第八章 刻の兎
第449話 刻の兎①
その時。
杜ノ宮かなたは、一人、縁側の廊下を歩いていた。
その身には正妃の正装を纏い、右手にはペットボトルとコップを持っている。
ペットボトルの中には水が入っていた。
月子が目覚めた時、喉が渇いているだろうと考えて、食堂から取って来たのだ。
先程、山岡が月子の部屋にやって来た。
山岡が取って来ると申し出てくれたが、かなたは自分で取りに行くことを望んだ。
「…………」
かなたは無言で歩き続ける。
その顔はずっと無表情だった。
それは、かなたにとって珍しくもない。
だが、今日のかなたは、いつもにはない凍り付くような気配を放っていた。
理由は明白だった。
(……月子さん)
かなたの妹分のことだった。
妃たちの中で、かなたが親しいのは同世代で同学年のエルナと刀歌だ。
けれど、最も仲が良いのは月子だと言える。
月子とは性格は違うが、相性が良かった。
好みが一致しているとも言えた。
二人でショッピングに行ったことも、何度もある。
大体は月子が誘ってくれた。それにかなたが付き合っていた。
昔のかなたでは考えられないことである。
月子とは本当に姉妹のようだった。
「…………」
……ググッと。
かなたは左手の拳を固めた。
そんな月子が、今はショックで眠り続けている。
精神の危機を察した自己防衛本能なのも知れない。
それほどまでにあの子は傷ついたということだ。
その深刻さは、今も傍にいる燦の様子を見れば一目瞭然だ。
あの騒がしい燦が、無表情になって、ずっと月子を見守り続けている。
月子が目覚めた時は、きっと笑って迎えるのだろう。
だが、今のその姿は痛々しいほどだ。
(なんてこと……)
月子が火緋神家に引き取られた経緯は、妃たちは全員知っている。
しかし、まさかその裏で千年我霊が暗躍していたとは思いもよらなかった。
恐らく、そこまで知っていたのは杠葉だけだろう。
その理由は説明されずとも分かる。
月子はまだ十二歳だ。
両親の死の真相を知るには幼すぎる年齢だった。
杠葉と、火緋神家がそれを配慮するのは当然の判断だった。
だからこそ責める気はないが、それが最悪の事態を招いてしまったことは否めない。
(八つ当たりですね……)
かなたは小さく吐息を零した。
ここまで苛立った経験はほとんどない。
どうしても感情が負の方に傾いてしまっていると自覚する。
かなたもまた両親を早くに失っていた。
母は交通事故だが、父は殺されてしまっている。
殺した相手はゴーシュ=フォスター。エルナの異母兄である。
だが、そこまでゴーシュに憎しみはない。
エルナの異母兄に《
当時のかなたは幼く、その戦いを見た訳ではない。
後にフォスター家に仕える同僚から話を聞いただけだ。
術式の相性の良さでは明らかに父に分があったそうだ。
しかし、ゴーシュは、父に対して卑劣な手は一切使わなかったらしい。
互いの立場的にはいくらでも小細工は出来たのにだ。
その戦いは、フォスター家で語り草になるほどに正々堂々としたモノだった。
互いに死力を尽くしたからこそ、父は死ぬことになったのである。
そこに敬意はあっても悪意や殺意はなかった。
父の最期を教えてくれた同僚はそう語っていた。
幼いながらも、かなたはそれが事実だと感じ取ることが出来た。
父の亡骸も、ゴーシュの手によって丁重に埋葬されたからだ。
きっと、その戦いにおいて、父はゴーシュに恨みも憎しみもないだろう。
むしろ、凋落した
まあ、その後のかなたの母――妻の扱いを知れば流石に思うところがあるかもしれないが。
ともあれ、父の死は全力の仕合ゆえの事故に近いモノだった。
挑んだのは父の方からという理由もある。
だからこそか、かなたはそこまでゴーシュを憎んではいなかった。
無論、全く憎しみがなかった訳ではない。フォスター家から自由になりたいとも思っていたことはあるが、命を懸けてまでゴーシュを殺したいと考えたことはなかった。
そもそも何もかも諦めていたため、それだけの感情がなかったこともあるが。
だがしかし。
月子は違うのだ。
(……月子さん)
かなたは強く唇を噛んだ。
月子の両親も殺された。
しかも、かなたの父とは違う。あまりに身勝手な理由でだ。
人の魂の輝きが観てみたい。
月子の仇は、そんな理由で月子の両親を含めて何百人も殺したのである。
到底許せることではなかった。
(叶うのならば……)
この手で報いを受けさせたい。
そんなことを願ってしまう。
と、その時だった。
『……お嬢』
かなたの首元のチョーカーから声を掛けられる。
専属従霊の赤蛇だった。
『少し落ち着け』
赤蛇は言う。
『ブチぎれる気持ちはよく分かるよ。だが、冷静になれ。ブチぎれた状態でどうにかなるような相手じゃねえだろ』
「…………」
『特に燦嬢ちゃんはマジでヤべえ精神状態だ。月子嬢ちゃんの仇を求めていつ駆け出してもおかしくねえ。だからこそお嬢が冷静になる必要があるんだろ』
「……分かっている。だけど」
かなたは足を止めて大きく息を吐きだした。
「今回ばかりは自信がない。燦さんを止めるどころか、私も……」
『……まあ、そうだよな』
独白するように赤蛇が呟く。
『お嬢にとって月子嬢ちゃんは妹同然だしな。こんなことじゃなければ、お嬢がそこまで感情を剥き出しにするのは喜ばしいことなんだが……』
「…………」
かなたは返答しない。
『何にせよ、相手は伝承級のとんでもねえ強敵だ。出来るだけ――』
と、赤蛇が進言しようとした時だった。
「――かなたさん!」
廊下の奥から声を掛けられた。
近衛隊の隊服を着た葵である。
その顔は青ざめていた。
それだけでかなたは異常を察した。
「月子さんに何かあったのですか!」
そう叫ぶと、ペットボトルもコップも捨てて、葵の元に駆け寄った。
葵は青ざめた顔のまま頷いた。
「月子ちゃんが! 月子ちゃんが!」
葵は叫ぶ。
「いきなりいなくなったの!」
「―――え?」
かなたは目を見開いた。
『は? そいつはどういう意味だ?』
赤蛇が怪訝そうに問う。
『月子嬢ちゃんの傍にはずっと燦嬢ちゃんがいたはずだろ。山岡の爺さんや、茜嬢ちゃんや葵嬢ちゃんだって――』
「分からないの!」
葵は目尻に涙を溜めて叫ぶ。
「ずっと傍にいたはずなのに! 誰かは必ず部屋の中にいたのに! 気付いたらベッドの上から月子ちゃんがいなくなってたの!」
「―――な」
かなたは唖然とした。
『狼覇の兄者はどうしたんだ! 兄者も傍にいたはずだろ!』
赤蛇はそう叫びつつ、従霊同士の共有感覚に触れる。
従霊同士は互いに承諾さえすれば知識の共有や、精神感応に似た
しかし、その
『――くそッ!』
赤蛇が舌打ちする。
「みんな探しているの! だから!」
すでに涙も零して葵は叫んでいた。
「分かりました」
かなたが即答する。
「私も探します。葵さんも心当たりを当たってください」
「は、はい!」
葵は頷いて走り出した。
かなたはそれを見届けてから、
『……お嬢』
「分かってる」
小さく頷いた。
そして、
(――月子さん!)
表情を険しくして、かなたも走り出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます