第182話 暁の世界➄

 彼に師事を受けたのは、十二歳から十五歳までの三年間だった。

 その日々のことは、今でもよく憶えている。


 篠宮家の四女。篠宮瑞希。

 彼女の母は隷者ドナーだった。


 一般的に引導師の世界では、跡継ぎが正妻の子とは限らない。

 モラルの欠如が著しい世界だが、それだけに強さを求めることに対しては貪欲だった。

 当主の血さえ引いていれば、後は、才能や魂力オドの量によって決められる。

 各家系では、壮絶な跡継ぎ争いが行われているのである。

 そこには、男であることも、女であることも関係しなかった。

 望まれるのは強さ。もしくは有能さだけである。

 未だ、男女不平等の傾向があり、男性隷主オーナーの方が多い引導師ボーダーの世界ではあるが、強さに対してだけは、ある意味、徹底して平等であった。


 二人いる異母兄たちは当然のごとくハーレムを築いていたが、瑞希の異母姉たちも負けていない。全員が隷主オーナーであり、逆ハーレムを築いていた。特に一番上の異母姉に至っては、十代半ばの少年ばかりを集めており、瑞希がドン引きするような状況だった。

 異母姉曰く、より若い世代の方が、生まれながらの魂力オドの量が多いとのことだ。

 それは確かに事実ではあるが、異母姉の趣味も入っているのは間違いない。


 余談だが、異母姉たちのように逆ハーレムを築いている女性隷主オーナーたちは、自分の男性隷者ドナーたちを『騎士団ナイツ』と称することが多かった。隷者ドナーたちもただの魂力オド貯蔵庫タンクではなく、共に戦場にまで赴き、身を挺して主人を守ることが多い。その姿はまさしく騎士のごとくである。彼女たちは騎士団ナイツを率いる女王クイーンという訳だ。


 そんな中、瑞希はと言えば、隷者ドナーは一人もいなかった。

 まだ幼かったこともあるが、そもそも彼女の魂力は102。極めて凡庸だった。

 異母兄姉たちは全員が160を超える。瑞希は明らかに劣っていた。


 なり振り構わず頑張ったところで、当主になるのは難しい。

 瑞希は、幼き日からすでに別の道を考えていた。

 魂力オドの量は並みであっても、瑞希は《電子妖精ルナトロン》を継承している。

 その力を使って、彼女は当時から電脳空間に入り浸っていた。


 当主の座は誰かが継ぐ。自分には関係ない。

 とは言え、誰かの隷者タンクになるだけの人生もごめんだ。

 政略結婚で、どこかの家に嫁がされることも真っ平だった。

 彼女はこの力で資金を溜め、いずれは家を出て、完全に独立するつもりだった。

 情報屋、ハッカーとして大成するつもりだったのである。


(ハッカー王に僕はなる! なんちゃって)


 瑞希は、強かに生きていた。

 だが、そんなある日のことだった。

 学校からの帰り。彼女はガラの悪い男たちに絡まれた。

 大学生か、もしくは社会人も混じっているのか、軽薄そうな青年たちである。


 簡潔に言えば『ナンパ』という奴だ。

 当時の瑞希はまだ十二歳だったが、引導師特有の見目の麗しさや、長身だったこともあり、かなり大人びて見えたのだ。

 SNS全盛時代に、ここまでレトロなナンパを仕掛けてくるなんて。

 瑞希は呆れたものだった。

 それが、思わず顔に出てしまったのだろう。


『おい。なんだ。その顔は』


 男たちは、不快感を見せた。

 男の一人が、瑞希に手を伸ばしてきた。

 本能的に、瑞希は危機感を覚えた。

 魂力オドで筋力を強化し、その腕を強く払う。

 それは端から見れば、激しい拒絶だった。腕を払われた男が表情を険しくする。

 他の男たちも表情を変えた。


(うわ。これってマズイかも)


 男は全員で四人いた。狙っていたのか、ここは人通りからも少し外れた場所だ。

 魂力で強化しても、瑞希は戦闘訓練を徹底してサボっていた。その体術レベルは一般人と変わらない。青年四人相手となると相当に厳しかった。


(……仕方がないか)


 瑞希は《電子妖精ルナトロン》を使用することにした。

 要は、さらに身体強化を行ったのだ。

 しかし、それがまずかった。


(………え?)


