23. Into the nightmare
頬を触れられる、感覚。暗闇の中で感じたそれは、目を覚ますきっかけとしては十分だった。
刹華が目を開けると、見知らぬ顔が至近距離でこちらを見ていた。
「あ、すりー。きしがまさんの目が覚めたよー」
深い青色の髪に、幼い顔立ち。中学生くらいに見えるその少女は振り返り、見た目の年齢よりも幼い口調で誰かを呼ぶ。
「……ねーねーすりー、起きたってばー」
少女の背後に目を向けると、薄暗い中に二人の人影が見えた。一人は、着崩したパンツスーツを着た、気の強そうな電話中の女性。もう一人はフードを被っており、刹華に向けられている筈の顔もはっきり見えない。ただ、体格から判断して女性のようには見えた。
辺りの様子を確認すると、そこは見覚えのある空間だった。白明学園旧校舎。老朽化が進み、近々改修工事が行われる筈の建物。そして、照明が消えていても辺りを視認出来る明るさ。気を失ってから、そこまで時間が経っていないようだった。
「……はい。はい。只今より実行に当たります。では、失礼します……ふぅ。敬語ってのはほんっに……こらゼロツー、でけん。いたらんこつばすんな」
スーツの女性は電話を切るや否や、少女をゼロツーと呼び、ピシャリと叱りつけた。
「きしがまさん、きれいなおかおー……いいなー、すてきだなー」
しかし、彼女は刹華からほんの少しだけ離れるだけ。スーツの女性も、それ以上少女を咎めようとはしなかった。
「おい、お前ら何なん……」
起き上がろうとした刹華は、自分に起きている異変に気がついた。後ろ手に何か細長いもので縛られ、脚も同様にまともな動きが出来ないようになっている。横になったまま足元を確認すると、結束バンドで脚が纏められていた。
「どうもぉ鬼ヶ島刹華ちゃん、始めまして。ゼロフォーがたいがせからしかったろやぁ。あいつはあぎゃんたいなぁ……」
スーツの女性は刹華に歩み寄り、片手で少女を退けながら訛り口調で話す。ゼロフォーというその単語、恐らく固有名詞に、刹華は全く聞き覚えが無かった。
「……ああ。あのアホ、ライリーって名乗りんしゃったろ? ほんましょんなかなぁ……」
ライリー。ライリー=ヴァーデック。あまりに忘れ難いその名は、刹華を警戒させるには十分だった。
「赤い、饗獣……」
「そーたいそーたい。なんね、知っとらすたい。ほーゼロファイブ、ほったっとかんで良かったろ?」
スーツの女性は振り返り、ゼロファイブと呼ばれたフードの女性が静かに頷くのを確認した。
「相変わらず愛想無かなぁ。赤い饗獣の良心はウチだけな……まあ良かたい。刹華ちゃん、あたば今から研究所に連れてく」
「研究所……?」
訛りの中から聞こえた言葉は、聞き覚えの無いもの。
「あたは知り過ぎたと。本当は殺した方が良かつが、あたレッダーだろ? 実験体として使う価値があるもんだけん。そっちが良かろ?」
「……ふざけんな。誰がお前らの実験体なんかになるか!」
拘束を振り解こうとした刹華は、身体の異変を感じた。思う様に力が入らず、獣化が出来ない。
「臨床試験成功。シフト出来んとしゃが、あたもただの未成年女子だろ。たっかもんだけん、そげん数が無かつがはがいかったいなぁ」
スーツの女性はアンプルを内ポケットから取り出し、指の間で弄ぶ。
「あたしの体に何しやがった!」
いくら藻掻こうと、結束バンドが四肢に食い込むばかり。
「大人しくしとったがよか。面倒事起こしたら、火神のごた目に遭うだけたい」
「……火神? まさか、お前が火神を……」
事実というカードが、表になった。
「そ。仕事だけん、しょんなかろ」
遠ざかろうとする女性の背を見ながら、刹華は自分の理性が焦げる匂いを感じた。
「てめぇ、人の命を何だと……」
