第443話 その者の名は—―。④

 月子は聡明な少女だ。


 ――名付き我霊ネームドエゴスの在り様。

 ――自分のことを知る千年我霊エゴスミレニア

 ――必死になって会話を止めようとした耀。

 ――そして豪華客船・プリンセス=ルシール号。


 それだけの情報を知れば、想像することは簡単だった。


「まさか……」


 月子の蒼い瞳が見開かれた。

 対し、怨羅は「ふふ」と笑みを深める。


「その通りだよ」


 怨羅は言う。


「豪華客船・プリンセス=ルシール号。それを沈めたのはUだよ」


「………え」


 それに唖然とした声を零したのは燦だった。

 負傷しつつも意識のある耀は、ギリと歯を軋ませた。

 赫獅子と狼覇も顔色を変えた。


「率直に言えば、Uは愛娘ちゃんの両親の仇ってこと。そして、Uはその時から愛娘ちゃんのことを知っていたんだ」


 怨羅は楽しげに笑う。


「だって、君のパパとママの最期を見届けたのはUなんだから」


 言って、月子を指差した。


「二人の最期を知りたい?」


 続けてそう尋ねる怨羅に、月子は何も答えられない。

 ただただ蒼白になるだけだった。

 怨羅は「ふふ」と笑い、仮面の下で双眸を細めた。


「君の目の前で激流に呑み込まれた二人だけど、実はあの時点ではまだ生きていたんだ」


 怨羅は語る。

 これは止めるべきことかもしれない。

 だが、それは怨羅のみが知る月子の両親の最期だった。

 それを娘である月子が知るのを止めることは誰もが躊躇した。


 ――そう。思わず躊躇してしまったのである。


「彼らはね」


 そして、怨羅は話し続ける。


「海水に閉ざされた船室に流れ着いたんだ。脱出はもう不可能だった。船室はみるみる海水に満たされていく。彼らの死は確定していた」


 月子の体が徐々に震え始めていた。


「残された時間はわずか。そこで彼らがしたことは、死の運命を恨んで嘆くようなことじゃなかった。互いに共に生きたことに感謝を。心からの愛を告げることだった」


 そうして、祈るように。

 怨羅はゆっくりと両手を重ね合わせた。


「素晴らしかったよ。Uが見た中でも屈指の魂の輝きだった。Uたちが心から恐れる『死』を以てしても二人を引き離すことは出来なかった。そして――」


 一拍おいて、怨羅は月子を見据える。


「父としても、母としても、彼らはとても素晴らしかった。二人の最期の言葉は『誰か、月子を守ってください』だったよ」


 その言葉を前にして。

 月子は何も答えれなかった。

 目を見開いたまま、大粒の涙を零している。


 その時、


『――いかん! 狼覇!』


 赫獅子が声を上げた。狼覇は『分かっておる!』と叫び、


『お許しを! 月子さまッ!』


 蒼い尾がしゅるりと伸びて月子を拘束するように絡みついた。

 同時に月子の瞳孔が開き、声を張り上げた。



「うわああァああああああああああァああああァあああああああああァああああァああああァああああァああああァああああああああああああああああああああああああああああああああァあああああああああああァあああああああ――ッ!」



