第二章
高階の鎮守の神といえば、お館からさほど離れてはいない、 小高い森の中にあった。
そもそも高階の領地は、国境を山で囲まれているものの、お館を中心とする一帯は盆地のただ中にあったから、神社そのものも、その盆地の中に小高い丘があって、その丘の上にある森の中にあるのだった。
いつからか、この神社へは元日、高階の領主と家臣衆がそろって参るという習性になっていたが、本年もそろってお館から行列を作り、神社へとでかけていた。
といっても、派手ないでたちに厳かな行列といったわけではなく、領主高階隆明を先頭に、正月にふさわしい格好で、めいめいの家臣がそれに連れ添うといったふうであった。
帰りは帰りでまた、お館で新年の酒がふるまわれる。
まして、隆明は生来派手好きで、正月の宴ともなればまた、賑やかなものになった。
その初詣もすんで、帰り、社を離れようかというところで、小坂靭実の義父茂実が、勘定方の矢崎惟盛を小声で呼び止めた。
壮年でひげ面の矢崎が振り返ると、茂実は一人、共の者が一人ついているだけで、柔和な顔をしたまま、立って彼をみつめていた。矢崎は連れに先に行くように促し、呼ばれるままに茂実に近づくと、茂実よりも十は年少の彼は腰を低くして、頭を下げた。
「何か。」
矢崎が問うと、茂実はやはり柔和な表情で、
「いや、呼び止めてすまぬ、矢崎どの。実はの。」
腰を低くしたままの矢崎は、その姿勢のままで茂実の顔をみつめた。
「間にあいますかな。」
茂実はそれだけを問うた。
神社前の境内には、ところどころ木漏れ日がさしていて、森の木々があるせいか、外よりは幾分寒さがしのげる。なぜここで問うのかと矢崎は思いながらも、やはりここでなければならぬのかと思い、茂実の腹をさぐってみたくもなった。
「少なくとも月末までは、お待ちいただきませんと――まだ先の戦がひいて、二月足らず、負傷した兵の傷もいえませねば」
「それはあちらも同じことよの。肝心なのは」
「物資でございまするな。」
「ふむ。」
「やはり、月末までは、お待ちいただきませぬと――何より、軍備の方の補強が今少しかかりそうかと思われます。海伝いで手配しておりますれば、まずまず補えましょうが、その完了する日数を考えましても」
「月末が精いっぱいか。」
言いながら、茂実は手で矢崎に歩くことを促した。
「はい。」
「ふむ。」
二人は境内の外へ向かって歩き始めた。それに茂実の共の者がついてくる。
矢崎は歩きながら、
「月末では間に合いませぬか。」
「そうよのう、あちらの血気が予想以上に盛んゆえ、攻めて参らぬとも限らぬで」
「はい。」
矢崎の頭の中に、すぐと「小坂靭実の巫女殺し」の一件がよぎった。お館さまのご命令とはいえ、神社の社殿で斬り殺してしまったのは、本領国内でもすこぶる評判は悪い。
そして義父である茂実もまた、その親であるがゆえに、この一件がきっかけで高階軍と小坂家が、不利な方向へと運ぶのは、何としても避けたいはずであった。
矢崎は立ち止った。
言うか言うまいか、迷った。
立ち止まる矢崎にあわせ、振り返った茂実の顔をじっとみつめる。
「何か。」
茂実から問うた。
矢崎は、
「小坂様は、ご存じか。」
「何を。」
「ご子息がお館さまのご命令でとらえにいかれた敵方の巫女姫には、妹がおりまする。」
茂実は矢崎の言葉を解しかねて、ただその顔を見続けた。
「これは、靭実殿の行軍に従った兵の間で噂になっていることでございますが、村人が逃げた後追っ手をかけ、その途中の山中で、逃げる妹を発見しました。ところが、その妹、風にかきさらわれるように消えたとか。」
「消えた?」
「はい。一瞬で、疾風とともに目の前から消えたそうでござります。」
