第283話 忍び寄る影➄

 血しぶきが飛ぶ。

 ナイフを振り下ろすたびに、少年の顔に血が跳ねた。

 小柄の体のどこもかしこもが血塗れだ。

 ナイフを突き立てられる相手は男だった。

 ベッドに横たわる筋骨隆々の大柄な男。

 だが、すでに動く様子はない。

 それでも少年は振り下ろす腕を止めなかった。

 それが五分ほど続いた。


「…………」


 少年はようやく腕を止めた。

 ナイフを手離して顔の血を拭い、ベッドから降りる。

 ――と、


「終わったか? ワン


 不意に声を掛けられた。

 目をやると、そこには同じく血塗れの少年がいた。

 片手には拳銃を握っている。


「……エボン


 少年――ワンは双眸を細めた。


「ああ。つい念入りになっちまったが」


 殺した男を一瞥する。

 この辺りを根城にしていたはぐれ引導師だ。

 実力・知名度ともに二流。

 しかし、どこにも所属せず一人で活動している男だった。

 最初の足掛かりとしては手頃な相手だった。


ビアンの奴は?」


「……あいつは」


 エボンは拳銃で額をかいた。


使用人野郎どもを皆殺しにした後、気に入った女を連れていったよ」


 溜息と共にそう続けた。


「早速かよ。あいつらしいな。だが……」


 ワンは部屋の片隅に視線を向けた。

 そこには一人の女がいた。

 年齢は二十歳ほどか。

 スレンダーな肢体に透き通った黒い寝間着ネグリジェだけを纏った長い黒髪の美女だ。

 ワンエボンよりも五歳ほど上に見える。しかし、彼女は年下の少年たちの前で、ガタガタと歯を震わせて小さくしゃがみこんでいた。

 その美貌からして十中八九、引導師ボーダーだと分かる。

 彼女はワンが奇襲を仕掛けた時にはすでにここにいた。

 恐らくは情事のために、殺した男に呼びだされていた隷者ドナーといったところか。


「ようやく始めたんだ。俺もまず奪うモンは奪い尽くさねえとな」


 ワンは女に近づくと、そのあごを掴み上げた。

 未だ歯を鳴らす女に、「お前の魂力オドは幾つだ?」と尋ねる。

 女は怯えながらも「ひゃ、122……」と答えた。


「……まあ、合格ラインだな」


 ワンは口角を崩した。

 そして自分よりも背の高い女を軽々と肩に担ぎ上げた。


「俺も今夜はこの女を堪能することにするさ。気に入ったら隷者ドナーにする。なにせ俺の最初の戦利品だしな」


 そう告げて歩き出す。

 運ばれる女は怯え切って声も上げれない様子だ。

 が、ワンはおもむろに足を止めると、顔だけで振り向いて、


「お前も、他の連中も気に入ったのを隷者しな。まあ、二流の引導師の隷者じゃあ数が足んねえかもしれないが……」


 ふっと笑い、


「使用人の中には女も多かったんだろ? 今夜の相手は相談で決めな。何にせよ、しばらくはここを拠点にする。そのつもりでいてくれ」


「ああ」


 エボンは頷く。

 そして、


「いよいよなんだな」


 そう尋ねる朋友に、


「ああ」


 ワンは力強く首肯する。


「ここからが俺が『おう』へと成る道だ」


 そうして月日は流れて……。



「…………」


 その夜。

 帰還したワンは、廃ホテルのエントランスにいた。

 ボロボロの来客用ソファーに体を預けて瞳を閉じている。

 周囲には人はいない。

 部下たちは各自部屋に戻っていた。

 思考に没頭するために人払いしたのだ。

 静寂に包まれるエントランス。

 そんな中、一人の人物が近づいて来た。


「……ワンさま」


 それは長い髪の女性だった。

 二十代半ばほどの赤い中華服チャイナドレスを着たスレンダーな美女である。


「……春鈴シュンリンカ」


 ワンは瞳を開けた。

 彼女はワンの筆頭隷者ドナーワンが最初の戦利品と呼んだ女だった。

 あの夜から五年。

 ほとんどの隷者ドナーは魂力がより高い女へと入れ替わり続けた。今や隷者たちの平均は150を超えるのだが、彼女だけは魂力の量に関係なく今もワンの傍にいた。夜を共にする機会も彼女が最も多い。《未亡人ウィドウ》を別にすれば、ワンの一番のお気に入りの女とも言えた。