 少女の声が偽りの世界に響く。

 それは、まさに魂の絶叫だった。


お父さんパーパを! お母さんマーマをッ! ああああァあああッ!」


 絶叫はなお続く。

 全身でもがいて、月子は必死に腕を怨羅へと伸ばしている。

 狼覇の拘束がなければ飛び出していたことだろう。

 誰よりも温和な彼女の瞳が、狂気と憎悪に染まっている。

 そんな月子を、怨羅は、悪戯っぽい笑みを浮かべて見つめていた。


「……くそッ!」


 赫獅子に肩を支えられて、どうにか立つ耀が険しい表情で舌打ちする。

 これだけは避けたかったというのに。

 自分の不甲斐なさ。

 そして思わず躊躇してしまった自分に苛立ち、唇を噛む。

 一方、燦は――。


「……赫獅子」


 深く俯いたまま、赫獅子に告げた。


「……あたしを降ろして」


『……燦姫』


 赫獅子は肩に担いだ燦に目をやった。

 普段はまず見せない勝気な姫君の感情なき横顔に、息を呑む。

 そして、その瞳から零れ落ちる涙に、赫獅子はギリと牙を鳴らした。

 無表情になった燦は、月子同様に怨羅だけを見据えて、


「あいつを殺す。あたしを今すぐ降ろして」


『……燦姫』


 再度命じられても赫獅子は動かない。


「止めなさい。燦」


 代わりに耀が告げる。

 赫獅子の肩に座る異母妹を見上げて、


「奴は怪物です。あなたでは勝てません」


「関係ない」


 異母兄に視線を向けることなく、燦は淡々と返す。


「あいつは殺すの。あたしの象徴シンボルで」


「……シンボル? 何を言っているんです? 燦?」


 象徴シンボルの情報を持たない耀が怪訝な顔をする。

 だが、今は説明している状況ではない。


『それはなりませぬ』


 赫獅子が答える。


『燦姫の象徴シンボルは未完成でござる。今の段階では恐らく奴には通じませぬ』


 とは言え、未完成でも象徴シンボルが強力な力であることには変わりない。

 もし、ここで象徴シンボルを発現すれば、燦が狙われてしまう。

 専属従霊としては受け入れられなかった。


 だが、このままでは燦は無理やりにでも発現してしまいそうだった。

 と、その時だった。


「あ~、待って待って」


 怨羅が右手を突き出してきた。


「Uに戦う気はないよ。今日のところはね」


 言って、背中に大蛇の群れのような白雷の翼を広げた。

 ゆっくりと怨羅の体が浮上する。


「今回のイベントの主催は髑髏さんだしね。今日、Uが来たのはUの我儘だったの」


 完全に宙に浮いて、怨羅は告げる。


「イベントにはまだ間があるしね。せっかく愛娘ちゃん――月子ちゃんが参加するのなら、Uの参加も知っていた方が、モチベーション的にまるで違うでしょう?」


 月子に向かって、チュっと投げキッスの仕草を見せる。

 怒りで呼吸不全となっても、月子は怨羅だけを凝視していた。


「……ふふ」


 怨羅は双眸を細めた。


「頑張って強くなってね。月子ちゃん。次に会う日を楽しみにしてるよ」


 一方的にそう告げて。

 怨羅は空高く舞い上がっていった。

 あっという間にその姿が見えなくなる。

 ややあって、結界領域が解かれた。

 落雷による損傷も、爆破された店の損害も元に戻る。

 現実世界に戻ったのだ。赫獅子と狼覇はすぐさま霊体化して姿を隠した。

 燦と月子が地面に降り立つ。


「――月子!」


 燦が月子の傍に駆け寄った。

 耀も足を引きずりながらも月子の元に向かう。

 赫獅子も狼覇も、鬼火状態となって月子の傍にて浮遊し、『月子姫!』『月子さま!』と声を掛け続けている。

 それに対し、月子は喉元を両手で抑えて口を開けていた。


 ――かひゅ、かひゅ、かひゅッ!

 そんな音が聞こえてくる。

 未だ呼吸が出来ていないようだった。


「月子!」


 燦は青ざめた顔で、月子の両肩を掴んだ。


「落ち着いて! ゆっくり呼吸をするの!」


「――くッ! 過呼吸か!」


 ようやく辿り着いた耀が唇を噛む。


「落ち着くんです。月子。奴はもういない。ゆっくりと呼吸をするんです」


 燦と同様にそう告げるが、月子には聞こえていないようだった。

 強く喉元を抑えて、ますます呼吸不全に陥っている。


「月子ッ!」


 燦はますます青ざめる。


(これはまずい……)


 その傍らで耀も危機感を覚える。

 月子はとても落ち着けるような精神状態ではない。

 ここは無理やりにでも気絶させるべきなのか。

 耀がそう考えた時。


 ――ドンッ!

 唐突に、背後から重い落下音が聞こえた。

 耀と燦がハッとして振り返ると、そこには灰色の胴衣ベストを着た紳士服スーツ姿の青年が、片膝を曲げて立っていた。


 燦が瞳を輝かせた。


「――おじさん!」


 そこにいたのは真刃だった。

 遥か頭上には、旋回する九龍の姿もある。

 降下する間も惜しんで、あのとんでもない高さから跳び下りたのだ。

 真刃はすぐさま周辺を確認する。

 すでに結界領域ではないようだ。損害がないのはいい。


 重要なのは燦と月子である。

 燦はかつてないほどに青ざめた顔をしているが、怪我はなさそうだ。

 隣にいるのは異母兄の耀だろう。彼は怪我をしているようだが重傷ではない。


 しかし、問題なのは月子の方だった。

 彼女の異変は一目瞭然だった。

 それも危機的な状態だ。


「月子!」


 真刃は、即座に月子の元に駆け寄った。

 金羊も『月子ちゃん!』と鬼火姿で現れる。

 真刃に声を掛けられて、初めて月子は反応を見せた。

 荒い呼吸のまま顔を上げる。

 そして、


「う、あ……」


 ポロポロと大粒の涙を零した。

 そうして、震える両腕を前に伸ばした。

 真刃は何も聞かずに、彼女をかかえて強く抱きしめた。

 金羊が二人の周囲を慌ただしく周回する。


「……大丈夫だ。月子。オレが傍にいる」


 真刃は、月子に優しく声を掛ける。

 それから彼女の頭に手を添えて、より強く抱き寄せた。


「うあああァ……」


 月子は言葉も発せない。

 しかし、呼吸だけは徐々に落ち着いていた。

 そうして、かくんっと。

 全身から力が抜けた。

 どうやら意識を手離したようだ。

 燦や耀は青ざめるが、微かながらも呼吸音は聞こえるのでホッとする。

 一方、真刃は、


「……狼覇。赫獅子よ」


 専属従霊たちに問う。


「……月子に何があった? ここで何があったのだ。答えよ」


 その声はあまりにも静かであり、淡々としていた。

 普段の真刃は思慮深い。

 だが、今は明らかに怒りを覚えていた。

 従霊たちは霊体のままではあるが、本来の姿へと変わる。

 赫獅子と狼覇はゆっくりと頭を垂れて、


『申し訳ありませぬ』


『すべてはそれがしの失態ゆえに』


「……失態は咎めぬ」


 真刃は従霊たちを一瞥する。

 ただ、気を失った月子を強く抱きしめながら、


「月子に何があったのか。今はそれだけを答えよ」


 そう告げた。



 こうして。

 運命が一つ交差したのであった。

 ――決戦の時は近い。





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