第三章
暗闇の中の木立の中で、佐助は信乃から手を離した。
信乃から少し距離を置くと、闇の中で佐助は話し続ける。
「よくきけ信乃。」
さきほどまでうかがえた佐助の顔の造作が、闇の中で再び見えなくなっている。その顔を探ろうと信乃は目をこらしたが、よくは見えない。
「敵方に、お前のことが知られている。」
信乃はそれでも、佐助の顔をさぐろうとした。闇の中で相手がわからぬと、どこか朦朧としてしまう。朦朧とする頭をなんとかはっきりさせようとして、余計に目をこらそうと努力した。
佐助は話し続けた。
「お前の、どこまでが知れているかは、まだつかめぬ。しかし、お前の存在と力は、敵方に知れている。」
佐助の言うことには、ある程度予測はできていた。逃げるときに、敵兵に消える姿を見られているのだ。姉の力を知っているならば、信乃がなぜ消えたのかも想像がつくだろう。
「きいているのか、信乃。」
信乃は答えず、自分が一番ききたかったことに口を開いた。
「佐助。」
佐助は闇の中で、信乃の言葉を待つふうだった。
「姉さまは、本当にお亡くなりになったの?」
佐助の体が闇の中で、ぴくりと動いた。気配で感じ取れるかとれぬかというほどの動きであったかもしれない。
「一族の墓に埋葬したと、稲賀どのに報告したときいたけれど」
「本当だ。」
あたりの木々とともに、周囲の音はしんと静まりかえっている。耳をすませば、村のあちこちで行われている正月の宴の声もきこえてはこようが、 ここには何も響いてはこない。
「なぜ。」
「なぜ?」
「なぜ、我らの確かめる間もなく、姉さまを埋葬してしまったのですか。」
再び佐助は黙った。
闇の中で佐助の気配が、何か考えているようにも感じる。
「お館からの、兵を待たずに、その身を連れ去ってしまったのですか。あれではみなが、姉さまが生きていると、期待するではないか。」
とたんに佐助の気配が、闇に消えるように感じた。
去ろうとするかと信乃は悟り、急いで、
「待って、佐助! 佐助は、姉さまが、好きだったと」
気配が立ち止まる。
「楓に、ききました。お前は、姉さまが好きだったのだと、だから、兵も待たずに埋葬したと――でも、私には、それでは合点がいかぬのです。」
佐助の気配は、今度は少しずつ信乃に近づいた。
「合点がいかぬ?」
近づく佐助の気配に、悲哀の交る殺気が感じられた。
信乃は思わず身構えると、闇の中にあるであろう佐助の顔をさぐりながら、
「ええ、あれでは、姉さまの、魂は、落ち着きようがなかったではないか、現に」
「なら、お前なら、あやつが簡単に死んでしまうと思えたか。」
信乃ははっと目をみはった。
佐助はつづけて、
「ではお前なら、あやつの魂が、戻ってこぬと、思えたか。」
佐助の影には悲哀だけが残り、殺気が消えた。
「おれは、あの社殿に帰り、社殿の中、すでに冷たくなった小夜の体を処置しながら、小夜を呼び続けた。しかし、いずれお館の兵がやってくれば、こうして待ち続けることもかなうまい、そう思って、場所を移したのだ。」
「どこに…」
「社殿の裏の山の中だ。予想通り間もなく、お館の兵がやってきた。おれは、兵が村の中にいるその間も、山の中で待ち続けようと思ったのだ。ところが、お館の兵は山の中まで探索し始めた。仕方なく場所を移そうと小夜を背負い移動した。しかし――」
そこで佐助の言葉は切れた。
佐助はあの時、逝ったとは、思えなかった。――いや、思いたくは、なかったのだ。
社殿の中で、急いで小夜の傷口を自らの布を割いて覆うと、社殿の中に残された大きな布――おそらく祭壇を覆っていたものだろう、それで、小夜の体を覆った。
したたらぬようにとより強く血のあとを消すと、その小夜の体を抱えて社殿の外へと急いで出て行った。
