エピローグ

第335話 エピローグ

 ――ザザザ、ザザザ……。

 大海原を船が行く。

 大型のコンテナ船である。

 しかし、実際に貨物を積んでいるのはわずかだった。

 コンテナ船に偽装した船だからだ。


 ――そう。《黒牙ヘイヤア》の所有する偽装船である。

 その甲板には、仏頂面のビアンの姿があった。


「ああ、くそがッ!」


 天候は晴天であるが、ビアンは極めて不機嫌だった。


「結局、月子を攫い損ねたじゃねえか!」


 そんなことを海に向かって叫んでいる。


「いや、あんたね」


 と、隣に立つ蘭花ランファが呆れた口調でツッコむ。


「流石に無理よ。あれは。自分の身を守るだけでも必死だったじゃない」


「分かってんよ!」


 ビアンは忌々し気に吐き捨てる。


「くそがッ! 腐れ名付きネームドが! 邪魔するだけ邪魔して逃げやがって!」


 名付き我霊ネームド・エゴス・《死門デモンゲート》。

 悪名高いかの我霊の襲撃から、すでに三日が経っていた。

 あの夜、あんな乱入がなければ、計画通り月子を拉致できていたはずなのだ。


「あいつのせいで計画が台無しじゃねえか!」


 と、ビアンは憤慨するが、蘭花ランファは冷静だった。


「いや、今回はこれでよかったでしょう」


 腰に手を当てて小さく嘆息する。


「あのワンでさえ、今のままじゃあ全然届かなかったって話でしょう? そこであの子を拉致したりしたら、そんな怪物が大陸まで追ってくるわよ」


「………ぐ」


 下衆であっても愚者ではないビアンが呻く。


「今は大人しく退くべきよ」


 そう言って、蘭花ランファは視線を船内の方へと向けた。


「結局、今は牙を研ぐ時期ってことなんでしょうね。あの怪物をどうにか出来るまで。信じなさいよ。あんたのボスを。朋友でもあるんでしょう?」


「………ケ」


 蘭花ランファの台詞に、仏頂面のまま視線を逸らすビアンだった。

 



