第282話 忍び寄る影④

 水が流れ落ちていく。

 無数の水滴は艶やかな黒髪に当たり、首筋から豊かな双丘へと伝う。腹部と腰を通り過ぎてしなやかな脚に沿って落ちていく。

 全身に伝うのは冷水だ。

 この時期にはまだ冷たさを感じるモノなのだが、彼女にとってはまるで足りない。

 体の火照りは無論のこと、心に灯った炎を鎮めるには到底足りていなかった。

 身を清めると同時に滝行代わりのつもりだったのだが、効果はないようだ。

 が、それでも彼女は冷水のシャワーを全身に浴び続けていた。


 ややあって、


「……………」


 彼女は両肩を抱えて屈みこんだ。

 その口元は綻んでいる。

 まるで爆発しそうな歓喜を全身でどうにか抑え込んでいるかのようだった。


 そうしてさらに十数秒が過ぎて……。

 彼女は立ち上がると、手を伸ばしてシャワーを止めた。


 ふう、と熱い吐息を零す。

 次いでシャワールームから出るとタオルを取り、乱雑に髪と体を拭いた。

 胸元の水晶の首飾りがキラリと輝く中、タオルを頭にかけたまま、押しかけ相棒が用意した黒い下着だけを履いて寝室に移動する。

 廃ホテルではあるが、この部屋はスイートルームだったらしく、ベッドはそこそこ上質なモノだった。室内にはソファーやワークデスクもある。

 どれもさほど劣化していない。

 今でも普通にホテルとして使用できるだろう。


「…………」


 彼女はワークデスクに目をやった。

 そこには耳に装着する装飾品デバイスが置かれていた。

 思うところがあって耳を澄ませてみる。

 すると、装飾品デバイスから『グフフゥ……』という不気味な声が聞こえてきた。

 小さく嘆息した。

 どうやら案の定のようだ。


「……おい。ホマレ」


 彼女――久遠桜華は半眼になった。


「お前、覗き見をしているだろう?」


『ぐおっ!? そ、そんなことしてないよっ!?』


 と、明らかなどもり声で装飾品デバイス越しにホマレが答えてくる。

 この装飾品デバイスはカメラとしても使えるらしい。

 桜華は嘆息しつつ、頭に掛けていたタオルを装飾品デバイスの上に放り投げた。


『NOッ! 新しい桜華ちゃんコレクションがッ!』


 と、ホマレが悲鳴を上げていた。

 桜華はタオルの掛かったワークデスクを一瞥してからベッドに目をやった。

 そこには替えの黒い中華服チャイナドレスを置いていたが、桜華はかぶりを振った。


「これでは役不足だな」


 言って、虚空を開き、新たな服を取り出した。

 それは全身に装着するタイプのスーツだった。

 色は夜空を思わせるような暗青色ダークブルー。沿うように緑色に輝くラインが引かれている。一種のライダースーツのようにも見える。桜華はスーツと一緒に同色のシューズも取り出していた。


