅行の定番コースになっていたり、アイドルが節分に豆まきをしたりする場所のことであった。


 衣乃理にとっての鹿島神宮とは、親戚のおじさんの家のような、または友達の家のようなものである。鹿島神宮を指して、「うちのとこ」と表現したあたりも、親しみと気安さのあらわれと言えるだろう。


「お前は鹿島神宮の偉大さがわかっちゃいねえ。建御雷神さまは……」


「はいはい、わかってますって。強い神様なんでしょ?」


 仮にも宮大工をしてきた鹿平の孫娘である。衣乃理だって、建御雷神という神様が偉大だという話は聞かされている。


 建御雷神たけみかづち、または武甕槌大神たけみかづちのおおかみ。戦を司る神であり、祖父に言わせれば「日本最強の武神」らしい。と言っても、神様の強い弱いなど、衣乃理にはピンと来ない。むしろ、交通安全とか安産とか、具体的で平和的な神様のほうが有難みがある。


 でも、恋愛というものをライバルとの戦いと定義すれば、戦の神様にも出番が……。


 と、そこまで考えて、衣乃理はようやく自分の用事を思い出した。


 そうだ、今日は憧れの大和先輩との恋愛を祈願するためにきたのだった。


 こんなところで祖父とじゃれ合っている場合ではない。


「と、とにかく、わたしはその建御雷神さまにお祈りしてくるから! じゃあね!」


 衣乃理は祖父との会話を適当に切り上げると、祖父の追及から逃げるように拝殿へと走り出した。






 ――衣乃理が走り去った後、鹿園には鹿平と鹿たちだけがと残された。


「やれやれ。行っちまったよ」


 鹿平は、自分と同じ名を持つ動物に話しかけた。


「実際、まずいことになりそうなんだがな……」


 小さくなっていく孫の背中を目で追いながら、鹿平はそうつぶやいた。


「……ま、口ばかり動かしてても仕方ねえ。俺も“仕事”を仕上げるかな、と……」


鹿平はそう言いながら手に残っていた野菜を鹿たちに与えると、何気ない歩調でぶらぶらと参道横にある森の奥へ消えて行った。






拝殿へとたどり着いた衣乃理は、ようやく建御雷神への恋愛成就祈願を果たそうとしていた。


大切な五百円玉が折れ曲がるかと思うほど強く握り締め、一心に祈りを捧げる。


「神様、仏様……いや、仏様は違うか。神様……どうかどうか、わたしの願いを叶えてください!」


 そして、念がこもった五百円を今まさに投げ込もうとした時。


「お、衣乃理か。何やってんだ?」


 絶妙なタイミングで後ろから声をかけられ、五百円玉に込めた念が霧散した。


「またぁっ!?」


 先ほど祖父に手間を取らされたばかりの衣乃理は、「また邪魔が入った! どいつもこいつも、わたしの恋路をそんなに邪魔したいの!? これが恋の試練だと言うのなら、わたしは拳を振るってでも道を開く覚悟がある!」という想いを「また」という二文字に込めて振り返った。


「な、なんだよ。何をいきなり怒ってるんだよ」


 わたしの恋路を邪魔する奴は、視線に射抜かれ死んじまえ。そう言わんばかりの視線の先に立っていたのは、衣乃理と同じ学校の制服を着た男子であった。


 やや長めのスポーツ刈りと太い眉。身長は衣乃理よりも頭ひとつ分だけ高い。以前は衣乃理と同じくらいの背丈だったのだが、ここ一年くらいで急に背が伸びたのだ。


 そう、振り返った先にいたのは、衣乃理のよく知った顔であった――正確には、振り返る前から声だけで誰だかわかっていたのだが。


「健ちゃんこそ、びっくりさせないでよっ!」


「びっくりさせるなって……俺、普通に話しかけただけで……」


 衣乃理に声をかけてきたのは、同級生の宮内健児みやうちけんじであった。


 いや、同級生という説明では足りないかもしれない。武見家と宮内家は明治時代以前からのご近所さんであり、互いの祖父同士も古くからの友人なのだ。要するに、幼馴染というやつである。