 同刻。

 船底の一室にて。

 ベッドの上でワン春鈴シュンリンに膝枕をされて横になっていた。


「……………」


 無言のまま、瞳を閉じている。と、


「お身体はもう大丈夫ですか?」


 春鈴シュンリンワンの前髪を撫でて尋ねてくる。


「ああ。もう大丈夫だ」


 ワンは瞼を開けて答える。

 三日前のワンは相当な重傷だった。

 五体こそ無事だったが、全身の火傷が酷く、治癒系の引導師や、最高級の霊薬などを総動員することでどうにか持ち直したのである。


「しかしまあ、えげつねえおっさんだった……」


 まだ二十代前半のこんな若造相手に一切容赦がなかった。

 自分の女を奪おうとする敵。牙を以て迎え撃つのは、群れを守る獅子としては当然と言えば当然なのだが、相手は格下の若造なのである。

 もう少しぐらい油断とかしてくれてもいいのではないかと思う。


「今回は完全に俺の負けだったな」


 そう呟くワンに、


「……それでも」


 春鈴シュンリンワンの前髪に触れながら尋ねる。


「また挑まれるのですね」


「当然だ」


 ワンは即答する。


「女を奪われたままで黙ってられるか」


 一拍おいて、


「だが、今の俺じゃあ何度挑んでも勝てねえ。そのための帰国だ」


「…………」


 春鈴シュンリンは無言だ。

 ただ心配そうに眉をひそめていた。


「そんな顔をすんなよ」


 ワンは不敵に笑う。


「大陸は広く、その闇は果てしなく深い……」


 双眸を細める。


「さらに高みに行く方法は必ずある。そう」


 ワンは天へと手を伸ばした。


「待っていろよ。おっさん。次は負けねえからな」



       ◆



 ほぼ同時刻。

 船上で不満を抱く男がいるように、あの夜の結果、不機嫌になった者たちがいた。

 一人はジェイだ。

 あの夜は散々だった。

 手駒ストックのほとんどを奪われた挙句、目的も果たせなかったのだから当然だ。

 ホテルの一室。ソファーの上にて座りながら、仏頂面を見せている。


 しかし、それ以上に不機嫌な者がいた。

 エリーゼである。

 彼女もまたソファーに座っているのだが、腕と足を組んだままずっと無言だった。


 眉をしかめてる訳ではない。

 ずっと無表情なのだが、それが逆に怖かった。

 エリーゼの後ろにて控えるルビィが、ずっとおどおどとしているぐらいだ。

 結果的に誰も喋らない。

 沈黙でプレッシャーがさらに上がっていた。

 と、その時だった。


すまないソーリー。待たせたね」


 そこに新たな人物が登場する。

 いつもの紳士服スーツ円筒帽子シルクハットステッキも持った外出姿の餓者髑髏である。

 主の登場に、ジェイもエリーゼも立ち上がった。

 ルビィも含めて、三人は一礼する。

 一方、餓者髑髏は上機嫌だ。


「ハハ。そう構えなくともよい」


 円筒帽子シルクハットのつばに手を当てて、そう告げる。


「しかし、エリー」


 餓者髑髏は妻に目をやった。


「ジェイはともかく、君まで随分と不機嫌なようだね」


「……申し訳ありません」


 エリーゼは深々と頭を下げた。


「お館さまの御前でこのような未熟な真似を」


「ハハハ。気にすることではない」


 餓者髑髏は陽気に笑った。


「むしろ吾輩は嬉しく思っているよ。なにせ、エリーは吾輩に関わること以外にはあまり執着を見せない子であるからね」


 言って、くるりとステッキを回した。


「それだけ君は彼女に――久遠桜華に拘っているということなのだろう」


「……………」


 エリーゼは無言だった。

 不敬と知りつつも、思わず眉をしかめてしまう。

 ルビィはただただ困惑し、ジェイは何とも言えない複雑な表情を見せる中で、餓者髑髏はとても機嫌が良かった。


「執着もまた我霊エゴスの大事な本質だ。大切にしなさい。それにしても」


 口元を片手で押さえて笑みを隠し、


実に面白いことになったベリー・ベリー・ファンタスティック


 餓者髑髏は言う。


「エリーには悪いが、吾輩の心は今とても晴れ晴れとしているよ。よもや再び彼と対峙する日が来るとは思いもよらなかったからね」