焼き切れそうになった刹華の理性を、引き戻すものがあった。刹華のスカートのポケットの中で、携帯電話が震え始めたのだ。音を響かせないように咄嗟に腰を浮かせたが、運悪くゼロツーがそれに気が付き近寄って来る。
「ねえすりー、きしがまさんのでんわ鳴ってるよー?」
ゼロツーは刹華のポケットを弄ると、取り上げた携帯電話をスーツの女性に渡した。
「……これ、でんわ?」
ゼロツーは折りたたみ式の電話を見た事が無かったらしい。
「ちょっと前の電話はこぎゃんとよ。しかし報告では、電話ば持っとらんかったはず……お、こらええな」
携帯電話を開いた彼女は、刹華にその画面を見せつける。そこあるものが何か、刹華には見る前から分かっていた。
「刹華ちゃん、烏丸羽月ちゃんをここに呼んじゃらんね。あたも無惨に死にたくはなかろ?」
着信は、烏丸羽月からのものであった。
「……早く出てよ。早く……」
羽月はイラつき指でテーブルを叩きながら、携帯電話を構えていた。
バリーズコーヒー二年坂店。羽月は、最早寮ですら危険かもしれないと判断していた。もし狙っている相手が博愛協会にいるのであれば、学園の寮に一人でいるよりも公共の場の方が手を出し辛い。そんな思考のもと、カフェのカウンター席から刹華の電話を鳴らしていた。
そして、数十回目で呼び出し音が止んだ。
「もしもし刹華、今何処にいるの」
刹華が電話に出た事で、ほんの少しだけ羽月は安心していた。
『……なんだよ。いきなり電話かけてきて、何かあったのか』
ただ、まだ心配事はある。刹華の携帯電話のGPSが、若干おかしな位置を示していた。
「なんだよじゃないでしょ。栄花さんから私に連絡があったんだよ? 約束の時間になっても来ないって……ちゃんと行かないと駄目じゃない」
言い終わる前に、羽月は違和感を覚えた。その正体が刹華の言葉の間だったのか、声色だったのか、よく分からない。ただ、得も言えぬ不安をじわりと感じた。
だからこそ、平静を保つことを意識した。
「……刹華、今何処にいるの?」
同じ質問を、もう一度ゆっくり繰り返す。
『旧校舎にいる。お前、今は寮にいるんだろ?』
刹華がいるという場所は、GPSの情報と一致している。
「うん、寮にいる。……そっちで何かあったの?」
羽月は、もしものことを考えて嘘をついた。嘘をつきながら、情報を引き出すことに専念する。
しかし、刹華は沈黙を選んだ。羽月の緊張は更に高まる。
確実に、何かが起きている。嫌な感じがした。そして、その直感は間違ってなどいなかった。
「……羽月、逃げろ。赤い饗獣だ」
その言葉を最後に、携帯は大きなノイズを一瞬だけ鳴らし、通話が途切れてしまった。羽月が急いで携帯電話を確認すると、刹華の位置情報を捕捉できなくなっていた。
大まかにではあるが、羽月は事態を飲み込んだ。
「あの馬鹿……」
羽月は飲みかけのアイスココアを置いて、急いで店舗の外へと飛び出す。そして、人目も気にせずシャツの裾を持ち上げ、白い模様が入った黒翼を出現させた。
「私が……君を、見殺しに出来る訳ないでしょ!」
彼女は怒声と共に、高く昇る太陽に向けて飛び立った。
旧校舎の真上まで到達したところで、羽月は日頃殆ど立ち入らない使わない旧校舎の上を旋回し始めた。旧校舎にいると言われても、その何処に刹華が居るのかが分からない。屋内に乗り込むにも、相手はあのライリーと同業の赤い饗獣である。ただでさえ羽月の能力を活かし辛く逃げ場の少ない屋内で、あんなものと遭遇してしまえば無駄死には避けられない。そんなことでは、刹華を助けられない。せめて屋内の様子を伺うことが出来ればと考え、高度を少し落とすことにした。
羽月の思い通りにはいかなかったものの、そうした事で別の収穫があった。旧校舎の裏手にある大きな池に、フードを被った何者かが歩いているのが見えた。人影は一つだったが、それは妙に大きなダンボール箱を抱えるように持っている。その箱は時折、何かの意思で動いているように見えた。
