25. Into the nightmare

 痛みは、強い衝撃から遅れてやってきた。腹部に空いた穴から滲む血を見て、刹華は撃たれたのだと理解し、膝から崩れ落ちた。

 銃の引き金を続け様に二度三度引き、葛森ゆうりは銃を捨てた。

「こんなに簡単に終わるのであれば、顔を隠していたのは失敗でしたね」

 ゆうりは感情を見せないまま、自分の失敗を淡々と口にする。

「なんで、お前が……こんなことしてるんだよ」

 混乱する思考が纏まらない。まるで、腹部の穴から正気が流れ出しているような感覚になる。

「……なんなんだよ。他人みたいな口調しやがって……」

 刹華は信じられない。それでも目の前の悪夢は、現実として存在し続ける。

「葛森ゆうりという人間は、私――ゼロファイブによって演じられていた、架空の人物だった。そういうことです」

 淡々とした口調で、悪夢は話す。

「そんな訳、ねえだろ……」

 刹華は、悪夢の言葉を信じられない。

「あれが、今までのお前が……全部噓だっていうのかよ……」

 刹華の声の震えには、怒りとも驚きとも取れない感情が表れている。

「はい。虚構です」

 そんな刹華に、ゼロファイブは全く動じない。

「感情のない私が演じるには難しい人格でしたが、そこに穴はなかったようですね。今後の参考にします」

 感情を見せぬまま、ゼロファイブは鉤爪を刹華の首に突き付ける。

「嘘ついてんじゃ、ねぇぞ……」

 刹華の血に濡れた手が、ゼロファイブの腕を掴む。その手に込められた力では、ゼロファイブが刹華の命を奪うことの障害には成り得ない。

「さようなら、鬼ヶ島刹華」

 ゼロファイブは腕を振り上げ、鋭い鉤爪を振り下ろさんとする。刹華は、そこから目を逸らさなかった。これは何かの間違いだと、逆光で闇に染まったゼロファイブから、目を逸らさなかった。ただ、そこに微かな希望が飛び込んでくるとは、刹華は思いもしなかった。

 ゼロファイブの斜め後ろ。その方角から一つの人影が、文字通り飛び込んでくる。それも、空中回し蹴りの姿勢で。人影は、鉤爪を振り上げていたゼロファイブの上半身に一撃を見舞う。威力はかなりのものだったらしく、ゼロファイブは薙ぎ払われるように数メートル転がり、刹華を殺害することに失敗した。

「……グズ。わたくしの最愛の敵に、なんて真似をしてくれているのかしら」

 獣化した栄花リオンが、道着姿のまま渡り廊下へと飛び込んできたのだ。その登場は、その場の誰もが予測してはいなかった。

「リオン……何しに来やがったんだよ」

「先程、大悪友にお呼ばれしましたの。旧校舎の二階に来るように、と」

 リオンが道着の胸元から取り出した携帯電話には、PIPEという連絡アプリの画面が映し出されている。刹華にPIPEはよく分からなかったが、霧山美里から送信された「大至急旧校舎二階にきて」というメッセージと通話マークを見て、大体は理解出来た。

わたくしが電話に出ても、雑音しか聞こえませんでしたの。それで、美里はどちらに?」

「……少しはあたしの傷を心配しろよ。何処行ったか、分かんねえよ」

 衰弱しつつある刹華は、息も絶え絶えに答える。

「そうでしたか。傷の手当をして差し上げたいのは山々ですが……」

 リオンは道着の上着を脱ぎ、それと黒い帯を刹華に投げた。

「それで傷口を強く縛って、隅の方で大人しくしていなさいな。使いやすいよう、破って頂いても構いませんわ」

 刹華は弱ってはいるものの、それを受け取るだけの余力は確かにあった。

「……冷静なんだな」

「詳しい事情は後です。わたくしは、あなた方の救援を呼ぶ為に戦わなければなりませんので」

 リオンは、隅の方で倒れている金山田克妃を一瞥する。タンクトップから露出したリオンの身体は、金色とも言えるような毛皮に覆われていた。その姿は、刹華を追い詰めていた絶望に射す、一筋の光のようにすら見えた。