 そこで再びふふっと笑い、


「それだけに、これから行う会合が実に楽しみだ。はてさて」


 言って、餓者髑髏は背中を向けた。

 主の後に従って、エリーゼたちも動き出す。

 そして、


「《刀匠忌憚とうしょうきたん》殿。彼はいったい何を聞かせてくれるのか。吾輩の予感としては、さぞかし会話が弾むに違いないね」


 最古の我霊は、そう予言するのであった。



       ◆



「「「……………」」」


 同刻、フォスター邸にて。

 妃会合を行われるリビングは、重苦しい空気に包まれていた。

 その理由は三つほどある。

 まず一つは壱妃であるエルナが、酷くへこんでいるからだ。


 ――《死門デモンゲート》の襲撃の夜。

 エルナは何故か屋上にて、九龍の背の上で眠りこけているところを発見された。

 どうしてそんな場所にいたのか。

 本人的には一切記憶がないそうだ。

 九龍に聞いても『分カラナイ』と答える。

 本当に何があったのか、そのこと自体には不安も覚えるが、それ以上に危機的な状況でありながら、自分が全く役に立たなかったことにかなりへこんでいるのである。

 それは三日経った今でも続いていた。


 二つ目は、リビングに置かれたコノ字型ソファー。

 今もエルナたちが座り、仮称で妃の座と呼んでいるソファーに新参者がいるからだ。

 ――桜華ではない。ホマレである。

 白いゴシックロリータの服に、何故か男物の大きな帽子。絹糸のような菫色の髪を片方だけのサイドテールに纏めたホマレは、妃の座の一角に居座っていた。

 あの夜、結界領域が解かれた後、安全な場所でリリースされた彼女であるが、即座に自宅に戻ると、衣服を着替えてフォスター邸にやってきたのである。


 自称、真刃の女を名乗る美少女に、エルナたちは唖然としたものだ。

 真刃に連絡を取ると、「追い返してくれ」と即答されたのだが、即座にホマレが桜華に泣きついたことで、とりあえず保留とのことになった。

 そのままフォスター邸の一室を占拠し、今日まで居座っているのである。

 その上、妃の座の一角にまで座る図太さだった。


 壱妃・エルナ=フォスター。

 弐妃・杜ノ宮かなた。

 参妃・御影刀歌。

 肆妃『星姫』・火緋神燦。

 肆妃『月姫』・蓬莱月子。

 伍妃・芽衣。

 陸妃・天堂院六炉。


 一名・・を除いて・・・・、すべての妃が揃ったこの場。

 なお、護衛として隊服姿の茜と葵もいるのだが、彼女たちは部屋の片隅で控えていた。

 重苦しい雰囲気に、葵などは少し涙目だった。

 そんなほぼフルメンバーが揃った中で、あえて妃の座に座るのだから、ホマレのメンタル強度は鋼を超えるレベルだった。

 全員が――温厚な月子や、精神的に落ち込んでいるエルナまで含めて、妃たちはジト目になっているのだが、ホマレはニコニコと笑って気にもしていない様子だった。


「このソファーって、ホマレと桜華ちゃんが入ると少し狭いね。ホマレが、もっと大きいの買おうか?」


 そんなことまで言ってくる。


「エルナさま」


 かなたがエルナの方を見て告げる。


「彼女を両断しましょうか?」


「いや、そこは断裁って言おうよ。かなたの決め台詞なんだから」


 エルナが疲れたようにツッコむ。

 が、すぐに大きく息を吐いて、気合いを入れるように自分の両頬を叩いた。


「落ち込むのもここまでね。さて」


 エルナは妃たちに目をやった。


「多数決を取ります。彼女――ホマレさんの妃入りに賛成の人は挙手」


 妃たちは誰一人、手を上げなかった。

 ホマレだけは精一杯、両手を上げていたが。


「反対の人、挙手」


 エルナがそう続けると、今度は全員が挙手した。

 かなたは無表情に。刀歌は瞑目して。燦は勢いよく。月子はおずおずと。芽衣は苦笑を零しながらも。六炉は挨拶でもするかのように。

 六者六様だったが、いずれにせよ全員一致だった。

 もちろん、エルナも挙手している。


「うん。一人不在だけど多数決だからこれで決定ね。ということで、ホマレさんの妃入りはナシということで」


「なんで!?」


 ホマレが立ち上がって叫ぶ!


