第346話 遠き日の名前②

 その日の夜。

 制服姿のかなたは校舎の中を一人、疾走していた。

 十年ほど前に廃校となって、そのまま放置された学校だ。

 経年劣化で校舎内はひび割れが多く、壊れた椅子や机が無造作に置かれている。

 それらを避けながら、かなたは走る。

 時間帯は深夜。二時を過ぎた頃か。

 そんな時間も相まって、極めて不気味な場所だった。

 そして、今夜はその不気味な場所に相応しい化け物が居る。


「ぐひゃぐひゃあッ!」


 ボトボトと、床に涎を落とす。

 教室の四分の一を占めそうな巨体を、長い両腕とひしゃげた脚で支えている。

 全身は硬質化し、土塊のような色合いだった。

 常人の二倍以上はある大きさの頭部だが、それはごく普通の男の顔である。

 まだ幼さが残る童顔だった。それがむしろ怖気を奔らせる。

 この廃校を寝床にした危険度カテゴリーCの我霊エゴスだった。


「ぐひゃああああ――ッ!」


 我霊が腕を力任せに振った。

 邪魔な椅子や机も弾き、それがかなたに襲い掛かる!


「…………」


 かなたは焦ることなく投擲物を回避して、後方に跳躍した。

 四つん這いの我霊は忙しく四肢を動かしてかなたに迫って来る!

 かなたは廊下の窓から教室へと飛び込んだ。

 我霊は構わず突っ込み、教室の壁を破壊する。

 勢いよく教室の中へと跳んだかなたは空中で反転して着地。両手に持った巨大なハサミで床を削りつつ、両足で火線を引いた。


「ぐひゃひゃひゃ!」


 廊下の幅をほぼ占有しつつ、我霊がかなたの方に首を向ける。

 涎がさらにボタボタと零れ落ちた。

 かなたを見据える双眸には、どこか愉悦がある。

 知性のない危険度カテゴリーC。

 だが、女性であるかなたに対し、この男の我霊が何を考えているかは明白だった。

 獣性の赴くままに犯してから喰らう。

 ただそれだけだ。


『……お嬢』


 その時、かなたの赤いチョーカーが声を掛けてきた。

 かなたの専属従霊・赤蛇あかじゃである。


『そろそろやってみっか?』


「……うん」


 かなたは頷く。


「始めよう。赤蛇」


 そう告げる。


(……ん)


 かなたは魂力を徴収した。

 普段の六倍以上――1300にも至る魂力が全身に満たされる。

 続けて、赤いチョーカーだった赤蛇が大きく解けた。

 長いリボンのように膨れ上がって宙に浮いて停止。かなたの体に巻き付いていく。

 制服ごと覆い、肢体を強く締め付ける。黒い一種のレオタードのように変化すると、胸元や四肢には赤い防具、頭部にはヘッドギアが装着される。特に手甲は巨大だ。いつの間にか、一回り大きくなったかなたのハサミと一体化している。

 さらには、かなたの背中からは数メートルもある蛇腹剣ガリアンソードが三本生えていた。


『よし。上手くいったぞ。お嬢』


 甲冑――赤蛇がそう言うと、かなたは「うん」と首肯した。

 これがかなたの新技だった。

 従霊を全身に纏う真刃の『爪牙』を参考にした形態である。

 試行錯誤の結果、その姿は武装アームドタイプの模擬象徴デミ・シンボルに近いモノになったが、従霊を素体としたその武装は強度が違う。模擬象徴デミ・シンボルの強化版とも言える形態だった。

 赤蛇はこれを『戦妃武装オーバーレイド』と名付けた。


「………」


 かなたは静かに重心を下げた。

 同時に蛇腹剣ガリアンソードが空気を切り裂いて我霊に襲い掛かる。

 まるで三つ首の大蛇のようである。

 三本の剣は唸りを上げて、我霊の右腕、両足を両断した。


「ぎゃああああ――ッ!」


 我霊が絶叫を上げる。

 かなたは怯むこともなく加速した。

 武装しているとは思えない速度だった。

 むしろ身体能力も強化されているので通常時よりも遥かに速い。


「………ふッ!」


 呼気と共に我霊の喉元に迫るかなた。

 そして、


 ――ザンッ!

 巨大なハサミが交差して我霊の首を断ち切った!


