第368話 受け継ぐ者④

 永い時を生きた。

 とても、とても永い時だった。

 多くの出会いがあり、多くの別れもあった。

 その別れの多くが死別だった。

 誰も彼も彼女を残して逝ってしまう。

 彼女だけが時の中に取り残されていた。

 だが、それももうじき終わる。


 月の輝く夜。

 住まいである離れにて。


「……………」


 洗練された筆遣いで彼女は達筆な文字を記す。

 これは一族へと向けた彼女の遺書だった。

 伝えなければならない事柄は多い。

 その要点を丁寧にまとめて筆を走らせる。

 そうして、


「こんなものね……」


 最後に感謝の言葉を記して。

 彼女――火緋神杠葉はすずりの上に筆を置いた。

 拇印を押して、文字の墨が乾くのを待って封筒に入れる。

 それから気付きやすいように鏡台の上に置いた。

 これがあれば一族が対応に困るようなこともないだろう。


「……さて」


 杠葉は立ち上がった。

 しゅるりと着物の帯を解く。

 着物を床へと落とし、裸体となる。

 次いで用意していた白装束を手に取って羽織った。

 白装束――いや、これは死に装束だ。

 杠葉は予感していた。

 今日こそが、無様に生き永らえてきた火緋神杠葉の最期の夜なのだと。

 今宵、彼がここに来る。

 長年の経験からそう感じ取っていた。


「…………」


 杠葉は鏡台の前で座った。

 引き出しの鍵を開けて、鈴蘭の髪飾りを取り出す。

 これを身に着けようかと考えるが止める。

 彼と会うのにこれを身に着けるなど何様なのかと思ったからだ。

 自分にはもうその資格がないと強く感じていた。

 鈴蘭の髪飾りは、遺書と重ねるように置いた。

 出来ることならば、この髪飾りは燦か月子に引き継がれることを願う。


「ここも寂しくなったわね」


 部屋を見やる。

 すでに大体のモノは処分している。

 生活感もほとんど消えていた。

 ここに立ち入った者は誰もが寂寥感を抱くことだろう。


「でも、私の最期としては当然かしら」


 皮肉気に笑う。

 長き人生で喜びがなかった訳ではない。

 特に新たな命が生まれた時の感動は今でも忘れない。


 異母弟に子供が生まれた時。

 その子にも子が生まれた時。

 命は綿々と受け継がれていく。


 生まれたばかりの巌や、元気よく泣く燦を抱いた時は本当に愛しく嬉しかった。

 それだけに一人だけ置いていかれることは、とても辛かったが。


「けど、それも終わりね」


 杠葉は再び立ち上がった。

 縁側に向かう。

 今日は本当に静かな夜だった。

 まるで、青春を過ごした若き日の時代のようだ。

 しばし夜の静けさに心を寄せる。

 そうして、


(ああ、そういえば)


 おもむろに杠葉は縁側に腰を下ろした。


(真刃と初めて出会ったのはこんな縁側だったわね)


 彼が軟禁されていた大門邸。

 そこに自分が乗り込んだのである。

 挑発し、喧嘩を売り、返り討ちにあった。

 まさしく若気の至りだった。


「……ふふ」


 縁側に手をつき、口元を綻ばせる。

 彼としては、さぞかし迷惑だったに違いない。

 当時の自分は今の燦に何も言えないほどに我儘な娘だった。

 散々迷惑をかけて、困らせて。

 そして最後には甘えるのだ。

 同じく彼に愛された紫子は内助の功の手本のようだったのに。


「私は本当にダメな女だったわ」


 思わず嘆息する。

 紫子に関しては非常に気がかりなことがあるが、自分にはそれを調べる時間はもうない。

 かといって、今の時点で真刃に伝えても彼を困惑させるだけだろう。

 その件については、一週間後に燦と月子へ自動送信されるように設定しておいた。


「正直、真相を知りたい気持ちはあるけれど……」


 杠葉は月を見上げた。


「それはもう私の手の届くことじゃないわね」


 自分をそう納得させる。

 きっと、真刃なら良き方向に解決してくれるだろう。


「……………」


 杠葉は瞼を閉じた。

 かつての時代に想いを馳せつつ、静かにその時を待つ。

 そうして……。


 ぱちり、と。

 瞳を開ける。


 次いで、無言のまま顔を上げた。

 月にはいつしか雲がかかっていた。

 そして、そこに影が生まれた。

 月光を背にして動く巨大な影だ。


(……来たのね)


 それは黒い龍だった。

 杠葉もかつて騎乗したことのあるよく知る龍。

 従霊五将の一体、九龍である。

 その頭部には一人の青年が立っている。

 灰色の帽子に手を当てて、同色の胴衣ベストを着た紳士服姿の青年だった。

 彼女の待ち人、久遠真刃だ。

 悠々と宙を舞う九龍は、ややあって離れの庭園にまで降りて来た。

 庭園の木々が少し揺れた。

 そうして九龍は鎌首だけを地面へと近づける。

 そこから真刃が庭園へと降り立った。

 その姿に、


(……変わらない)


 杠葉の胸の奥が締め付けられる。

 あの頃からまるで変わらない。

 一人だけ時間に置いてけぼりにされてしまった自分を。

 彼が迎えに来てくれたような錯覚を抱いた。


(……図々しいことだわ)


 内心で自虐の笑みを浮かべる。

 本当に図々しい錯覚だ。

 裏切り者の自分にはそんな資格などないというのに。

 ややあって九龍が鎌首を上げて、空へと飛びだっていった。

 庭園には真刃が立ち、杠葉は縁側に座ったまま、しばし見つめ合った。


(……真刃)


 彼の胸中がいかなるものなのかは杠葉には分からない。

 そうして、火緋神家の御前としてではなく。


「……久しぶりね」


 百年の時を経て。

 杠葉は彼と言葉を交わすのであった。


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