「……敵と言いながら、そうして庇うことに矛盾を感じますが」

 その向こうで、ゼロファイブがゆらりと立ち上がる。依然、感情らしきものを見せる気配はない。

「栄花家の教えですの。『成長を促す相手であれば、例え敵でも命を懸けて守ること』と……グズ、友人を殺そうとしていた貴方には、到底理解出来ないでしょうけれど」

 リオンは構える。対して、ゼロファイブはイヤーマイクに向けて短く告げた。

「こちらゼロファイブ。追加で一名のレッダーを抹殺します」

 獅子は、立ちはだかる。歪められた悪夢の前に。






 気がつくと、私は血の海にいた。

 私がいた鉄の箱の中には、私と同じ位のたくさんの子供達が、大量の血と凶器の中で息絶えていた。大きな力を他者に加えた時、その力の大きさが閾値を超えた場合に対象が絶命すると理解したのは、もっと先の話になる。

 ナイフを片手にぼんやりとしていると、箱についていた扉から数人の大人が入ってきた。

「おめでとう。君は選ばれたんだ」

 一人の男性がそう言い、手を叩いた。体中に痛みを感じながら、私は彼を眺めていた。

 それが、私の最初の記憶。




 私は選ばれた。その言葉の意味が分からないまま、私は日々の大半を研究所と呼ばれる施設の檻の中で暮らした。他の檻には、私のような人間の他に、動物や動物なのかわからないものも居たように思う。

 大人達は私の身体に薬品らしきものを投与したり、私の身体を使った実験をしたりして、私から何かを得ようとしているようだった。他の檻の生き物達は増減を繰り返していた為、きっと死んでしまったものも多かったのだと思う。

 その頃から、私の身体は変わり始めていた。薬剤を投与することで一時的に身体能力が飛躍的に向上し、手首の辺りから鋭利な鉤爪が出せるようになっていた。身体に痛みを抱え始めたのも、その頃からだ。

 私は、道具として存在し、道具として価値があるから存在することを許されている、らしかった。時々そのような話を大人達から聞かされ、私は言われるままに納得していた。だから、私は彼らの言われるがままだった。

 大人達は沢山いたけれど、その中に妙な大人が一人だけいた。最初は、彼は仕事の愚痴の捌け口として私を利用していたようだったが、私が言葉を話せることを知ると、時々現れては色んな事を聞かせてくれた。私に識字能力が無いと知った時に、学ぶ為の教材を彼が持ち込んだこともあった。その時は他の大人達と揉めていたが、結局それらの教材は私の手に渡ることになった。

 ある日、大人達が話し合っているのを偶然聞いた。私の感情表現に異常が見られること。私の能力は半端なものであること。薬剤投与の際に発現する能力が身体に負荷をかけていること。そして、結局私が必要なくなったこと。それを聞いてから、私は妙な感覚に襲われ始めた。あの感覚を言い表す術を、私は持ち合わせていない。

 それから数日後、私は再び鉄の箱に連れて行かれた。終わりだと思っていた私の前に現れたのは、意外にも私なんかよりもよっぽど幼い少女だった。油断をすべきではないと理解はしつつも、私は終わらず、その少女が終わるのだと思っていた。

 結果、私は生きることに精一杯だった。少女は見たこともない巨大な生物へと変容し、私を好き放題に嬲った。骨が折れ、大量の血を流し、息も絶え絶えな私を、笑い声を上げながら嬲り続けた。もう早く終わらせて欲しいと思っていたが、声も出なかった。私と彼女は違う生き物なのだと、そう見せつけられながら死んでしまうのだと思っていたが、そうではなかった。鉄の箱に、あの変わり者の大人が入ってきたのだ。彼は力尽くで少女の加虐を止め、私か誰かに大声で何かを言っていた。そのせいで彼は暫く他の大人達と揉めていたらしいが、それは決して意味の無いことではなかったように今でも思う。

 鉄の箱から出て目を覚ますと、私は例の妙な大人が所属する部隊へと招き入れられた。鉄の箱で私を傷めつけた少女も私と同じ部隊に配属されたらしいが、私としてはどうでも良かった。

 それから私は、その部隊で教育を受ける手筈となった。その際に、あの妙な大人から一冊の本を渡された。

 日記、というものらしかった。






 力の差は歴然。それでも美里は、何一つ諦めようとはしなかった。

 靴箱の影に隠れながら、美里はリオンを刹華への援軍として差し向けた。リオンを危険なことに巻き込んでしまうとは思いつつも、リオンなら絶対に何とかしてくれると信じていた。彼女より強い人間など、美里には他に思い浮かばなかった。

 白昼の日が差し込む玄関ホールを、美里は全身に打撲を重ねながら走り回る。ゼロツーの巨大なハサミ、ひいてはゼロツー自身の動きが異様に速い。既に、振り回されるハサミや装甲に何度も接触している。大型車両のようなそれに、まさに撥ねられるようなダメージを何度も受けている。それでも何とか立っていられるのは、ゼロツーの動きが直線的で、それ故キャリーケースを持っていない美里の素早さに対応しきれず、接触程度に収まっているからに他ならない。