 我霊は断末魔を上げることも出来ず、その首を床に落とした。

 かなたは両足で着地した。勢いで廊下に火線を引く。

 ややあって止まったと同時に、我霊の巨体はズズンッと倒れ込んだ。


 もはや、ピクリとも動く様子はない。

 完全に引導を渡したのである。


 かなたは息を吐く。

 と、同時にしゅるりと戦妃武装オーバーレイドがリボン状に解けて、赤蛇はチョーカーに戻った。

 数瞬の沈黙。

 すると、


「うむ。見事だったぞ。かなた」


 廊下の奥から真刃が現れて、かなたに声を掛けてきた。

 これは仕事も兼ねた恒例の実戦訓練だった。


「……ありがとうございます」


 かなたは真刃の方へと目をやって頭を垂れた。


「いささか驚いたがな。今のは赤蛇の発案か? いずれにせよ見事な技だったぞ」


 真刃は、かなたに近づきながらそう告げる。

 しかし、かなたは浮かない顔だ。

 いや、正確には無表情なのだが、気落ちしていると真刃には分かった。


「どうした? かなた」


 かなたの前に立って真刃がそう問うと、


「……私には」


 かなたは、少し顔を逸らしつつ呟いた。


「才能がありません。燦さんはあっさりと象徴シンボルまで会得したというのに……」


「……燦は元より象徴シンボルに目覚めておったからな」


 真刃は渋面を浮かべる。

 先日の騒動は真刃も聞き及んでいた。


「確かに燦には才がある。だが、重要なのは才だけではない」


 言って、かなたの頭の上に手を置いた。


「お前は努力している。そしてそれを結実させておる。それは誇るべきことだ」


 かなたは無言のままだ。


「それに必ずしも象徴シンボルが戦場において適しているという訳でもあるまい」


 真刃はそう続ける。


象徴シンボルは揃って巨大だ。巨大さは分かりやすい武力ではあるが、同時に消耗も激しく、細やかな戦術も不得手とする」


 一拍おいて、


「要は、いかなる力も使い方次第ということだ」


 そう告げられて、かなたは顔を上げた。

 真刃を見つめる。

 そして「でも」と呟き、


「燦さんに見せ場とられた。悔しい」


 と、拗ねた表情を見せる。

 真刃は苦笑を浮かべると同時に嬉しく思った。

 あの諦観しきっていたかなたがここまで素直な感情を見せてくれるようになったのだ。


「……そうか」


 真刃は、かなたの頭をくしゃりと撫でた。


「だが、その力はきっとお前の助けになるだろう」


 かなたは「……ん」と、猫のように双眸を細めた。

 それから、真刃の背中に手を回してぎゅうっと抱き着いた。

 真刃の胸に顔を埋めて、かなたは呟く。


「やっぱり悔しい」


「……そうか」


 真刃は苦笑を零した。

 かなたの肩に片手を添えて、後頭部をポンポンと叩く。

 かなたは真刃に強くしがみついていた。

 珍しくかなり不満のようだ。

 真刃は少しの間、そのまま彼女を宥めた。


「悔しい。私、影が薄い」


「そんなことはないと思うが」


「ううん。薄いの。キャラが弱いの」


 さらに強く抱き着き、


「ようやく会得した戦妃武装オーバーレイドだって、たぶん訓練したら妃たちなら全員できる。それに衣服そのものを変化させられるエルナさまほどじゃない。訓練して思い知った。私はあそこまでエロに全振りは出来ないって」


「……いや、言っている意味がよく分からんのだが?」


 真刃が困った様子でそう告げると、かなたが顔を上げた。


「……ただの愚痴。気にしないで。けど一つだけ約束して」


「うむ。何だ?」


 かなたの髪を梳かしながら真刃が問うと、


「もし二年延長になっても我慢する。けど年功序列は守って。だって私が一番先だから。これはエルナさまにも刀歌さんにも譲らないから」


 少し赤い顔で視線を逸らしつつ、かなたはそう願った。

 真刃はよく分らなかったが、可愛いかなたのお願いなので「ああ」と即答した。

 それを聞いて、かなたの不満も少しは解消できたようだ。

 ややあって真刃から離れると、


「申し訳ありません。真刃さま」


 深々と頭を垂れる。


「自身の未熟さを棚に上げて、つい真刃さまに甘えてしまいました」


「何を言う。かなたがオレに甘えることに気兼ねする必要などなかろう。さて」


 真刃はポンとかなたの頭を叩いた。


「いずれにせよ仕事は片付いたな。帰還することにするか」


「はい」


 かなたは頷いた。

 そうして二人は廊下を歩き出す。と、


「……真刃さま」


 かなたが真刃に声を掛けてきた。


「そういえば、明日は外出されるとお聞きしましたが……」


「ああ」真刃は頷く。


「他県にまで呼び出されてな。一泊することになるだろう。面倒ではあるが、明日は朝から出かける。六炉と共に天堂院七奈と会う予定だ」


「……六炉さんの妹君ですか」


 かなたが、微かに眉根を寄せた。


「やはり何か大きな事件でも起きたのでしょうか?」


「わざわざ呼び出すのだ。ただの世間話ということはあるまい」


 そう言って、真刃は苦笑いを浮かべた。


オレとしてはもう一つの重大な案件の前に七奈の話を聞いておきたくてな」


「……もう一つの案件ですか?」


 かなたが真刃の顔を見やる。


「他にも何か問題が?」


「ああ。避けては通れない案件だ。今は金羊が情報を集めている」


 そう告げて、真刃は口を閉ざした。

 ――そう。絶対に避けてはいけないことだ。

 真刃にとって、杠葉のことは。


「……真刃さま?」かなたが眉をひそめる。「どうかされましたか?」


「……いや。何でもない」真刃はかぶりを振った。「ともあれ、その件についてはオレもまだ情報不足だ。だからこそ、七奈の件を先にしたのだ」


 そう答えて歩き続ける。

 かなたも真刃の後に続いた。


「ですが、天堂院家が持ち込む話。やはり厄介事でしょうか?」


 そう尋ねるかなたに、


「……そうだな」


 真刃は、少し渋面を浮かべて返した。


「いささか以上に面倒になるような気がするな」



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