「馬鹿な。」
茂実は笑った。
矢崎はそこで、思い出したように辺りを見まわし、足早に茂実に近づいて、
「ここだけのお話でございまするが――」
そういって、茂実の耳に口を寄せた。
そこから話が全く聞こえなくなった。
木の間から見下ろしていた佐助は、下にいるのだったと心の中で舌打ちした。
肝心の靭実の姿も今日は見えない。
高階の命とはいえ、「巫女殺し」が響いて神社への参拝を遠慮したのだろうことは、すぐに察しがついた。
このご時世でも、手を出してはならぬものがあるのだ。
それがたとえ、本人が望んだことであったとしても――だ。
由良神社で新年の参賀・祝詞を終え、橘が居室へひきあげてくると、さっそく隣室の信乃を呼んだ。
「先ほどの話だが」
そういって、橘はすぐに用件に入った。
「力の質は違っていても、根本のところは同じであろうと思う。要するに、神と会話を交わすということは、精霊と通じることと変わらぬということだ。わらわは、気は操れぬし、乗れぬが、他のところは巫女姫どののしておられたこととそれほど変わらぬであろう。それで、わらわらの修行の、初歩的なところを行ってみても、何の益にもならぬということはあるまい。」
「はい。」
「祝詞、経典など、霊感があるものが使えば役に立つこともある。また、神に通じることによって授かり、増す力もある。」
「はい。」
「学ぶことも、剣の道も、巫祝の力も、基礎を、繰り返し繰り返しするうちに、そこからある日、飛躍的に延び、そして悟る。するとまた新たな段階へと、様々なことを繰り返し繰り返し――そうして少しずつ成長を遂げるのだ。人の成長とは、みなこのようなものゆえ。」
「はい。」
「それでそなた」
橘がそこまで話したところで、外から大勢の「わあっ」という声が響いてきた。
この館にいて、こんな大勢の大きな声を、こんな近くできくことはなかったので、信乃は度肝を抜かれて、
「な、何事でございましょう。」
「何、」橘がそう言いかけたところでまた、今度は「おうっ」と大きなどよめきが響いた。
信乃が目を大きく見開いたまま硬直したので、橘はふっと笑って、
「見に行ってみるかや? 先ほど来栖(くるす)直衛が見学しておったゆえ、そろそろ面白いことになっておるやもしれぬ。そなたの、修行の助けにもなろう。これ、六佐!」
橘は廊下に待機している六佐を呼んだ。
「何か外へ出るのに、上に着るものをはおれ。面白いものが見られるぞよ。」
そう信乃にいって、橘は笑った。
はたして、表に出ると、館の前の広場に人だかりが出来ていた。
しかも、姿から察するに、下の駐屯所の若い兵がほとんどらしい。
その人だかりの真ん中を見ると、藤吉郎と駐屯所の若い兵らしきもの一人が、木刀で一戦交えているところらしかった。
それで、信乃が出ていったとき、駐屯所の若い兵は藤吉郎の剣ではじき飛ばされたところだった。
兵ははじきとばされたあと、上体だけむっくりと起こし、倒れた格好で藤吉郎の方に手の平を向けた。
「待て、藤吉郎、正月からそこまで本気になるな。それに俺は、すでにいっぱいやらかした後だ。」
そう言って目を閉じ、まあまあといった感じで手を上下させた。
「いっぱいやらかそうが何をしようが、駐屯所の兵たるもの、この大事のときにその弱腰で、よいものだろうか!」
威勢のよい藤吉郎の声に、人だかりの間から信乃がその顔をうかがおうとした。すると、人だかりは横にいる六佐の姿をみとめ、橘たちに見物の場所を譲った。
「これは何かのお祭りですの?」
そう信乃が問うと、橘は、
「なに、藤吉郎が一人で始めた祭りよの。あやつ、神社に見えぬと思うたら、こんなところで油を売っておったのだ。正月から血気盛んなやつよの。」