木々の中から村の様子をうかがったが、時間が経つにつれて兵が増えるばかり、佐助は小夜の体を覆った布を解き、背中に背負って山の中を逃げた。しかし、背負い続ける小夜の体は冷たいまま、次第に硬くなり、山の中を歩きながら、やがて生の気配がみじんも感じられなくなってしまった。
そしてその遺体を、地面におき、日の下にさらして、朽ちていかせるわけには、いかないと気付いたのだ。
「もう戻らないと悟って、遺体は、一族の墓所に埋葬した。その時すでに、元の社殿の中に戻すことも、兵たちに遺体の場所を、確認させることもかなわなくなってしまった。お役目を果たすものとして、不覚と言えば不覚。」
言う、佐助の影が、泣いているように感じる。
呼んでも、呼んでも、戻らない魂――佐助は必死に小夜を待ち続けた。
待ち続けたのに戻らない。
目の前で、もはや躯となった小夜を前に、つきぬ涙にとらわれて、――そして、そうやって、小夜の死を、確認したのだ。
「俺とて、お館様に嘘を申したりはせぬ。小夜は死に、一族の墓に埋葬した。これは、間違いなく本当のことだ。」
佐助は声を落として、早口に話しつづけた。
「信乃、言っておく。お前に必要なことは、小夜のおらぬ今、己の身は己自身で守らねばならぬということだ。この地に逃れたのは幸いであった。何かあれば楓を呼べ。今度はお館さまの命で、いつでもお前のそばにいよう。」
とたんに、闇の中の佐助の気配が後ろへと遠ざかり始めた。
思わずその闇に向かって手をのばそうとしたが、信乃はすぐにその動きをとめた。
信乃はあえて佐助を呼び止めて、これ以上何かをきこうとは思わなかった。
暗闇の中に残され、佐助の気配が消えたであろう方角を、ただ、しばらく見つめ続けた。
姉の遺骸を背負って、あの山の中を行った佐助を思った。
何もかもを忘れて、ひと時狂い、姉の魂を待ち続けたのか――佐助。
翌日は、ひどい頭の重さで目が覚めた。
眠っても何度も目がさめ、あまり眠った感じがしない。
あの昨夜の闇の中で、佐助の言った言葉を繰り返していた。
彼の言葉はただ簡潔に、事実をつづっただけだった。そして暗闇であるがゆえに、顔の表情さえろくにつかむことはできなかった。
それでも、その佐助が、以前のどこか生意気で、鋭い口調が失われているのは、暗闇の中でもはっきりと、信乃には感じ取れた。
姉の帰りを待ち続け、その思いもきかぬうちに、自身遺骸を埋めねばならぬ男の気持ちとは、どんなものであろうか。
信乃にはとても想像がつかなかった。
遺骸と対面し続けた佐助と、遺骸にはあえず、最期の魂と言葉を交わした信乃と。
どちらが不幸かといえば、どちらも不幸かもしれない。
はかることなどできないかもしれない。
失った悲しみは、皆同じこと。
そう思って、佐助を責めることしか考えなかった自分を恥じた。
――己の身は己自身で守らねばならぬ――
よくぞ、人のことなど考える余裕が、いや、強さが、あるものだ。
そう思い、ますます信乃は自身を恥じた。
その佐助の強さに、信乃は重い頭を無理にもたげた。
なんとか、立って、生きねばならぬと。
生きてゆかねばならぬと。
ところが、布団を片付け、手水場へ行って顔を洗いに行き、戻ってきて、橘に「おはようござります、巫女様」とあいさつに行ったところで、橘が信乃を奇妙な顔をしてじろじろと見た。
「その顔はどうした。」
「はい。」
「その顔は、どうしたときいておる。」
「顔を洗ってまいりました。」
「違う! その泣きはらした顔はどうしたかときいておるのだ。」
信乃ははっとした。
それから慌てて顔を抑えると、確かにいつもより顔が熱く腫れているとは思った。
「今まで気づかなんだか。それでよう、手水場まで行ったのう。誰にもあわなんだか。」
「そう――そんなに、腫れておりますか。」
「どれ、さきほどわらわが化粧したときにつこうた鏡をもたせようほどに。ろく」
「いえ!」
そういって、信乃は慌てて橘の動きを制した。
「それには及びませぬ。」
