第218話 群雄開戦➂

 用があるかと問われれば。

 当然ながら、『ある』と答える。

 あの日。彼女と出会い、その抱擁で背骨をへし折られた時から。

 この日を、ずっと待ち焦がれていたのだ。


 幼馴染も。婚約者も。義妹も。

 自分を愛してくれた者たちをかなぐり捨てて。


 あの時から、ずっと彼女を想い続けていたのである。

 だが、それは語らない。

 語るだけの時間も残されていない。


『ムロ』


 だからこそ、グレイは簡潔に告げる。


『俺と戦ってくれ。《魂結びの儀ソウル・スナッチ・マッチ》をあなたに挑む』


「……意味がない」


 彼女が少し顔を上げて告げる。


「あなたじゃあ、ムロには勝てないから」


『やってみなければ分からない』


 グルルル……。

 低い唸り声を上げて、狼の獣人が重心を沈めた。


『俺はかつて手も足も出ずにあんたに負けた頃とは違う。今ならあんたにも勝てる』


 ざわざわと、全身を覆う灰色の獣毛が逆立つ。

 こうして獣の姿を剥き出しにしたことでようやく自覚した。


 彼女の隷者ドナーになりたい? 

 彼女を守る騎士ナイトになりたい?


 そんなものは、すべてお為ごかしだ。

 ――この至高の女が欲しい。

 そう願ったからこそ、他の女は不要と捨てたのだ。


『何と言おうと受けてもらうぞ! ムロ!』


「……う~」


 彼女は、少し困ったように頬を膨らませた。


「話を聞かない人は嫌い。仕方がない」


 和傘を畳んで片手に携える。


「いいよ。ここで挨拶するつもりだったから、これを挨拶代わりにする」


『承諾したな!』


 灰色狼が吠えた。

 と、それと同時に、


『――スペシャルマッチだッ!』


 司会者が叫んだ!


『《灰色狼グレイウルフ》VS《雪幻花スノウ》! 賭けベッド成立は三十秒! てめえら急ぎやがれ!』


 そう告げると、観客たちは一斉に自分のスマホを操作し始めた。

 モニターにオッズが表示される。

 圧倒的に優勢なのは《雪幻花スノウ》の方だった。

 だが、その時だった。


『グオオオオオオオオオオオオ―――ッッ!』


 灰色狼が天を仰いで雄たけびを上げたのである。

 次いで、狼の体が変貌していく。

 骨格が軋み、筋肉は膨れ上がる。やがてその姿は獣人ではなく完全な狼となった。

 全長は恐らく十メートルはあろうか。まるで黙示録の終末の巨狼フェンリルである。

 そして、モニターに記された魂力は、恐ろしい数字へと跳ね上がっていた。


 ――5103。

 四本目……いや、五本目まで《DS》を投与した結果である。


 この威容と魂力の量を目の当たりにして、オッズが変動した。

 五分五分フィフティフィフティにまで押し戻したのである。


『ムロおオオオッ!』


 巨狼が吠える!

 途端、彼女の体は硬直した。

 これはグレイの系譜術クリフォトだった。

 その名は《天庭優雅グランガーデン》。

 指定した領域内で自分以外のあらゆる動きを停滞させる術式である。

 これを使えば、相手の動きは大幅に減速できる。

 ましてや今の魂力の量。その効果は、もはや時間停止にも等しかった。


(――この一撃に!)


 この姿は十秒も持たない。

 一撃で仕留めなければならない!


(俺のすべてを!)


 巨狼は前脚を彼女に叩きつけた!

 動きを封じた上での全力の一撃だ。

 彼女は吹き飛ばされる――はずだった。

 だが。

 ――ドンッ!

 吹き飛ばされたのは、巨狼の前脚の方だった。

 拘束されていたはずの彼女は、平然と和傘を薙いでいた。

 驚く暇もなく、次の瞬間、彼女の姿は消えていた。


 トンっと。

 巨狼の眉間の上に立つ雪幻の花。


「……あなたのことは憶えてる。少しだけ期待したから」


 彼女は、訥々と語る。


「けど、あの時よりあなたは弱くなった。今のあなたの魂力はただ量が多いだけ」


 和傘の先端を額に突き立てる。


「まるで空っぽの魂力。愛も命も友情も信頼も、ここには何もない」


 哀しそうに彼女は瞳を細めた。


「魂が繋がっていない力をどれだけ上乗せしても強くなんてなれない」


 ゆっくりと、その美脚を高々と天に掲げた。

 そして、


「これで終わり」


 ――ズドンッ!

 神速のかかと落としを、和傘の柄に叩きつけた!