そう言っているうちに、信乃から見て背面の藤吉郎が倒れた少年兵に向かって、 また、
「立て! 与助! そんなもので、小坂に勝てると思うな。」
そういって少年を鼓舞すると、与助と呼ばれた少年は、
「おれは小坂とは闘う気はねえよぉ、勘弁してくれよ、藤吉郎ぉ。」
言いながら後ろ手で体を支え、両足を地面に投げ出した。
「与助!」
そういう藤吉郎に、人だかりの中から声をかけるものがあった。
「まあ、藤吉郎、その辺りでよしたらどうだ。与助の得意は弓。剣ではない。」
言った男は、信乃の右斜め向かいにいた。
人だかりから一つ頭の飛び出た背の高い男で、年の頃は藤吉郎より上に見えた。
くだんの小坂靭実と、同年ぐらいだろうか。
「直衛殿、放っておいていただきたい!」
そう藤吉郎がいうと、男はふっと笑って、
「では、与助の代わりに、この来栖直衛がお相手いたそうか。」
直衛が言って、人だかりの円の中に足を踏み入れると、一同は「おおっ」と歓声を上げた。
直衛は与助から木刀を受取った。
木刀を受取ると同時に、着ていた上着を人だかりの一人に手渡す。
彼が円に入ると即座に与助が真顔になって立ち上がり、木刀を渡したりしたところを見ても、彼は駐屯所の兵たちに一目置かれているらしいことがわかった。
直衛が両手で藤吉郎に向かって木刀を構えた。
迎え撃つ藤吉郎の姿勢まで違って見える。
場が、キリリとひきしまるのがわかった。
信乃は眼を見張った。
構えるだけで、場というものは、これほどひきしまるものなのだ。
先に打ち入ったのは藤吉郎の方だった。
直衛が受ける。――はじく。
やがて激しい打ち合いがはじまった。
双方一歩もひかぬという気迫が、あたりにみなぎっている。
信乃は眼の前にいる直衛の姿を見ながら、美しいと思った。
いや、双方ともに美しいが、直衛のは、藤吉郎のにも増して、打ち合いながらも舞を舞っているようにさえ見える。
動きに無駄がないせいなのか、それとも、その身にまとう「気」のせいなのか。
信乃は直衛にみとれながら、橘に尋ねた。
「あの方は、どなたですの?」
「あれか、あれは――そなた所望の、この村一番よ。」
ほうっと感心した。
子供の頃に見た、父のものとも、姉のものとも違う。
張りつめた気配は同じであるものの、その動きの美しさが格段に違う。
信乃はみとれた。
すると、みとれていた信乃の目の前に、藤吉郎が正面に入ってきた。剣を構えてにらみ合う二人は、ジリジリと動きながら円を描き、立ち位置が反対になったのだ。
二人の体から、ゆげが立ち上っている。
信乃は、視界に入った藤吉郎のまなざしに、ドキリとした。
とたんに、藤吉郎の気がふっと緩んだ。
「隙あり!」と直衛が叫び、藤吉郎の左腕上腕部をしたたかに木刀で叩いた。勢い、藤吉郎が横なぶりに倒れ、地面へと体を投げ出す格好になった。
「ああっ」と残念そうな声が人垣から一斉に漏れた。
藤吉郎が粗い息をして地面に倒れたまま、したたかに叩かれた上腕部を右手で抑える。その藤吉郎に向って、直衛が近寄り手を差し出した。
「立てるか。」
藤吉郎はその手を素直に受け取ると、その手にすがって立ち上がった。
「すまぬ、真剣勝負ゆえ、てかげんせずに打ってしもうた。」
「いえ、これしき。」
直衛は立ち上がった藤吉郎の汗まみれの額に手をやると、その額に落ちた髪をかきあげながら、
「どうした、猛っておると思うたら、途端に気がそがれた。」
藤吉郎は答えなかった。懐から布を取り出すと、それで顔の汗をぬぐい、一歩後ろにさがって、
「お相手、ありがとうございました。」