最悪の映像が、羽月の脳裏を掠めた。そして、その人影が最悪を再現する。羽月がそこに向けて急降下する最中、その人物は抱えていた箱を池の真ん中へと放り投げた。
「刹華っ!」
確信めいた推測に基づき、羽月は沈みゆく箱へと躊躇いなく飛び込んだ。派手な水飛沫を上げながら鉤爪で箱を捉えるが、動く箱の異様な点に気がつく。
重たいのだ。執拗なまでにビニールテープで補強されたそのダンボール箱は、とんでもなく重い。刹華を運ぶ時よりも、ましてやキャリーケースと霧山美里を一度に持ち上げた時よりも、比べ物にならない程に重みがある。羽月は水中に引きずり込まれまいと翼で必死に抵抗するが、沈むのを遅延させることしか出来ない。
「沈むな! このっ……」
次第に、羽月は下半身までが水に浸かり、翼を羽ばたかせることすら出来なくなった。それにより、沈むスピードは無情に加速する。
「誰か、誰かぁっ……」
ついには口まで沈み、声を上げることすら出来なくなった。これでは、間違い無く岸まで辿り着けない。ダンボール箱を破壊するのも、ここまで強固に閉じられているとなると、水中では不可能だろう。
それでも、羽月は諦められなかった。箱から手を離せず、せめて少しでも岸に近づけようと、引っ張るように抵抗を続ける。
手を離せば、自分だけなら助かる。そんな事を全く考えられなかった。他人の家族の為に自分の命を危険に晒すような、そんな刹華を羽月は諦められなかった。次第に、呼吸が苦しくなる。抵抗すればする程、苦しさは増す。
こんな汚れた水の中で、刹華を死なせたくない。羽月が叫びそうな程に望んだ時、彼女の背中を叩くものがあった。
霧山美里。青い四肢の彼女は、片手に刃物らしきものを持って辿り着いていた。美里は羽月の向かい側に器用に回り込むと、持っていた刃物で箱の継ぎ目を何度もなぞる。五回前後走らせると箱の天井に切れ目ができ、二人はそこに異形の手を刺し込み、無理矢理こじ開けることに成功した。美里は中から出てきた刹華の身体を抱えると、一目散に岸へと戻り始めた。急な出来事で若干の戸惑いを感じつつも、羽月もそれに続いた。
「……どうなってんだよ。おいセッカ、生きてるか! おい!」
美里がクナイで手足の結束バンドを切断していると、刹華は咳き込みながら水を吐き出した。
「……お前ら、逃げろっつっただろ……」
ぐったりとしたまま、刹華はかすかな声で呟く。
「は? ウチ何も聞いてないけど……」
戸惑う美里を置いて、水から上がってきた羽月は、鳥の手のまま刹華の両肩を力強く掴んだ。
「馬鹿! あんなこと言って、私が刹華を置いて逃げる訳無いでしょ! 君が死んだら……」
まくしたてるように怒鳴りつけたが、そこからは言葉に詰まってしまい、
「こんなに傷だらけで……良かった。生きてて、本当に……」
濡れた身体を震わせながら、そう絞り出すのに精一杯だった。
「……悪かった」
囁くような一言は、刹華の精一杯の感情表現だった。
「……あのー、お二人さん? 落ち着いたらで良いからさ。このフライングプール開きの事情、聞かせてくんない?」
依然置いていかれたままの美里は元の姿に戻り、岸に置き去りにしていたキャリーケースにクナイを仕舞いながら、独り言のような態度で口にした。
「……赤い饗獣っていう、あたし達を、狙ってる奴らがいるんだよ……っつうか、なんで霧山がいるんだよ。お前、先に帰っただろ」
「ん、ウチ? なんか教室で誰かに見られてる感じがしたし、教室離れたらウチじゃなかったっぽいから、離れた場所からセッカとくずもりんの様子を見てた訳よ。ダチが変なのに絡まれるのも、胸糞悪いじゃん?」
羽月は、美里の気回しを心からありがたく思い、自然とお礼の言葉を口にしていた。