「いいじゃん! こんなにいるんだから末席にホマレがいても!」


「あのね。真刃さんの妃って簡単な肩書きじゃないのよ」


 エルナがホマレを見据えて言う。


「昨日も隊員が一人増えたでしょう? それも火緋神家の分家の人。真刃さんは大きな勢力を築くことになると思うから、今後の妃の立場って凄く特別なのよ」


 エルナの台詞は、何気に部屋の片隅に立つ茜にもダメージを与えていた。

 自分にも忠告されたような気になったのだ。

 妹以外には気付かれることなく、こっそりとぐらついていた。

 一方、ホマレは「むむむ!」と唸る。


「そもそも、あなたは押しが強すぎなのよ。あなたの相手をする時の真刃さんの顔、熱を出した時の燦の相手をしてる時と全く同じだったわ」


「ええッ!? あたし、そこまでおじさんに迷惑かけてないよ!」


 と、燦が反論するが、エルナは無視する。


「ともあれよ。少なくとも今は妃の資格なしと判断するわ」


 言って、指先を動かす。すると、ホマレのドレスが勝手に動き出し、彼女は釣りあげられるように茜たちの傍にまで移動させられた。

 茜と葵が目を丸くする中、エルナは告げる。


「流石に出禁は可哀そうだから、今は近衛隊扱いよ。芽衣さん、それでいい?」


 近衛隊の隊長である芽衣に視線を向けて尋ねる。


「うん、いいよォ」


 芽衣は笑った。


「まあ、隊員でも妃候補……妃見習いかな? 準妃じゅんひ隊員って枠を作っていい?」


「ええ。みんなもそれで異論はない?」


 エルナは他の妃にも聞いた。全員が頷いた。

 すると、ホマレが両手を突き上げて「むむむ――ッ!」と叫んだ。


「おのれ! 憶えていろよ! おっぱいモンスターどもと真正ロリめ! ダーリンの役に立って立って立ちまくって、すぐにホマレは正妃ナンバーズに昇格するからな!」


 と、憤慨しつつも意気込みを見せた。

 隣で葵が「凄いガッツだなあ」という顔でホマレを見つめる中、茜の方は小さな声で「準妃隊員か、まずはそこから……」と繰り返していた。

 ともあれ、重苦しい要因の一つはこれでクリアできた。

 エルナも今のやり取りで調子を取り戻したので、残る要因は一つだけだ。


 ――そう。最後の一つとは、唯一この場にいない妃のこと。

 漆妃・久遠桜華についてだった。


「……桜華さんのことだけど」


 エルナが口を開くと、全員の視線が壱妃に集中した。


「ホマレさんと違って正式に妃入りしたのは、まあ、いいけど……」


 一拍おいて、


「真刃さんって想像以上に彼女に甘くない?」


 ジト目で言う。

 妃たちは無言だった。

 唯一、準妃のホマレだけが「激しく同意!」と手を上げていた。


「……まあ、桜華師のこれまでの過酷な人生を考えれば、主君が甘くなるのもある程度は仕方がないとは思うのだが……」


 と、告げるのは腕を組んだ刀歌だ。


「エルナが言いたいのは、今回の件だな」


「うん。そう」


 頷くエルナに、今度こそ全員が無言になる。


「だって、思い出の場所かは知らないけど、二人きりで温泉旅行だよ」


 ――そう。

 この場に漆妃がいない理由。

 実は、彼女は一泊二日で真刃と二人だけの温泉旅行に出かけているのである。

 それも真刃が提案したそうだ。

 加入したばかりとはいえ、あまりの漆妃贔屓に、他の妃から不満が出るのも仕方がない。


「ずるい!」


 燦が足をバタバタと暴れさせて叫ぶ。


「あたしだっておじさんと温泉行きたい!」


「うん。これは流石に私もエコ贔屓だと思った」


 と、刀歌も少し頬を膨らませて言う。


「私だって主君と温泉に行きたかった」


 正直に気持ちも吐露する。

 燦や刀歌のように、率直に口や態度に出すことはなくとも、表情からすると、かなたや月子も同じ気持ちのようだ。

 当然、エルナと芽衣も同じ想いなのだが、その時、六炉が手を上げた。


「ごめんなさい。実はムロが真刃にそうお願いしたの」


 そう告げる。エルナたちは目を丸くして六炉に目をやった。


「本当に色々あったから。桜華はまだ真刃と一緒にいるのに馴染んでないと思って。真刃に旅行を提案したの」


「……そうだったのですか」


 六炉の台詞に、かなたが眉をひそめた。


「けれど、そんな気遣いをするほどに、六炉さんは桜華さんと親密だったのですか?」


「ううん。テテ上さま繋がりで、比較的にみんなよりは会話も多いかもしれないけど」


 そこで六炉は頬に指先を当てて考えた。

 そうして隣に座っていた芽衣に「耳を貸して」と言って手招きした。

 芽衣は不思議に思いつつも、耳を近づけた。

 ……ゴニョゴニョゴニョ。


「―――え」


 芽衣は目を見開いた。

 そして六炉と顔を見合わせる。


「あのことを? シィくんに念押ししたん?」


「うん。まだ桜華、真刃に対してよそよそしいところがあるから。友達から恋人になった気まずさとかじゃなくて、あれは、そもそも、きっとまだなんだなと思って」


「う~ん、それはウチも思った。昔からの知り合いだし、もと同僚だって話だし、最後の思い切りとか、機会とかが掴みにくいんだろうなあって思ってたけど、それじゃあ桜華さん、いよいよ……しかも、うわあ……」