そう言って両手を脇につけ、頭を下げた。そのまま、体をそむけ、神社の方へ向かって歩き始める。
急いで立ち去る藤吉郎に向って、直衛が、
「おい、藤吉郎、おぬし、神社にいるはずだったのだろう。社主どのが『藤吉郎がおらぬ』とカンカンに怒っておられたぞ。どこにいた。」
藤吉郎は答えなかった。後ろ姿だけが早足で遠ざかっていく。その藤吉郎に向って今度は人垣の中にいた隈吉が、
「おーい、藤吉郎、上着!」
と、藤吉郎から預かっていた上着を振り上げた。それでも藤吉郎は振り返らない。
「なんだあいつ、何を正月から熱くなってるんだ。」
そう言ってまた、「おーい」と呼びながら、藤吉郎の後を追っていく。その後に続いて、与助や他の少年兵たちが「おーい」「おーい」と後を追った。
「ふふふ、相変わらず面白いやつだ。」
そう、直衛が笑いながら一人ごちた。
橘が、「相変わらずお強うござるな。」と背後から声をかけた。
直衛が振り返り、橘の姿をみとめると、
「何、やつもまた腕をあげました。追いつかれそうです。」
と答え、横にいる信乃に目を向けた。
「こちらは?」
「大木村からいらした、信乃どのだ。」
橘が答えると、信乃は目を合わせぬように小さく頭を下げた。
「ああ、お話はきいてございます。このたびは、たいへんでしたね。」
「いえ、はい。由良さまのご厚意でお世話になり、たいへんありがたく思っております。」
そう信乃が答えると、直衛は意味ありげに信乃をみつめ、
「来栖直衛です。この由良家の一の家臣、来栖兵衛の長子にあたります。」
「はい―― 一の家臣、で、ございますか。」
「ええ、一の家臣です。――信乃どのは、はにかみさんですね。さきほどから、目を合わせようとなさらぬ。」
「大木村以外の人間にはあまり慣れておらぬらしい。」
直衛の言葉にすかさず橘が口をはさんだ。
「ほう、なるほど。」
そういうので、信乃がちらりと直衛の方に眼差しをあげると、直衛は優しい笑顔で信乃を見ていた。それで、また慌てて目をそらすと、
「ははは、何、とって食いはしませんよ、信乃どの。」
信乃はなんだか恥ずかしくて、六佐の影に隠れようと後じさった。
別に村の外の人間になれていない、というだけのせいではないように思う。この、来栖直衛の持っている独特の雰囲気――これが、信乃をはにかませるのだ。
一見細く見えるが、体は鍛え上げられているのだろう、服の上からでも、その中身がうかがいしれる。剣士らしい独特の、キレのある立ち居振る舞いなのだ。細面の聡明らしい顔つきも、色男ではないが、何か女をどぎまぎとさせるような、魅力というか、色気があった。
同じ剣士でも、体の芯や作りががっしりとたくましい、小坂靭実とはまた違った感じの男である。
「ところで、直衛どの。」
橘が口を開いた。
「はい。」
「この家のきよらたちに、剣を教えておったの。」
「ああ、はい。剣を教えるといっても、護身のため程度のものですが。まあ、きよら様以外は、懐剣を中心にしたものですね。」
「それに、信乃も加えてはくれぬか。」
「信乃どのを?」
「うむ。」
「かまいませぬが、またどうして剣を?」
「この娘、少し力があってな、安定の材に、剣術の力を借りたい。」
「ああ、なるほど。大木村の巫女どのの、妹君でしたな。よろしいでしょう。」
きいていて信乃は「えっ」と思った。問い質す間もなく話がとんとんと進んだ。「懐剣」の言葉に多少不服も覚えたが、何もないところから即座に否定されるよりはよいかもしれぬ。それに今、「きよら様以外」と――。
「そなた次の戦には出ぬのか。」
信乃が考えていると、橘が言葉を続けた。
「ええ、次は、わたくしは留守居番で。」
「小坂靭実討伐が名目でもか。」
