巫女姫物語・第三部
咲花圭良
第一章
国境を侵し、神に仕える巫女を斬った敵将に、領民は怒り震えた。
夜も明けようとしていた。
由良の館の前にある広場から、神社の上り口にかけて、人という人が、いや、館の前といわず神社の前と言わず、村のあちこちで、人々が東の空へ向かって、今か今かと日の出を待ちわびていた。
寒い。
幸福なことに、今年の元日はさわやかなほどに晴れ渡っている。
その分、明け方のこのときが、ことさら寒く感じられた。
巫女・橘の君が、由良の館の前で六佐に抱かれ、当主由良藤吾とともに並んで、東の空からの日の出を待っていた。
その橘の君を抱いた六佐の傍らに、信乃が立っていた。
髪が風で揺らぐ。
東の地、この先に、故郷大木村がある。
今は帰れぬ地であった。
母を失い、父を失い、姉を失い、もはや我が身ひとつで、思い出の品さえろくになく、この異郷にたたずみながら――いや、この地は、駐屯所があるためにそんな身の上の兵が多いのだ。
もちろん、村人の中にも。
身内を亡くした悲しみは、己一人のことでもあるまい。異郷を離れるつらさも、わが身一人のことでは――いつまでも、泣いているわけにはいかないのだ。
やがて、待ちかねた薄明の空を射るように、山の端から切っ先のような光がさした。
動乱の年が明ける。
途端に、ドンッ、ドンッという太鼓の音が、あたり一面に鳴り響いた。
日がゆるゆるとのぼるにあわせて、太鼓のドンッ、ドンッ、という音が響きわたる中、巫女・橘の君があたりにさっ、さっ、と塩をまいた。
由良社の神主と、その下男たちがあたりを酒で清めてまわる。
橘が、両の腕を大きく広げた。
太鼓の音がピタリと止まる。
橘は一度、広げた腕を顔に引きよせ、合掌して胸元へ下げると、やがてまた大きく腕を広げ、柏手を二度打った。
すると、そこに居並んだ者どもが一斉に、柏手を打つ。
山をつくかと響き渡る。
柏手を打つ音は、順を追って館の下にいる者どもへと次々に移り、村の中へと響き渡る。
人々は、祈るように合掌し、目を閉じた。
信乃もそれに合わせ、静かに合掌する。
祈る。
力を――。
この身にかけられた運命に、翻弄されず、のりきる力を――。
あれは、大木村から帰り来て、数日経った時だった。
信乃の居室は彼女自身の希望で、客間から橘の居室の隣の間へと移された。
家主の藤吾は今のまま客間におられるがよいとは言ったが、信乃にしてみればただのよそ者、由良の館においてもらうだけでもありがたいのに、いつまでも客間にはおれぬ。それでも藤吾は、遠慮せずに、大木村の他の村人も同じようによそに厄介になっている、困った時は領民同士助けあうのが当然のこと、と、どうしても聞き入れぬ気配を見せたので、
「橘の君のおそばの方が、安心なのです。姉も、巫女でしたから。」
そういうと、やっと納得して客間から退くことを許された。
客間が嫌というわけではない。
藤吾にしてみれば立場上、信乃が客間にいたほうが対面がよいのだろう。
しかし、信乃にはただ居づらいというだけではなく、目的があった。
橘に、この力をなんとかする法を、授けてもらわねばならない。
巫女姫一族としての力を、使うべきなのか、否なのか、操れるようになるべきなのか、否なのか、それは今の信乃には判別つきがたかった。しかし、いつ破られるかわからぬ封印への不安と、このまま封じられたままで許されるのかという思いがあったのも確かだ。
だからといって、巫女姫としての修行の法は、もうない。
前巫女姫からの直伝もかなわなければ、おそらくそれを書いた書物も既に処分されてしまっているだろう。
この、中途半端な力を身に秘めたまま――このまま生きてよいものか――この力を、せめて、玉がなくとも気をゆらがせないほどには、できないものか――。
巫女姫直伝の何かがなくとも、気を制す法ぐらいは、この橘も知っているかもしれない。
なんといっても巫女なのだ。
そして、信乃の力を封じた玉――それは、橘が持っていて、その封印をとけるのも、この巫女以外にいないのだ。
いうまでもなく、このうちに秘めた力のことを知っていて、万が一のとき、なんとかできるのも、この巫女以外にいない。
