第381話 壱妃/始まりの夜の物語③
コツコツコツ。
足音が廊下に響く。
黒い軍服を纏う彼は一人、古びた洋館の廊下を歩いていた。
――いや、厳密には一人ではない。
彼の隣には、霊体の骨翼を持つ猿が浮いている。
そして周囲には……。
ぞろぞろと。
腐り果てた死体が群がっていた。
「騒がしくなってきたな」
彼は足を止めずに語る。
『ふむ。そうだな』
宙に浮く猿も答える。
『
「ああ」彼は頷く。
「いささか気になるな。行ってみるか」
立ち塞がる屍鬼どもの姿など歯牙にもかけず、そう告げた。
(な、何よこれ!)
その時、エルナは必死に走っていた。
狭い廊下を跳ねるように移動する。
時折、壁も蹴りつけて地面代わりにする。
そうしなければ回避できないほどに屍鬼どもが群がってきているからだ。
各部屋から溢れ出る屍鬼ども。数秒も放置すれば廊下を埋め尽くしかねない。
「――はあっ!」
エルナは羽衣を振るった。
大きく広がって部屋の入口にいる屍鬼を数体捕えた。
それを強化した身体能力で振りかぶり、別の群れに叩きつけた!
腐り果てた死体は簡単に砕け散った。
しかし、それも焼け石に水だった。
明らかに異常すぎる数だった。
これまでの犠牲者の数を考慮してもここまでの数はいないはずだった。
(ここはただの野良
流石にまずい!
この数は呑み込まれる!
エルナは
しかし、着地した瞬間、身を低くして忍び寄っていた
そのまま逆さに持ち上げられて廊下に叩きつけられる!
背中を強打され、エルナは「カハッ!」と息を吐いた。
その隙をついて、
「――くうッ!」
羽衣の結界を展開する。
エルナは立ち上がり、再び駆け出した。
その後も
倒しても倒してもキリがない。
休む余裕もなく、彼女は荒い呼吸のまま走り続ける。
エルナは焦りを抱いていた。
せめてこの館から脱出したところだが、それも叶わない。
何故なら窓の外にも、うじゃうじゃと
地面に降り立った瞬間、呑み込まれるのは目に見えている。
片足がズキズキと痛む。体力も魂力も容赦なく消耗していった。
エルナは今、心の底から後悔していた。
相手を侮っていた。自分の力を過信していた。
一人で来るべきではなかった。心からそう悔やんでいた。
目尻に涙が滲んでくる。
悍ましい状況に悲鳴が零れてしまいそうだった。
――ギリ、と。
それでも歯を食い縛る。
ここで心が折れてしまえば、待っているのは最悪の末路だけだ。
「うわああああッ!」
叫びを上げて投網のように羽衣を展開する。
邪魔をするすべての
一時的にだが、廊下から
息も限界だ。
とにかく一度休まないと倒れてしまう。
しかし、後方から新たな
エルナは迎え撃とうとするが、そこで限界が来てしまった。
――ガクンッと。
片膝が崩れる。魂力の使いすぎで眩暈がする。
二体の屍鬼が迫って来る。
けれど、彼女はもう動けない。
エルナの紫色の瞳から、ボロボロと涙が零れ落ちた。
――もう無理だ。
そう感じてしまったのだ。
完全に両膝が崩れて、エルナはその場に腰を落としてしまった。
もう立ち上がれないと感じた。
(や、やだあ……)
涙が止まらない。
歯がカチカチと震えた。
「……た、助けてェ、助けてェ!」
絶叫を上げながら、少しでも離れようと後ろ手に床を這う。
しかし、
太った大男の方が、身を屈めてエルナの右足首を掴んできた!
「――ひッ!」
エルナは声を上げるが、もう抵抗するだけの体力も気力がなかった。
――ズザザザッ!
