第7部 『百年乙女―月華繚乱―』
プロローグ
第247話 プロローグ
とある日のことだった。
桜の花びらが舞う昼時。
ここは意外と質素な屋敷だ。
初めて訪れた時はもう少し堅固かと思っていたので驚いたのを憶えている。
廊下を歩き続ける。
ややあって、彼女は目的の人物を見つけた。
腰に軍刀。外套に黒い軍服を着た青年だ。
「……何をしているんだ?」
同じく軍服を着た彼女が問う。
すると、青年は視線だけを彼女に向けて。
「庭園を見ていた」
そう答える。
彼女も目をやった。
縁側沿いの庭園。
敷き詰められた庭石に、美しく剪定された草木。
この屋敷の役割を考えると不釣り合いなほどに見事な庭園だった。
「この屋敷には未練はないが、ここだけは見納めだと思うとな」
「……ふん」
彼女はふっと笑った。
「囚人だった者の哀愁か?」
「さあな」
彼も少しだけ笑った。
「脆弱な檻だと思っていたのだが、案外ここが
「……ふん」
再び彼女はふっと笑い、
「必要な荷物はあらかた新たな住居に送ったのだろう? 今日は任務もない。まあ、ゆっくり哀愁にでも浸るのだな」
そう告げて彼女は青年の隣に並び、自身も庭園に目をやった。
青年は彼女を一瞥し、
「お前は意外に付き合いのいい
「仮にも自分はお前と組まされているのだ。それぐらいの度量はある」
そう言って、彼女はさらしできつく押さえてある胸を張った。
「……そうか」
青年は、彼女が女性だとは思いもしない。
ただ口元だけは微かに綻ばせた。
二人はしばらく庭園を眺めていた。
今からおよそ百数年前のことである。
そうして……。
◆
時は過ぎて現代。
月と星が輝くその夜。
同じ屋敷の座敷牢でその男は一人、空を見上げていた。
胡坐をかいて微動だにしない。
年齢は二十代前半ほどか。
痩せた体躯に、毛先の方がくすんだ金色になっている黒髪の人物。
鼻や耳、唇や瞼にピアスをつけていた跡のある男である。
「…………」
小さな格子の間から月光が差し込んでいる。
男はそこから月を見上げていた。
男がここに移送されて、およそ四か月が経過していた。
この場所は火緋神家の私有地。山村に偽装した監獄だった。
男は囚人だった。
「…………」
おもむろに手首を見やる。
そこには金属製のリングがはめられていた。
手錠ではない。
リングは両腕にはめられているが鎖で繋がっている訳ではない。
だが、これは手錠よりも厄介な代物だった。
この拘束具は
その上、発信機まで仕込まれているらしく、これがある限り脱走など不可能だった。
男は虚ろな眼差しで両手を顔の前まで上げた。
それから、ややあって格子から覗く月を再び見上げた。
満月。とても大きな月だ。
美しい月だった。
それこそ穢してやりたくなるほどに。
……ギリッ。
男は歯を鳴らした。
「……くそがァ」
虚ろな瞳に憎悪の炎が宿る。
――ドンッ!
畳に拳を叩きつける!
しかし、苛立ちは消えない。
何度も何度も叩きつけるが、一向に晴れることはない。
その双眸は月だけを睨み据えていた。
「全部あのクソガキのせいだッ!」
月に向かって吠える。
「大人しく従ってりゃあいいもんを! 無駄な抵抗なんぞしやがって! その上、あんなバケモンまで――」
そう叫んだ時、背筋に悪寒が奔る。
自分を完膚なきまでに打ちのめした黒衣の男を思い出してしまったからだ。
「――クソがッ!」
その怯えを誤魔化すように再び拳を畳に叩きつける。
「とにかくあのメスガキだ! あいつだけは許さねえッ! ここから出たら速攻拉致って犯してやる! 何度も何度もぶち込んでよがり狂わせてやらあ!」
月を見上げる。
「覚悟してろよ! 絶対に孕ませてやる! 徹底的に仕込んでやる! てめえは永久に俺のペットだ! 毎晩犯して絶対に逃がさねえ!」
その後も男は聞くに堪えない台詞を月に向かって吠え続けた。
普通ならば監視者が来てもおかしくないほどに騒いでいるのだが、誰も来る気配もない。
そんな不自然さにも気付かないぐらいに男は激昂していた。
「クソがあッ! 待っていやがれッ! てめえは俺専用のメスガキにして――」
「……おいおイ」
その時だった。
「お前、流石にそれは引くゾ。相変わらずのクズっぷりだナ」
不意に声を掛けられた。
男はハッとする。それは知っている声だった。
勢いよく振り向くと、部屋を覆う格子の外に一人の男がいた。
二十代前半の男。黒髪黒眸。左目が火傷のような刀傷で潰された人物。
両手はポケットに、少し痛みが激しいコートを身に纏った青年だ。
座敷牢の男は表情を輝かせた。
「――
「おウ」
隻眼の男――
「思ったより元気そうじゃねえカ。
「来てくれたのか!