「……ありがとう、霧山さん」
「どういたしまして。まー、ケータイ見てる間に二人共見失っちゃったんだけどね」
「……今までのやりとりが台無しなんだけど」
「ごみーん! でもはつきんの声聞いてすっ飛んできたんだから、その辺はチャラってことでよろー」
文句を言いたい気持ちはあったが、結果オーライということで、羽月も責めたくなる気持ちを抑えた。責めるべきは赤い饗獣だけであり、それと思しきフードの人物は既に何処かへと消えてしまった。
ふと、羽月は携帯電話を確認する。防水機能はきちんと働いていたらしく、何の問題もなく動いた。
「ほんで、その赤いナンタラってのは?」
携帯電話が壊れていないか確認する羽月を真似ながら、美里は尋ねる。
「……うん。火神さんを追ってる時に出会ったんだけど、危険なレッダーの集団みたい。もしかすると、博愛協会に関係あるのかもって私は思ってる」
「は? 博愛協会って、ウチの母体じゃん? マジで?」
美里は驚きを隠せない様子だ。
「……今回の襲撃は、その赤い饗獣の仕業だ……奴ら、火神を殺したって言ってやがった」
刹華のその発言を受け、羽月の中で全ての点が繋がってしまった。驚きもしない自分が、少し嫌になりそうだった。
「……だったら、博愛協会は八割くらいの確率で黒だね。霧山さん、周りで誰かが狙ってる感じとか、分かる?」
状況を咀嚼していた美里は、辺りに気を向けてみる。
「……そんなに近くでは感じないっぽいけど、よくわかんね。はつきん、経験ないんだけど、こういう時って警察アテになんの?」
「警察にも一応レッダーに対応出来る組織はあるらしいけど、この前聞いた感じだと、直ぐに動ける訳ではないみたい。刹華、一応聞くけど、相手は何人? フードを被ってる人だけは私も見たけど」
「三人だ。そいつと、訛り言葉の女と、小さい女の――」
幸運にも刹華は説明の途中で、逆光気味の旧校舎三階の窓の向こう側に、動くものを見た。それがゼロスリーと呼ばれた女で、抱えているものをこちら側に向けていることまで視認できた。
刹華は飛び起き、近くにいた羽月の腕を掴んだ。
「走れ!」
突然走りだした刹華に羽月は驚いたが、破裂音が響くとほぼ同時に、近くの地面が抉れたことで事態を察した。一瞬驚いていた美里も、
「……マジかよ!」
すぐに理解が及び、その後を全力で追いかける。
破裂音の正体は銃声であった。そして、銃口は明らかに三人に向けられている。
続け様に鳴り響く二回の銃声を聞きながら、三人はなんとか旧校舎の入り口に滑り込んだ。
「三階だ! 狙撃してる奴が三階にいる!」
刹華は改めて状況を説明する。
「ってか霧山、なんでお前はこの非常事態に馬鹿デカい鞄持って来てんだよ! さっき走った時に置いて来いよ!」
「いやぁ、こればっかしは近くにないと落ち着かなくてさぁ。咄嗟に掴んじゃったよね。ブランケット症候群的なヤツ?」
美里は大きなキャリーケースを軽く叩きながら、照れたように笑う。
「まずいね……この建物って確か、長い廊下が一本の三階建てだよね。多分相手はこっちに来るだろうけど、廊下で鉢合わせたらまず逃げられないよ」
事実、三人は長い廊下の重心と言えるような位置にいる。羽月の分析通り、逃げ場の少ない廊下で敵と対峙すれば、銃撃から逃れるのは至難の業だ。
刹華は近くの空き教室の鍵が開いていないか確認したが、当然のように開かない。
「ギャンブルだね。敵のいない廊下を駆け抜けて、渡り廊下で新校舎まで逃走。最も、相手が三人らしいから逃げ場がない恐れもあるけど……」
「……その時は、ぶっ倒すしかねえな」
三人で勝てるのだろうか。その内一人は獣化が出来ず、しかもライリーと同格を相手にして。
自分の口から出たものに無理があるのは分かっているが、刹華には他に良い考えが浮かばなかった。
