第334話 想いの寄る辺⑩

 …………………………。

 ……………………。

 ……そうして。

 

(………う)


 十分後。

 ゆっくりと。

 気を失っていた桜華は意識を取り戻した。

 しかし、まだ明朗ではない。

 ただ、自分が誰かに抱きかかえられていることは分かった。

 桜華はうっすらと瞼を上げた。

 すると、


「……目が覚めたか?」


 そんな声を掛けられた。

 途端、桜華の意識は完全に目覚めた。

 目を見開いて、何度も瞬かせる。

 あごを上げると、そこには青年の顔があった。


「く、久遠?」


 桜華は目を瞬かせたまま、彼の名を呼んだ。

 ようやく気付く。

 自分は今、彼に抱きかかえられているのだと。


「ふ、ふあっ!?」


 桜華は思わず体を動かそうとするが、


「動くでない」


 真刃に強く抱き寄せられて止められてしまった。

 いや、正確には、自分で硬直してしまったのだが。

 耳を赤くして思わず俯く。と、


「……あ」


 そこで初めて気づいた。

 自分の胸元から水晶の首飾りが無くなっていることに。


「し、白冴? 白冴がいない……」


「ああ。白冴なら」


 それには真刃が答えた。


「今は席を外してもらった。今頃、猿忌に現状を伝えられているはずだ。それとお前についてきていた少年にも席を外してもらったな」


「……少年?」


 桜華はキョトンとするが、すぐにそれが扇蒼火のことだと思い当たる。


「そ、そうか……」


 そう呟いて、前に目をやった。

 眼前に広がる光景は高所。

 封宮でも結界領域の中でもない。すでに通常の世界に戻っていた。

 恐らく、名付き我霊が撤退したのだろう。

 ここはどこかのビルの屋上なのか、海の見える場所だった。

 桜華は、しばし夜の海を眺めていたが……。


「……『私』は……」


 桜色の唇を動かす。


「負けたのだな。お前に」


「ああ」


 真刃は首肯する。


オレの勝ちだ」


「……そうか」


 桜華は視線を伏せた。

 十数秒ほど、沈黙が続く。

 そして、


「わ、『私』は……」


 上目づかいで真刃を見る。


「負けた。あれは『私』にとっては《魂結びの儀》だったんだ。それに負けた。なら、どうなるのだ? 『私』は……」


 早鐘を打つ鼓動を隠しつつ、そう尋ねる。

 すると、真刃は、


「そうだな。まずは――」


 一呼吸入れて、


「一つ尋ねたいことがある。再会した時から気にはなっていたのだが、その『私』というのは何だ? 確か、お前は自分をそんなふうには言っていなかったと思うが?」


「……え」


 桜華は目を瞬かせる。

 が、すぐに少し頬を膨らませて、


「今さらだが、『私』は女だ。あの頃、『私』はそれをお前に明かそうと思っていた。けれど、結局、それは機会を失って……」


 少し視線を逸らした。


「『私』はそれを後悔していた。だから、龍泉の地でこの姿に戻った時、せめて一人称ぐらい女らしくしようと思ったんだ」


 そんなことを告げる桜華に、真刃は少し驚いた顔をした。

 が、すぐに呆れたような表情を見せて、


「何だそれは。一人称など男だろうが女だろうが自由だろう。お前はお前だ。そんなことでお前の存在が変わるはずもあるまい」


「……ぐ」


 桜華は言葉を詰まらせた。

 自分でもつまらない拘りだとは思っていたのだ。


「まずはそこから戻せ。お前らしくもない」


「……むう」


 桜華は不満そうだったが頷いた。


「さて」


 真刃は、桜華をその場に立たせた。

 二人は正面で対峙した。


「それで本題だが、先にお前に文句がある」


「……え?」


 桜華は目を瞬かせた。

 対する真刃は真剣な眼差しで言う。


「お前に悪意はなかったとは思っているが、結果的にでも、お前の行いが切っ掛けで危険な目に遭った者たちがいるのだ」


 一拍入れて、


「詳細に関しては後で教えよう。当人たちに謝罪もしてもらう。たとえお前であっても、正直、オレも怒っているからな。だがしかし、オレがお前にまず言いたい文句は別にある」