 まるでパイルバンカーの如く撃ち出された和傘は、巨狼の眉間とあごを貫き、そのまま地面へと突き刺さった。

 致命的な大ダメージである。

 何より、すでに時間切れもあって、巨狼の姿が崩れ始める。

 そうして。

 クルクルと。

 和傘を再び開いて回す少女と、倒れ伏すグレイの姿があった。

 わずか十秒にも満たない秒殺。

 観客席も、VIP席にいる鬼塚たちも。

 この場にいる全員が、呆気に取られていた。


 よもや、ここまで実力差があろうとは――。

 誰も言葉を発せなかった。

 すると、


「鬼塚」


 彼女が顔を上げて、鬼塚の名を呼んだ。


『お、おう。何だ? 《雪幻花スノウ》』


 マイクを手に鬼塚が尋ねる。と、


「今の試合は楽しめた?」


 彼女がそう聞いてくる。

 鬼塚は『あ、ああ』と頷いた。


『まあ、少し早すぎたとは思うが、それだけ格が違うってことだしな』


「……そう」


 彼女は微笑んだ。


「最後に役に立てて良かった」


『は? 最後?』


「ん。最後」


 眉をひそめる鬼塚に、彼女は和傘を畳んでお辞儀をした。

 育ちの良さがよく分かる綺麗なお辞儀だ。


「今日までお世話になりました。ご飯、美味しかったです」


 そう告げる。鬼塚は目を丸くしていた。

 が、すぐに表情を変えて。


『お、おい! 待てムロ! どういうことだ!』


「ムロはここから出ていく」


 彼女は顔を上げてそう告げた。

 そして和傘を地面に突き立てた。

 ビシリッと地面に――いや、封宮メイズの一部に亀裂が奔った。

 空間の一部が砕けて穴となる。


「今までは漠然と探していたけど、ムロは遂に予感したの。そう――」


 そこで再び微笑んだ。


「この強欲都市グリードでムロは運命の人と出会うんだって」


『なん、だと?』


 枯れた声で鬼塚が呟く。


「きっと、ムロが《魂結びの儀ソウル・スナッチ・マッチ》をするのは次が最後。次に戦う人こそがムロの愛する人。ムロの全部を愛してくれる人だから」


『おい! 待て! ムロ!』


 鬼塚が叫ぶが、彼女は聞かない。


「うん。鬼塚。今までありがとう。じゃあ」


 彼女は、ぴょんと穴へと跳び下りた。

 呆気ないぐらい味気ない女王さまの退場だった。

 封宮内は静寂に包まれていた。誰もが困惑していた。

 そんな中、


「……あらら」


 VIPの一人。千堂晃がクツクツと笑った。


「鬼塚君。フラれてもうたなあ」


「…………」


 鬼塚は無言だ。ギリと歯を軋ませている。


「無様なモノだわ」


 西條綾香も苦笑を浮かべて肩を竦めた。


「これでよく《雪幻花スノウ》を擁したなんて言えたものね」


 その皮肉にも鬼塚は応じない。

 が、すぐに、


「――ふん」


 鼻を鳴らした。


「ああ。確かに無様だな。俺らしくもなかったってことか」


 そう呟き、マイクを口に当てた。


『おう。聞こえるか? てめえら』


 鬼塚の呼びかけに、会場の全員の視線がVIP席に移る。


『やられちまったよ。まったく。どこまでも想定外で規格外の女だよな』


 ボリボリと頭を掻く。


『だが、お前らも見ただろう? あいつの力を。あの《灰色狼グレイウルフ》さえも歯牙にもかけねえ。この際だからはっきり言うぞ。あれは覇者の力だ』


 ――覇者。

 強欲都市グリードにおいて最も特別な称号に観客たちは色めき始める。


『だが、あいつ自身は覇者じゃねえ。そんなもんには興味もないんだろうな。そんで聞いたよな? さっきの《雪幻花スノウ》の言葉を』


 ザワザワと、さらに周囲がざわつき始める。


『あいつは言った。強欲都市グリードに運命の男がいると。次に戦う野郎こそが自分の男だとな』


 手を上げて、拳を固める。


『分かるか? 覇者の力を持つ女。そいつがこの強欲都市グリードに自分のすべてを捧げてもいい男がいるって言ったんだ』


 鬼塚はマイクを強く握った。

 観客たちは息を呑んだ。千堂と綾香も双眸を細めて鬼塚を見据えている。


『分かるか? てめえら。遂に来たんだよ。この時が。最強の女王が現れたことで!』


 鬼塚は、天を仰いで声を張り上げた。


『女王を手に入れた者! そいつこそが覇者なんだよ!』


 一拍おいて、


『俺は手に入れるぜ! あの《雪幻花スノウ》を! どんな手段を使おうが! 今度こそ俺の女にしてみせる! そして――』


 鬼塚は、はっきりと宣言する。


『俺は強欲都市の王グリード・キングになる!』


 途端、観客席の一部から歓声が上がった。

黒い咆哮ハウリング》のメンバー。もしくは傘下のチームたちだ。

 すると、


『ああ~。それはあかんよ。鬼塚君』


 不意に、千堂がマイクを持って語り始めた。


『今あの人は完全にフリーや。ならチャンスは平等にあるんちゃんか?』


 ザワザワザワ……。

 観客席がどよめいた。


『ええ。その通りよ』


 綾香もまた、マイクを持って立ち上がった。


『彼女を手にした者がキングとなる。それには納得よ。けれど、それが別に男である必要なんてないんじゃないかしら?』


『……確かにな』


 鬼塚が言う。

 VIP席に立つ三人のチームリーダー。

 強欲都市グリードにおいて三強と呼ばれる猛者たちは睨み合う。


『チャンスは平等だ。もちろん、てめえらにもな!』


 鬼塚は、再び観客席に目をやった。


『《雪幻花スノウ》が欲しい奴は名乗りを上げろ! 今この時を以て戦争だ!』


黒い咆哮ハウリング》のリーダーは告げる!


女王スノウ争奪戦! この戦いを制した者こそが強欲都市の王グリード・キングだッ!』


 その宣戦布告に、



「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお―――ッッ!」」」



 かつてない咆哮が上がった。

 その日、その夜、強欲都市グリードは赤く赤く燃え上がった。

 そうして――……。



 その翌日のことだった。

 青天。昼を少し過ぎた頃。

 西の魔都に足を踏み入れる者がいた。

 駅に新幹線が到着し、上着を片手に降りてくる。

 灰色の帽子、同色の紳士服スーツ胴衣ベストを纏った青年である。


「……ふむ」


 帽子を外して、双眸を細める。

 ――そう。彼こそは。


「まだ三月上旬だというのに、西の地は暑いのだな」


 強欲都市グリードの熱気など知る由もなく。

 呑気にそんなことを呟く久遠真刃だった。

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