「あら? 皆さん、ずぶ濡れでどうされたんです?」
三人が決めあぐねていると、二つ隣の教室から女子生徒が出てきた。
三年生の生徒会長、
その彼女が、状況を理解出来ずに首を傾げている。
「まさか、裏手の池で泳いでいたんですか? 高校生にもなって、そういったおてんばはちょっと……」
「生徒会長、今そういう状況じゃないんです! 私達、危険な人から追われてるんです!」
羽月は現状を伝えようと試みるが、克妃は驚く様子を見せない。むしろ、訝しむような表情を三人に向けている。
「ところで、そちらの鬼ヶ島さん……でしたよね。貴方は確か、レッダーだと伺いましたが」
突然の指摘に刹華は驚いたが、今更どうでもいいことだと割り切った。
「……それがなんだよ」
「貴方、いけませんね。聖典をお読みになったことはあるでしょう?」
「だったらなんだって言ってんだよ」
話を早く切り上げたい刹華は、次第に苛立ち始める。
「聖典にはこう書かれていますよね。『人は皆等しく、幸福を追求する義務を持つ』と。それが人間である限りは――例え犯罪者であろうと、それは同じです」
犯罪者。その言葉に、刹華はぴくりと震えた。
突如、克妃の腕が膨れ上がり、シャツの袖が弾けるように破れる。その下から現れたのは、鎧というには有機的な装甲。身を守ることよりも対象を殴打することの方が向いているような、刺々しいビジュアルのそれは、今の彼女の攻撃性を表しているようだった。
金山田克妃は、レッダーだった。
「人間ではないのです。貴方も、私も……であれば、自らの幸せなど望む権利はなく、他人を幸福に導く義務があります。ましてや、火神という方をどんな形であれ死に追い遣ったことは、贖わなければならない罪に他ならないのです」
刹華が忘れていた心の傷跡が、じわりと疼く。勿論、羽月のそれも同様に。
「……何言ってんだよ。レッダーだって人間に決まってるだろ! それに、セッカが殺したんじゃなくて、別の奴が殺ったんだぞ! ふざけんのもいい加減にしろ!」
言葉が出ない二人の代わりに、怒鳴るように抗議する美里。
「よく分からない戯言に耳を貸すつもりはありません……烏丸さん、貴方も彼を追い詰めたかもしれませんが、私に貴方を罰する権利はありません。ですが鬼ヶ島さん、レッダーである貴方は私が罰します。人の痛みを知りなさい」
克妃は鎧を身に纏ったまま、三人に向かって近づいてくる。その身に宿す殺意に、三人は対話による解決が不可能であると悟った。
「刹華、霧山さん、逃げるよ」
羽月の囁きに二人は頷き、近くの階段を駆け上がり始めた。
「主の導きにより、罰します」
背後の声から、三人を追いかけてくるのは間違いなかった。
「なんなんだよ! あの人、もっとこう……なんか違う感じだったっしょ!」
「知らないよ! レッダーだってことも知らなかった!」
階段を昇り続ける美里と羽月。そして、二階に着いたと同時に立ち止まる刹華。
「来いよ金山田! あたしは二階だ!」
突然の刹華の大声に、三階に向かっていた羽月も足を止めた。
「刹華何やってるの! 走って!」
しかし、刹華は聞く耳を持たなかった。その様子から刹華の意図を察知した美里が、キャリーケースを持っていない方の手で、羽月の腕を強引に引っ張った。
羽月の叫びが上階へと遠退き、刹華はそれを見て少しだけ落ち着いた。美里に対して、早くキャリーケースを手放せと言い損ねたことについては、若干諦めが混ざっていた。
「……仲間想いなのは素晴らしいことですが、その気持ちをもっと多くの方に持つべきだと、私は思いますけれど」
そのやり取りから遅れて、刺々しい鎧を纏った金山田克妃が踊り場にゆっくりと姿を現した。
「うるせえ。お前こそ、走れば三人共捕まえられたんじゃねえのかよ」