そこで、直衛はふっと笑った。
「小坂に向かうために、私がわざわざ番を代わってまで出るのですか、橘の君。」
「そういうわけではないが――お館様は所望なさらぬかの。」
「この未申の守りとて大事でございます。私一人が剣の使い手でもなければ、小坂との果たし合いがこたびの目的でもありませぬ。由良様の決めたお役目を変えてまでは、所望はなさらぬでしょう。」
「ふむ。」
「お館様は秩序を何より重んじる方。一人の功のために決めごとをたがえる方ではございません。まして、敵が小坂一人と決めてかかれば、全体の統率が乱れます。みなで『高階軍を討つ』のだと思わねば。」
「まあ、そうだの。――味方がみな、そう考えておればよいが。」
「考えさせればよいだけでございます。また、そうお達しがありましょう。」
「まあ、そうだの。」
橘はどこか残念そうな口調だった。
まるで、この直衛が戦場に出てほしいかのようにも聞こえる。
そこまで買われた人物なのかと、信乃は六佐の影から直衛をのぞこうとすると、
「では、信乃どの、お稽古はまた、追ってきよら様から伝えていただきます。きよら様には何かとおききなさい。」
と、見上げた視線の先に、直衛の言葉と、視線と、笑顔がやってきた。直衛は続けて、
「稽古までには私に慣れてくださいね。」
そう言って、はははと笑った。それから、
「ところで、橘の君。橘の君は、剣はやられぬのか。」
そう橘に言葉を向けた。
「私の体で、できると思うてか。」
「上半身だけででもできる技がありまする。お館様のところにおられる、櫛羅(くじら)殿はなかなかの使い手とききましたが。」
「あねさまは私のようではないし、それにあの方は、特別なのだ。そう誰でも真似できるものではない。」
橘の返事に、直衛は意味ありげに橘を見るだけで、言葉を続けなかった。
手に持っていた上着を羽織ると、「では、失礼いたす。」と、頭を下げた。
直衛は三人の前を跡にし、広場から駐屯所に降りる坂に向かった。
直衛が見えなくなっても、橘が動く様子がないので、信乃が、
「あの方は、お幾つぐらいの方ですの?」
と問うと、
「私と同年だ。」と橘は答えた。
それから信乃の方へ視線を向け、
「今年二十一だ。生意気だろう、あの男。」
信乃はぎょっとした。
あれが、生意気なのだろうか、同年なのに、生意気なのだろうか。
二人の立場や力関係を解しかねて、信乃はただ橘の言葉を不思議に思うばかりだった。
橘と信乃の夕餉の膳は、正月から信乃が運ぶことにした。
それでなくても、大木村では毎日姉と自分の食事は自分が作っていたのだ。ここではあまりにも手持無沙汰すぎた。それで、食事の膳だけでも運ぶことにして、その頃合いには奥へ行き、あきの用意する膳を待つことにしたのだ。
お勝手にはこの家の奥をとりしきるあきと、調理場を手伝う若い下女が一人、この前橘の所に手紙をつかわした下男が一人見える。
「本当に、いいのですか。重いのですよ。」
と、あきが信乃に尋ねた。
「ええ、いいのです。これぐらいしないと、体がなまって仕方がありません。大木村では、かまどの薪も全部自分で運んでいたのに。」
「まあ、全部自分で?」
「ええ、父が亡くなってからは、全部わたくしが。といっても、慈五郎という男とその妻が、何かと家の世話を焼いてくれたので、その慈五郎が用意してくれていた薪をかまどまで運んでいただけなのです。」
信乃の話にあきはこれと言って言葉をつげず、笑顔を見せた。そして、膳の上に料理を並べ始めた。
信乃が、
「お正月ぐらい、巫女様は由良さまのご一家とお食事なさらないのですか。」
と尋ねると、