 桜華はベッドに腰を掛けてそれを纏う。


「この装いも久方ぶりだな」


 そう呟き、立ち上がった。

 身に着けてみると、それはかなり肢体に密着しており、ライダースーツというよりも上下一体型のアスリートが着るレギンスのようだった。

 桜華は再び虚空を開くと、さらに衣服を取り出した。

 それは同じく暗青色ダークブルーのハーフコートだった。硬質のコートであり、襟首とフレア状に固定された袖の部位に白いファーが装飾されている。

 桜華はそれも身に着けた。

 それからワークデスクのタオルを手に取り床に落とした。


『……おお~』


 ようやく視界を解放されたホマレが感嘆の声を上げる。


『久しぶりの王さまスタイルの桜華ちゃんだあ!』


「王さまとは何だ?」


 桜華は呆れたようにそう告げつつ、再びベッドの縁に腰を降ろした。

 やや内股に座り、両腕でベッドに触って体を支える。


『う~ん、けど桜華ちゃん』


 ホマレが問う。


『その服って桜華ちゃんのガチの戦闘服だよね? やっぱり何かあったの?』


「……………」


 桜華は無言だった。

 ただ天井を見上げる。

 明らかに何か考え込んでいる。

 ホマレは静かに相棒の返答を待った。


 十秒、二十秒と経過していく。

 そうして、


「……『私』の……」


 ようやく桜華が口を開いた。


「……『私』の夫が生きていた……」


『………へ?』


 キョトンしたホマレの声。桜華は言葉を続ける。


「『私』の封宮メイズを打ち破り、侵入してきたのだ。ああ。『私』が見間違うものか。あれは間違いなくあいつだった。あいつは生きていたんだ……」


 その口調は淡々としたモノだった。

 だが、その声に宿した圧倒的な熱量は装飾品デバイス越しにもホマレに伝わってきた。


『お、桜華ちゃん……?』


「そもそもあいつが負けるはずもなかったのだ」


 桜華はさらに語る。

 その表情は明らかに紅潮していた。


「相手が火緋神だろうが、負けるはずがなかったのだ。あいつの強さは誰よりも『私』がよく知っている。あの七つの邪悪さえも警戒したほどの男なんだぞ。例え神威霊具を用いたところであいつの命に届くはずなどなかったのだ」


 力強く「うむ」と頷く。


「あいつはただ火緋神杠葉を殺せなかっただけなんだ。身内には甘い奴だったからな。ましてや自分の女なら尚更だ。だから、きっと死を偽装したのだ」


『え、えっと桜華ちゃん?』


 ホマレが声を掛けるが、桜華の耳には届かない。


「ああ。そうに決まっている。しかし、何故、あいつはあの頃と同じ姿だったのだ? いや、あいつは精霊殿の主だ。魂力はそれこそ無限にある。『私』が大地の魂力を常に得ているようにあいつもまた――」


 と、自分の思考に没頭しそうになった時。


『桜華ちゃんっ!』


 ホマレが叫んだ。桜華はハッとする。

 それから装飾品デバイスを一瞥して、


「すまない。少し考え込んでいた」


『それはいいけどさ。それより桜華ちゃん……』


 ホマレは躊躇いがちに尋ねる。


『ホントなの? 桜華ちゃんの旦那さんが生きてたって?』


「ああ」


 桜華は頷く。


「『私』は確かに逢った。言葉も交わした。間違いなくあいつだった……」


 と、告げたところで桜華は表情を曇らせた。


「……すまない。ホマレ」


『え? 何が?』


「お前は誰よりも『私』の目的に協力してくれた。しかし、あいつが生きていると知ってしまった今、『私』の目的は――」


『あ。そっか』


 ホマレは言葉の続きを察した。


『桜華ちゃんの旦那さんが生きてるのなら復讐なんて的外れだよね。そのこと以外に「火緋神杠葉」に恨みなんてないんだよね?』


「……ああ」


 桜華は眉根を寄せつつ頷く。


「嫉妬はあるがな。憤懣もあるが、恨むほどではない。何より根源たる憎しみがどこかへと行ってしまった。正直、心に穴でも空いたかのようだ」


 百年にも及ぶ憎悪が、突如にして霧散してしまったのだ。

 心に大きな穴が空くのも当然だった。

 ただ、その心の空洞に今は膨大すぎるほどの情愛が注ぎ込まれている訳なのだが、流石にそれを口にするのは気恥ずかしく、それ以上に不義理のように思えた。


(……ああ、そうだな。確かに不義理だ……)


