第10部 『乙女たちの日々』

壱妃/始まりの夜の物語

第379話 壱妃/始まりの夜の物語①

 時節は冬。

 それは十二月のある日のことだ。

 後に壱妃と呼ばれる少女。

 エルナ=フォスターにとって、それはまさに運命の夜だった。



「…………」


 無言の時が続く。

 湯気が立つシャワーが、彼女の白磁のような肢体を打つ。

 銀色の髪からも雫が滴り、それが彼女の体に沿って流れていく。

 シャワーは心地よい。

 あらゆる穢れが落ちていくようだった。

 特に今日は最悪だった。

 自分の双丘にそっと手を当てる。痛めた足首も、体に出来た痣もすでに治癒の霊薬で治してあるが、あの時の恐怖と嫌悪感は今も心に残っている。

 もし、あのままだったら、エルナは最悪な最期を迎えていたことだろう。

 だから、助けてくれた彼には心から感謝している。

 その気持ちに一切の偽りはない。


 けれど。

 けれどもだ。


 エルナはシャワーを止めた。

 そうして、お湯で濡れた手で目の前の鏡に触れる。


(……待って。待て待て私……)


 エルナは鏡には見向きもせずに俯いた。

 その紫色の瞳はぐるぐると回り、口元はむずむずと動いている。


(え? なんで? これ何? 落ち着け。なんでだ? 確かにあの人は私の命の恩人だし、その、なんだか放っておけない感じもしたけれども!)


 全身の雫を拭いもせずに沈黙する。

 その肌が徐々に赤らんでいるのは、シャワーで火照ったせいだけではない。


(待って。待って待って。今の状況って何?)


 エルナは一人暮らしだ。彼女がオーナーとなっているこのマンション『ホライゾン山崎』の最上階、その一室にて暮らしている。

 下層には一般人はいるが、隣人はいない。

 隣人に気をかけるのが面倒な事と、迂闊に一般人を巻き込まないために最上階のフロアは貸し出していないからだ。

 要は最上階にはエルナしかいないのである。


 だが、今夜は違う。

 もう一人、このフロアに滞在している者がいるのだ。

 しかも、エルナの住む部屋のリビングに彼はいた。


(待って!? なんで!?)


 エルナは今、愕然としていた。

 心臓がバクバクッと鼓動を鳴らす。


(なんで私、出会ったばかりの知らない男の人を連れ込んでいるの!? しかも彼を待たせてシャワーなんて浴びてるの!?)


 出会ったばかりの青年。

 命の恩人である彼は行く当てがないそうだ。

 とは言え、エルナには何も出来ない。

 だから、そこで別れるはずだった。

 だが、去り際の彼の寂しそうな眼差しを見て思わず声を掛けてしまったのだ。


『あの、良ければ今日は私の家に来ませんか?』


 ――と。


(なに言ってんの!? 私!?)


 頬が盛大に引きつった。

 それは純粋な親切心からの言葉だった。

 だがしかし、あまりにも無防備な判断だった。

 異性を一人暮らしの自分の部屋に誘うなど。

 ましてや彼は引導師ボーダーだというのに。


(も、もしかして私って……)


 エルナはプシューと頭から湯気を出した。


(こ、今夜、初めてを迎えるの……?)


 そんなことを思っていた。

 容姿こそ大人びているエルナだが、実年齢ははまだ幼い。

 そんな彼女とあの儀式――《魂結びソウルスナッチ》を行う。

 世間一般では言語道断な話だが、引導師ボーダーの世界ではあり得ることだった。

 賛否両論はあるが、実質、ほぼ黙認されているのが現状だ。

 だからこそエルナは緊張していた。異性の引導師を招き入れるとは、そういった意味でとらえられても仕方がないことなのである。

 そして彼は、恐らく名家の当主にも匹敵する引導師だ。

 もし、彼がここでエルナを組み伏せるのなら、彼女には抵抗の術もない。


 いや、今日の一件からして彼はとても優しい人だと思う。

 甘い声で囁かれて、優しく求められたら……。


「ひゃ、ひゃあっ!」


 エルナは思わず声を上げてしまった。

 ――プシュウ、と。

 再び頭から湯気が立つ。

 それはそれで抗えないような気がした。


(ど、どうしよう! どうしよう私!)


 瞳が盛大に泳ぎ出す。

 全身の肌が赤くなるのは、シャワーを浴びたせいだけではない。

 エルナは、ペタンとその場に腰を下ろした。

 そうして思い出す。

 ほんの二時間ほど前のこと。

 彼と出会った、その出来事のすべてを――。



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