真顔――のつもりで、橘に言った。そして、恥じ入るように小さくなり、
「おそろしゅうございますので…。」
そういうと、すかさず橘は、
「自分の顔を見るのがか。」
と聞き返した。
「はい。」と言い、信乃はまた恥じ入るように小さくなる。
とたんに、橘がふきだした。
笑ってはならぬと口を抑えながらも、口から笑みがこぼれる。
その口で、
「おい、六佐! あきにいって、冷たい水とてぬぐいをもらってきてはくれぬか。」
そういうと、廊下の主はぎしりと音を立てて立ち上がった。
廊下を奥へと歩き始める。
「あの、巫女様。」
「冷やして腫れをひくがよい。今日はそれがひくまで、外に出るではないぞ。」
橘はまだ笑っていた。
その代わり、理由も尋ねなかった。
見抜いているのか、いないのか、わからないが、つきつめてきかぬことがまた、信乃には橘の気遣いのようにも思えた。
冷たいようで、そんなところが橘は優しい。
割れるような頭を抱えて起き上がれないのは、藤吉郎だった。
朝餉の時刻になっても起き上がっていけないので、妹のきよらが呼びにきたが、布団の中で返事さえままならず、そうしてそのまま眠っていると、今度はめったと顔を出さない母しずが藤吉郎のところへかゆと薬をもってやってきた。
「母上!」
勢い、布団から飛び上がりかけたが、激しい頭痛ですぐに頭を抱え込んだ。
「無理はせずともよい。」
しずはすぐに藤吉郎の動きを制した。藤吉郎の布団のそばまできて膳をおくと、
「どうです、食べられそうですか。」
と尋ねた。
それで痛い頭を抱えながら、「はい、なんとか」と言って体を起こした。
それでも「いたたた」と声が漏れてしまう。
なんとか起き上がりながら、上にものを羽織ると、膳に向って正座した。
「また、飲めもせぬのに、なぜそんな無茶な飲み方をしたのです。」
藤吉郎は「はあ…」とだけ答えて、膳の上の箸に手をのばした。
「何か心配ごとか。」
それでも答えなかった。
「昨夜、駐屯所の兵たちに抱えられて帰ったのを覚えているか。」
「おぼろげに…」
「父上がいらっしゃったら、どんなにお怒りになっただろう。」
家主の藤吾は昨日、今朝早くお館で開かれる新年の会合のために家を留守にしていた。
「…申し訳ございませぬ。」
藤吉郎の弱弱しげな言葉に、しずは深いため息をついた。
いただきますと言って手をあわせ、椀を手にとった。少し動かせばガンガンする頭を、動かすまいと気をつけながら、かゆの椀に口につけようとすると、
「昨夜お前を心配して様子を見にいった信乃どのが、今日は顔を泣きはらして出てこれぬというではないか。」
のどにつかえた。
とたんに、頭にびーんと痛みが響く。
うぅ、いぃい、あーっと叫びそうになるのを、なんとかこらえたが、しずはそれを気にとめる気配もなく、
「藤吉郎、何か覚えはないのか。」
そういってしずは藤吉郎に顔を向けたが、藤吉郎は椀を持ったまま硬直している。
しずはしばらく藤吉郎を眺めたが、藤吉郎のその硬直はしばらく収まりそうにない。
また、しずが深いため息をついた。
「あんなことがあって故郷を追われた娘さんです。気丈にふるまっていようとも、心の中はまだ平静ではいられまい。それを、」
「母上」
「なんです。」
「信乃どのは、なんと。――その」
「橘の君のお話では、なんとも言われぬそうだが、私はお前以外の原因を思いつかぬ。」
藤吉郎は、箸をもった右手親指で、こめかみを押さえた。
しずは続ける。
「とにかく、早く食べて薬をお飲みなさい。ゆうべのことをよく思い出して、必要とあらば、信乃どのに謝りに行くがよい。」
そういって、目の前の母親は、急須から湯呑に茶をそそいでいる。
確かに、信乃が目をうるませて、それから飛び出して行ったのは覚えている――おぼろげに――しかし、その理由がなんだったか――おそらく、自分が何か言ったから、信乃は飛び出して行ったのだろう。――しかし、それで、その理由が…。