 彼女は心配そうに眉をひそめて、


「お疲れのようですが、お身体は大丈夫でしょうか?」


「ああ。大丈夫ダ」


 ワンは苦笑を浮かべつつ答えた。


「少し昔を思い出してただけダ」


 体を起こす。


「それで何か用カ?」


「はい」春鈴シュンリンが頷く。


ビアンさまから今後の方針についてお話があるそうです」


「……そうカ」


 ワンは指を組んだ。


「まあ、想像以上に厄介なターゲットのようだしナ……」


「先程からお待ちです。こちらにお通しいたしましょうか?」


 そう告げる春鈴シュンリンに、ワンが「ああ」と頷こうとした時だった。


「ああ。ここにいたのか、ワン


 不意に別の人物から声を掛けられた。

 視線を向ける。

 途端、ワンは目を見開いて硬直した。

 春鈴シュンリンも驚いた顔をしている。

 そこにいたのは《未亡人ウィドウ》だった。

 珍しく普段の黒い中華服チャイナドレス姿ではない。

 緑に輝くラインの入った暗青色ダークブルーのレギンスの上に、硬質のハーフコートを羽織っている。

 袖や襟などに白いファーも装飾されており、まるで王者のようだった。

 初めて見る姿である。

 化粧も全くしていないようだ。

 薄いアイシャドーもなく、唇は真紅ではなく自然な桜色。

 思えば、化粧をしていない顔を見るのも初めてだった。

 艶やかさでは普段の方が上だろう。

 しかし、ワンは今の《未亡人ウィドウ》の姿に息を呑んだ。

 まるで太陽のようだった。

 これまでのどこか暗さを宿した姿とは違う。


 ――そう。暗雲はすべて払い退けて。

 全身から覇気を放ち、圧倒的なまでの活力に溢れていた。

 これこそが、彼女の本来の姿なのだと思い知った想いだった。


 それほどまでに眩しく。

 それ以上に美しかった。


「どうした? ワン?」


 返答も忘れてしまったワンに、《未亡人ウィドウ》が眉をひそめた。


「あ、ああ……」


 ワンは思い出したように頷く。


「話し中だったのか? 『私』もお前に話があったのだが……」


 春鈴シュンリンに目をやって《未亡人ウィドウ》が言う。


「また後で来た方がよいか?」


「いえ。《未亡人ウィドウ》さま。どうかお気になさらず」


 春鈴シュンリンワンに視線を向けた。


「私は席を外します。ワンさま」


「あ、ああ。そうだナ……」


 そう返すワンに、


「いや。それには及ばない」


未亡人ウィドウ》がそう告げた。


「すぐに終わる話だ。ここはいいか?」


「……ああ」


 頷くワンに、《未亡人ウィドウ》は「失礼するぞ」と言って、向かいのソファーに腰を降ろした。

 その動作一つ一つに今まで以上の覇気と美しさを感じた。

 そして、


「まずは謝罪しておこう」


 そう《未亡人ウィドウ》は切り出した。


「……謝罪?」


 眉根を寄せるワン


「そいつはどういうことダ? 《未亡人ウィドウ》」


「言葉通りの意味だ。すまない。今や事態は大きく変わってしまった」


 そう告げて《未亡人ウィドウ》は深々と頭を下げた。

 こうして謝罪されるのも初めての経験だった。

 ワンはもちろん、春鈴シュンリンも困惑する。


「本当にすまないが……」


 そうして《未亡人ウィドウ》は宣告した。


「お前との賭けの約束はここで破棄させてもらう」











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