「わたしは今、大切な用事の最中なのっ! 健ちゃんこそ、なんでこんなとこにいるのよ!?」


「俺はジョギングだよ。毎日走らないと爺ちゃんに怒られるの、知ってるだろ?」


 健児の家は古くから続く剣術道場であり、衣乃理も小さい頃はそこで稽古していた。健児の祖父は優しくて丁寧な指導で知られる師範なのだが、実の孫に対しては昔からやたらと厳しいのだ。


「はいはい、ジョギングね。お疲れ様。じゃあ、もう行っていいよ、健ちゃん」


「な、なんだよ、今日はずいぶんおっかないな」


「そ。今日のわたしはおっかないの。だから離れてたほうがいいよ」


一刻も早く恋愛祈願を再開したい衣乃理は、とげとげしく健児を追い払おうとする。


「わかった、わかったよ……でもさ、ひとつだけ頼みがあるんだけど」


「……なによ」


 衣乃理は、「その望みを叶えてやろう。ただし、即刻この場から去ってもらうぞ」という恫喝を込めて健児を睨みつけた。


「ジョギングしてたら腹減っちゃったんだけど、今、財布持ってなくってさ。お金貸してくれる?」


「……」


 衣乃理は、静かに右手を開いた。


 少しだけ汗ばんだ手の平の上には、衣乃理の念がたっぷり注ぎ込まれた五百円玉があった。






2.巫女の条件




 翌日。


 衣乃理は、ちょっとだけ憂鬱な朝を迎えていた。


「わたしの五百円……」


 せっかく決心したのに。あんなに念を込めたのに。


 衣乃理は結局、あの五百円玉を健児に貸してしまったのだ。


「でも、でも……」


 目の前でお腹を空かせている者がいるのに、それを見捨てて恋愛成就など祈れないじゃない。そんな薄情な女の願い事を神様が叶えてくれるわけないじゃない。わたしは間違ってないもん。悪いことはしてないもん。


 衣乃理は心の中で、誰にともなく弁解する。


《大和先輩……ごめんなさい。もうちょっとだけ待っててください》


 そんなことを考えながら、衣乃理は鹿島神宮から駅へと続くレンガ通りの坂を降りていく。


先日まで咲き誇っていた桜は葉桜へと変わり、濃い緑が朝日を揺らしていた。爽やかな五月の風が頬をくすぐっていくが、今の衣乃理には季節の移り変わりを愛でる余裕はない。


「よ、衣乃理、おはよ」


「あ……!」


 と、そこへ後ろから追いすがってきたのは、衣乃理の恋愛祈願を延期させた張本人、健児であった。


「昨日はありがとな。来週になったら小遣いもらえるから、そんとき返すわ」


 衣乃理があの五百円に込めた念のことなど知るはずもない健児は、涼しい顔でそう言った。


「えーっ? 来週なの?」


「え。駄目? 何か急ぎで買わなきゃいけないものでもあったか?」


「別に、そういうわけじゃないけど……」


「だったら来週で勘弁してくれよ。最近、いっつも腹が減っててさ。小遣いが買い食いでガンガン減っていくんだよ」


「まったくもう……」


 これでは、恋愛祈願も来週までおあずけだ。衣乃理は小さくため息をついた。


「でもさ、昨日は本当に助かったよ。もう腹減って腹減って。あの後カレーパン二個、アンドーナツ一個、コーヒー牛乳一本で、五百円は有効に使わせもらったよ」


「えっ……そんなに食べて、夜ご飯は入るの?」


「入る、入る。晩飯までにはまた腹が減っちゃう」


「そ、そうなんだ……」


 幼馴染の規格外とも思える食欲に、衣乃理はいささか引き気味だ。


 ――でもまあ、お腹が減るのも仕方ないのかな?