頭が痛い。
ガンガンと痛い。
しかし、どうやらこれが止むのを待っているというわけにいきそうもなかった。
思い出すというのも至難の技に思われた。
おそらく、であるが、信乃を傷つけるつもりではなかったはずだ。そう、信乃のために、仇を――小坂を討つことを考えていて、それで――
それでもどうしても、その、泣きだす前のことが思い出せない。
「母は戻るゆえ、薬を飲んで、なすべきことをするのですよ。」
頭痛の向こうから、話しかける母の言葉をきいていたが、なんだか頭がぼんやりしている。
部屋を出ていく母の背を目で追いながら、母の仇は討てぬ――討つわけにはいかぬのだと思った。
しかし、信乃の仇は――。
信乃本人は、自身で仇を討ちたいのだろうと思った。
その気持ちもわかる。
しかしやはり、ここは我らのするべきことではないかと思った。
己のすべきことではないかと――。
そこまで思い出しても、どうしても信乃が泣いた理由が思い出せない。とにかく、謝りにいくだけは行こうと思った。
そう思うと、泣きはらしたという言葉が頭をよぎって、チクリと胸が痛んだ。
とはいうものの、部屋の前まできて、どう声をかけたものかと藤吉郎は迷った。
二間続いた部屋の、手前が今、信乃が使っている居室、奥が橘の居室となっていた。どちらにも廊下からの入口はあって、奥の居室の入口では、壁にもたれて六佐があぐらをかいてすわっている。
藤吉郎は一応、手前の信乃がつかっているはずの部屋の入口の障子をみつめると、一つ小さく呼吸を整えた。
頭は変わらずガンガンと痛い。
割れそうだ。
さっき飲んだ薬はいつ効くのか。
口を両手で覆ってみてはーっと息を吐いたが、酒のにおいは残っていなかった。
すると、視線を感じた。
廊下の奥を見ると、六佐がじっと藤吉郎の姿を見ていた
小さく手をあげると、六佐はにんまりと笑って返す。
藤吉郎は再び深呼吸をした。そして、
「信乃どの、藤吉郎です。」
大きな声を出したところで、頭に激しい痛みが走り、うぅあっと叫びそうになるのを、顔をゆがめることでようやくこらえた。
全身に力をこめ、先ほどとは少し声を落として、「あの、信乃どの、昨夜のことを、お詫びいたしたく」と続けると、中から突然、「六佐!」という橘の声が飛んできた。
六佐が慌てて部屋の中へ入っていくと、途端に橘を抱えて出てきた。
廊下に現れた橘の顔は怒りの形相と化している。
「そなたか!昨日信乃を泣かせたのは!」
橘の凛とした声と廊下を歩く音が、藤吉郎の脳髄を撃った。
「本当に、ろくなことをせぬな! それで、一体何を言ったのだ!」
声と姿は六佐の足音とともに近づいてくるが、とうとう藤吉郎は耐えきれなくなって、「いぃ、いててて、いてぇっ」と声を上げ始めた。
「二日酔いか情けない。天罰であろ!」
と詰め寄ってどなりつけたところで、中から「違うのです!」と信乃の声が響いてきた。
部屋の中で走る足音がきこえてくる。そして途端に、奥の入口から目を布でおおった信乃が現れた。
どきりとした。
信乃はうつむいて廊下を近づいてくる。
なんだか熱い塊が向かってくるようで、藤吉郎は思わず身をひいた。
「違うのです。巫女さま。藤吉郎さまのせいでは」
「しかし、現に謝りにきているではないか。」
近づいた信乃は、目を白い布でおおっている。冷やすために覆っているのだろうが、表情が全くうかがえない。
「でも、違うのです。」
と、今度は小さな声でつけたした。
橘は藤吉郎に顔を向け、
「何を言ったのだ。」
と問うたが、藤吉郎はこの段になっても思い出せず、
「それが、一向に…」
「覚えておらぬのに、謝りにきたのか。」
「はあ…、私のせいで、飛びだしていかれたのは記憶に…。」
「あきれたの、どうせお前のことだから、酒の勢いを借りて、小坂の風貌でも尋ねたのであろう。」
橘のその言葉をきいて、信乃が顔をおおったままぎょっとした。
