第8話 出会ってしまった二人④

(1)


 ジャムとバターをたっぷり塗ったパンケーキの皿を手に、サンディの部屋の扉を叩く。返事どころか中から物音一つ聞こえてこない。

 あたしはサンディに聞こえないよう、そっと溜息を吐き出す。


「ねぇ、サンディ。あんたの大好きなパンケーキを焼いたけど、食べるでしょ??」

 サンディはやっぱり返事してくれない。

「ねぇ、サンディ。一日中塞ぎ込んで部屋に引き籠るの、いい加減に止めなよ。仕事も一週間以上休んでいるし……。あんたの気持ちは分かるけど、身体を壊す……」

「うるさいわねっ!放っておいてよ!!」

「……サンディ……」

「あたしの気持ちが分かる、ですって?!まともに恋をしたことがないフランなんかに分かる訳ないじゃない!!知った風な口利かないで!!」

「…………」


 扉越しに、普段の彼女からは想像できないドスの利いた金切り声で怒鳴られると共に、何かが扉にぶつけられる激しい物音が響いてきた。あたしは思わず首を竦め、何も言えなくなってしまった。

 あの夜以来、自室に籠りがちになってしまったサンディに呼びかける度、この調子でヒステリックに怒鳴りつけられてしまう。毎度のこととはいえ、サンディに罵倒されるのはこの身を八つ裂きにされた上、バラバラに解体されるよりもずっと、あたしにとって耐え難かった。


「……そうだね……。ごめんよ、余計なこと言ってさ……。い、一応さ、パンケーキはリビングのテーブルの上に置いておくからね。……じゃ、あ、あたし……、し、仕事行ってくるから……」


 言うやいなや、あたしはそそくさと扉の前から離れた。サンディからこれ以上酷い言葉を浴びせられたくないもの……。

 階段を下りて廊下を挟んだすぐ右側――、リビングの扉を開けると、あたしは部屋の真ん中にある白木のテーブルの上にパンケーキの皿を乗せた。


(……ん??……)


 テーブルの上には一冊の雑誌が無造作に置かれている。

 半裸の女性が扇情的なポーズを取る写真と刺激的な言葉が羅列された表紙から察するに、ゴシップ誌の類だろう。


(……サンディが買ってきたのかしら……)


 本屋に出掛けるくらいの気力は取り戻したのね……、と、ほんの少しだけホッとしつつ、何の気なしに雑誌を手に取ってパラパラとページを捲ってみる。けれど、あるページに目が留まった途端、すぐさま雑誌を足元のゴミ箱へと叩きつけるように放り込んだ。沸々と湧き上がってくる怒りは収まるどころか、却って腹の中で煮え滾っている。あたしは怒りに任せてゴミ箱に片足を突っ込んで雑誌を踏みつけ、奥底へと沈めていく。


 ――あの夜、あいつがあそこにいなければ――


 ――サンディは心優しい娘のままでいられたのに――



 しばらくの間、憎々しげにゴミ箱の底を睨み下ろし続けた後、あたしは仕事に向かうためにリビングを後にした。







(2)



 サンディと見つめ合っていた男は――、小柄で華奢な体躯にクリーム色のスーツを纏っていた。きちんと整えられた金色の髪、萌黄色の瞳、好青年然とした端正な顔立ち――



 ――間違いない――


 ――ロイ・フェルディナンドだ――



 今にも噴き出しそうな底知れぬ憎悪に、全身の肌がぞわりと粟立った。

 この場に誰一人知り合いがいなくてあたし一人だったら、迷わずあいつに飛びかかっていたに違いない。否、この際、なりふり構ってなどいられるもんか!


 ……とは思ってはみたけど。純真なサンディの前で人が争う醜い場面を見せたくなくて――、乱暴な振る舞いをしたことで彼女に嫌われたくないし――、その一心であたしは辛うじて理性を保っていられた。

 それと――、いつも笑顔を絶やさないサンディの、伸ばした糸のように張り詰めた様子が気になって仕方がない。あたしは、未だ呆然とするサンディに声を掛けようとした――、けど。


「ロイったら、一体どうしたのよ??あの女は誰なの??」


 サンディに声を掛けるよりも早く、ロイ周辺の人だかりの中から一人の若い女が彼の傍まで歩み寄ってきた。

 女はサンディと同じくらいの年頃か――、深いV字の襟に幾何学模様の膝丈ワンピースと暖かそうなファー付きのジャケット、頭に被るクローシェの中からはダークブロンドのボブショートの髪が覗いている。サンディやあたし同様フラッパー風の外見だが、身に纏う衣服はいずれも高級そう。言葉遣いも蓮っ葉な割に変な癖や訛りが残っていない。

 濃い化粧をしていても下品さが全く感じられない、気品溢れる美貌――、あたし達とは全く住む世界の違う人間だと、一目で見てとれた。


「マデリン」

「知り合いなの??ふうん、まぁまぁ可愛い娘ねぇ。で、どこの誰??」

 女――、マデリンというらしい――、に鋭く問われ、ロイは片眉を持ち上げて唇の端を不自然に持ち上げる。

「いや……、僕は彼女のことは全く知らない……。……あぁ、もしかしたら……、僕の小説のファンなのかもしれないね」

「そう。じゃあ、何故あの娘と見つめ合っていたのかしら??」

「それは……」


 女に詰め寄られ、ロイは益々身体を萎縮させて弁解を繰り返していた。内心、ざまぁみろ、と、舌を突き出して嘲笑ってやりたい衝動を堪え、あたしはサンディにちらりと視線を送る。

