第289話 朝を迎えて➂

 同日の朝。七時半過ぎ。

 むくり、と。

 ベッドの上で上半身を起こし、彼女は目を覚ました。

 年の頃は十二歳ほど。

 毛先に行くほど明るいオレンジになるのが特徴的な赤い髪。普段は左右をリボンで結いで分岐させているのだが、寝起きの今は真っ直ぐ腰まで下ろしている。

 服は大きなTシャツ。胸元に『black cat』と白文字でプリントされている。

 その下には当然ながら下着やスパッツを履いているのだが、シャツが大きすぎて、それだけを着ているようにも見える。

 スタイルは……残念ながら月子に比べると年相応だった。


 ――肆妃・『星姫』、火緋神燦である。

 彼女は寝ぼけまなこで数秒ほど沈黙していた。

 そして、


「……ふわあっ」


 と、大きな欠伸をして両手を上に背伸びをする。

 少し目が覚めてきた彼女は周囲を確認した。


「……はえ?」


 どうも自分の部屋ではない。

 モノの少ない随分と質素な部屋だ。


「あ。そっか……」


 昨日の記憶が思い出される。

 ――そう。昨夜はおじさんの部屋に泊ったのだ。 

 燦はしばし遠くを見ながら、ポーっとしていたが、おもむろに口元を綻ばせた。


「……そっかあ。あたしもとうとう……」


 言って、愛おしげに自分の腹部に手を添えた。

 頬を朱に染めて、口元には微笑を浮かべる。


「……えへへ」


 そしてまるでそこに命でも宿っているかのように腹部を撫でる。

 実に多方面に誤解を招くような仕草である。

 が、真刃の名誉のために言えば、昨夜にそういったこと・・・・・・・はなかった。

 おこなったのは、あくまで第一段階までの《魂結び》である。

 特に燦の場合は、すべての妃たちの中でも最も特殊で色事には縁遠いモノだった。


 それは《魂結び》を始めた直後のことだった。

 発熱した燦は一気にハイテンション化してしまったのである。

 ゲーム機を真刃の部屋へと持ち込み、様々なゲームを楽しんだ。

 実戦では無双を誇る真刃もゲームばかりは苦手である。

 普段ならば金羊に燦の相手を任せるところだが、この日ばかりは真刃自身が付き合った。

 戦績はもちろん燦の全戦全勝だ。

 燦のテンションはもう天井知らずに上がっていった。


『おじさぁん弱ぁい! ざぁ~こ!』


 と、ここぞとばかりにマウントを取ってくる。

 まさに燦は絶好調だった。

 しかしながら、二時間ほど経つと、


『……ふえ?』


 カクンっと燦の姿勢が崩れ落ちた。

 コントローラーを掴んだまま、唐突にその場に沈みこんでしまったのである。


『あれれ?』


 内股で座り込み、上半身は床に突っ伏している。

 どうやら体力の限界が来たようだ。

 ようやく苦手なゲームから解放された真刃は苦笑いを浮かべつつも、くたあっとなった燦の腰を抱き上げて自分のベッドの上に運んだ。


『……おじさぁん……しんどいよォ』


 一方、先程までの威勢もどこへやら。

 ぐすっと鼻を鳴らして、燦は甘えた声を出した。


『……まったく。お前は……』


 真刃は微苦笑を浮かべて、そんな燦の額に手を置いた。

 燦は『……ん』と猫のように瞳を細めた。

 その後の燦は、もう完全に病気の時に甘える子供だった。

 真刃にブルーベリージャムを入れたヨーグルトを食べさせてもらったり、えずいた時は落ち着くまで抱っこしてもらったりと、それはもう甘えまくるのであった。


 本当に色気もへったくれもない。

 後日、月子が燦からこの話を聞いて、思わずスンっと無表情になってしまうのだが、それはまた別の話だった。


「えへへ」


 いずれにせよ、今の燦は上機嫌だった。

 壁にある時計を確認する。まだ七時半過ぎだ。《魂結びの儀》のために、昨夜は寵愛権を発動させている。その権利はまだ続いていた。


「よいっしょ」


 燦はベッドから降りた。

 部屋に真刃の姿はない。恐らくテレワークのための執務室だろう。

 そろそろ仕事も終わっているかもしれない。


「……ん」


 拳を固めてみる。

 身体の調子はいい。熱も完全に下がったようだ。

 だったら折角の寵愛権だ。

 もっと、もっとおじさんに甘えたい。


「おじさん!」


 燦は真刃の姿を求めて部屋を飛び出すのだった――。



       ◆



 同刻。フォスター邸の執務室。

 燦の予想通り、真刃はその部屋にいた。

 彼が身に着けているのは、白いYシャツと黒いジーンズ。

 いつも通りのラフな私服姿ではあるが、これでも仕事中である。

 真刃はワークチェアに座って、ノートPCを見据えていた。


『……そう』


 モニターに映る相手は女性だった。