 と、芽衣は口元を両手で覆って呟いた。


「芽衣さん? 六炉さん?」


 エルナが訝し気に年長者二人を見やる。

 芽衣は少し悩んだ様子で頭を抑えてから、


「えっと、説明しにくいんだけど……」


 芽衣は心底困ったような渋面を浮かべてこう告げた。


「まあ、その、怪獣が本気になったってことで、今回は大目にみて上げてかな?」



       ◆



 森の奥にある温泉街。

 そこが、真刃と桜華が訪れた場所だった。

 二人は傾斜のある温泉街を歩く。目の前には街を横切る澄んだ川があった。

 今は五月の中旬。桜が咲く時期からは外れている。

 残念ながら桜の華を見ることは出来ないが、桜華はとても懐かしい気持ちになっていた。


 ――ここは『咲川温泉』。

 かつて真刃と共に訪れた場所だった。


 あの日から百年。

 今も温泉街ではあるが、街並みは大きく変わっている。

 だが、変わらないモノもある。

 あの時と同じ桜色の着物を着た桜華。

 そして紳士服姿の真刃だ。

 二人は並んで歩いていた。

 すると、


「随分と変わったものだな」


 真刃が感慨深い様子でそう呟く。


「それは当然だろう」


 それに対し、桜華が言った。


「お前にとっては数年でも、ここは百年も経っているのだぞ」


「ああ。そうだな。だが」


 そこで真刃は目を細めた。


「見てみろ。桜華。変わらぬモノもあるようだぞ」


 言って、前を指差した。

 桜華が前を見やる、と、


「………あ」


 そこには旅館があった。

 昔ながらの和の旅館である。

 あの頃より多少の違いはあるが、かつて桜華たちが宿泊した旅館だった。


「まさか、まだあったのか」


「そのようだ」


 驚いた様子で呟く桜華に、真刃が頷く。


「宿泊の予約はあの宿にしている。金羊の調べで今でも続いていることは知っていたが、ここまであの頃の面影が残っているとはな」


 感慨深く真刃は瞳を細めた。


「行くぞ。桜華」


「……ああ」


 桜華は頷いて、先に進み始めた真刃の後を追う。

 そして彼の服の裾を掴んだ。

 ずっと。

 この旅が始まってから、ずっと鼓動が高鳴っていた。


 今回の旅。

 従霊は一体も供をしていない。

 猿忌や金羊、刃鳥。専属従霊の白冴さえもだ。

 本当に二人だけの旅だった。


「桜華」


 真刃は振り向いて言う。


「宿に着いたら散策をするか。ここも随分と変わったようだからな」


「ああ。そうだな」


 桜華は微笑んで答えた。

 そうして……。

 ……………。

 …………。


 夜。

 午前二時ごろ。

 おもむろに、桜華は目を覚ました。


(……ここは)


 何度か目を瞬かせる。

 顔を上げて周囲を見やる。どうやら広い和室のようだ。

 自分は布団の上に寝ていた。


(ああ、そうか……)


 桜華は、自分がここに泊りに来たことを思い出した。

 思い出の宿。

 外装にはその面影があったが、流石に内装は大きく変わっていた。

 今代のこの宿は老舗であり、名宿でもあるそうだ。

 特にこの和室は最高級の部屋らしい。

 室内に小さいが露天風呂まで設置された一室である。

 そこに自分は泊ったのだ。

 いや、正確には自分たちだが。


 そこまで思い出して、

 ――カアアアァ。

 桜華は顔を真っ赤にした。

 その後のことも思い出したのだ。

 あまりにも激しかった人生初のあの経験を。


(う、うわああっ!)