 サンディは、あんなに彼を見つめ合っていたのが嘘だったかのように、ロイとマデリンから徐に顔を背けて顔を伏せてしまっていた。


「ロイ……??マデリン……??」

 あたしの隣で、アレックスが誰に言うとでもなしに彼らの名前を呟く。

「もしかしたら……、フェルディナンド夫妻か……?!」

「フェルディナンド夫妻??」

 振り向いたあたしに、アレックスはいささか興奮気味に説明し始める。

「新進気鋭のハードボイルド作家ロイ・フェルディナンドと、『最初のフラッパー』マデリン・フェルディナンドだよ!どちらもチェルシー州の旧家出身、富と才能に恵まれた若き成功者と、社交界の華と謳われる美貌の妻として今最も各業界から注目を浴びている二人さ!」

「何で……、そんな上流の人間が、鄙びた田舎の小さなキャンプ場なんかにいるのよ……」

「さぁ??大方、作品の執筆に集中するか何かで、ダグラスの高級ホテルに滞在していたロイの元にマデリンが押しかけたんじゃないのかな??ホテル生活に飽きてきたマデリンに、退屈しのぎでドライブに連れて行けとでもせがまれたのかも。……あくまで噂の範疇だけど、マデリンは、ロイの才能に嫉妬する余り、彼の執筆を妨害することがあるとか……。一方で、彼の作品で経た莫大な印税で贅沢三昧な生活を送っているらしい……」


 へぇ、と、あたしはおざなりな返事をアレックスに返してしまった。彼は気を悪くするどころか、うん、これはまたとない素晴らしいチャンスだ!と、興奮をそのままに急いで柵から離れ、ロイとマデリンの傍に足早に近づいて行く。

 あいつは本当に無謀な奴だなー、と苦笑するジミーを無視し、サンディの手を引いてあたしの隣――、アレックスが持たれていた場所に移動させる。

 サンディは大人しくあたしに引っ張られ、柵に背を軽くもたれ掛けさせ――、あたしの腕にそっと両腕を絡ませてきた。


「…………ねぇ、フラン…………」

「何、サンディ??」

「……んーん……、……何でもない……」


 それきり、サンディは再び口を閉ざし、沈黙してしまった。


 少し離れた場所からは、アレックスがマデリンに名刺を渡していた。あたし達同様、宣伝ガールの勧誘をしているみたい。

 あたし達の時よりもずっと説明が丁寧ね……、と意地悪い目でそれとなく様子を窺っていると、「折角のお話だけど、私は貴社の化粧品よりももっと高価で高品質のものを使っているの。だから、お断りさせていただくわ」と、マデリンはアレックスの誘いにきっぱりと断りを入れていた。

 まぁ、当然と言えば当然よね、と鼻で笑いそうになった時、あたしの腕を掴むサンディの両腕に、先程よりも更に強い力が込められた。痺れにも似た、肉が締め付けられる痛みに顔を顰めるも、あたしの肩よりも下の位置――サンディの顔に目を向ける。


「……フラン、あたし……。……今すぐ帰りたいよぉ……」


 消え入りそうな、小さく震えた声でサンディが訴えかけてくる。

 あたしを見上げるサンディは、今にも倒れやしないかと心配になる程、普段は血色の良い唇がすっかり青ざめている。


「……遠出しただけじゃなく、遅くまではしゃいでいた分、きっと疲れてしまったのね。アレックスももうすぐ戻ってくると思うわ。そしたら、すぐにここから出て家まで送ってもらおう??」

 サンディは、こくんと小さく頷いてみせた――が、すぐに「……違うの……」と、泣き出しそうな、切羽詰まった顔であたしを真っ直ぐに見据えてくる。

「……えっ??何がなの??」


 サンディが言わんとしている意味が、あたしにはさっぱり分からない。

 すると、サンディはあたしの腕をぐいっと引っ張り、耳元に唇を寄せてきた。


「…………あたし、……ロイさんに……、…………一目惚れ、しちゃったみたい…………」


 サンディが打ち明けた言葉、全身を巨大な鋼鉄のハンマーで殴打されたかのような衝撃があたしに襲い掛かる。

 実際に殴られた訳じゃないのに――、ぐわんぐわんぐわん、と脳震盪を起こしたのかと錯覚を覚える程、あたしの頭の中は激しく揺さぶられ、一気に強い吐き気が込み上げてくる。


「…………多分、彼も…………。……あたし達、お互いに……、一瞬で恋に落ちてしまったわ……」

「……サンディ……」

「……ねぇ、フラン……。どうしよう、あたし……」


 サンディは、空色の大きな瞳に涙を一杯溜めてあたしに縋りついてくる。あたしはサンディの問いに答えることができず、ただ石のように身を固まらせるより他に成す術がない。


(…………最悪だわ…………)


 あたしは胸中で神に、思いつく限りのありったけの呪いの言葉を吐き散らす。一刻も早くこの場から立ち去りたい――、と、ロイには気付かれないよう、アレックスにそれとなく視線を送り続けていたのだった。

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