ニートは呪う
比良坂暁という女がいる。俺のクラスメートだが3週間前まで、正確に言えば俺が最後にまともに登校できた金曜日の放課後まで一度もあったことがなかった。なぜなら比良坂は不登校の引きこもりだったからだ。保健室にまでは来るみたいな半端な事はしない純粋な引きこもりニートである。
厳密にいえば比良坂も現在の俺も学校にまだ籍がある以上はニートの定義である『就職も就学も職業訓練も受けていない』には当たらないかもしれないが、そんなことはどうでもいい。当時俺はそう思っていた。
俺が比良坂に会いに行ったのは俺がクラス委員であったのも理由ではあるし、それ以上にうまいこと比良坂を丸め込んで登校させることができれば死んだ魚の目がかわいいと大評判のうちの担任遠藤に貸しを作れると思ったからだ。
教師との間の賃借関係は複雑であればあるほど良い。それが赤池家の教えである。彼らは学校というカオスの塊のような職場で、今は名ばかりの安定感と錆付きつつあるステータス性と引き換えに薄給激務で将来性のない仕事に従事している。まさに尊敬及び憐憫に値する連中だ。多少の手助けをしておけば後々連中から同じく多少の手助けを期待できる。教師はしがないサラリーマンだが、やつらの持ってるささやかな権限は時に役に立つ。
だから会いたくもないニートの家を訪ねた。
比良坂の家は町はずれの中層マンションだった。昼間から家にいた比良坂父の案内でやつの部屋に入る。
俺は二通りの比良坂を想像していた。
①学校に適応できず部屋に籠って下手なイラストでも描いてpixivかTwitterで承認欲求を空しく追いかけている陰キャ寄りの引きこもり。
②この地方都市にもいくらかある繁華街的なところで遊ぶのに忙しく学校に行っている暇がないという陽の引きこもり。
どちらもバカなことに変わりはない。
「手間をかけさせてしまったようで悪いね。時間を無駄にしたくないから言うけれど、学校には行けない」
初めて見た比良坂は、陰キャにも不良にも見えなかった。てきとうに肩のあたりでそろった髪になんだか気の強そうな鼻に無骨なメタルフレームの眼鏡を載せている。
色気のない紺色の毛布の乗ったベッドに俺を座らせ、同じく色気のないオフィスチェアに座ってそんなことを言う比良坂。その態度は堂々としてさえいる。
気に入らない。いずれにせよわざわざ訪ねてきた俺に申し訳なさそうにするべきだろう。何故何の負い目もないという風にふるまうのか、このニートは。
「行けない理由は何かあるのかな。俺でできることなら協力するし、もしも人間関係とかで悩んでいるのなら……」
「違う。というか人間関係は全く問題ないけど」
比良坂はそう言って少し俺を上から下まで視線を上下させ「君に言ってもわからないだろう」
正直言えば少しカチンと来た。俺は学業でも常識に属することでもなんでもだいたいのことはわかってきた。その俺に対してたかがニート風情がわからないだろう、などと口にするとは。
無礼ではないか。
「いや、一応話してみてもらえないかな。本当に心配しているんだ。理解したいし、協力したい」
あくまで下から下から。自分が特別だとなんの根拠もなく思い込む、そんな奴はどこにでもいる。おだてておだてて、一度でも教室まで来させれば1ポイント。後はどうなろうが俺の知ったことじゃない。
「うーん。心配してくれるのは悪いんだけどね。今は行く方が失うものが多いから」
「そんなはずはない。今は辛いかもしれないけれど、我慢して行っておいた方が絶対に将来のためになる」
これは本心だった。
「いや、辛いとかじゃなくて……あ、飲む??」
部屋の小型冷蔵庫からペットのさんぴん茶を渡してきた。
「ありがとう。しかし、ずっと部屋にいると健康にも悪いと思うぞ」
「この部屋、案外広いんだよ。散歩ができるくらい」
ベッドと机で半分埋まったせいぜい六畳くらいの部屋で散歩などできるものか。それともVRか何かのことを言っているのか。見たところPCもゲーム機もなさそうだが。
「馬を走らせ西に来たり。天に至らんと欲す」
「……それが、学校に行かない理由なのか」
「そうだ、と言ったら納得してくれるの?」
「まさか」
「そうでしょうね。でも、詩が一首あれば学校に行かない理由にもなりえる。私にとっては」
「詩が読みたきゃ詩集を買って読めばいい、学校で」
やれやれ、という感じで比良坂は首を振る。洋画の人物がやるような、こいつわかってないな、とでもいうような。
「さっき家にいたのはお父さんか? どうしてこの時間から家にいるんだ? もしかして父親の影響とか、だったら相談する方法もあると思うが」
俺がそんなことを言ったのは、正直適当にあしらわれているのにむかついたからだ。親が家にいたらなんだ。たまたま平日が休日だったかもしれないし在宅の仕事かもしれないし何か事情があるのかもしれない。
「父は関係ないだろ」
初めていくらか比良坂の顔に不快感が浮かんだ。
「いや、とにかく力になりたいんだ。もしも家族に問題があるなら学校の方が居心地がいいんじゃないか、と」
「問題なんかない。変なことはいわないで」
「本当か? 親子そろってずっと家にいるんじゃ、周囲から見れば怪しくみられるんじゃないか? 虐待されてるんじゃないか、とか」
ふー、と明らかに少し怒った様子で比良坂は自分用のさんぴん茶をのんだ。
「君、誰に対してもそういう態度なの?」
「気に障ったならあやまるよ」
「気に障ったけどあやまらなくていい。気持ちの入ってない謝罪なんて意味がないから」
交渉は決裂。残念でならない、俺の無駄になった1時間が。だがもともとそこまで期待していたわけじゃない。こいつがこのまま退学して底辺へ向けて直進したいなら勝手にさせてやる。どっちみち俺の人生とこんな底辺引きこもり女が関わることなどありえないのだから。
気まずい沈黙を振り払って立ち上がる。
「なんだか悪かった。もしまた気が変わったら相談を」
言いかけた俺を遮って「理解したいと言ってたね」と比良坂がかぶせてくる。
「……ん? 理解?」
「理解したいし協力したい。そう言ってたでしょ」
「あ、ああ。もちろん。今からでも協力できることがあれば……」
何故か、このタイミングで比良坂は笑った。オフィスチェアから立ち上がり俺に一歩近づく。女にしては背が高い。俺よりわずかに低いだけ。
「良いよ。理解させてあげようじゃないか、ニートがどんなものか」
その後のことは記憶があいまい。やつは俺の首に手をかけた。振り払おうとしたが、雰囲気に気圧されていたのか比良坂の細い腕を俺は振り払えなかった。
妙に赤い唇が俺の顔に近づく。キスする気か、と思ったのは俺の残念な勘違いで唇はそのまま顔の横を過ぎて俺の首筋に向かう。
そして真横から聞こえたささやき声。
「お前もニートになるんだよ」
あとはどうやって比良坂の部屋から逃げ出したのかあまり覚えていない。
土日を挟んで次の月曜。俺は登校できなくなかった。
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