 隣を歩く健児の肩の高さを確かめながら、衣乃理は妙に納得もしていた。


 衣乃理の幼馴染はここ一、二年でタケノコのように成長していた。健児とは物心つく前からの付き合いだが、幼稚園時代も小学校時代も、衣乃理とは常に同じくらいの身長だった。だが、今の健児は衣乃理より頭ひとつ分も大きい。これだけ伸びるためには、エネルギーも大量に必要となるのだろう。


……とはいえ、健児の食欲のせいで消えてしまった五百円にはまだ未練があるのだが。


「とにかく、来週、絶対に返してよね」


「わかってるって。俺、借りた金を踏み倒したことはないだろ?」


「そりゃそうだけどさ……」


 体と食欲ばっかり大きくなって、迷惑ったらありゃしない。


 衣乃理は悪態のひとつもついてやりたい気分で健児を見上げた。


 なによ。髪型だって、馬鹿のひとつ覚えみたいに昔っからスポーツ刈りばっかり。大和先輩はもっとこう、サラッとした前髪が……。


 と、その時。




 どがっしゃーん。




 巨大な漬物石が落下したかのような轟音が、周辺一帯を震わせた。


 金属がきしむ音が鼓膜を叩き、衣乃理たちが歩いているレンガ通りもわずかに揺れる。


「な――!?」


「衣乃理っ!」


 衝撃音の原因を確かめる間もなく、衣乃理の視界が激しく揺れ動いた。天地が逆さまになり、レンガの赤と葉桜の緑色が高速で目の前を通り過ぎていく。


「え、え……!?」


 気がついた時、衣乃理は歩道脇の植え込みに背中から突っ込んでいた。そして、すぐ目の前には健児の顔。


「大丈夫か、衣乃理?」


 健児は、息がかかるほど接近した状態でそう聞いてきた。いつになく真剣な声だ。


「ちょ、ちょ……何するのよっ!」


 ぱこーん。


「のがぁっ!?」


 いきなり覆いかぶさってきた幼馴染の顔面めがけ、衣乃理は掌底を叩き込んだ。


 健児が鼻をおさえてのけぞった隙をつき、急いでその脇をすり抜ける。


「このスケベ……!」


 そして追撃の蹴りを脇腹に叩き込もうとした時、健児が衣乃理の眼前に掌を突き出した。


「ま、待った!」


「……何よ。命乞いなんて見苦しいわよ、この変態!」


「……お前、何か勘違いしてないか!? 俺は地震かと思って……!」


「あ……」


 衣乃理は、足を後ろに引いたフォロースルーの態勢でぴたりと固まった。


 ここでようやく気がついた。健児は単に、衣乃理をかばってくれただけだったのだ。


「あ、ご、ごめん……わたし、てっきり……」


「てっきり……って、なんだよ? ……お前もしかして、俺がなんかやらしいこと考えてたとか思ったのか?」


「あ、えーと、その……」


「ばっかじゃねえの!? 俺にだって選ぶ権利はあるっての! 衣乃理なんて、前も後ろも背中みたいに平らで……」


 がすっ。


「ふ、ふぉうぅぅぅぅ……」


 衣乃理はフォロースルー状態で止めていた足を予定通りに振りぬいた。革靴の先端は健児の肋骨をがっつり強打し、デリカシーのない幼馴染はころころと坂道を転がり落ちていく。


