第一章 朝を迎えて

第287話 朝を迎えて①

 ――ダンッ!

 強い振動がフロアに奔る。

 それは連続して響いた。

 板張りのフロアを打ちつけながら、彼女が前へと進んでいるからだ。

 ただの踏み込みではない。

 中国拳法における震脚である。

 震脚と同時に、彼女は順突き――崩拳も繰り出していた。

 一撃ごとに前に進んでいく。そのたびに拳と腕から汗が飛び散った。


 時刻は朝の五時半。

 訓練場にて黙々と鍛錬をこなすのは一人の美しい少女だった。

 厳しい鍛錬中であっても温和さが分かる顔立ちに、うなじ辺りでカットされた、ふわりとした淡いゴールドの髪。瞳の色は輝くアイスブルー。

 年齢は十二歳なのだが、異国の血の影響か、年齢離れをしたスタイルをしている。

 初めて彼女と会う人間は、背が少し低い高校生だと思うだろう。

 彼女は今、スポーツシューズに上下一体のスパッツ。その上に白いTシャツを着ていた。まるでダンスレッスン用の衣装だ。

 動きやすさから、学校支給の訓練服よりも愛用する服である。


 再び鋭い突きが繰り出される。

 彼女の名は蓬莱月子。肆妃・『月姫』である。


 まだ誰もいない訓練所で、彼女は一人きりで頑張っていた。

 無言で拳が撃ち出される。


(……もっと頑張らないと)


 そんな想いを抱きつつ、さらに五分以上、鍛錬を続ける。

 そうして――。


「やあっ!」


 天を突くような蹴りを頭上に繰り出した。

 ゆっくりと右脚を降ろす。

 月子は大きく息を吐き出した。

 天井を見上げて呼吸を整え、首筋から零れる汗を腕で拭う。

 Tシャツも大量の汗で濡れていた。

 しかし、


(まだ全然ダメ……)


 自分でそう思う。

 まだまだ師である山岡には遠く及ばない。


(こんなんじゃダメだ)


 月子は眉を強くしかめた。

 瑠璃城学園襲撃から、すでに二日が経過していた。

 あの日、月子は何も出来なかった。

 ただただ動揺し、最後までただただ怯えていた。

 仮にも引導師ボーダーを目指す者としては恥ずべき失態だった。

 何よりも。


(また燦ちゃんに守られてるだけだった……)


 キュッと唇を噛む。

 いつもいつも燦は自分を守ってくれる。

 それはとても嬉しい。

 けれど、自分は燦の相棒だ。『星』と対を成す『月』なのだ。

 決して一方的に守られるだけであってはいけないのである。

 月子は、再び汗を拭って深く息を吸った。


「もっと頑張らないと」


 拳を強く固める。

 市井の出である月子は系譜術クリフォトを持っていない。

 だからこそ、せめて体術だけは誰にも負けないレベルにならなければならなかった。

 そのための誰よりも早い自主練なのである。


「よし」


 月子は鍛錬を再開しようとした。

 と、その時だった。


「あれェ?」


 不意に訓練場に月子以外の声がした。


「月子ちゃん、もう来てたんだ」


 振り返ると、そこには一人の女性がいた。

 身長は百五十後半ぐらいで小柄。二十歳ほどの美女である。

 スタイルも大人であるということを差し引いても、月子を大きく上回るほどに抜群だ。

 腰まで伸ばした長い栗色の髪はウェーブがかかっていて、ボリューム感がある。艶やかな桜色の唇と、少し垂れ目がちの大きな瞳が印象的な女性だった。


 ――伍妃・芽衣である。

 彼女は今、黒地に白のラインが入ったランニングウェアを着込んでいた。

 明らかにトレーニング用の服装。目的は月子と同じようだ。


「おはようございます。芽衣さん」


 月子は頭を下げて挨拶した。


「うん。おはよっ」


 芽衣は、にっこりと笑って手を振った。


「朝ごはんの準備の前に軽く訓練しとこうと思ったんだけど、月子ちゃん、早いねえ」


 そう告げる。

 だいぶ年上だが、芽衣は月子の後輩。新たに入った妃の一人だ。


(……芽衣さんか)


 月子は、まじまじと芽衣の顔を見上げた。

 芽衣に対する月子の第一印象は、ほんわかしたお洒落なお姉さんだった。

 しかし、彼女は意外と家事も万能であり、陸妃以外はまだ学生である他の妃たちを気遣ってくれて、家事全般を一手に引き受けてくれていた。

 立場こそ同じ妃ではあるが、今の印象は『お母さん』である。

 まあ、月子の実母とは印象がだいぶ違ってはいるが。


「努力家なんだねェ。こんな時間から訓練なんて」


「……いえ」


 月子はかぶりを振った。


「私は全然弱いですから」


「いやいや、それを言ったらウチなんて」


 頬に片手を置き、どこか遠い目をして深々と嘆息する芽衣。


「……妃の中で最弱なんだよォ。ウチこそもっと頑張らないと」


 そんなことを呟く芽衣に、月子は微笑む。

 芽衣もまた努力家だった。

 やはり好感が抱ける人だった。


(……うん)


 月子は少し考える。

 他の妃たちと違って伍妃と陸妃は、世代がだいぶ違う。

 エルナたちに比べると、まだお互いのことをよく知らない状況だ。

 ここで親睦を深めるのも良いかもしれない。


「あの、芽衣さん」


 月子は提案してみた。


「一緒に訓練しませんか?」


「うん。いいよォ」


 芽衣は笑顔で即答してくれた。


系譜術クリフォトの訓練もしたかったから、月子ちゃんが付き合ってくれると嬉しいよォ。今回に限ってだけど《DS》も使っていいって話だし、出力配分の勘を取り戻そうと思って……」


 と、告げたところで「あ、そうだ」と呟いた。


「いい機会だし、月子ちゃんに一つ教えて欲しいことがあるんだ」


「え? 私にですか?」


 月子は少し驚いた顔で目を瞬かせた。


「うん。そう」


 芽衣は少し真剣な表情で、そんな月子を見つめた。

 そして、


「えっとね、ムロちゃんにも聞いたんだけど、なんかムロちゃん、凄くふわふわした感じでよく分からなくてェ。けど、月子ちゃんは二日前のことでしょう? だから」


 ポンっと柏手を打って。

 芽衣はこんなことを尋ねるのであった。


「あのね。《魂結びの儀ソウルスナッチ・マッチ》ってどんな感じだった?」









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