「な、なんだ……?」


 緊張した面持ちで桜華が尋ねると、真刃はまじまじと彼女を見つめて、


「この阿呆あほうが……」


 そう呟いて、トスンっと桜華の頭を手刀で打った。


オレの言った言葉を忘れたか? 無闇に傷つくことは許さぬと言ったはずだぞ」


「……え」


 頭を両手で抑えて、桜華は唖然とした。


「本当に忘れたか? お前にとっては遥か過去だしな。あの道化と対峙した夜のことだ」


 真刃にそう補足されて、桜華はハッと思い出した。

 ――そう。遠い、遠い過去のことだ。



『桜華。いいか。お前はオレの妻だ。無闇に傷つくことは許さぬぞ』



 確かに、かつて彼はそう言っていた。


「いや、傷つくと言っても今の『私』は実質的に不死に近い。傷などすぐ再生するぞ」


 桜華が自身の体を見ながらそう告げる。

 レギンスはところどころ破損しているが、その下の肌には傷一つない。

 すると、真刃はかぶりを振った。


「肉体の話ではない。心の話だ。百年にも及ぶ年月としつきの重みとはいえ、こんなにも深く傷つきおって。御影――いや」


 そこで真刃は桜華の頬に片手を当てた。


桜華・・


「……あ」


 桜華は軽く震えた。


「もっと自分をいたわれなかったのか? いや、すべてはオレのせいか……」


 眉を八の字にして真刃が呟く。


「ち、違う!」


 桜華は、強く胸を締め付けられて叫んだ。


「『私』が悪かったんだ! 『私』が弱かったから!」


「……待て桜華」


 真刃は眉をひそめた。

 そして桜華のあごに手をやった。


「まだ一人称が戻ってないぞ」


「……いや。仕方がないだろ。けっこう長い間、『私』を続けていたから――」


 そう反論する桜華だったが、その台詞は最後までは言えなかった。

 何故なら、声を発する唇が塞がれてしまったからだ。

 真刃の唇によって。


(……………え?)


 目を見開く桜華。

 そして、みるみる内に顔が赤くなっていく。

 ややあって、二人の唇が離された。


「く、く、く……」


 唇を両手で隠して、真っ赤な顔で後ずさる桜華。

 笑っているような声だが、混乱して名前を呼べなくなっているだけだった。

 一方、真刃は、ボリボリと頭をかいて、


「……ふむ。そうなのか。オレとしては違和感があるのだが、まあ、よかろう。これからは時間もある。いずれは直るだろう」


「じ、じかん? いずれ?」


 ようやく言葉を発せるようになった桜華が動揺した様子で尋ねる。


「……要はこういう事だ」


 真刃は桜華の腕を掴んで抱き寄せた。

 桜華は唖然とした顔で真刃を見上げている。


オレはお前との《魂結びの儀》に勝った。そうだな」


「は、はい」


 桜華は、コクコクと首肯する。


「ならば答えは一つだ。桜華。お前はもうオレの女だ」


「―――――ッッ」


 桜華は目を見開いて、再び言葉を失った。

 対し、真刃は嘆息した。


「元々、演技だったとはいえお前はオレの妻だったしな。最初からそう告げればよかったな。我ながらとんだ夫婦喧嘩になったものだ。ともあれだ」


 真刃は桜華の腰を掴み、


オレはもうお前を離したくない」


 はっきりとそう告げた。

 桜華は、本当に言葉がなかった。

 ただ、ポロポロと涙だけが零れ落ちる。


「……オレは人擬きだ。それでもオレの歩む道に付き合ってくれるか?」


 真刃がそう問うと、


「……当然だ」


 涙を拭って、彼女は不敵に笑った。


「そんな覚悟は百年前に出来ている」


 そう告げて、彼女は愛する青年の背中を強く掴んだ。

 ややあって再び唇が重ねられる。

 桜華の瞳からは一滴の涙が伝った。

 こうして。

 百年の年月としつきを彷徨い続けた想いは、ようやく寄る辺へと辿り着いたのである。


 星は瞬き、月は輝く。

 再会の夜は穏やかに続いた。

 良き哉、良き哉。












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