 美里は、何度撥ね飛ばされても動くのを止めない。理由は至極簡単で、ゼロスリーからの銃撃を受けない為である。美里はゼロスリーの気配を感じ続けていたが、その気配は定期的に移動し、位置を特定することが難しい。しかも、ゼロスリーは依然銃を使わずに息を潜めている。迂闊に銃を使えば位置がバレると踏んでいたゼロスリーは、存在する事でプレッシャーを与え続けることを選んでいたのだ。前線はゼロツーの暴力に任せ、ただただ美里が消耗するのを待ち続けている。

「もー! 動くのやめてよー!」

 美里が盾にしていたスチール製の靴箱は、遂に一つ残らず薙ぎ倒される。古いながらも秩序を保っていた旧校舎の入り口は瓦礫の山と化し、身を隠すことが出来るものがなくなってしまった。

 しかし、そこに美里の姿は無い。

「……あれ? つぶれちゃった?」

 美里が靴箱の下敷きになっていると判断したゼロツーは、倒れた靴箱の下を確認しようとハサミを向けた。

 美里は、それを狙っていた。天井に張り付いていた美里は、自らも跳びかかりながら手投げクナイ四本をゼロツーに向けて投擲した。狙いは、甲殻の繋ぎ目。その程度なら手投げクナイでも貫けると予測した上での判断。己の命中精度を信じた投擲は、右腕の関節と左脚の関節に狙い通りにつきささる。そして、落下する自らは、右手に持ったクナイに体重を乗せ、ゼロツーの頭部へと突き刺した。

 明確な殺意は、ゼロツーの動きを停止させた。

「……許せない。あんたらを、絶対に」

 静かに、冷たく滾る美里の怒りは、依然として理性というリミッターを停止させていた。

 ゼロツーは終わった。残りは、あのスリーと呼ばれていた女。確実に近くにいる。絶対に、逃さない。

 それが判断ミスだと分かるまでに、時間はかからなかった。

「みつけたー!」

 頭部を貫かれ、動きが止まっていたゼロツーが、あろうことか突如ハサミを振り回した。雑な殴打ではあったが、桁外れのパワーが美里の身体に直撃し、壁へと叩きつけられた。

 鈍い音がして、美里はそこで動かなくなった。

「捕まえたよー! すりー、真っ二つでいいんだよねー!」

 ゼロツーの呼ぶ声から暫く間を空け、スリーと呼ばれた女、ゼロスリーは壁際に姿を現した。

「……真っ二つじゃなか。半殺して言うただろ。もう充分たい」

 呆れる女は溜息をつきながら、ボロ布のようになってしまった美里を一瞥した。

「それにあた、通信が出来んと思うとったら、イヤーマイクまで壊さして……」

 視線を床に動かすと、ゼロスリーがつけているイヤーマイクと同じものが、無惨にも踏み潰されていた。

「えー。だって、うごく時にじゃまなんだよー」

「こぎゃん小さかつが邪魔なもんね。次は、あたが踏んでも壊れんのば頼まなんな……」

 ゼロツーの滅茶苦茶加減には、いつも困らせられるゼロスリー。予算はどうにかなるだろうとは思いつつも、面倒臭そうに腕組みをした。

 しかし、ゼロスリーが次に考えている事はそんな事ではなかった。視線は、再び美里の方へと向けられていた。

「あの美里ちゃんとかいう子……確か毒持っとらすど? あの子に直接触らすなよ。痛い目見るけんな」

「ん。見てのとーり、こうらがあるからだいじょーぶ! ……だっけ? シフトする前にさわったりしたかもー」

 ゼロツーは、自分の曖昧な記憶に首を傾げる。

「そこで触っとるなら、時間経過考えて今頃ビリビリたい。ウチが来てから触っとらんとは見とる……さて、ゼロファイブがしまえたら、三階の荷物を回収して撤退せなんな」

 ゼロスリーはあくびをしながら、壁にもたれかかる形で座り込む。その時、ゼロスリーは脚に若干の痺れを感じた。ゼロスリーは何かに気がついたように、半開きだった目を見開き、素早く立ち上がった。