信乃にとって、本当の意味での「安心」とは、そういうことなのかもしれない。
しかし今このとき、大木村へ帰るのが目的ではないから力を制す方法を教えてくれ、と頼んだところで、とても信じてもらえそうになかった。だから、それはおいおい頼むことにして、信乃はまず、できることから、わかることから始めてみようと考えいたった。
それでその、大木村から帰り来たって数日の、橘の居室の隣の間へ移ったある朝、信乃は橘にあることをきりだした。
それをきいて、橘は驚いた様子で信乃を見上げた。
「剣を習いたい?」
「はい。」
「なぜに。」
「護身のためでございます。」
信乃は真剣な面持ちで、橘に答えた。
しかし橘はさほどそれに真面目にとりあおうともせず、
「そなたが誰に襲われて戦うのだ。」
そう問い返すので、信乃は決心が折れそうで、くじけそうになったが、
「誰にかはわかりませぬが、いずれ、村へ帰った時にでも――今でも――いつ、身を守る必要があるかもしれませぬ。」
橘は眼を閉じ、首を傾けて考えるふうであった。
「まあここにいても、退屈なのは退屈であろう。お勝手は皆持ち場が決まっておるし、そなたがやるといえば藤吾どのも許すまい。」
「いえ、そうではなく」
「しかしな、信乃。」
「はい。」
「なかなかあれは、重いものだぞよ。」
「は。」
「剣だ。女子が持つには重いというのだ。この国にもかつては、何人か女剣士が、いたにはいたが、それを見事に使いこなすとなると」
「しかし、姉は――」
そこで橘は信乃の顔をじっとみつめた。
言葉をつごうとした信乃が、その見透かされそうな澄んだ目に思わず息をのみこむと、二人はしばらく向いあったまま沈黙した。
「巫女姫どのは、修行のために剣を使われたのだな――それなりの腕がなければ、ああも思い通りに神殿まで、あの小坂靭実を招くことはできまい。」
橘は視線をそらすと、しばらく考える様子を見せたが、ふいに顔をあげると、祭壇の方に目をやり、
「祭壇の奥に、長細い木箱がある。持ってきてはくれぬか。」
というので、信乃はわけがわからず立ち上がり、橘が視線を投げた方へと歩いていって、祭壇の幕下をのぞいた。
四角くて長細い、桐の箱がある。
信乃はそれを引き出し、抱えあげた。
少し重い。
橘の前までそれを運ぶと、橘はその箱のふたをおもむろに開けた。
中に白い布に包まれたものが入っていて、その白い布の包みも開く。
見ていると、一本の刀剣が現れた。
「藤吾どのに、もしもの時は使われるがよいといただいたのだが、私にはとても使えぬ。六佐もおそらく使うことはあるまい。」
そう言いながら、橘は中からその刀を取り出した。そうして、その柄を信乃の方へ差し出すと、
「鞘をはらって構えてみよ。」
思わず信乃は、息をのんだ。
生まれて初めて向けられた、柄の厚みに瞬時尻ごみしたが、また気をとりなおしてその刀に向き直ると、差し出された柄を握り、立ち上がった。
鞘から刀を取り出して、鞘は床へと投げ出した。
両手で持って、構える。
重い。
「構えた格好のまま、しばらくじっとしていよ。動いてはならぬぞ。」
だんだん、腕が強張ってくる。
辛い――これは――動かすならまだしも、持ち続けるのは無理かと――思った矢先、橘の声が飛んできた。
「重いであろう? 剣とは、それほどに重い。しかも長い。その重くて長い思い通りにならぬものを、思い通りに動かそうとする。自分で使えるように、もしもの時も一寸たがえず、確実に、使えようとする――それには、相当の鍛練が必要となるのだ。」
信乃の腕に汗がにじんだ。橘は続ける。
「名刀も、使いこなすものの腕によって初めてその力を発揮する。たとえおぬしのような者が手にしたところで、ただのガラクタに相違ない。――刀をおろせ。」
はあっと息を吐いて、信乃は切っ先を下へと下ろした。
「どんな名刀を手にしたところで、それを使いこなすだけの力がなければ意味がない。それは、我ら巫祝にも言えること。どんなに優れた能力があっても、それを使いこなせす腕や力がなければ意味がない。だから、数々の修行を重ね、鍛えあげていくのだ。」
