第382話 壱妃/始まりの夜の物語④
結論から言うと、あの洋館の事前情報は完全に間違いだった。
あの洋館は、ただの野良屍鬼どもの巣ではない。
あの後にはD級我霊も姿を現した。
それどころか、C級我霊まで潜む魔窟だったのである。
異様な屍鬼の多さは、C級によって集められていたようだ。
エルナとしては相当に憤慨するところだった。
管理サイトにも厳重に抗議した。
まあ、その洋館も今は丸ごとあの青年に吹き飛ばされてしまったのだが。
(と、ともかくよ)
場所は戻ってフォスター邸。
ようやく浴場から出て、エルナはのぼせた頭を冷やしていた。
(い、一度、冷静にならないと)
あの後、館内ではずっと彼には『お姫さま抱っこ』をされていた。
エルナの負傷した足を気遣ってくれて、だ。
ただ、初めての異性の抱っこやら、貞操の危機からの救出。吊り橋効果などのテンコ盛りで自分でも完全にテンパっている自覚があった。
冷静にならないといけないと思うほどに心拍数が上がっていた。
(お、落ち着け! 私!)
シャワーから上がっても、目をグルグルと回しているエルナだった。
一方、その頃。
フォスター邸のリビングにて。
真刃はとても険しい顔をしていた。
服は、実質上の一張羅だった黒い軍服ではない。
エルナが術でこさえてくれた、白いカッターシャツと黒のズボンである。
真刃は、驚くほどに柔らかい椅子――ソファーに腰を掛けて額に手を当てていた。
その姿のまま、すでに十分近く経つ。
『……主よ』
そんな彼を心配して、骨翼を持つ霊体の猿――猿忌が声を掛ける。
『流石にまだ状況に馴染めぬか?』
「……当然だ」
真刃は嘆息して返した。
「猿忌よ。ここは本当に百年後の世界なのか? 数百年後か、それとも全く違う異界にでも迷い込んだのではないのか?」
そう言って、ローテーブルに置かれていた黒い道具を手に取った。ボタンが幾つも付いた硬い札のような道具だ。よく分からないが、一際目立つ赤いボタンを押してみた。
すると、目の前にあった四角い窓のようなモノに人の姿が映る。
一瞬、真刃も猿忌も険しい表情を見せるが、それが言葉を話して動く写真であるとすぐに気付いた。似たような術式を使う我霊と出会ったことがある。どうやら、今代ではそれを技術だけで再現したようだ。
液晶TVとそのリモコンである。
どちらも現代では珍しいモノではないが、真刃にとっては完全に初見だった。
思わず裏に人がいないか確認してしまうのも仕方がないことである。
これらだけではない。
――ここまで来る道中に目撃した所せましと乱立する高すぎる建造物。
中には天に届きそうなモノまであった。
――帝都よりも整地された道。
むしろ整地されていない場所の方が見当たらなかった。
――夜とは思えない輝きを放つ街。
星でも落ちたのかと錯覚するぐらいだ。
そもそもここまで乗ってきた『たくしー』と呼ばれる自動車もだ。
自動車は見たことはあったが、あのような速度、あのような快適さは知らない。
とても同じ道具とは思えなかった。
「……あまりにも面影がないぞ」
真刃は率直に言う。
「
『………ぬゥ』
猿忌も腕を組んで呻く。
『確かに主の困惑も分かる。我とてここまで変容するとは思いもよらなかった』
困惑しているのは真刃だけではない。猿忌もだった。
「……人の進化とは本当に恐ろしいな」
コツコツとリモコンで額を突いて真刃は呻く。
「恐らくこれらさえも進化の一端でしかないのだろうな。まさしくここは異なる世界だ。全く馴染める気がせんのだが……」
これは早々に対策を考えなければならない。
真刃は、かなりの危機感を抱いてそう思った。
こうして一晩だけでも宿を借りられたのは本当に僥倖だった。
今の心情においてもだ。
真刃にとって今日は大切な者を根こそぎ失った日だった。
とても平静ではいられない夜だ。
(この次々と新しい情報が現れることは却って良かったかもな)
圧倒的な情報量のおかげで、今だけは後悔にとらわれないですんでいた。
と、その時。
『愛してるわ』
『ああ。俺もだ』
TVからそんな声が聞こえてきた。
映していたチャンネルはドラマだったようだ。
もちろん、真刃はそんなことは知らないのだが、恐らく演劇なのだろうと察した。
「そういった文化はまだ残っておるのか。少し安堵するな」
言って、苦笑を浮かべる。
ドラマのシーンはいわゆる濡れ場だった。
若い男女が抱き合って接吻している。
こういう愛の営みも変わっていないようで何となく安心する。
ただ、自分の愛した女性たちはもうどこにもいないが。
「……さて。どうしたものか」
真刃がそう呟くと、リビングに誰かが入って来た。
エルナである。
「あ、あの、久遠さん。お風呂空きました。その、久遠さんも……」
どこか緊張した声でエルナは真刃にそう話しかけるが、
「……あ」
TVの画面に気付く。
それは今まさに、若い男が女を押し倒そうとするところだった。
『お前が欲しい』と言って激しく相手を求めている。
風呂上がりのエルナは、そのシーンを前にして硬直して、
「――ふ、ふひゃあ!?」
思わず変な声を出すのだった。
エルナにとって、真刃はまさしく命の恩人だった。
一方で真刃にとってエルナは救いでもあった。この情報が多すぎる時代に加えて、エルナが傍にいたからこそ自暴自棄になることもなかったのだ。
そのことは今でもエルナのおかげだと真刃は確信している。
出会った時から、エルナは間違いなく大切な少女なのである。
仮に猿忌が動かずとも、エルナが壱妃になるのは当然の帰結だったのかもしれない。
まあ、とは言え、この夜にはまだ『昨夜はお疲れ様でしたね』といったノクターンイベントが起こることはなかったのだが。
ともあれ。
これが壱妃・エルナ=フォスターの始まりの夜の物語である。
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