「ええ、橘の君は、この未申の守りにつかわされた巫女だとおっしゃって、由良さまご一家には必要以上に交じわろうとはなさいませぬ。今朝のお雑煮と、お節句の時や宴席で同席されるぐらいです。」
「そうですか…」
信乃は答えたなり、あきの動きをみつめていた。
冷たい、と言えば言いすぎかもしれないが、任は任として割り切る人なのだと思った。
しかし、淋しくはないのだろうか…。
親族もおらぬし、共の六佐とも、あくまでも主従といった感じで、なんだか信乃にはそんな橘が淋しいように思えた。
「さあ、できました。お運びなさいますか。」
と、あきに言われ、うなずいて板間から立ち上がろうとした。そこに、外からバタバタと数名の足音がきこえてきた。とたんに、裏口の戸が勢いよく開け放たれ、
「たいへんです!たいへん…」
と、隈吉が血相を抱えて入ってきた。
「まあ、なんです、騒々しい。何事ですか。」
あきが膳を抱えたまま振り返ると、暗い中、戸口の向こうで少年二、三人の姿が見えた。
「あきさん! 丙吾様に、お取り次ぎを! 藤吉郎が…!」
「まあ、お前たち、また藤吉郎様を呼び捨てに。それはならぬと何度言えば」
「ええ、ああ、そう、そうです。藤吉郎――どのが、大変なことに! さ、酒を。」
「なんです。」
「神社の社殿で飲み始めて、もう三合目です!」
「まあ!」
三合ときいて、信乃の頭の中では木の枡がトントントンと三つ重なった。たいした量ではないではないかと思いながらいると、あきが、
「たいへん、丙吾様に知らせてきましょう。信乃さん、すいませんが、じゃあこれ、橘の君にお願いできますか。」
と、急いで膳を手渡され、
「あ、はい、おまかせください。」
そう答えて、急いで受け取った。そして、すぐに見えなくなったあきと、血相抱えた少年達を不思議に思いながらも、膳の汁が冷えてはならぬと信乃はそれをもって廊下を歩き始めた。
藤吉郎様が、酒を、三合――。
あれだけ血相を変えるのだから、元は飲めぬのだろうか。
飲めぬものを、過ごしているのだろうか。
信乃は橘の居室の前まで来ると、膳を一度床におき、「橘の君、夕餉をおもちしました。」と声をかけた。それからそそと扉を開け、部屋の中ほどにいる橘の前まで運んだが、膳を置いてすぐ、橘に「どうした。」と声をかけられた。
信乃がおかしな顔をしていたのだろう。
信乃は少しためらってから、
「藤吉郎さまが、お酒を三合召し上がられたと、先ほど隈吉さんたちが見えられて」
「三合! それはおおごとだ!」
橘が驚いた顔で言うと、信乃はやはりと思った。
「飲めぬのですか。」
「ああ、あれは立派な下戸よ。下戸と思うておった故、盃一杯が限度なのかと思うておったわ。」
たいへんだ。
橘は面白そうに話しているが、信乃には大ごとに思えた。
「わたくし、ちょっと、見て」
「いやあ、誰ぞ水でもぶっかけに行けばよいだろう。」
「また、なぜそのような無理を」
「さて、兵たちが無理に勧めたか、藤吉郎が自ら飲んだか。――ふむ、昼に来栖にやられたのも、相当こたえたのかもしれぬな。」
「わたくしちょっと」
橘が面白がって「今日は藤吉郎祭りだ」とつぶやく横で、信乃は立ち上がった。そのまま部屋を出て、また廊下を奥へと向かうと、丙吾のところから戻ったあきが少年たちに話をしているところだった。
「――あれも新年を機に男になったのだろう、放っておけとおっしゃって。そなたたちで止められぬのか。」
そういうと少年があーというため息とともに、「ダメだ、丙吾様は」とつぶやいた。隈吉が、
「すぐにつぶれると思うたのですが、これがなかなか。」
答えていると、その横から信乃が、
「行きましょう、そこの水を汲んで、藤吉郎さまをお止めせねば!」