座敷牢の男――
「なかなか面会には骨が折れたがナ」
両手首のリングも
「けど、よくこの場所を突き止めたよな」
解放された手首を擦りながら、
「そういや随分と静かだが、この村にいた連中はもう消したのか?」
「いヤ」
「面倒だったが村の連中は全員眠らせているだけダ」
「は? なんでだ?」
目を瞬かせて
「殺しちまった方が楽だろ。いつもならそうするよな?」
「そうだナ。だが、メリットもある」
ボリボリと頭をかく
「代わりに暗示をかけたのサ。お前が脱獄したことを認識できねえようにナ。閉鎖的なこの場所ならお前の脱獄を一週間は誤魔化せル。お前を回収するのはいいが、その後に色々と準備する時間が欲しかったからナ」
それに、と入れて。
「何よりボスにここでの殺しは止められちまったんだヨ」
そう告げると、
少し違和感を覚える。
「ボスがか? あの女……あの人が俺らのやり方に口出しすんのは珍しいな」
君臨しても統治はせず。
それがあの忌まわしい簒奪女の方針だった。
それが今回に限ってどうして――。
「まあ、今回この場所を教えてくれたのはボスだしナ」
「お前は俺の右腕だ。どうしても必要だってボスに願い出たら、火緋神家秘匿であるこの屋敷の場所を教えてくれたのサ。火緋神家に捕らえられたのなら、恐らくここに監禁されてるだろうってナ。ただこの場所は――」
隻眼を細める。
「ボスにとって思い入れのある場所らしイ。訪れたことは数度しかないそうだガ、この場所を血で穢さねえってのが救出の条件だっタ」
「……思い入れだと?」
「ああ」
「それもボス自らが赴くほどにナ」
「なんだって?」
訝しげに片眉を上げる
そして、
(おいおい、マジか……)
思わず目を見開いてしまった。
まさかの人物が渡り廊下にいたのである。
それは一人の女だった。
身長は百六十半ば。歳の頃は十九か二十歳ほどか。
肩辺りで切り揃えた黒髪に、紅を引く赤い唇。抜群のプロポーションを持ち、無数の赤い異形の刃を刺繍した、漆黒の
月光が降り注ぐ庭園を見据えて、彼女は一人で佇んでいた。
よく
憂いを帯びた瞳で庭園を見つめる彼女は、神秘的なほどに美しかった。
しばし静謐な時が訪れる。
すると、
「――――」
不意に、彼女が誰かの名を呟いた。
それはあまりに小さな囁きで、
そうして、
「……用件は済んだようだな」
視線を動かさないまま、彼女が尋ねてきた。
「ああ」
「寄り道させちまってすまネエな。《
「そこを気に病む必要はない」
彼女は答える。
「『私』もここに来れてよかった」
そう呟き、愛おしげな眼差しで庭園を見据えた。
「なにせ、あいつの残影はもうほとんど残されていないからな」
言って、胸元に片手を当てた。
服の下。そこには水晶の首飾りが掛けられている。
彼女が持つ確かなる残影は、この贈られた首飾りだけだった。
「
そう呟いて、胸元に添えた手で強く拳を作る。
百年に及ぶ強い想いを感じ取った。
そして、
「さあ、ここでの用件はもう済んだのだろう?」
彼女は
そうして月光が差す庭園にて彼女は、
「『私』とお前の賭けを始めよう。どちらが先にあの女を殺すかをな」
淡々とした声でそう宣言した。
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