第450話 刻の兎②
『いつもすまないな。月子』
父・
どれほど忙しくても、父が月子を邪険にしたことはない。
いつも笑顔を見せてくれた。
『月子は甘えん坊ね』
母・アメリアはよく月子を抱きかかえてくれた。
大きな胸で、ぎゅうっと抱きしめてくれる。
月子は母の匂いが大好きだった。
大切な思い出はいくつもある。
けれど、月子が両親を最も鮮明に思い出すのはあの日だった。
激流に呑み込まれていく船内。
遠くからは爆発音。
船体そのものが断末魔のような軋みを上げる。
響く絶叫。泣き声。怒声。
そして、
『――月子! 逃げろ!』
最後となった父の声。
事故だと思っていた。
だから、誰も恨まずにいようと考えていた。
自分の不幸を誰かのせいにしないようにしていた。
だというのに――。
『豪華客船・プリンセス=ルシール号。それを沈めたのはUだよ』
あの女の言葉が、脳裏に反芻される。
すべては仕組まれたことだった。
それも恨みや憎しみなどが動機ではない。
ただただ自分のため。
自分が『鑑賞』したいがため。
それこそ映画でも観るかのように。
そんなことのために両親は殺された。
多くの人が殺された。
あの女は、恍惚として両親の最期を語った。
父が自分の頭を撫でてくれることは二度とない。
母が自分を抱きしめてくれることは二度とない。
全部。
全部。
全部、あの女のせいだった。
自分が一人になったことも。
父と母が海に呑まれて死んでしまったことも。
全部、あの女が仕組んだことだった。
「…………」
海の底。
船の残骸が沈んだ場所。
深い海底にて、月子はうずくまっていた。
白いドレス姿の、九歳の頃の月子。
姿も衣服もあの日と同じだった。
幼い月子は何も喋る様子もない。
膝を抱えて、ただただ肩を震わせていた。
その時、海底でありながら声が聞こえてくる。
船の残骸から聞こえる怨嗟の声だった。
苦痛。悲鳴。憤怒。
あらゆる負の叫びが残骸から放たれている。
それは徐々に黒い影と成り、月子の周囲を漂い始めた。
黒い影たちは怨嗟を上げ続けているが、それは月子に対してではなかった。
自分たちを殺した者に対してだった。
そんな中、足音がする。
海底では不思議なことだが、その足音は怨嗟の声同様にはっきりと聞こえる。
「…………」
幼い月子がゆっくりと顔を上げた。
その足音の主は月子だった。
同じドレスを着た十二歳の月子だった。
しかし、近づくにつれてその姿は変わっていく。
一歩ごとに成長をしているのだ。
膝を抱える月子の前で止まった時、彼女は二十歳ほどの女性に変わっていた。
母であるアメリアによく似た女性。
成長した月子の姿だった。
彼女は、無言でうずくまる幼い月子に手を差し伸べた。
幼い月子は、静かに成長した自分を見つめていた。
「……行きましょう」
成長した自分が告げる。
幼い月子は頷いた。
自分自身の手を取った。
そうして――……。
「……………」
目が覚める。
天井が見えた。
まだ慣れていないが、天雅楼本殿の自分の部屋の天井だった。
月子が、むくりと上半身を起こす。
普段以上の重さに、視線を下す。誰かが着替えさせてくれたのか白装束の和装だった。いつもよりも視界を大きく遮る胸元が目に入る。
他にも腕や足に違和感を覚える。
すぐに気付いた。
再び自身が二十歳ほどまでに成長していることに。
まさに夢の中の姿だった。
そしてもう一つ。自分の手が誰かに握られてることにも気付いた。
横を見やると、そこには燦がいた。
親友は見たこともない無表情で、ずっと月子の手を握っていた。
「……燦ちゃん」
月子は悲しげに微笑んだ。
他にも茜と葵、義父である山岡の姿もある。
ただ、誰も動く気配がない。
姿の変わった月子に気付くこともなく、完全に停止していた。
(……時間停止)
すぐにそれが異能のせいだと気付いた。
恐らくは自分の異能である。
すると、
『――月子さま』
不意に喉元から声を掛けられる。
狼覇の声だった。
『……その御姿。この状況はやはり……』
専属従霊として月子のチョーカーにずっと憑依していた狼覇は、月子の異能の覚醒に巻き込まれたようだった。
「狼覇さん……」
月子は燦の手を優しく離して、ベッドから立ち上がった。
「私の
『それは喜ばしきことです。ですが』
狼覇は言う。
『どうか今はお休みくだされ。今の月子さまの心労は計り知れませぬ』
「ありがとう。けど、今は少し考え事をしたいの」
月子はそう告げて、部屋の襖を開けた。
縁側の廊下には、月明かりが差し込んでいた。
そして、
「ごめんなさい」
一拍おいて、
「けれど、今は少しだけ散策に付き合って」
月子はそう告げるのであった。
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