第199話 王の審判⑥

 その瞬間、鮮血が散った。

 熱い液体が、幾滴か頬にかかる。

 それが血だと気付いた時、篠宮瑞希は、はっきりと意識を取り戻した。


「せん、せい……?」


 自分の肩を支えてくれる老紳士の服を掴む。


「――先生ッ!」


「怪我はありませんか? 瑞希君」


 老紳士――山岡辰彦は、穏やかに笑う。


「先生! 怪我を!」


 瑞希の顔が青ざめる。

 山岡は、右肩から血を流していた。

 杭のように鋭利な指先で貫かれていたからだ。

 一瞬後、その指先は引き抜かれた。山岡は、瑞希にこれ以上、血をかけてしまわないように手で肩を押さえた。


「先生ッ!」


 瑞希が涙目になった。

 そんな彼女に、山岡は変わらず笑みを向ける。


「致命傷ではありません。私なら大丈夫です」


 そう告げて、瑞希をその場に座らせた。

 両膝をつき、足首を外に広げる座り方だ。

 瑞希はすぐに立ち上がろうとしたが、全身に力が入らなかった。

 疲労や負傷のせいというよりも、何かしらの毒物の影響かも知れない。


「先生! 僕を置いて逃げて――」


「出来るはずもないでしょう」


 山岡は嘆息して、瑞希の頭を軽く小突いた。


「ここであなたを見捨てるのは、私の心に死ねと言っているようなものです。老い先短いこの身ですが、誇りを失った余生など御免ですな」


 そう言って、山岡は立ち上がった。


「それならば、ここで命を燃やし尽くす方がいい」


「――先生ッ!」


 瑞希に背を向けて歩き出す山岡を、彼女は追おうとする。

 しかし、体が言うことを聞いてくれず、その場から動けなかった。


「大丈夫です。瑞希君」


 山岡は、歪なピエロと対峙して拳を構えた。


「私は勝ちますので」


『……へえ』


 一方、ピエロは、カクンと首を傾げた。


『致命傷はギリギリ避けたみたいだけど、その肩の傷は深いよ。それで、オイラとまだ戦えるのかな?』


「傷が深い? それがどうかしましたか?」


 山岡は、双眸を細めた。


「私の拳はまだ動きます。何より私の後ろには守るべき者がいる」


 コオオ、と呼気を吐く。


「戦う理由は十二分。戦わない理由など皆無です」


「――先生ッ!」


 瑞希が、悲痛な叫びを上げた。

 いじましく這ってでも、彼の元へと行こうとしている。

 その様子に、ピエロは片手で顔を覆った。


 ――嗚呼、素晴らしい。

 なんて、なんて美しいんだ……。


 人の絆の強さ。最も観たかったモノがここにある。


(……嗚呼、人間は本当に綺麗だ……)


 主人たる《宝石蒐集家トイコレクター》の感動を受け取って、ピエロ人形は体を震わせた。


『……やっぱり山岡さんを主演に選んで正解だったよ』


 と、切り出して、


『オイラたち、名付きネームド我霊エゴスは、趣向っていうか、演出のタイプが二種類に分かれるんだ。一つはリアリティ……いや、ドキュメンタリーっていうのが正しいのかな? とにかく、なまの舞台を観るために閉幕まで一切容赦しない連中』