「私が処罰する権利があるのは、人間ではない貴方だけですよ。鬼ヶ島刹華さん」
その言葉に、刹華は感じていた違和感を思い出す。三階に向かった二人がレッダーであると、克妃は知らない様子だ。このタイミングにも関わらず。赤い饗獣の関係者なのであれば、美里はともかく、羽月がレッダーであると知っているはずだ。
「……金山田、赤い饗獣って知ってるか」
刹華は、試すつもりで克妃に問いかける。
「全く存じ上げませんが……歳上を呼び捨てするようでは、本格的な指導が必要みたいですね」
金山田克妃は赤い饗獣の関係者ではない。少なくとも、刹華は発言からそう確信した。
しかし、克妃がこんなに好戦的な性格だという認識は、刹華にもなかった。全校集会等で遠くから見ていたことが殆どだったが、その印象と今の克妃があまりにも違い過ぎる。それ以上を考えても、今の刹華には分からなかった。
「……悪い、今それどころじゃないんでな!」
本来なら売られた喧嘩を買う刹華も、正気であるのかすら分からない相手と戦うつもりはない。ましてや今は、突然銃弾に貫かれてもおかしくない状況だ。それに加えて、刹華は現在獣化することが出来ない。刹華は、新校舎へと繋がる渡り廊下に向けて走り始めた。
「逃げても無駄ですよ」
克妃は仰々しい姿のまま、刹華の後を追い駆ける。その速度は、獣化していない刹華よりも僅かに速く、ほんの少しづつではあるが二人の距離は縮まっていく。
二人の間隔がゼロになる前に、刹華はなんとか渡り廊下の根本まで辿り着くことが出来た。今までの廊下よりも少しだけ広い空間に、刹華は一つの影を認識し、足を止めた。
例の、フードを被った饗獣だった。認識した距離がそれなりに近く、顔には鳥をモチーフにしたであろう黒い仮面をつけていることに、この時初めて気がついた。刹華は危機感を覚え、咄嗟にその場から飛び退いた。その判断は、恐らく正解であった。刹華を追ってきた克妃と仮面の人物は、一瞬だけ前に刹華がいた場所で衝突するように鉢合わせた。
そして、克妃は吹っ飛んだ。仮面の人物の薙ぎ払うような腕の動きに体重が乗り、克妃を身体ごと吹き飛ばした。克妃は壁へと強かに叩きつけられ、潰れるような短い悲鳴をあげ、その場で動かなくなった。
「……」
レッダー一人を即座に戦闘不能に追い込んだ仮面の人物は、刹華を見ながら何かを呟いた。しかし、咄嗟のことに刹華は意識の切り替えが間に合わず、何と言ったのか聞き取れなかった。声の質で恐らく女性だということだけは確信した。
「……金山田も仲間、って感じでは無さそうだな」
仮面の不気味な女は少しの間、無言のまま刹華を見ていた。そして、壁際で倒れている克妃に向けて、それが普通であるかのように左腕を水平に上げる。大きく開いた袖から覗いているのは、漆黒の筒。その物体が命を破壊することを刹華は知っていたが、実際に見たのは初めてだった。
銃口が、克妃の命を終わらせようとしている。
「やめろ!」
刹華は怒鳴りながら、仮面の女の銃を持つ腕に跳びかかった。女はそれに反応し、刹華の腹部に回し蹴りで返答する。反射的に直撃こそ避ける刹華だったが、強烈な打撃に呻きながら弾かれてしまう。立ち上がりながら距離を取る脚もふらつく始末。相手の力は、明らかに常人の持つそれではない。
仮面の女は標的を変更したらしく、首の骨を鳴らしながら刹華に向き直った。銃を向けてはいないが、もう片方の手首辺りから生えた鋭利な鉤爪が、不気味に外光を反射させる。その用途は、人を傷つける為のものでしかないのは明白だった。
「……こりゃあ、きついな」
刹華がここまで戦うことに心細くなった相手は、ライリー以来のことだった。
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