 大胆に胸元を開いた真紅のイブニングドレス。

 長い黒髪が艶やかな美女。西條綾香である。


『それはまた面倒な状況ね』


 小さな溜息をつきつつ、綾香は言う。


『正体不明の襲撃者に、貴方の昔の女の登場って訳ね』


「……いや待て。御影のやつは……」


 と、真刃が反論しようとするが、


『私相手に取り繕う必要なんてないわよ。貴方への執着ぶりからして、貴方の昔の女だったんでしょう? 貴方の元カノか、隷者ドナーだったのかは知らないけど』


 綾香は一蹴する。

 ちなみに、綾香には過去の話や真刃の素性までは語らず、襲撃事件の概要と、御影のことについてはかつての同僚であり、友人だったとだけ告げていた。


引導師ボーダーですもの。色々あるでしょう。深く詮索するつもりもないけど、その女ってかなりイタいわね。特に勝手に貴方の家名を名乗っているところとか』


「………う、む……」


 真刃は一瞬言葉を詰まらせたが、


「……いや。あながち勝手ではないな。それに関してはオレも認めたことだ」


 一応フォローする。

 任務の上ではあるが、確かに『久遠桜華』はかつて存在した。

 恐らく御影は相応の覚悟と想いを込めて、あの名を使っているのだろう。

 真刃も鈍感ではない。流石にここに至っては御影が――いや、桜華が込めたその想いがどんなモノなのかは、すでに察していた。


『あら、そうなの?』


 綾香は『ふ~ん』と指先を頬に当て、


『なるほどね。そういった面倒くさい性格も含めて、その女は今も貴方のオキニってことなのよね。なら、とっとと捕まえて有無も言わさずにキスの一つでもすればいいのよ。きっとそれだけでデレモードになるわよ。つまらない痴話げんかなんかさっさと切り上げて、早くヨリを戻すことね。とにかくよ』


 そこで少し前屈みになって、彼女は人差し指を立てた。


『放置するのが一番の悪手だと憶えておきなさい。その女、たぶん貴方が傍にいないと色々と深く考えすぎてやらかすタイプだと思うから』


 そう忠告してくる。

 一方、真刃は双眸を少し細めた。


(……深く考えすぎるか)


 心の中で反芻する。

 確かに、昔から桜華には深く考え込みすぎるところがあった。

 そして放置というのなら、まさに百年も放置していた訳である。


「……そうだな」


 真刃は独白のように返す。


「お前の忠告は心に止めておこう。それよりもだ」


『ええ』綾香は頷く。


『正体不明の襲撃者の件よね』


 一拍おいて、


『やっぱり火緋神家との因縁の線が濃いかしら』


「……恐らくはな」真刃も頷く。


「そう思っているからこそ火緋神家もすでに動いておる。だが、オレはあまりあの家に深い関りを持ちたくないのだ」


 ただでさえ因縁深い家だ。

 関り合うとしても最小限にしたいのが、真刃の本音だった。

 すると、綾香は苦笑を浮かべて。


『火緋神家本家のお姫さまを隷者にした以上、無関係は無理でしょう。けど、確かに不要な借りは作りたくないわね。なら丁度良かったじゃない』


 ふっと口元を綻ばせて、


『今朝がた、獅童たちが出発したわ。少し前倒しになったけど』


「……そうか」


 真刃は指先を組んで頷く。


「こちらも空いていた部屋を幾つか用意した。これで人員は確保できたか」


『ええ。そうね。昼ぐらいには到着するはずよ。戦闘員は全員が強力な象徴者シンボルホルダーの精鋭だからコキ使うといいわ』


 綾香は『そうそう』と言葉を続けた。


『茜と葵。予定通り二人も同行してるからよろしくね』


「あの二人もか?」


 真刃は眉根を寄せた。


「今回はすでに騒動が起きておる。次回にしてよかったのではないか?」


『貴方に保護して欲しいとは言ったけど、一応あの子たちも今は近衛隊扱いなのよ』


 そこまで特別扱いは出来ないわ。

 と、綾香は言う。


『制限はあるけど、あの子たちの力はきっと役に立つわよ』


「……そうか」


 少し納得はいかないが、真刃はそう呟いた。

 それから真刃と綾香は幾つかの打ち合わせをした。

 最後に、


『じゃあ、あの子たちをよろしくね』


 そこで綾香はふっと笑って、


『すべては貴方の自由だけど、まあ、なるだけ優しく・・・ね』


 思わせぶりにそう告げて、綾香は通信を切った。


「……ふむ」


 真刃はワークチェアの背に体重を預けて指を組んだ。


「大所帯になるな。なかなか騒々しくなりそうだ」


 そう呟く。

 ――コンコン。

 執務室のドアがノックされたのはその時だった。








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