と、急いで板間から降り、土間にある履き物をつっかけた。手桶に樽の水を汲んで抱えると、呆気にとられた少年たちの間をぬって、裏手の戸口へ向かった。あきの、「まあ、お待ちなさい、信乃さん!」という声をふりきって、外の暗闇へと飛び出した。
今朝の会話が頭をよぎる。
――もし、小坂の軍が攻めてまいったときは、あるいは、その間者がやってきたときは、われわれが、命賭して、信乃どのをお守りいたします。何も、心配はいりませぬ。
昼間の藤吉郎の声が蘇る。
――立て! 与助! そんなもので、小坂に勝てると思うな。
あの方は何か、思い違いをしているのではないだろうか。
しかしすぐに信乃は頭を振った。
私は何も、小坂と闘いたいわけではなく、それで剣を習いたいと言ったわけではなし、「違うのに」という声が聞こえたにせよ、まさかそこまで先走るだろうか。
でもどう考えても、あの昼の来栖直衛を巻き込んだ騒ぎは、藤吉郎が小坂と闘わねばならぬと思い、そして、剣に対する何かを、あおられたせいにも感じた。女の自分が出ねば、他は頼りにならぬ、とか、思ったのやもしれぬ。それが藤吉郎の中にある、あせりというか、何かそんな気持ちに、火をつけてしまったような、そんな気がしたのだ。
それはその前後を考えても、どう考えても、自分のせいで、それがものの見事に、来栖直衛に打たれてしまい――。
信乃は神社への道を急いだ。
本日は夜でも、社殿に明かりがともっている。
若者たちが飲み騒いでいるのだろう。
その神社を見上げると、神社をいただく山の上に星の無数に瞬くるのが見える。
外は相当寒かった。
なぜに自分は今、あのつい先日、出会ったばかりの少年のために、この暗い異郷の地を走っているのだろう。
信乃は不思議な気持ちにかられながら、闇の中を走った。
背後からバタバタと、少年たちが何かつぶやきながら駆ける足音が聞こえている。
あの小坂が攻め入った夜も、そのあと大木村へ向かった日も、遠い夢の日のことではあるまいか――。
神社の社殿奥にある板の間で、村の若衆が飲んでいる中に、藤吉郎は寝ころんで真っ赤になって酔いつぶれていた。
寝ころんで、明かりに照らし出された天井の板を眺めながら、ぼんやりとしていると、ふと、昼の情景がまた蘇った。
直衛と面していて、信乃がふと視界に入ってきたのだ。
思わず、気を緩めてしまった。
「隙あり!」と直衛が叫び、左腕上腕部に木刀が食いこんだかと思うと、倒れて――
倒れて――
倒れて…
……
繰り返し。
直衛と面していて、信乃がふと視界に入ってきたのだ。
思わず、気を緩めてしまった。
「隙あり!」と直衛が叫び、左腕上腕部に木刀が食いこんだかと思うと、倒れて――
倒れて――
たおれ
サイアクだ。
藤吉郎はむっくりと起き上がった。
「酒だ!」
藤吉郎は叫んだ。
とたんに周囲から、「おい、もう、よせ、藤吉郎。」「お前、そんなに飲んだことはないだろう。」と口々につぶやく声がきこえてくる。
しかし藤吉郎はその声を無視して、枡に入った酒に手を伸ばした。
さっきからちょっとしか進んでいない。
でも別によかった。
もう視界もゆらゆらとするほどに、ぐでんぐでんになっているのだから、別に何でもよかった。
すると、社殿の表の方からバタバタと足音がきこえてくる。そういえば隈吉たちはどこへ行ったと視線を配ると、途端に社殿とこの奥の間を区切る扉の戸がガラリと開いて、信乃の姿が現れた。
右手に手桶を持っている。
その手桶を持ったまま部屋の中に入ってくると、藤吉郎の前までささと歩き、藤吉郎の前で手桶をおいて、
「藤吉郎さま、大丈夫ですか?」
と、藤吉郎をのぞきこんだ。
夢かと思った。
幻覚か?