「………?」山岡は眉根を寄せた。「何の話です?」


『身内話かな?』


 ピエロは、人差し指を立てた。


『それでもう一つは演出重視の人たち。メインシーンが観れたら、ちょっと感情移入しちゃってつい手心を加えちゃうんだ。ハッピーエンド派とも呼ばれているよ』


「本当に何の話をしているのですか?」


 山岡は、隙なく身構えたまま困惑する。


『ああ。ごめん』


 それに対し、ピエロは肩を竦めた。


『本当に身内にだけ通じる話だったね。まあ、結論として言うと、オイラはどっちかというと後者になるんだけど、今回は別ってこと』


 ピエロは生々しい舌を出して、瑞希を見やる。

 その視線に悪寒を感じてか、瑞希が微かに体を震わせた。


『ここは見逃して、数年ぐらい期間を空ければもっと良いモノも観れそうだけど、今回はサフィもGETしたいからね。悪いけど山岡さんには死んでもらうよ』


 ゆらりと舌を揺らして、クツクツと笑う。


『その上で、サフィの反応やそこから堕ちていく様を見るのも楽しみだしね。今回は、あえてバッドエンドにさせてもらうことにしたよ』


「相変わらず、不明なことばかりをいう方ですね」


 山岡は嘆息する。


「ともあれ、殺意だけは伝わりました。私も相応の覚悟で迎えましょう」


『ふふ。なら、山岡さんの人生の最終幕と行こうか』


 ピエロが手足を大きく振って、行進でもするかのように近づいてくる。

 対する山岡は拳を構えたまま、微動だにしない。

 瑞希は、両手をフロアについて、彼の背中を凝視していた。

 ここに至っては、声を掛けることさえ、師の集中の邪魔になるからだ。

 山岡とピエロは、互いの手の届く間合いで対峙した。


 そして――。


『バイバイ。山岡さん』


 言って、ピエロは右腕を動かした。

 その速度はこれまでの比ではない。腕は掻き消え、その指先は銃弾の速さで伸びる。狙いは山岡の右眼だ。それを脳ごと貫くつもりだった。

 人には反応できない速度。

宝石蒐集家トイコレクター》は勝利を確信していた。

 ――が、


『――――な』


 ピエロが驚きの声を零す。

 不可避の攻撃を山岡は、ただ首を傾けるだけで回避したのだ。


(読まれていた!)


 人の反射神経では、銃弾の速度はかわせない。

 最初から、山岡は最後の攻撃が右眼に来ると予測していたのである。


「あなたの攻撃は、会話と違って実に分かりやすい」


 そう告げて、山岡は拳を、トスンとピエロの胸板に置いた。

 直後、


 ――ズドンッッ!

 両足から、腰、右腕へと連結した体躯が螺旋の力を発し、ピエロへと打ち込まれる!