 桜華はかぶりを振った。


「『私』はお前だけでなくワンにも謝罪しなければならないのだろうな」


『……へ?』


「報酬についてだ。仮に『火緋神杠葉』を殺せた場合、お前か、ワンに『私』自身をくれてやるつもりだったが、もはや目的自体に意味がなくなってしまった。何よりも……」


『……あ』


 ホマレは桜華の言わんとすることに気付いた。

 桜華は少し頬を朱に染めつつも、はっきりと告げる。


「……すまない。あいつ以外の男に抱かれるなど御免だ」


『ホマレは女の子だよっ!』


「……女もだ」


 桜華は小さく嘆息した。


「と言うよりも、もう無理なのだ。あいつと再会して、『私』は今でもなお、こんなにもあいつに想いを寄せていたのだと思い知ってしまったから」


 そう告げて、胸元の水晶の首飾りを強く握りしめる。

 乙女の鼓動が止まらない。

 若返った肉体だけではなく、その心においても。

 まさしく桜華は完全復活を遂げていた。


『………う』


 ホマレは言葉を失う。

 桜華の台詞よりも、彼女の横顔――憂いを帯びた表情を見てしまったからだ。

 それは交渉の余地もない。雄弁な説得力があった。


「……本当にすまない」


 桜華は立ち上がって告げる。


「不義理な奴と縁を切っても構わない。ここからは一人で行動することにしよう」


『……桜華ちゃん』


 ホマレが神妙な声で尋ねる。


『これからどうするの?』


「ああ」


 桜華は力強く頷いた。


「あいつと戦うつもりだ」


『………え?』


 装飾品デバイスの向こうでホマレは目を瞬かせた。


『戦うって、旦那さんと?』


「ああ。『私』はかつての頃よりも遥かに強くなった。それをあいつにぶつけるのだ」


『……へ? 桜華ちゃん?』


 困惑するホマレに、桜華は構わず拳を固めた。

 そしてやや興奮した声色で。


「きっと『私』は負けるだろうな。あいつは最強だから。だが、それでもいい。重要なのは全力を尽くすこと。そうして『私』は――」


 そこで微かに頬を朱に染めて。


「……うん。そうだな。その時こそ『私』は……」


 桜華は視線を逸らしつつ、口元を片手で押さえて告げた。


「誇りも力も技も。全部あいつに奪われて初めてあいつの女になるのだ」


 ………………………。

 ……数瞬の沈黙。


『なんでそうなんのっ!?』


 ホマレは思わずツッコんだ。


『何それ!? 初めて見せる乙女の仕草で言うのがくっコロ願望!?  思っていた以上に脳筋な子だった! つうかやっぱり桜華ちゃんってまだ処女なんでしょうっ!』


「……むむむ。否定はしない」


『急に素直になったよ!』


「……今となってはな」


 桜華は苦笑いを見せる。


「すまない。ここでさらばだ。この装飾品デバイスは壊しておいた方が良いか?」


『……はあ。ちょっと待ってよ、桜華ちゃん』


 早々と別れを告げる桜華に、ホマレは深々と嘆息した。


『色々と状況が大きく変わったことは理解できたよ。正直、桜華ちゃんとエッチできる可能性がなくなっちゃったのは残念だけどさ』


 一拍おいて。


『それ以前に友達なんだからそれぐらい許してあげるよ。けど、そうだねっ!』


 ホマレは興奮気味な声で続ける。


『写真会っ! エッチぃことがダメなら代わりにそれで妥協するよっ! ホマレのお部屋で桜華ちゃんの大写真会をさせてくれたら許してあげるよっ!』


「……いや、それを聞くと『私』は『私』でお前と縁を切りたくなってくるのだが……」


 そう呟いたところで、桜華は苦笑を零した。


「一方的に反故しておきながらその程度で済ませてくれるのは有り難いのだろうな」


『うんっ!』


 元気な子でホマレは言う。


『目的は変わったけど、まだまだホマレの力は必要でしょう? ホマレはどこまでも桜華ちゃんのファンで味方だよっ!』


「……そうか」


 桜華は微笑んだ。

 次いで、装飾品デバイスを耳に装着する。


「ならば、これからもよろしくな。ホマレ」


『うんっ! よろしくねっ! 桜華ちゃんっ!』


 嬉しそうにホマレが返してきた。


「さて」


 桜華は歩き出す。


「ではもう一人に謝罪に行くか」


『う~ん、ワンちゃんは納得してくれるかなあ? きっと無理じゃない? もう《黒牙ヘイヤア》にもあんま意味もないし、こっそりいなくなっちゃえば?』


 そんなことを提案するホマレ。

 桜華は小さく嘆息しつつも、


「それでも話は通して謝罪すべきだろう」


 彼女たちは部屋を出た。










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