それに気づいた橘と藤吉郎は、しばらく言葉をなくした。
ややあって、橘が小さくため息をつくと、
「血気盛んなのは結構だが、時と相手を心得よ。」
と藤吉郎に告げ、「六佐いくぞ」と声をかけた。
橘を抱えた六佐が、奥へ向かって歩き出す。
信乃と二人取り残された藤吉郎は、なんだか気まずいままで、目の前に立っている信乃のうつむいた顔をおおった白いてぬぐいを上からみつめた。
「あの…。」
「違うのです。」
「いや、しかし。」
「そのせいで、泣いたのではないのです。」
信乃は顔をあげない。
それでも、藤吉郎には「そのせい」のような気がした。「そのせい」とまではいかなくても、それがきっかけで何かを思い出させてしまったのではないか。
藤吉郎は言葉をさがし、
「わたくしが、その…。」
と言いかけたが、言葉に迷って、
「いえ、信乃どのの、仇は、必ず、我々が、討ち取って」
きいている信乃は、動く気配がない。
「それがゆえの昨夜の無礼です。――申し訳ない、覚えていないのですが――お許しください。」
戦場で、小坂靭実の姿が必要なのだ――黙ってききながら、信乃はそう思って、小坂の姿を頭に描いたが、それとともに姉の記憶も、昨夜の佐助の言葉もどっと押し寄せ、途端にのどをつまらせた。
藤吉郎には、その黙ってうつむき、目を覆った信乃が、また、泣き出したようにみえる。
その姿に、ふと抱きしめたいような衝動に駆られたが、無理に抑え込んだ。
くっと心に力を入れると、
「あの、剣の稽古のことですが」
と言葉をついだ。するとすかさず信乃が
「橘の君のおはからいで、来栖直衛様が村の娘につけていらっしゃる、護身の術のお稽古に参加いたします。」
突然、藤吉郎の頭が冷えた。
言葉をなくして立っていると、信乃が、「あの、もうよろしくて?」と言葉を発した。
そして、
「わたくし、気にしておりませんから。」
そう言いながら、そっと目を覆っていた手拭いをとり、頭をさげた。
もうそれほどに腫れてはいない。
信乃が頭をさげたまま、くるりと振り向いて奥の入口の方へと、早足でかけていく。
せつない後ろ姿だった。
午後になって橘の元へ、藤吾の共をしてお館から帰着した、来栖直衛の父来栖兵衛が訪れた。
「橘の君、来栖でござる。」と廊下で声がして、橘が返事をすると、藤吾とそう年の変わらぬ、しかし直衛にその面影を写しているらしい聡明な顔が、入口のところにのぞいた。
「何用ですか。」
橘が改まった調子で問う。
信乃は隣の間できよらに借りた書物に目を通しているところだった。兵衛は部屋に入り腰をおろして片膝をつくと、信乃に気づき、その姿勢のまま軽く頭を下げた。
それにつられて信乃が、両手を床について深々と頭を下げる。
すると、兵衛はにっこりと笑顔を返してきた。
よく似た親子だ。
兵衛はその信乃から視線を戻し、橘の方へ向かうと、
「橘の君、おりいってお話が。広間に起こしいただきたく。」
口調は改まったものだった。
お館から帰着したのであれば、そういう、用件なのだろう。「わかりました。」と橘は答えて、六佐を呼んだ。
廊下へ出ると、橘は小声で兵衛に、
「信乃どのがいては出来ぬお話でございますか。」
と尋ねた。それにあわせて兵衛も、
「その、信乃どののことでで、ございます。」
と、返してきた。
広間に入ると、橘と兵衛が向かい合わせに腰を下ろした。六佐が脇にひかえたが、広い部屋のほかには誰もいない。
「藤吾どのは。」
橘が尋ねた。
「藤吾さまは、夕べ方々からお誘いがあって、お疲れのご様子。部屋でお休みでございます。」
やれ、よくここまで無事にたどりついたものよと橘は呆れた。
「それで橘の君。」
そう言いながら兵衛は懐から文を取り出した。
「まずは、これをお預かりしてまいりました。」
橘に手渡す。
「どなたからです?」
「櫛羅(くじら)さまからです。」