 ピエロ人形は吹き飛び、壁へと叩きつけられた。

 しかも跳ね返らない。その場で弾け飛ぶように五体が砕け散った。

 老拳士渾身の一撃だった。


「……ふう」


 腕を突き出したまま、山岡は息を大きく吐き出した。

 次いで、ふらりと後方に姿勢を傾けた。

 ――と、


「先生ッ!」


 柔らかい腕と双丘で、背中を支えられた。

 彼の後ろには瑞希がいた。


「ああ、瑞希君……」


 ふらつく体に気合いを入れ直し、山岡は立つ。


「大丈夫なのですか? 体は?」


「僕なら大丈夫だよ」


 老拳士の肩を支えて、瑞希は言う。


「《電子妖精ルナトロン》で直接神経と筋肉を操ったんだ。これなら歩くことぐらいは」


「……無茶なことを……」


 山岡が瑞希を見つめてそう呟くと、


「無茶なのは先生の方じゃないか!」


 瑞希は、ボロボロと涙を零しながら、山岡を睨み据えた。


「先生は引導師ボーダーじゃないのに! 名付きネームド我霊エゴスと殴り合うなんて馬鹿なの!」


「はは。確かに」


 山岡は苦笑を零した。


「老体にはいささか酷でしたな」


「――もうッ! 先生の馬鹿あッ!」


 瑞希は不満そうに叫んだ。

 その瞳には、まだ涙が溢れている。

 山岡は、不意に懐かしい気持ちになった。

 痛いことが苦手なこの子は、修練の時もよく涙を見せていた。


「見違えるほどに大人びたというのに、泣き虫なところは変わりませんね」


 言って、ハンカチを取り出して彼女の涙を拭った。

 瑞希は気恥ずかしそうに顔を赤くするが、拒絶はしない。


「……む。これは……」


 拭い終えてハンカチをしまった時、山岡はふと気付く。

 瑞希の頬に、うっすらと傷があることに。


「傷を負ってますね。あの男にやられましたか。失礼。瑞希君」


「え」


 傷の深さを確認するために、山岡は瑞希の両頬を手で押さえた。

 瑞希は目を丸くした。

 山岡は顔を近づけて、傷口を診察する。

 瑞希の肌がみるみる赤みを帯び、「……あ」と吐息を零す。


「ふむ。深くはない。これなら痕には残りませんな」


 安堵した声で山岡が呟く。

 瑞希は潤んだ瞳で、山岡を見つめていた。


「……先生。先生、僕は……」


 と、その時だった。



『うん。山岡さん。そこは抱き寄せてキスじゃないかな?』



 不意に、その声が響いた。

 山岡と、瑞希の表情が瞬時に険しくなる。


「しぶといですな。あなたは……」


 山岡がそう言うと、


『アハハ。しぶとくないなら、名付きネームド我霊エゴスになんてなってないよ』


 ピエロはそう返した。

 首だけになったピエロである。だが、すぐに首から枝が生え、四方に散った五体を繋ぎ合わせる。数秒後には、ピエロは二本の足で立っていた。


『うわあ、もうガタガタだね』


 自分の体を見やり、ピエロが呟く。

 どうにか五体を繋ぎ合わせたが、損傷は激しく、関節は軋んでいる。

 復元機能にもガタが来ているようだ。全身の亀裂がこれ以上復元する様子はない。


『流石に限界かな。だけど、あと一戦ぐらいなら持つよね』


 そう呟く。


「本当にしぶとい」


 山岡が、瑞希を庇って前へと踏み出した。


「良いでしょう。もう一戦お付き合いしましょうか」


 そう告げた時。


『否。それには及ばぬゆえ』


 それは唐突に。

 唐突に割って入る声がした。初めて聞く女性の声だった。

 山岡と瑞希、ピエロまで驚いた表情を見せた。


益荒男ますらおよ。見事な戦いであった。このいくさ、すでにそなたの勝利じゃ』


 その声は、山岡とピエロの中間点辺りから聞こえてきていた。

 声はさらに告げる。


『後は我が君に託されて休まれよ。その乙女をゆるりと愛でてやるがよい』


 そうして、ボボボッと鬼火が現れる。


「ッ! もしや!」


 山岡が目を見開く。この現象には見覚えがあった。

 鬼火は床に沈み込むと、みるみるとその姿を形作っていった。

 見事の肢体を覆った純白の巫女装束。無数の狐の尾のような髪飾りをつけた狐面。口元は解放されており、血よりも赤い紅が引かれていた。


「やはり、あなたは久遠さまの……」


 山岡がそう呟くと、瑞希が「え?」と目を瞬かせた。


『いかにも!』


 どこからともなく大きな赤い鉄扇を取り出し、


『我が君の従霊が一士。賜りし名は白狐びゃっこという! 尊き名じゃ! 見知りおくがよい!』


 たゆんっと。

 思わず瑞希が「むむ」と唸るほどの双丘を揺らして名乗った。


『……うわあ』


 唐突な闖入者に、ピエロはうんざりした声を零した。


『なになに? 今更になって他の引導師ボーダーの式神ってこと? このクライマックスに登場って、どれだけ空気が読めていないんだい?』


『む。失礼な奴じゃな』


 狐面の巫女は、赤い鉄扇をピエロに向けた。


『確かにわらわは同胞からは天然とか呼ばれるが、そなたほど節穴な目はしとらん』


『いやいや。そっちこそ、いきなり現れて節穴は酷くない?』


 そう返して、肩を竦めるピエロ人形に対し、


『ふん。未だ山岡殿に固執している時点で節穴じゃ』


 白狐は、口元を鉄扇で隠して告げる。


おのが舞台ばかりに目が入って、天地を揺るがす我が君のお怒りにも気付かぬとはな。人形に閉じ籠る道化よ。耳を澄ませ。心を向けよ。おのしんまなこにて世界を見よ』


 神託のごとく、狐面の巫女がそう告げた時、

 ――ズズンッッ!

 巨大な振動が、大地を揺るがした。


「えッ!? 地震!?」


 瑞希がそう叫ぶが、それは一定間隔で何度も続いた。


『ふむ。この部屋には窓がないのが残念じゃのう』


 パタパタと、白狐が鉄扇を扇ぐ。


『愛しき我が君のご雄姿が拝見できぬ』


 無念そうにそう呟く。


『一体、何を……』


 ピエロ――《宝石蒐集家トイコレクター》は困惑しつつも、意識を本体へと向けた。

 何か異常事態が起きている。それだけは感じたからだ。

 そして、


『―――――な』


 思わず、唖然とした声を零す。

 本体を通じて見たそいつ・・・の姿に戦慄する。


『何なんだよッ!? あれ・・はッ!?』


 カカっと白狐は笑う。


『そなたのまなこに映りしそれこそが、愛しき我が君の憤怒の御姿。災厄の王の現身うつしみよ。それより良いのか道化よ。我が君が向かう先に心当たりはないのかのう?』


『……向かう先?』


 ピエロは反芻して、ハッとする。


『クソッ! どうしてここ・・が!』


 そう叫んで、ピエロ人形は倒れ込んだ。まさしく糸が切れた人形だ。

 山岡と、瑞希は目を瞬かせた。


『ふむ。急ぎ本体へと帰還したか。じゃが』


 鉄扇で口元を隠しつつ、狐面の巫女は妖艶に微笑んだ。 


『もはや遅い。我らが王の審判の時ぞ』

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