「まったくもう……って、そういえば、さっきの音は?」


 衣乃理はあらためて坂道の上、鹿島神宮の方面を見上げた。


 先ほどの衝撃と轟音は何かの事故か、災害か。事故だとすれば、巨大なトレーラーに匹敵するような物体が……。


 そこまで考えてから、衣乃理は鹿平のことを思い出した。確か、祖父は今朝も神宮の辺りをぶらついているはずだ。


「……お爺ちゃん!」


「……あ、おい、衣乃理! 待てって!」


 健児の制止を後にして、衣乃理は鹿島神宮を目指し坂道を駆け上がっていく。


《お爺ちゃん……》


 一瞬、衣乃理の脳裏に、車にはねられて倒れる祖父の姿が浮かび上がる。


《……そんなはずない……今朝、朝ごはんの時も元気だったもん……!》


不吉な連想を振り払いながら、衣乃理はレンガ通りを登りきった。そのまま速度を緩めずに左折し、神宮前の大鳥居へと……。


「……え?」


 そこで衣乃理が見たものは、想像していた事故現場とはまったく異なる光景であった。


 人災、であることは間違いがない。


 大鳥居前のアスファルトには亀裂が走り、近くには二、三本の電柱が横たわっている。


 だが、その事態を引き起こしたのは自動車ではなかった。


 恐れ多くも鹿島神宮の大鳥居に手をかけているのは、二体の二足歩行重機であったのだ。


「な……!?」


 突然の非日常的な光景に、衣乃理は一瞬、言葉を失う。


 しかし次の瞬間、衣乃理をさらに驚かせるものが目に入ってきた。


「おうおうおう、手前ら、そんな下品な機械で鹿島神宮に手をかけようたぁ、いい度胸してるじゃねえか、あぁ!?」


 全高四メートル以上はあろうという二足歩行重機の足元でわめいているのは、誰あろう、祖父の鹿平であった。


「お……お爺ちゃん!? 何やってんのっ!!」


 衣乃理は思わず金切り声をあげた。


 無理もない。祖父を心配して駆け戻ってみれば、当の本人はわざわざ単身で危険に首を突っ込んでいたのだから。


 しかし、鹿平には衣乃理の声は聞こえていないようだ。恐らく、頭に血が上っていて辺りの声など耳に入らないのだろう。


「あ、衣乃理ちゃん! 鹿平さんを止めてあげて!」


 お土産屋のお婆ちゃんが衣乃理に声をかけてくる。周囲の住人たちは、青ざめた顔で鹿平の蛮行を見つめていた。


 一方、鹿平本人はやたらと強気に二足歩行重機に立ち向かっている。


「おう、こら! 神罰が下る前に出て行けやぁ!」


 そんなことを言いつつ、サンダル履きの足で二足歩行重機のくるぶし辺りを蹴っている。


 もちろん巨大な重機にとってはなんともない抵抗である。だが、搭乗者のカンには触ったようだ。


「おい、貴様っ! わたしの愛機を足蹴にするとは、そちらこそいい度胸だ!」


黒い重機から、神経質そうな男の声が響き渡る。


「あのねえ……私たちの重機がちょっとよろけただけで、あなたなんかペシャンコよ? 命が惜しかったら下がってなさい!」


 もう一体の紫色の重機からは、からかうような女の声が発せられた。


「けっ! てめえらこそ、痛い目に遭いたくなかったらとっとと帰れ!」


 祖父はもう一回、黒い重機の爪先を蹴った。


「まったく、威勢の良すぎる老人だな。仕方ない……心が痛むが、少しだけ静かにしていてもらおうか」


 イラついた声とともに、黒い重機がゆっくりと祖父に手を伸ばす。


「へっ、どうするつもりなんでえ、えぇ!?」


 逃げたら負けだとでも思っているのか、鹿平は身じろぎもせずに重機の手を見上げている。


「ちょ、お爺ちゃん……!」


 祖父の危機を感じて、衣乃理が走り出す。


「あ、衣乃理ちゃん!? 危ないよ!」


 お土産屋のお婆ちゃんが金切り声をあげる。


「衣乃理!? 馬鹿、お前、こっち来んな!」


「馬鹿者! 急に割り込むなっ!」


「……衣乃理っ! 危ない!」


 どがしゃーん。


 それぞれが怒声と悲鳴を発した直後、黒い重機はふらついて地面に手を着いた。


 いきなり横から飛び込んできた衣乃理を避けようとしてバランスを崩したらしい。


「お、黄印おういん博士……!?」


 紫色の重機が、震えた声で黒い重機に声をかける。どうやら、黒い重機の搭乗者は黄印と言うらしい。


「ば、馬鹿な…!?」


 黒い重機もまた、声をわななかせながら地に着いた手を見つめている。


黒い重機がよろけた瞬間、衣乃理と鹿平は重機の手の真下にいた。


「ということは……わ、わたしは……あの二人を……?」


 黒い重機はおそるおそる手を地面から引きはがした。


 その下には、ぺしゃんこになった哀れな二人が……いなかった。


「……おや?」


「博士……?」


「何もない……誰も、いない……」


「と、いうことは……」


「よ、よかった! わたしは人を殺していないぞ! 誰も死んでないぞ!」


 黒い重機は元気に身を起こし、ぴょんと器用に跳ね上がった。


「よかったですね、博士!」


 紫色の重機も、黒い重機に抱きついて喜ぶ。


 二体が跳ねたり抱き合ったりするたびに耳を刺す激突音が響き渡るが、喜びに湧く当人たちには気にならないようだ。


「よかった! よかった!」


「私、本当の凶悪犯罪者になっちゃったかと思いました!」


 二体の重機はしばらくの間、大鳥居前で能天気にはしゃぎ回っていた。






 黄印博士らの乗る重機が飛び跳ねて喜んでいる頃。


 その場から姿を消した衣乃理と鹿平、そして健児は、お互いに怒鳴り合いながら参道を走っていた。七十歳を越えているとは思えぬ鹿平の健脚は、衣乃理の全力疾走にも引けを取らない。