信乃は粗い息で、自分の強張った腕をもみ、橘の言葉を聞き続けた。その信乃に向かって、橘は「座れ」と命じ、信乃は刀をもったままそれに従った。
橘は続ける。
「わずかな気の流れがあって、それを正確に読み、使い、人々を導いていくのには、その精神力の精度を磨くという意味では、剣の道は巫女姫どのの修行にたいへん役に立ったのであろう。――そう、そうだな。私の、そなたの力を玉に封じたそれが、いつまでもつか、また、私がそなたと一体いつまで一緒におられるのかは、誰にもわからぬ。そなたの力がもし開け放たれてしまったならば、そのとき、せめて人々に害を及ぼさぬまでにはしておく――それが、再び力を封じた私の義務でもあるな。」
橘の言葉に、信乃は思わず目を見張った。
橘は、言わぬうちに察してしまった。
信乃は即座に刀を畳の上に置き、両手をついた。
「わたくしは――」
信乃が言葉をつづけようとして、橘は右手の平を信乃へと向け、それを制した。
「うん、ともかくも、何かをどうかしようと思ったことはよいことだ。その年から修行を始めるというのも苦しかろうが、己の興味の向かうところから入るというのも、手ではあるな。」
信乃は黙って橘をみつめた。
すべてを話さずとも、すべてが見抜かれてしまう。
信乃は静かに頭をさげた。
「しかし、私も剣のことはとんとわからぬでな。さて、誰に習うたがよいものか。」
「この村で一番お強いのは、どなたでございますか。」
信乃の顔だけあげた真剣なまなざしに、橘は困った顔をして、
「一番強い者がよいのか。」
橘の言葉に、それはそういえば、厚かましい願いだと思った。
「姉が、そうでした。一番強い、父に――でもここは、大木村ではありませぬので、どなたでも。」
「そうよなあ。とにかく今は、年の瀬で誰も忙しいゆえ、年が明けてから、藤吉郎にでもきいてみてはどうかの。」
「藤吉郎さまに。」
「あれも若いうちでは相当の使い手ではあるし、年も近い。指南かなわぬでも、何らかの案はさずけてくれよう。」
そう言われて、藤吉郎の姿を思い浮かべたものの、なんだか頼りないような気がした。
藤吉郎の腕を疑うわけではないが、彼にはどこか、父や姉や、そして小坂靭実も含めて、剣士のもつ凛とした冷たさがない。
しかし、すぐに信乃は思い直した。
まだここにきて日も浅く、顔を知るものといえば、由良の館の者ぐらいしかいない。こんなずぶの素人の相談にのってくれそうな相手は、どう考えても藤吉郎ぐらいしか思い当らないのだ。
年が明けたら――この言葉を胸に秘めて、信乃は年を越した。
それで初日の出の参拝が終わった後、館へ入ろうとする藤吉郎を急いで呼び止めた。
驚いて藤吉郎が振り返ると、信乃は「お話が…」と言って藤吉郎に話しかけた。
館へ入るものの邪魔にならぬよう、戸口からずいと離れ、信乃は真剣な面持ちで話しはじめた。
「わたくし、藤吉郎さまにご相談がございまして」
「は、私に、改まって、相談。」
「はい、それで、その藤吉郎さま」
「信乃どの。」
言葉を続けようとした信乃を、藤吉郎は制した。
「はい。」
「その、藤吉郎『さま』は、やめていただけませぬか。」
「はい。」
「『どの』、でも、『さん』、でも、何なら呼び捨てでもかまいませぬ。あまりに改まりすぎで、居心地が悪く」
藤吉郎が突然、何を言い出したのか信乃にはよくわからなかった。それで相手の言葉を飲み込もうとしばらく考えている様子であったが、
「藤吉郎さまでは、なりませぬか。」
「いや、なりませぬというわけではありませぬが」
「わたくしは、この方が慣れているのです。目上の方はみな、こう呼ぶものと」
「はあ。」
「それで、藤吉郎さま、お願いがございます。」
信乃は恐ろしく真剣だった。
「はい。」
それで、藤吉郎も改まってみせた。
「剣を、習いたいのです。」
「はい。――剣、ですか。」
「ええ。」
「どなたが。」
「わたくしが、です。」
「それは、真剣を習いたい、ということですか。」
「はい。」
「なぜに」
「このご時世、自分の身ぐらい、自分で守れねば」
藤吉郎はしばらく、考えるように信乃の顔をみつめ続けた。それから土の上に視線を下ろすと、また何か考えるように思いめぐらすと、