おお、何と顔が目の前ではないか、これはいい幻覚だと思っていると、信乃のまわりに先ほど見えなかった隈吉たちが現れ、藤吉郎を囲んだ。
「顔から冷やした方がよくありませんか? 水も飲まれた方がよろしいですね。」
と言って、藤吉郎の手から酒の入った枡を取った。取ったと思うとまた、枡が手に渡される。
「さあ、お飲みなさい。」
藤吉郎は動かなかった。
「おい、藤吉郎、しっかりしろ」と周りから声が聞こえるが、なんだかよくわからなかった。すると、信乃の手が伸びて、自分の額にふれる。
「あ」
藤吉郎は思わず、小さく声を上げた。
冷たい信乃の手が、藤吉郎の顔の上をはっていった。
「まあ、なぜ、こんなに召し上がられたのです。全く飲めぬと橘の君からうかがいました。」
信乃の冷たい手が心地よかった。その心地良さにとろんとしながら、
「それは、信乃どのが」
と口走ると、信乃の手がぴたりと止まった。ぴたりと止まり、次の言葉を待っているようだったので、自分は何を言うはずだったかと考えた。しかし、どうも思い出せない。おお、そうだ、と思いつき、
「信乃どのが、小坂靭実の」
「私が、なんです。小坂の」
「信乃どのが、小坂靭実の、いや、小坂靭実と、決闘を」
ここまでしゃべると、藤吉郎の横から「おい、こいつ何を言っているんだ。」という声が聞こえてくる。言われて、藤吉郎は枡の酒をあおった。
なんだ、この薄い酒は。水みたいじゃないか。
おお、俺もとうとうここまで強くなったかと思いながら、なんだか気が大きくなった。
「いえ、信乃どの、信乃どのが戦う必要はないのです。」
そう言って信乃の顔を見ると、なんだか困った顔をしているように見える。それでそのまま、
「そう、信乃どのが戦う必要はない。わたくしが、戦いまする。信乃どの!」
「はい。」
「小坂をその目でご覧になりましたか。」
「はい。」
「わたくしに、どんな男であったか、お教えください。この不肖、由良藤吉郎、小坂めを、戦場にて、打ち取ってごらんにいれまする。」
そう言うと、信乃はしばらく藤吉郎をみつめるようだった。
気のせいか、あたりがやけにしんとしている。
藤吉郎はもう一度酒をあおると、信乃に顔を向けた。
見ていると、途端に、信乃の目がうるみはじめて、彼ははっとした。
その目からぽろぽろと涙がこぼれおち、藤吉郎はふと我に返った。俺は今何をきいたのだと思った瞬間、信乃は立ち上がり、扉の向こうへ駆け出してしまった。
周りで、信乃ちゃんだの、信乃さんだのと呼ぶ声がきこえた。隈吉が追うかにみえたが、扉のところで立ち止まってしまった。
馬鹿、なんで追わないんだ、の声に、何かやりとりしている声が耳の奥できこえたが、はっきりとは聞き取れなかった。
誰かに一発殴られた。
そこから先は、全く見えなくなった。
夜の闇に駆け出して、出すぎたことをするのではなかったと、信乃は思った。
いつもこうだ。
つい思うにまかせて動いてしまう。
しかも途中で気づいて止めればいいのに、止まらない。
――小坂をその目でご覧になりましたか。わたくしに、どんな男であったか、お教えください。
語れなかった。
目鼻立ちの通った、凛々しい顔の男だ、たくましい男だ、人にはない気を背負っていて、力強く歩く、そういう男だ――褒める言葉しか浮かばなくて、姉を斬った男を、敵将を、何故ほめねばならぬのだと思った。
思うと同時に、姉と並んだら、さぞお似合いであったろうとも思った。思うと、胸のうちから悲しみが押し寄せて、言葉にならなくなった。
ああ、何とつらい――忘れていたのに、思い出さないようにしていたのに――。
すると、神社の階段を降り切り、由良の館へ走る信乃の前、暗闇に、白い影がよぎった。
なんだろう、由良の館の表口にさしてある明かりはまだ遠い。
こんなところになぜ白い影がよぎるのだと思うと、女が――いつぞや、大木村の帰り、宿った家で見た、あの、白い女が、うらめしげに――
ぞっとした。
見間違いかと足を緩めた瞬間、背後から何者かの手が伸びて、信乃の口を覆う。
抗う間もなく道の脇にある藪の中に連れ込まれると、信乃は抗おうと手を伸ばした。その手をつかみ、背後の主は信乃の耳元でつぶやく。
「信乃、俺だ。」
ギクリとした。
聞き覚えのある声――この、所作。
思わず信乃は抗う手をとめ、声の主へと振り返った。闇の中、わずかに差し込む星明かりと、館からの火を頼りに、その顔の造作を目で探る。
「――佐助!」
あれほど、問いただしたかった相手が、そこにいた。
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