「まったくもう、お爺ちゃん! 危ないでしょ! わたしが助けに入らなかったら……!」


「うるせえ! 建御雷神様のお住まいを侵させるわけにいくか!」


「っていうか、衣乃理も無茶しすぎだ! 俺が助けに入らなかったらお前だって……!」


「わたし、大丈夫だったもん! 健ちゃんこそ、急に飛び込んできたら危ないでしょ!」


「お前、助けてもらっておいてその態度は……!」


「ええい、衣乃理! 健児! おしゃべりはいいから走れ!」


「だからこうして走ってるでしょ!」


「でも、鹿平じいちゃん。どこに行こうってんだ? 近所のみんな、まだあそこに残ってるぞ? 俺たちだけ逃げるのかよ!?」


 健脚の鹿平を追いかけながら、健児は気遣わしげに大鳥居を振り返る。


「そうだよ、お爺ちゃん。どうせ逃げるんだったら、警察に行って助けを呼んだほうが……」


「馬鹿。あんなもん、警察だの消防団だの呼んだってどうにもならねえだろ。安心しろ。わしにゃ、あのナントカ博士って奴を追っ払う手があるんだ」


「本当~?」


「おめえの祖父を信じろ! とにかく今は走れ!」


 鹿平はそう言うと、参道を直角に曲がって森の奥へと入って行く。


「神社なんかに何があるってんだよ?」


「あ、わかった! 自分だけここに隠れるつもりなんだ~!」


「うるせえ! とにかくついて来いっ!」






「ほれ、着いたぞ。ここだ」


「着いた、って……何もないじゃない」


 鹿平が衣乃理たちを連れてきたのは、参道から少し離れた茂みの中であった。


 周囲の雑草はきれい刈り取られてはいるものの、他にどうということはない三メートル四方程度の空間である。


「お爺ちゃん、何よここ? 別になんにもないじゃない?」


「慌てるんじゃねえよ……よっこらしょ」


 鹿平はその茂みの中心あたりにしゃがみ込むと、手で軽く地面を払った。そして、土の下から出てきた取っ手のようなものを引き上げる。


 ぎぎぎぎぎぃーっ。


 重い金属音をあげながら姿を現したのは、地下へと続く正方形の穴であった。


 穴の中は薄暗いが、ちょうど人一人が降りられる幅で階段が続いている。


「え、何これ……地下室?」


「もしかして、シェルターってやつ? 避難用のさ」


「そっか! みんなをこの中に隠してあげて……」


 健児の言葉に、衣乃理はぽん、と手を打つ。だが、鹿平は即座にそれを否定した。


「違う違う。だいたい、それじゃあいつらを追っ払えないだろうが」


「じゃ、なんなのよ、この穴?」


「決まってるだろ? この中に、神宮を守るための手があるんだよ」


 鹿平はそれだけ言うと、地下へと続く階段を降りはじめる。


「ほれ、早く来い。説明は中でしてやるよ」


 鹿平が入り口付近にある壁をまさぐると、蛍光灯がぱっと階段を照らした。階段はしっかりとしたコンクリートで作られており、ご丁寧に手すりまでついている。


「お爺ちゃん、ここって……?」


 おそるおそる階段を降りながら、衣乃理は祖父に問いかけた。


「……衣乃理、健児。お前ら、布都御魂ふつのみたまは知ってるな?」


 鹿平は衣乃理の疑問には答えず、歩を進めながら逆に質問を返してきた。


「ふ、フツノミタマ……?」


「ああ。正確には、布都御魂剣ふつのみたまのつるぎだ」


「えーと……どこかで聞いたような……」


「それって、神宮に伝わってるでっかい剣のことだろ?」


 衣乃理が額に手を当てて記憶を探っていると、後ろから健児が助け舟を出した。


