第198話 王の審判⑤

 ――忘れもしない。

 虫の声が騒々しかった、夏の夜。

 あの美しい怪物は、出会うなりこう告げた。


『うん。お前は少しだけ見どころがある。期待できそう』


 当然ながら、蒼火は眉をしかめた。

 扇蒼火が、彼女と出会ったのは、とある廃校だった。

 そこに潜んでいた我霊。それに引導を渡した直後のことである。

 彼女は、最初から蒼火の戦いを見物していたようだ。

 その美貌と奇抜な出で立ちに、蒼火が何かを尋ねる前に、彼女は言った。


『今から試す。ムロの期待に応えて』


 そうして、彼女は蒼火に襲い掛かってきた。

 ――いや、それは襲い掛かるといった生易しい表現ではない。

 それは、まさに蹂躙だった。

 ただの体術のみで、蒼火は一方的に打ちのめされてしまった。

 骨組みが鋼鉄製らしい和傘で殴打され、砲撃のような蹴りで射抜かれる。

 力の次元が違う。そう思い知らされた。

 血塗れになりながらも、それでも蒼火は立っていた。


 蒼火には、譲れない信条があった。

 礼節の場にて、膝をつくことはある。

 だが、戦場にて彼が膝をつく相手は、自分が『王』と認めた相手だけだと。

 この美しい脅威の前に、蒼火は意地と矜持のみで体を支えていた。


『……お前は、な、に者、なんだ?』


 消え入りそうな声で蒼火がそう尋ねると、


『ムロのこと? ムロはムロ。六番目のムロ』


 赤い和傘を廃校の床に突き刺して、彼女は名乗る。


『それより、お前は封宮メイズを使える?』


『……めい、ず?』


 おうむ返しに呟く蒼火に、彼女はゆっくりと近づいてくる。


『うん。そう』どこか眠たそうな眼差しのまま、両手を腰に、自慢でもするかのように大きな胸を揺らして、彼女は告げた。


封宮メイズは入り口なの。引導師ボーダーが次の段階に行くための扉なの。お前は少しだけ見どころがあるから、もし独界オリジンに目覚めれば、象徴シンボルを得られるかも。だから、美味しいご飯をいっぱい食べて魂力オドをもっと上げて……あ』


 そこで、彼女は自分の口を両手で押さえた。


『ダメ。それが出来るのムロだけだった。ィちゃんに叱られる。これは、誰にも言っちゃダメだって言われてたのに。ムロには、ホントは女の子の隷者ドナーさえもいないってことが、テテ上さまや所長さんにバレちゃうから』


 彼女は、人差し指を唇に当てて言う。


『今のは秘密。忘れて』


『…………』


 蒼火は答えない。答えられるだけの体力がすでになかった。

 そんな蒼火を、彼女は正面から抱きしめてきた。

 大きな双丘が圧し潰され、桜の花のような香りが、蒼火の鼻孔をくすぐる。

 彼女は、顔を少し上げて告げた。


『最後に一応試す』


 そして、華奢な両腕に力を込めた。

 直後、恐ろしい音が響く。

 彼女の腕力に、蒼火の肋骨と背骨がへし折られた音だ。

 蒼火は目を見開き、もはや意志の力ではどうしようもなく、後ろへと傾いた。


『……むむ』


 彼女が不満そうに頬を膨らませて、両手を離す。

 蒼火の体は、そのまま床へと崩れ落ちた。


『やっぱりお前は違う。ムロの旦那さまじゃない』


 そう呟いて、かぶりを振った。


『ムロは凄く強いから、ムロの旦那さまはもっと強い人じゃないとダメなの。今みたいにムロが甘え・・ても優しく抱き返してくれる人じゃないとダメなの』


 彼女はそう告げると、突き刺していた和傘を引き抜いて立ち去っていった。

 ただ、最後に、


『お前に見どころがあるのはホント。今は全然ダメだけど頑張って。次に会った時、もしムロを甘え・・させてくれたのなら、その時はムロの全部をあげる。ムロをいっぱい愛して。ムロの旦那さまになって』