「あね様から?」
手渡され、受け取った途端に、橘に不快の念が走った。
不快の念というよりは、怒りの念である。
橘は急いで文を開いた。開いて、なるほどと思った。
黙ってその文を、読むでもなくみつめている橘に、不審に思った兵衛が、
「何ごとでございますか、櫛羅さまはなんと。」
「『我はのけものか』と。」
「は?」
「『我はのけものか』と。」
「それだけでございますか。」
そう問われて、橘は紙を両手でぴんと張り、文面のある方を兵衛に開いて見せた。
なるほど、真中に一行、少し大きめの字で――それだけしか書かれていない。
「これは何でございますか。これだけのことなら、お言伝でもよさそうなものなのに。」
「それでは用は足せぬのであろう。これを――この紙を触れさせることに意味があるのだから。」
「はあ…。」
橘は、開いた文を閉じた。それを手に持ったまま、膝の上に置いた。
「して、信乃どののこととは。」
「はい、実は、昨日到着するなり、内々で評定方に呼ばれまして。」
「藤吾どのが?」
「藤吾様と私がでございます。」
「さて、何事です。」
「はい、その、橘の君、大木村に行かれましたときに、信乃どのをお連れいたしましたな。」
「ええ。」
「その時、大木村で信乃どののお身を明かされましたな。」
橘は答えずに、兵衛をみつめた。
「年の瀬に、大木村の兵の交代がございまして、そこより帰参いたしました兵の報告により、この玉来に大木村より逃げきたものがあり、それが巫女どののご親族に当たられる方だと。」
「そう説明いたしました。下手に嘘をつくよりは、よろしいかと。」
「ところが表立ってそのように報告した経緯が、こちらにはございませぬので」
「それで呼ばれたと。」
「ええ。しかも、お館さまのところに身を寄せている大木村の村長一族の方々にも、それに該当するもののことを尋ねられたとか。」
「それで、洗いざらい吐いたと。」
「と、申しますか」
そこで兵衛は言い及んだ。
「お館様には藤吾さまが内々にご報告申し上げておりましたゆえ、そのことを申し上げると、こちらへの嫌疑も晴れたのですが、」
兵衛の言葉をききながら、橘に少しく怒りが走った。
そんな話はきいていない。
しかし兵衛は気づかぬようで、話し続ける。
「つまるところ、尋ねられたのは、大木村よりいたった者の身分、それと、なぜそれを秘密にしておったのかということでございますが。」
「なんと答えられたのです。」
「大木村よりいたったのは、巫女どのの妹御であり、高階の目的がはっきりせぬ以上、血縁者の行方を秘密にした方がよいという判断で、ということで」
「かねてよりのお話通りでございますな。」
「それが…。」
「何か問題でも?」
「大木村の、ご親族方が――。」
「信乃どのを、引き渡せとでも?」
そこで兵衛は言葉をつまらせた。そして、橘をただ困惑した顔でみつめた。
橘の鋭い視線に、兵衛はためらいながらも言葉を切り出した。
「妹御の御身の無事が知れました以上、――お館さま近くの警護がこちらの警護に劣るというわけでもなく」
「でしょうな。」
「信乃どのの姉君が巫女であられたゆえに、巫女さまのそばがいいというなら、あちら様には同じように」
「櫛羅のあねさまがいらっしゃるということですな。」
「さようでございます。」
「しかし、こちらにいることは、本人が希望しております。」
「橘の君。」
「わたくしが引き止めておるわけでもなく。」
「ですが。」
橘は目を閉じた。
面倒くさい。
いずればれることはわかっていたが、こんなに早くとは――。
稲賀が藤吾から報告を受けたのはいつだろう――それでも、稲賀は黙っていたということか――。
それはそうだ、稲賀は巫女姫小夜の力を知っているのだから、なぜ高階がねらったのかも想像はつくし、その一番血の近い妹を、別の方角へと隔離することをねらった小夜の考えも十分読めるだろう。
