第七章 緊迫の夜
第445話 緊迫の夜①
その日の夜。
火緋神耀は天雅楼本殿に招かれていた。
客室であるという和室。
その縁側に立って庭園を眺めていた。
あの怪物に負わされた傷は、すでに治癒している。
この天雅楼にいた治癒系の引導師に直してもらった。
「…………」
庭園に夜風が吹く。
耀は、ずっと無言だった。
静かに状況を振り返っていた。
(本来ならば、すぐに本家に戻って報告するべきなのですが……)
考えを整理するために、耀は眼鏡の縁を少し上げた。
やはり情報が足りていない。
燦の様子では、あの怪物がこの地にいるのには何か理由があるようだ。
それも直感では、相当に深刻な理由のはずだ。
それが分からなければ、父たちも本家もただ混乱するだけだろう。
まずはそれを問い正さなければならない。
そして、それ以上に心配なのが月子のことだった。
(……月子。くそ。なんて不覚だ……)
耀は唇を噛み、拳を強く握った。
気を失った月子は、燦と共に久遠真刃に連れていかれた。
耀がここに居るのは、それに同行した形だった。
久遠真刃が、月子を大切に想っていることはその態度から分かった。
月子にも異母妹にも、久遠真刃が危害を加えるようなことはないだろう。
だがしかし、あんな状態の月子を目の当たりにして、おめおめと一人で本家に帰ることなど出来るはずもなかった。
とは言え、一応は天雅楼に招かれた耀ではあるが、彼はすぐにこの客室に通されて治癒術を施されると、そのまま放置の状況になった。
恐らく、久遠真刃の一派もこの事態に混乱しているのだ。
この広大な屋敷であっても、時折、喧騒の声が走る音が聞こえてくる。
大人しく待っていた耀だったが、流石にそろそろ限界だと感じていた。
どうしても、月子と燦のことが気になって仕方がない。
あの騒動のせいで、スマホを店内に置きっぱなしにしてしまったのが痛恨だった。
これでは情報が全く得られない。
(……仕方がありませんね)
小さく嘆息しつつ、決意する。
久遠一派の本拠地らしき屋敷で反感を買うような行動は避けるべきところではあるが、このまま放置が続くのは堪ったものではない。そもそも監視もついていない状況なのだ。破壊活動をするつもりでもない。少しぐらい独断で行動しても言い訳はつくだろう。
(……動きますか)
燦と月子を探すために、耀が縁側沿いの廊下を進もうと踵を返した時だった。
「……若さま」
不意に背後から声を掛けられた。
耀が振り返ると、そこには老紳士がいた。
子供の頃から知る人物だった。
「……山岡さん」
耀は彼の名前を呼んだ。
火緋神家の執事。山岡辰彦である。
さらに、もう一人、山岡の隣に青年がいる。
灰色の隊服を着た蒼い髪の二十代の青年である。
彼にも見覚えがあった。
確か火緋神家の分家の一つ。扇家の跡取りだ。
現在は出奔しているという噂を聞いていた。
大学も辞めて行方知らずとの話だった。
耀は眉をひそめて、
「君は……確か扇家の蒼火君でしたか」
そう尋ねると、
「はい。耀さま」
青年――蒼火は頭を垂れて答えた。
「お身体は大丈夫でしょうか」
「ええ。もう大丈夫です」
手首を、コキンと鳴らして耀は答える。
「それより山岡さんはともかく、どうして君がここに?」
続けて、蒼火にそう尋ねると、
「それについては、私からお話しましょう」
山岡が代わりに答えた。
「扇君の話もですが、何よりも現状について」
神妙な声でそう告げる。
耀は再び眉根を寄せた。
山岡辰彦の思慮深さは、耀もよく知っている。
彼は父の友人であり、父が最も信頼する腹心の人物でもある。
そんな彼が、こうした声で語る時は、間違いなく悪いニュースだった。
「……月子に何かあったのですか?」
最も懸念することを問う。
対し、山岡は、
「いえ。ご安心を」
かぶりを振った。
「月子君は無事です。今は自室にて眠って休んでいます。ですが、その心は平穏とはとても言い難いでしょうが……」
そう語る山岡は、強く拳を固めていた。
山岡にとって、月子は愛弟子であり、孫のようなものだ。
実質的に養女でもある。
彼の怒りや憤りは恐らく耀以上だろう。
「……申し訳ない」
耀は山岡に頭を下げた。
相手が使用人の立場であっても関係ない。
月子の義父に、謝罪せずにはいられなかった。
「私の失態です。私が傍についていながら、みすみすと……」
「いえ。これは耀さまの責任ではございませぬ」
山岡は、再びかぶりを振った。
「よもや、月子君と因縁深い第漆番までがこの地にいようとは。これは誰にも予想だに出来なかったことですから」
「……山岡さん」
耀は山岡を真っ直ぐ見据えた。
数瞬の沈黙が降りる。と、
「……そもそも、それは俺たちの失態でもあります」
蒼火が、ポツリと呟いた。
「霊具の奪取失敗も。今回、月子さまがあそこまで深く傷つけられたことも……本当に失態続きだ。何が近衛隊だ。やはり無理にでも護衛につくべきだった」
ギリ、と歯を軋ませた。
心から己を恥じている表情だった。
「……いえ。扇君。それに関しては私も久遠さまに事前にお伝えすべきでした」
山岡が、そんな蒼火に視線を向けて言う。
「今さらながらに思います。餓者髑髏が動いている以上、月子君と千年我霊の因縁は考慮すべき事柄でした」
「……山岡さん」
耀は、山岡に声を掛ける。
「私が聞きたいのはそれです。一体どういうことなのです? 餓者髑髏? 燦もその名前を出していました。それは何の話なのですか?」
「……耀さま」
山岡は耀に視線を戻した。蒼火も同じく耀に視線を向ける。
「私もそれをお伝えに来ました。これは、私から御前さまのみにお伝えしていた事実です。そのすべてを耀さまにもお伝えいたしましょう。久遠さまが何者であるのか。そして、今この地で何が蠢いているのかを」
その上で、と言葉を続ける。
「耀さまには、火緋神家の本家の者として、久遠さまとお会いしていただきたいと考えております。そうして、もうお一方――」
一拍おいて、山岡は告げる。
「巌さま。耀さまたちにとっても大切な御方。百年の苦難の果てに、久遠さまのお妃さまと成られた火緋神――いえ、『久遠杠葉』さまと、お会いしていただきたいのです」
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