 恥ずかしさから起き上がろうとする。

 上半身を起こすと、ゆさりっと双丘が大きく揺れた。

 彼女はいま一糸も纏っていなかった。

 そのことにも顔を赤めつつ、服――浴衣を探そうとするが、

 ――カクンっと。

 腕から力が抜けて倒れた。


(うわっ)


 桜華は驚きつつも再び立ち上がろうとするが、今度は両足にも力が入らない。

 膝がプルプルと震えるし、下腹部が正直……痛かった。

 何の痛みなのかは自分で言うのも野暮だ。


(……いや。こういうのは治癒してくれないのか? 龍泉……)


 動揺のためか、口元をへの字にして、そんな意味不明なツッコミをしてしまった。

 この痛みが消えないのは巫女――乙女でなくなったからとは思わない。

 大地の魂力は、今も強く注がれていると感じ取れたからだ。

 自分は、未だ龍泉の巫女のままである。


(むむむ……)


 ともあれ、立とうとする。

 ほとんど力は入らないが、どうにか立ち上がって、落ちていた浴衣を羽織る。近くに帯も落ちていたが、締めるだけの体力はなかった。

 それから壁伝いに歩き、襖を開けると、そこには浴衣姿の真刃がいた。

 窓際にある板張りのスペース—―広縁ひろえんと呼ぶらしいのだが、そこに置かれた木製の椅子に座って月光の差し込む窓の外を眺めている。


「……久遠」


 桜華は壁から手を離し、ひょこひょこと歩きながら真刃に近づいた。

 すると、真刃の方も気付いたようで、


「起きたのか。桜華」


「あ、ああ」


 桜華は、こくんと頷いた。


「月を見ていたのか?」


「ああ。良い月夜だったからな」


 言って、真刃は立ち上がった。

 そうして桜華の元にまで近づくと、彼女を抱き上げた。


「………あ」


「起きたのなら付き合え」


 そう告げて、桜華を抱いて戻り、再び椅子に腰を降ろした。

 膝の上には桜華を乗せた状態だ。

 流石に顔を赤くしていた桜華だったが、


「…………」


 無言で窓の外に目をやった。

 確かに綺麗な月だった。

 コトン、と桜華は真刃の胸板に頭を預けた。

 しばし沈黙が続く。

 そして、


「……桜華」


 真刃が口を開いた。


「……寂しかったか?」


「……うん」


 桜華は素直に頷いた。


「寂しかった。辛かったんだ……」


「……そうか」


 真刃は双眸を細めた。

 それから小さく嘆息して。


「これではあやつらに言われたからではないな」


「……え?」


 桜華は顔を上げた。

 真刃は彼女の顔を見つめた。


「桜華。少しは体力も回復したか?」


「あ、ああ。さっきよりは……」


「そうか」


 真刃は桜華を抱いたまま立ち上がった。


「ならば、続き・・をしても大丈夫だな」


「……え?」


 真刃の腕の中でキョトンとしていた桜華だったが、


「え? え?」


 ややあって、ハッとする。


「ちょっと待て!? 続き・・!? 自分はもう結構ガクガクなんだぞ!?」


「む? ああ、ようやく一人称が完全に直ったようだな」


「当り前だ! 自分は今夜が初めてだったんだぞ! なのに何度もあんな容赦のない矯正をされたら嫌でも直るわ!」


 と、気炎を吐く桜華。

 一方、真刃は苦笑いを浮かべて、


「すまんな。あれはただの口実のつもりだったのだが、お前が愛らしくてな」


「あ、愛らしい!?」


 桜華は耳を真っ赤にするが、すぐにかぶりを振って、


「う、うるさい! 確かに自分は無知だった! 剣ばかりの百年処女おぼこだったさ! けど、だからといってお前の好き放題にしすぎだろ! 少し怖かったんだぞ! お前、自分がお前よりもずっと年上だってことを忘れてるだろう!」