存在を秘密にしておく必要は、稲賀には十分理解できたはずだ。
すると、ここまで早くことが公に知れたということは、つまりは我の大木村での失態か。
橘は、顔に自嘲の色を浮かべて、手元の文に目をやった。
巫祝の秘密ごとにかかわる理由――そこに、ただの男女の恋がからもうとも――ここは、あね様を味方につけるしかない――か。
橘は顔をあげた。
「大木村での我らの報告は、向こうにどう伝わっておりますか――おききになりましたか。」
「はあ」
兵衛は少しく考えるそぶりを見せた。
「神殿を汚されたゆえに、その様子を見にいかれた。しかし、血で汚された本殿は、ちょうど年末のお浄めのために遷宮されていて、ご神体が本殿にはなかったため、神はお怒りではなかったと。しかもそのご神体の遷宮先を探そうとなされたが、本殿のけがれにより探し当てられなかった。」
蛇穴との打ち合わせどおりだ。
兵衛は続けた。
「また、巫女どのの魂もさまよっておられたゆえ、それも霊送りなされたと。その霊送りに非常な霊力を使われた故に橘の君がお倒れになり、遷宮先をつきとめられずに終わったと。」
橘は依然鋭い目で兵衛をみつめた。
「何か違うておりまするか。」
問われ、橘は鋭い視線をゆるめた。一つ、ため息をつく。
にっこりと笑った。
「いえ、何ひとつ、違うてはおりませぬ。」
「それが、そのおふみと関係いたしますのか。」
「いえ――兵衛どの。」
「はい。」
「村長のご一族には、信乃どのにはこの村に、好いた男ができて離れるのが嫌なようだとでも言っておやりなさい。」
「は?」
「本人が移りたくないというなら、何かご親族に会いたくない理由があるのだろう。姉君のことで悲しみにくれているゆえ、うつりたくないのだろうが、ご親族はそれでは納得いたしますまい。」
「本当でございますか。」
「何がです。」
「好いた男というのが」
「嘘です。」
兵衛は苦笑いを作った。そして、
「信乃どのには、許嫁どのがおられると聞き及びましたが、その理由はまずくはありますまいか。」
「そんな間違いもありましょう。だから余計に、本人は言いたくないし動きたくないのだとでも言えばよろしいかと。」
「はあ。」
「その間に、高野にいる蛇穴の兄者の元に、文を書きましょうほどに。」
「橘の君。」
「兄者から、あね様に事情を説明してくださるように、お頼みいたします。あね様が味方につけば」
「橘の君、しかし、嘘に嘘を重ねたところで、いずれ知れることになりましょうに。」
「よいのです。」
「しかし。」
「いずれ、信乃どのの心も落ち着かれましょう。それまでは、待たねばなりませぬ。」
しかしそれは、信乃の心の問題だけではなかった。
再度あの力を封じたのが橘である以上、その玉がここにある以上、他のものにまかせるわけにもいかぬ。
かけた呪を他の者がとけば、万一誰かに解かれれば、そこには必ずひずみが起こる。
ましてそれ以前に、信乃はすでに行を始めてしまった。今離すわけにはいかぬ。
そして、親族の者も、いずれ気づくであろう。
なぜ「小坂」が神殿で、「巫女姫」を斬ったのかと。
その者どもも、同じ血族であり、例の色恋沙汰を承知しているのだ。
だからこそ、詳細を問うために信乃を渡せというのかもしれぬ。無事な姿を確認したいだけではあるまい。
だが、あれにはまだまともには語れまい。
悪意のない嘘に罪はあるまい。
少しの時間が稼げればいいのだ。
どうせ、いずれわかることなのだ。
信乃の居所が知れたように。
――そう、そうだ。
小坂靭実の生国のことも――奴が頭角をあらわして既に二年―― 一年あまりか、いずれ昔の奴を知る誰かの目にとまり、それは渦のように広まって、やがて奴自身を飲み込むに違いない。
しかし今はまだ、すべて秘密に――。
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