「信乃どの。」
「はい。」
「女子に真剣は必要ござりませぬ。」
信乃は思わず「は?」と思って藤吉郎の顔を見直した。
「女子が真剣を使うようになって戦うようでは、もうこの領国はおしまいです。」
「いえ、そういうわけではなく。」
「そういうわけも、どういうわけもなく、女子に真剣は要りませぬ。」
「しかし、私の姉は、父に習うておりましたゆえ」
「姉君が――?」
そこでまた、藤吉郎は考えるように信乃の顔をみつめた。
「信乃どの」
今度は藤吉郎の方が、やけに真剣な面持ちになった。あの旅の記憶がよぎったのか、少し悲しげな気配さえ浮かべた。
「もし、高階の軍が攻めてまいったときは、あるいは、その間者がやってきたときは、われわれが、命賭して、信乃どのをお守りいたします。何も、心配はいりませぬ。」
「いえ、ええ、それは、ありがたく、思いますが」
「いえ、我らには当然のこと。」
「そうではなく」
「とにかく、館に入りましょう。我が家は初日の出の参拝の後は、一家で雑煮を食うということに決まっているのです。なに、正月から敵も、攻めて来はいたしませぬ。」
それで、藤吉郎は館の入り口へと足を向けた。
そんな藤吉郎の姿を見送りながら、信乃は不満の色を顔に浮かべ、彼をみつめて心の中でつぶやいた。
――違うのに。
途端に藤吉郎が信乃にふりかえる。
驚いたその顔に、信乃は不満の色を浮かべた顔を、急いで元に戻した。
一家が集う広間に入ると、家長の藤吾を上座に、家の中の主だった者がそろって着席していた。橘や六佐、長男の丙吾、その嫁の佐保、そして娘のきよら、珍しく青い顔ながら藤吾の妻もいる。
お勝手の者二名と、あきが控えているが、一座の食事に加わるためにいる気配ではなかった。
藤吉郎と信乃が入っていくと、兄の丙吾が、
「藤吉郎、何をしておった、遅いではないか。」
と声をかけた。
二人頭を下げると、藤吉郎は兄の横に、信乃は橘のそばに着座した。
すぐにあきが雑煮を運んできてくれた。信乃が頭を下げてそれを受け取ると、信乃を見ていた藤吾が、
「さあ、我が家の雑煮を召し上がれ。大木村のものとは、また違いましょうがな。」
信乃は「ありがとうございます。」と言ってまた頭を下げた。
「信乃どのには、年始の挨拶の言葉をさしあげるのは、お控え申し上げるが――、それで、少しはこの家にも慣れましたかな。」
「はい、皆様にご親切にしていただいて、何不自由なくさせていただいております。」
藤吾は満足そうに笑顔になった。
そこで、橘が「藤吾どの」と、会話に割って入った。藤吾が橘の方に顔を向けると、
「信乃どのにも、新年より朝のお勤めをさせとうございまして。よろしゅうございますか。」
「朝のお勤め? 信乃どのが?」
「はい。」
藤吾は驚いた顔で、橘と信乃を交互に見た。
橘は続けた。
「信乃どのは、巫女どののお妹御だけあって、人とは違った力がございます。もちろん姉御が巫女であったゆえ、妹の信乃どのはただ人として暮らしておりましたようですが、人と異なる力があるのは間違いありませぬ。今までは姉御がそれを支えておったようで何ともなったようですが、今は一人の身。護身の技と力だけでも授けたいと思いまして。」
「ほう、信乃どのにも、そのような力が。」
「はい、よろしゅうございますか。」
「うん、それは、橘の君さえよろしければお頼みしたい。」そういって今度は信乃に向き直った。「信乃どの、この村にもそういう者が何人かおって、橘の君のてほどきを受けておる。安心しておすがりするがよい。」
信乃は床に雑煮の椀をおき、両手をついた。
「はい、ありがとうございます。お言葉に甘えまして、お仕え申し上げます。」
そういうとまた、藤吾は満足そうに笑った。
信乃は心の中で、その村人たちと自分のものは、少し違うだろうに、と思いながら、それでも黙ってその場にすわっていた。
何のこともないように床から椀を持ち上げて、箸を手に持つ。
すると、二つ視線がこちらに向かっているのに気がついてふと顔をあげた。
藤吉郎と目が合った。
みつめているのは、藤吉郎と藤吾だったが、藤吉郎は何か問いたげな顔をしてこちらを見ていた。