 ぎゅぎゅうっと真刃の顔を押しのけて、桜華は憤慨する。

 真刃は、少しだけ表情を真剣なモノに改めた。


「いや、忘れてなどいない。ただ、お前に関しては、芽衣と六炉から容赦するなとも言われていたからな」


「いや待て!? なんだそれは!?」


 桜華は目を丸くした。


「なんでそこで芽衣と六炉の名前が出てくるんだ!? というより、なんであいつらがそんなことを言うんだ!?」


「気にするな。いずれにせよ」


 真刃は桜華を見つめて、


「お前の年月を忘れるものか。オレは、今宵、お前を百年分愛するつもりだ」


 そう告げた。

 桜華は唖然とした。

 そして、


「ず、ずるいぞ……」


 思わず視線を逸らした。


「け、けど、やっぱりダメだ。だって汗も結構かいているから……」


「……ふむ」


 真刃は小首を傾げた。


「そうでもないと思うが、お前が気にするのならば、先に行く場所が決まったな」


 言って、真刃は別の部屋に向かう。

 個室にある露天風呂だ。

 桜華は、もう口をパクパクと動かすだけだった。


「諦めることだな」


 真刃は苦笑を浮かべて、そう告げた。

 そして本当に大切そうに桜華を抱き寄せて、


「お前は怪物に見初められたのだ。もう逃げることは叶わぬと知れ」


「…………」


 一方、桜華は茫然と目を見開いていたが、不意にムムムと口元をへの字に固めて。


 ポカっ。

 ポカポカっと。


 真刃の頭を、軽く固めた両手で叩き続ける。

 しかし、優しい怪物には通じない。

 ややあって、桜華は「も、もうっ!」と呟き、


「……す、好きにしろ」


 真っ赤な顔でそっぽむきつつも、そう答えるのだった。


 かくして。

 怪物の花嫁として、この上なく容赦なく。

 一夜にして百年の恋を果たすことになった桜華だった。

 

 だが。

 この夜には、少しだけ続きがあった。


 それは明け方近くのことだ。

 真刃と身体を重ねて眠っていた桜華は目を覚ました。

 真刃も、彼女の微かな身じろぎに目覚める。

 桜華は、真刃の顔を見上げた。


「……真刃」


 真刃の名を呼ぶその瞳は、何か悩みを抱いているようだった。


「どうした? 桜華」


 真刃がそう尋ねると、


「……自分は」


 桜華は迷いながらも言う。


「お前に話すべきか悩んでいた。狼覇や赫獅子とも相談された。この件は、自分の口からお前に伝えるのがいいと進言された」


「……桜華?」


 真刃は眉をひそめる。

 桜華は真刃の背中に手を回して、ギュッと身を寄せた。


「自分は嫉妬深い女だ。正直、今も伝えたくないと思っている。けれど、それを卑怯だとも思っているんだ」


「…………」


 真刃は、桜華を抱えたまま、上半身を起こした。

 裸体の彼女の腰を抱き寄せて、


「何があった? お前は何を知っている? 桜華」


 真刃が桜華の髪に触れながら問う。

 すると、桜華は、


「生きて、いるんだ」


 小さな声でそう呟いた。


「……桜華?」


 眉根を寄せる真刃に、


「生きているんだ。あいつは」


 桜華は顔を上げて、今度ははっきりと告げた。


「百年の時に囚われたのは自分だけではないんだ。あいつもまた、今も生きているんだ。あの頃のまま、あの日の姿のまま、火緋神、杠葉も……」


 ――と。







 第8部〈了〉


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


読者のみなさま。

本作を第8部まで読んでいただき、誠にありがとうございます!

ようやく桜華が嫁入りしました! 本当に長かった!


しばらくは更新が止まりますが、第9部以降も基本的に別作品との執筆のローテーションを組んで続けたいと考えております。


第9部は、もう一人の百年乙女がメインとなる予定です!


もし、感想やブクマ、♡や☆で応援していただけると、とても嬉しいです! 

大いに励みになります!

今後とも本作にお付き合いしていただけるよう頑張っていきますので、これからもよろしくお願いいたします!

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