 ――冗談ではない。

 消えてしまいそうな意識の中で、蒼火はそう思った。

 美しい女だ。これほどまでに幻想的で美しい女は見たことがない。

 何を捨ててでも手に入れたいと願う者も、さぞかし多いことだろう。

 けれど、その中身は、途方もない怪物だった。

 美しくも危険すぎる怪物なのだ。

 こんな怪物を抱きしめれる男など、どこにもいない。

 ただただ、強い危機感だけを抱いて。

 蒼火は、意識を失った。

 そうして――……。

 …………………。

 ……………。



「……ちょっと、これは……」


 クルクルと。

 和傘を回す女と、床に倒れる蒼火を見やり、ルビィは表情を強張らせていた。


「あなた、どんな化け物と知り合いなのよ?」


 蒼火に、ルビィが尋ねる。

 が、蒼火は答えない。立ち上がることで必死だからだ。

 決着は一瞬だった。

 和傘の女が現れた直後、蒼火は前蹴りで吹き飛ばされていた。

 防御さえもままならず、彼は壁に叩きつけられ、反動で床に放り出された。

 凄まじい一撃だった。並みの引導師ならば、前蹴りの段階で内臓が破裂している。これに耐えただけでも蒼火が一流の引導師の証拠である。

 その上、ふらつきながらも両足で立ち上がったのだから、本当に大したものだった。

 だが、もう戦う力がないのは明白だった。


「凄いわね。あなた。名前は?」


 ルビィは和傘の女に尋ねると、和傘の女は振り向き、


「ムロのこと? ムロは六番目のムロ」


 そう名乗った。ルビィは眉根を寄せた。


「六番目? 二つ名なの? ムロというのも変わった名前ね」


 まあ、いいわと呟く。


「『ムロ』。あなたの強さには驚いたわ。素晴らしい掘り出し物よ。けど、その男を殺すのはもう少しだけ待ってくれるかしら」


「いいけど、どうして?」


 小首を傾げる『ムロ』。 


「ムロは、あなたが主人なのは理解している。ムロが本物のムロじゃないことも」


 クルクルと和傘を回す。


「だから命令には従う。殺せと言うなら殺すよ?」


「あなたを定着させるためよ」


 ルビィは、棚から立ち上がって肩を竦めた。


「私の術は定着させるには十分かかるの。けれど十分経てば、イメージの持ち主が死んでも、あなたをいつでも呼び出せるようになるのよ」


「……そう」


 その説明に、『ムロ』は不満そうに頬を膨らませた。


「少し不満。ムロは偽物だから、呼び出されてもムロの目的を果たせない」


「あら。どんな目的なの?」


 興味本位でルビィが尋ねると、『ムロ』はこう答えた。


「旦那さまを見つけるの」


「え?」


 ルビィが目を瞬かせる。

 対し、『ムロ』は、たゆんっと大きな胸を張って語る。


「ムロを愛してくれる人を探すの。ムロを甘え・・させてくれる人を見つけるの」


「まあ、そうなの」


 ルビィは、クスリと笑みを零した。


「だったら、ルビィのご主人さまを紹介しましょうか? あなたを愛してくれるわよ」


 その提案に、『ムロ』はかぶりを振った。


「ムロはあなたの状況も知っている。知識が頭の中に流れ込んでくるから変な感じ。けど、ムロは我霊エゴスに興味はない。旦那さまにはいっぱい愛して欲しいけど、それ以上に旦那さまの赤ちゃんが欲しいから」


 その台詞に、ルビィは苦笑を零した。


「確かに我霊エゴス相手ではそれは無理な話ね」


 と、その時、


「……随分と、楽しそうだな……」


 口元に血を滲ませながら、蒼火が言う。


「……俺のことは、すでに眼中に、ないか?」


「ガールズトークに割って入るなんて無粋な男ね」


 ルビィは肩を竦めた。


「けど、眼中にないのも仕方がないでしょう。もうあなたに勝ち目はないのだから」


 蒼火は、会話さえも辛そうだった。

 意地だけで立っているようだが、一度でも倒れればもう立ち上がれないだろう。


「……確かに、な」


 蒼火は、自分が重傷であることを認める。

 それから『ムロ』を見やり、


「俺は、その女には、勝てない。いや、誰であっても、勝てないだろう。だが、魔女よ。貴様だけでも、道連れにさせて、もらうぞ」


 言って、合掌でもするように両手を胸の前で構えた。

 掌の間に、蒼い炎が生まれた。

 同時に、ふわりと部屋中の空気が蒼火の方へと流れていく。

 ルビィは表情を変えた。


「自爆する気ね! 『ムロ』! この男を無効化しなさい!」


「うん。分かった」


『ムロ』が応えた、その時だった。

 ――ゴウンッッ!

 その爆発音が轟いたのは。

 耐震に強いドーンタワーさえも大きく揺さぶるほどの衝撃だ。

 蒼火の炎が掻き消え、『ムロ』も跳躍しようとした足を止めた。

 ルビィも含めて、全員が外に目をやった。

 そして、壁一面のガラス越しに見えるそれは―――。


「……なん、だ? あれは……」


 蒼火が、茫然と呟く。

 心臓が、痛いほどに激しく鼓動を打っていた。

 自分の心音しか聞こえない。

 それほどまでに、蒼火はその光景に、その姿に魅入っていた。


 ガラス越しの景色。

 地上から三十メートルはある高所の光景に、有り得ない存在が映っていたのだ。


 ――ズズゥンッ……。

 途方もなく巨大な足音を轟かせるそれは、灼熱の巨躯を持つ怪物だった。

 窓から見えるのは、ほぼ肩と頭部だけだ。

 顔は羆に似ているだろうか。牡牛のような巨大な角を持っている。

 溶岩流を這わせた灼岩で形作られた体躯だった。

 それが、ゆっくりと進んでいる。


 果たして。

 果たして、どれほどの力があの巨躯に宿っているのか――。


(……なんて雄大な……)