信乃と目があって、ふいと目をそらせた。
何を言いたいかと思ったが、信乃の心の中には、先ほど剣を習いたいと言い出した理由を、皆まで説明せずとも橘の言葉で了解したのかと、心の中で閃いて、少しだけ期待した。
「時に、信乃どの。」
藤吾がまた話しかけてきた。
「そなた、親族のものと離れて参ったようだが、誰ぞ、ここにいることを知らせねばならぬ、身よりのものはおらぬかの。まこと、その」そこで藤吾が口ごもらせた。「そなたも、それなりの家の娘で、それなりの年ごろゆえ」
その言葉に、信乃の心の中に真っ先にたきの顔が浮かんだ。しかし、ここに身を寄せると決めたとき、所在は知らせぬと橘から伝えてもらったはずだと信乃が思いめぐらせた矢先、橘が横から、
「言い交わした者はおらぬかということでございますか。」
と言葉を継いだ。
「橘の君、わしは、そんな、はっきりとは」と、藤吾が照れながら口ごもると、橘が、
「照れる必要はございませんでしょう。そうきけばよいだけのこと。どれ、私もごたごたで聞き損のうておったわ。」
そういって橘は信乃の顔を見た。
「はい」 と、信乃は答えたが、気のせいか一同が息をのんできいているような感じがして、どうも応えづらかった。
ああ、そうだ、藤吾のききたかったのはそういうことかと納得し、そのほとんど会話を交わしたこともない、いいなずけの顔を頭に浮かべた。
「一昨年の暮れ、父が亡くなりまして、去年婚儀を行うはずでございましたが、今年の年明けまでに延ばそうというお話になり、しかし、こたびのことでそれも」
「流れているというわけか。そのお相手はどこに?」
橘が言葉をとった。
「わかりませぬ。わたくしはあの時――姉と運命を共にするつもりでおりましたから、どうなるものとも。」
「いいなずけ殿と逃げようとか、いいなずけどのも残るとかいう話にはならなかったのか。せめて別れの挨拶なりと」
「ございませんでした。ひどく切羽詰まった中でございましたし、――年も少し離れて、ほとんど、言葉を交わしたことのない方でございました。あのさなかで、お互いに探しあてて、特に何かを約束するということも、できませんでした。」
ふむと、藤吾が息をついた。
そもそも、長老と、親や姉が決めた婚儀なのだ。信乃の親がいとこ同士だったから、なるべく血が濃くならぬようにと、選んだ相手だった。
信乃の相手はそういう意味では難しかった。村の中では、特に。
一同が納得したように黙って、信乃が雑煮に箸をつけようと思ったとたん、また視線を感じ、その箸をつけたまま目をあげた。
藤吉郎がじっとこちらを見ている。
なんだか目だけがいつもよりにぶく強く輝いているようで、いたたまれない視線だった。
しばらく信乃はその視線にとらわれたが、ふと我に返ると、そんな目で見ないでください、と心の中で叫んだ。
すると、
「すいません。」
と藤吉郎の言葉が、口をついて返ってきた。
橘が雑煮を吹き出した。
「これ、藤吉郎、何を謝っているのだ。」と、橘を見ながら藤吾は問うたが、藤吉郎は答えなかった。
むせかえる橘に、横にいた六佐が心配そうに近づいた。あきが慌てて、湯のみをもって橘に近づく。
驚いた信乃の顔、しょげかえった藤吉郎の姿を、むせかえりが収まる中で橘は見ながら、おぼろげに、これは何か「奇異なできごと」だと思った。
信乃が人と違うのは、わかる。
藤吉郎が明らかに、おかしい。
家の裏手から坂道をくだり、しばらくゆくと川へと至ることができるだろう。
しかし藤吉郎は途中で道をはずれ、脇にある森の中へと入って行った。
そのままゆるゆるとのぼって行くと、やがては絶壁へと至る。
今日も森の中は暗く、地面は湿っていて、そして、冷たかった。
足元が悪い中を、藤吉郎は踏みしめながら、例のあの場所へと向かった。
腰ほどまでの木と草ばかりになった、絶壁。
視界が開け、空が見える。
絶壁といっても、そんなに急ではない。
草につかまってゆっくりと下りれば、おそらく下の小川が見えてきて、ぴょんと飛べば着地できる。そう、大人二人か三人分の背丈分ぐらいだと思えばいいだろう。