「ゼロツー! その女から離れなっせ!」

 ゼロツーは好奇心に身を任せ、のしのしと美里に近づいている途中だった。

「へ? どうしてー?」

「いいけん! はよせんねっ!」

 ゼロスリーに叱られたことで、ゼロツーは渋々引き返そうとした。

 しかし、既に手遅れだった。

「……あれー? からだ、が、しび……しびえ……」

 装甲を纏ったままのゼロツーは、引き返そうと向きを変えた辺りで動けなくなり、痙攣を起こし始めた。

「……意識、飛んでたわ。でも……やっと効いたみたいじゃん」

 霧山美里。ゼロツーか倒したはずの彼女は、まるで死の淵から蘇ってきたかのように、ゆらりと立ち上がる。

「ウチのダチ殺しといて……アンタら、生きてられると思ってんのかよ……」

 ゼロツーはこの日この時、生まれて初めての恐怖を感じた。今の美里から溢れ出ているのは、憤怒を踏み越えた先の感情。

 憎悪。恐怖の対象として存在することが多かったゼロツーは、初めて出会ったその危険な感情に対してパニックを起こしていた。逃げるべきなのか、戦うべきなのかすら分からない。分かったとしても、身体は何故か麻痺を起こして動かない。逃げられもしなければ迎え討つことも出来ない。

 美里の特性に目を通していたゼロスリーは、やっとゼロツーが動けなくなった理由について思い当たる。優秀なゼロスリーは、グンジョウヤドクガエルの毒、つまり美里の持つ毒が神経に作用し、身体を麻痺させることまでは記憶の隅に置いていた。だから、触らなければいいと誤算した。研究者などではない彼女は、当然その毒素の沸点まで考えるに至らなかった。

 人間と蛙では、体温がまるで違う。その差の間に沸点が存在すれば、当然毒は気化する。自然、そんなものを発生させている美里が暴れ回れば、一帯に毒素が蔓延する事になる。

「くそっ、ハナから殺しとかなんだったな!」

 ゼロスリーは背負っていたライフルを構えるが、指先に上手く力が入らずに安全装備が外せない。

「……タコ女。てめえだけは、ちょっと許せないわ」

 憎悪に満ちた美里は、ゼロスリーにゆっくりと接近する。一歩、また一歩。それでも、指が痺れてロックを外せない。

 間に合わないと悟ったゼロスリーは、選択肢を変える。

「……今日は引いとく。また来っけんな」

 そう言い残すと、ゼロスリーの姿は背景に溶けてしまった。

 それを見た美里の顔は、嫌悪の色が濃くなる。

「見捨てられたねぇ。残りは、アンタ一人だ」

 ゼロツーは、完全にパニックに陥った。

「……すりー、たす、けて……」

 声が出ない要因は、毒の他にもう一つ。恐怖。迫る美里が、ゼロツーにはとんでもない化物のように見えていたのかもしれない。

「助けてあげる。はつきんを生き返らせたらね。出来る? ……出来ねぇっしょ」

 美里は、倒れていたスチール製の靴箱を両手で掴むと、その一端を掴み、ゆっくり回り始めた。その遠心力で、次第にもう一端も空中に浮かび上がり、スピードを増していく。巨大なプロペラのようなそれが、ゆっくり、ゆっくりと、ゼロツーに向かってくる。

「い、いやだ……たすけて……やだ……」

 どんなにゼロツーが泣いても、美里は止まらない。そして、回転速度は頂点に達する。

 美里の怒りが、遂に噴火した。

「あの世でたっぷり反省しろやぁッ!」

 スチール製の靴箱は、トップスピードを纏いながら美里の手から離れる。宙を舞うそれは、ゼロツーの身体を装甲ごと弾き飛ばし、窓ガラスを派手に突き破った。

 それでも、美里の怒りは収まらない。

「こんなもんで償えると思うなよ! お前らは、取り返しのつかねぇことしたんだ!」

 怒鳴りながら、甲羅の残骸とでも呼べそうなものに近づく美里。滾り続けるの中で、美里はふと妙なことに気が付く。甲羅の後ろ側が開いているのだ。近づいて見ると、その穴の中には空洞があった。恐らくゼロツーの本体が存在していたであろう空間には、もう誰もいなくなっていた。気配を探ってみても、誰も美里を狙っているような感覚は無い。

「逃げたのかよ……ふざけんなぁ! 出てこいクソ野郎!」

 美里の叫びは、ただ虚しくこだまするだけ。憎悪と失意に塗れた群青の拳で、美里は地面を殴った。

「……はつきん……ごめん」

 失ったものへの弔いも、ままならないまま。


――青暦二四四〇年

マンリキヤシガニ、最後の個体が実験動物として用いられ絶滅。

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