「おう、さすがに男の健児ほうが興味があるか。その通り。布都御魂剣……鹿島神宮に安置される国宝よ」


「大きな剣……? もしかして、宝物館に展示してある、あの錆びた剣?」


 健児と鹿平の説明で、衣乃理もようやく布都御魂に思いあたった。確か、鹿島神宮に伝わる長大な剣がそのような名であったはずだ。


「確か、ものすごく大きかったよね、あれ……?」


「おう。全長二.七メートル以上、刀身だけでも二.二メートルを越す直刀よ」


「へええ……それって、すごいんだよね……」


「当たり前だろ。日本刀だったら刃渡り七十~八十センチくらいが普通だ。刀身だけで二メートル越えなんて、非常識な長さだよ。もちろん、実際に振り回せる人間なんかいない。布都御魂は儀礼用に作られた剣なのさ」


 剣術道場の息子らしく、健児が日本刀を例に出して答える。勉強はあまり得意ではない健児だが、さすがに剣に関してはいくらかの知識があるようだ。


「なるほどね……でも、その布都御魂がどうかしたの、お爺ちゃん?」


「……よし、着いたぞ」


 鹿平はまたも衣乃理の質問を聞き流し、一足早く階段を降り終えた。


「ちょっと、お爺ちゃん?」


 衣乃理は早足で鹿平を追いかけ、暗い地下室へとたどり着いた。


「おう、聞いてるよ」


 鹿平は、こちらを振り向きもせずに真っ暗な地下室に立っている。


 階段から漏れる明かりだけでは地下室の全貌は見えない。だが、足音と声の響き方からして、かなり天井の高い部屋だと思われた。


「お爺ちゃん……ここ、なんのための場所?」


「鹿平爺ちゃん、電灯は点かないの?」


 だが、鹿平はやはり返事をせずに暗闇に向かって数歩、足を進めた。


「なあ、さっきの布都御魂の話だがよ……健児の説明、ひとつ間違ってるところがあるぜ」


「え……俺、どっか間違ってた?」


「おう。布都御魂……ありゃあな、元は儀礼用の剣じゃねえ。実用の剣を模したもんだ」


「実用の……ってことは、あれを振るえる剣士がいたってことか? どんだけ力持ちだよ……」


「お爺ちゃん、健ちゃん! そんな話は後でいいじゃない!」


 布都御魂の話に気を取られている二人に対し、衣乃理が金切り声で割って入った。


「いま、外で変なロボットが暴れてるんだよ!? どうにかしないと、みんなが危ないよ!」


「おう。わかってるよ、衣乃理」


「だったら……!」


「よしゃ、話をまとめよう。要するに、布都御魂を振るえる存在が鹿島神宮にはいた……そして」


 鹿平は壁へと近づき、電灯のスイッチを押した。


 暗闇に慣れていた衣乃理たちの目を、いくつもの照明が叩く。


 現れたのは、バスケットコートほどの広い空間。


 そして、その中心には……。


「えっ……?」


「うおお……?」


 その空間の中心では、木製の大きな人形が片膝を着いていた。


 三~四頭身ほどに見えるその人形は、ずんぐりとした体を兜や肩当てで包んでいる。姿形だけを見れば、五月に飾る武者人形の類に見えなくもない。


 だが、その大きさは、とても家庭内に飾れるものではなかった。


 片膝を着いているというのに、武者人形の頭部は衣乃理たちのはるか頭上にあった。このまま立ち上がれば、頭に生えた鋭い一本角が天上をこすりそうなほどである。


 身長だけなら、外で暴れている重機と同じくらい……四メートル以上はありそうだ。


「で、でけえ人形……なんだこれ!?」


「へへ……驚いたか。これこそが、俺の最高傑作……ミカヅチだ」

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