藤吉郎はあの日、信乃が倒れていたあたりに目をやった。
確かに、こちら向きに頭が――そう思って、その先の空を見上げた。
やはり、そこには空以外の何もない。
では、どうやって、ここまで飛んできたのか。
こればかりは、本人に尋ねなければわかりそうになかった。
信乃には、人とは違った力があると、橘はいった。でもそれは、父が解釈したような力ではないだろう。橘ならわかるはずだ。
橘は知っている。そして、これは秘密のことなのだ。巫祝の間で守る守りごとなら、橘もそう簡単には口を割るまい。
ため息をひとつつき、藤吉郎は腰をおろした。
空を見上げる。
冬の、薄く青い空だ。
――一昨年の暮れ、父が亡くなりまして、婚儀を行うはずでございましたが、今年の年明けまでに延ばそうというお話になり――
その話がどうなろうと、決められた相手がいるのは間違いのないことなのだと、藤吉郎は思った。
時がくれば村へ帰り、婚儀をあげるのだろう――いや、村へ戻れなければ、頃合いを見計らい、相手の男は探しにやってくるかもしれない。あるいは、道理が通らぬと、父か橘が、その男を探し出し、元の鞘に納めるのかもしれない。
藤吉郎は足を投げ出し、両手を後ろにのばして、空を見上げた。
己の身の、なんと、一つことさえ思い通りにならず、卑小なことか。
ふと、中空に、何かが浮かんで見えた。
鳥――イヌワシか――と見る間に、それはこちらへと近づいてくる。ゆるやかに、周囲の木立が風でざわめき、そのイヌワシを招くかのごとく、風は強くざわざわと木々を揺らした。
藤吉郎のもとへ、速度を落とさず飛びこむかに見えたイヌワシは、ゆったりと大きく進路を変え、森に沿って飛びながら通り過ぎる。
おかしな飛び方だと思った。
普通なら、速度をゆるめて木にとまるだろうに。
藤吉郎は手枕を作って寝ころび、まぶたを閉じた。
先ほどの、信乃の姿が蘇る。
そんな目で見ないでください――。
あれは、信乃が口にしたのではなかった。空耳か、それとも、信乃の心の声が己の心に響いたのか。
どんな目をしていたのだろう。
藤吉郎は横向きに寝がえりをうって、地の表面をみつめた。
黒い土が目に入る。
その前も確か、家に入る前に、心に響いたような――
違うのに――。
何が違うのだろう、――空耳なら違うといったのも、ただの気のせいかもしれない。
そう、信乃は、剣を習いたいといった。女だてらに、剣を――。姉も、習っていたからといって。
藤吉郎はふと思いついた。
やはり、姉の仇をうちたいのだろうか。
姉をうった、小坂靭実を――と思ったとたん、鼻でふっと笑った。
無理だ。
今からはじめて、いつ、小坂に追い付くのだ。
それとも、それを補うだけの「力」があるというのか?
藤吉郎はむっくりと起き上がった。
右手に空で剣をにぎり、たちあがる。
戦が、近いのだ。
起こるだろうと言われた戦は、早められると予測された。
どこの村でも、年末、この正月準備の傍らで、戦の準備が進められていた。そして今も、兵は故郷へ帰らず、着々と戦のための訓練を積んでいた。それもこれも、あの、信乃の姉と、小坂の率いた軍によって早められた、戦の準備なのだ。
一人の、おそらく強大な力を持つ巫女と、それを斬った武将が――二十歳、いや、二十一の若さで、世に名を馳せる武将――剣の腕と、その才で、高階の近臣へとのぼりつめた男――その男とが招いた、戦の。
藤吉郎は両手で、あるはずのない剣を握りしめ、木立のなかで構えた。
「由良」の家の名がなければ、何もできない自分――。
心の中で剣に集中し、構える。
切り込む――はじかれ――受ける。
はじく。また受ける。
切り込む――。
心の中で歯がみを押し殺しながら、あるはずのない剣に力をこめる。
何もなかった。
人を導く力も、名をはせる腕も、人知を離れた能力も、思いの丈を語る言葉も、何も――。
それでも、と、藤吉郎は思った。
由良の家のものとして、剣豪の一党・義見の血をひくものとして、己の力を信じたい――己の可能性を、信じたかった。
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