彼女は勢いよく大男に引き寄せられた。
「あぐッ!」
勢いよく背中を床に打ち付けて、強い痛みが背中に奔る。
エルナが苦痛で表情を歪めると、
「……ぐがああッ!」
もう一体の屍鬼が倒れた彼女にのしかかってきた。
「や、やだ……」
エルナは愕然として目を見開いた。
呼気も荒く、全身を硬直させていた。
恐怖で動けないエルナの胸元に手を伸ばし、人外の腕力で制服を引きちぎる。
その際に下着まで無残に剥ぎ取られた。
エルナの白い素肌と、豊かな胸元が露になった。
(――ひいッ!)
唾液が、ボトボトと彼女の胸元に落ちる。
顔の肉が削げ落ちた顔で、元は男である我霊は下卑た笑みを見せた。
食事と睡眠と情事。
三大欲求こそ我霊が存在するすべてだ。
そして今は、食事よりも、睡眠よりも――。
グワシ、と。
腐乱した指先が、エルナの胸を強く掴んだ。下から押し上げるように、柔らかな乳房が動き、薄汚い指が深く沈みこんだ。エルナの背筋に悪寒が奔る。
「い、いやああッ――むぐッ!」
だが、彼女はもう悲鳴を上げることさえも許されなかった。
口を屍鬼の片手で抑え込まれたからだ。
そのまま、屍鬼はエルナに顔を近づける。
ベロリと首筋を舐められた。
「~~~~~ッッ!?」
涙をボロボロと零す。
必死になって四肢を動かしたが、魂力も尽きかけた少女の腕力では屍鬼を跳ねのけることは出来ない。それどころか、もう一体の屍鬼も彼女の足を抑え込んだ。
新手の屍鬼どもも現れて、両手両足がすべて封じられる。
恐怖と絶望で、エルナの瞳孔が大きく見開かれた。
――と、その時だった。
とある幻影が、エルナの脳裏によぎったのは。
(……あ)
それは古い屋敷。洋館ではない家屋だ。
床一面に畳が敷かれている。恐らくはこの国の古い家屋か。
目の前には、木で作られた格子状の檻があった。いわゆる座敷牢だ。
彼女の心は恐怖で縛られていた。
それは、幼い頃から精神的に追い詰められた時に抱く幻影だった。
(私、また……)
フラッシュバックのように、幻影が次々と移っていく。
その多くが見たことのない異国の情景だ。
そしてその中には、とても優しい人影もあって――。
(……あ……)
恐怖と幻影でエルナの意識が途絶えかけた、その時だった。
「……流石に捨て置けんか」
そんな呟きが、耳に届いたのは。
声はさらに続く。
「大丈夫か? 異国の娘よ」
(―――え?)
いきなり現れたその声の主はそう告げなり、エルナにのしかかっていた屍鬼の首を容易くもぎ取った。折るだけどころか、力任せにもいだのである。
首のみになった屍鬼はどこか茫然としていた。
すでに死体であるので血は噴き出さないが、屍鬼の体が崩れ落ちる。
「……おっと」
声の主は、死体がエルナに覆いかぶさらないように片手で掴んだ。
そのまま片腕だけで持ち上げると、人間一人分の重量を軽々と後方へと投げ捨てた。何気ない所作で数メートルは飛んでいる。やはり恐ろしいほどの膂力だった。
両手両足を抑えていた屍鬼どもも、すでに同じように首をもぎ取られて倒れていた。
彼が現れてまだ十数秒も経っていないはずなのに。
(え? え?)
エルナは目を瞬かせた。
声の主――その青年は、見たことのない黒い制服らしきものを着ていた。
腰には鞘に収まった軍刀を吊るしており、黒い
その姿はどこか軍人のようだった。
(だ、誰?)
エルナが困惑していると、
「……む? 異国の娘よ。もしや言葉が通じんのか? むむ。それは困ったな」
青年はとても困った顔を見せた。
――そう。これこそが。
久遠真刃と、壱妃・エルナ=フォスターの出会いの瞬間だった。
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