 蒼火は、心からそう思った。

 その威容を前にして、自然と一筋の涙が零れ落ちていた。


「な、何よこれ……」


 一方、ルビィもまた目を見開いて、唖然としていた。

 あまりのスケールの違いに、現実感さえも失いそうだった。

 そして、『ムロ』は――。


「………あ、………」


 ゴトンっと。

 鋼鉄製の和傘を、床に落とした。

 次いで、両手を伸ばして、ふらふらと窓辺へと向かう。

 無防備に。

 まるで夢の中を彷徨っているかのように。

 灼岩の巨獣へと、近づいていく。


「待って、待って……っ!」


 彼女が、切なる声を上げた時だった。


『グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――ッ!』


 灼岩の巨獣が咆哮を上げた!

 天地さえも揺るがすような振動に、強化ガラスであるはずの窓が一斉に砕けた。

 さらには、室内に熱風が入り込んでくる。巨獣が放つ超高熱の余波だ。


「―――くうッ!」


 ルビィは、両腕で顔を庇って呻く。

 身に襲い掛かるのは熱波だが、頬には冷たい汗が流れている。

 ひたすら強い危機感だけを抱いていた。


「『ムロ』! 一旦ここから離脱する――」


 と、自分の人形に命令しようとしたところで目を瞠る。


「――『ムロ』っ!? どうしたのっ!?」


『ムロ』の全身に亀裂が入っていたのだ。

 こんな現象は、術者であるルビィも初めて見る。

 しかし、『ムロ』は自身の変化には一切厭わず、灼岩の怪物だけを見つめていた。

 が、不意に、


「……ひどい。ひどい……」


 ボロボロ、と琥珀色の瞳から大粒の涙を零した。


「……どうして? どうして?」


 ひっく、ひっく、としゃっくりも上げる。


「どうして偽物のムロの前に現れたの? どうして今のムロは本物じゃないの?」


 そう呟くが、おもむろに、ゴシゴシと涙を擦った。

 それから、徐々に遠ざかる巨獣に、


「待ってて」


 ゆらり、と長い袖を揺らし。

 両腕を大きく広げて、微笑んだ。


「偽物のムロはここまで。だけど、いつか本物のムロがあなたに逢いに行く。どこにいても本物のムロが、きっとあなたを見つけるから」


 待ってて。

 最後にもう一度だけそう告げて『ムロ』の姿は崩れ落ちた。

 床に倒れた時、それはもう元の人形だった。

 完全に、術式が崩壊している。


「……これは一体どういうことなの?」


 予期せぬ事態に、困惑を隠せないルビィだったが、不意に、ハッとした表情で、蒼火の方へと目をやった。

 そこでは、瀕死だった青年が両膝をついていた。

 力尽きた訳ではない。

 両膝をつくと同時に、両の拳も床につけている。

 深々と頭を垂れ、ただ静かに、巨大な怪物が過ぎ去るのを見送っているのだ。

 それは、まさに平伏の姿勢。臣下の礼だった。


「……伏して奉る」


 その時。

 青年の呟きが、ルビィの耳に届いた。


「……偉大なる火と大地の化身よ。火焔山かえんざんの王よ」


 朗々とした声。

 けれど、確かなる畏怖と歓喜を宿したその声に、ルビィは事態を把握した。


(ッ! そういうこと!)


 ルビィの術式とは、相手の最強のイメージを写し取るモノだ。

 そのため、最初に生み出されたのは『ムロ』だった。

 だが、


(――ッ!)


 ルビィは、険しい顔で怪物の横顔を見やる。

 火の息を零す、恐ろしく巨大な怪物。

 この巨獣と出遭った瞬間、あの男の最強のイメージが覆ったのである。

 ――六番目のムロから、あの灼岩の巨獣へと。

 そのせいで術式が破綻し、触媒の人形が自壊してしまったのだ。


(どうする? もう一度写し取れば――)


 そう考えるが、流石にあんな規格外の怪物は複写できない。

 だったら、この瀕死の男だけでも、さっさと始末しておくか。

 ルビィは右手を構えるが、そこでハッとする。

 今更ながら、巨獣が向かった先に気付いたのだ。

 そうだ。あの怪物が目指している先には――。


(――クッ!)


 瀕死の男に構っている暇など、そもそもなかったのである。

 ルビィは即座に割れた窓から、タワーの外へと身を投げ出した。

 落下に長い髪が大きくなびく。

 強い焦りに、ルビィは空中で唇を噛む。

 彼女の視線の先には、海上に膝まで突き立てて進む巨獣の姿があった。

 人工島の周辺は埋め立てられた浅瀬とはいえ、海がまるで小川のようだった。


「化け物め!」


 穢れていても。

 歪められていても。

 彼女は、


「――《宝石蒐集家トイコレクター》さまッ!」


 愛する者の名を叫んだ。

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