 ――ドクンッと。

 大きく、心臓の鼓動が跳ね上がった。

 さらに全身の血流が逆流するような感覚を覚えた。

 彼女は、今まで《電子妖精ルナトロン》を自身に付与したことがなかったのだ。

 電脳操作と体術強化は、全く仕様が違う。

 それを、この時まで理解していなかったのである。


『うわ、うわあああああッ!?』 


 一歩踏み出すだけで、アスファルトを打ち砕く。

 瑞希は、絶叫を上げて駆け出した。

 目を丸くする男たちをよそに、とんでもない速度で走り抜ける。

 アスファルトにいくつもの足跡を刻みつけて、彼女は力を暴走させた。


 とにかく、人気のない場所へ。

 それだけを考えて、暴風のような速度で走った。

 街中を抜け、どうにか人気のない河原にまでした避難した。

 しかし――。


(と、止まらないッ!?)


 瑞希は、喉元を両手で押さえた。

 全身に施した《電子妖精ルナトロン》は、完全に瑞希の手から離れていた。

 解除することも出来ない。


『うああ、うあああァ……』


 口から、大量の唾液が零れ落ちる。

 彼女は膝をつき、両腕を地面に振り下ろした。

 ――ズドンッ!

 地面が大きく陥没する。

 細腕からは考えられない威力だ。だが、同時に彼女の拳から鮮血が散った。


(痛いっ! 痛いよおっ!)


 注射程度の痛いことさえも苦手な彼女の目尻に、涙が滲んだ。

 だが、衝動がとても抑えきれない。

 どこかに体をぶつけないと、全身が爆発してしまいそうだった。

 瑞希はのたうち回るように、全身を地面に叩きつけた。


 腕を、足を、頭を――。

 そのたびに土砂と鮮血が散る。彼女の両目からは涙が溢れていた。


(助けてッ! 誰か助けてッ!)


 もう声も出せず、心の中で助けを求めた。

 けれど、その声は誰にも届かない。

 そう思った時だった。


『薬物……いえ。魂力オドか、系譜術クリフォトの暴走と言ったところですか……』


 不意に、そんな声が聞こえた。

 瑞希は目を見開いて、声の方に顔を向けた。

 そこには、一人の紳士が立っていた。壮年の男性だ。


『今日は休暇中だったのですが、これは見過ごせませんな』


 言って、壮年の紳士は拳を構えた。


『来なさい。お付き合いしてあげましょう』


 そうして……。

 十分後。

 瑞希は、ゆっくりと瞳を開いた。

 全身が痛い。だけど、暴走していた感じはなくなっていた。


『……僕、は……』


『おや? 目が覚めましたか』


 声がする。瑞希はぼんやりとした表情で顔を上げた。

 そこには、紳士の顔があった。

 どうやら、自分は彼の腕の中で抱きかかえられているようだ。


『大丈夫ですか? お嬢さん』


 そう告げる彼の顔には、負傷の痕があった。

 額からは、今も血を流している。


『……ごめん、なさい……』


 瑞希は、涙を零して謝った。

 この傷は、自分がつけたモノだと察したからだ。


『気にする必要はありませんぞ』


 紳士は言う。


『若人のために傷を負うことは老兵の誉れですからな。ですが』


 彼は笑う。


『暴走はいただけませんな。いけませんよ。修行を怠っては』


『ご、ごめんなさい……』


 それに関しても、瑞希は素直に謝った。

 紳士は『ふふ』と笑った。


『あなたは、素直な良い子ですね』


 そう言われて、瑞希は顔を赤くした。

 その日から、瑞希は、彼に体術を教わることにした。

 電脳戦のみに特化していてはダメだ。

 それだけでは《電子妖精ルナトロン》を完全に制御しているとは言えない。

 それを思い知ったからだ。


 瑞希は、毎日のように彼の元に通った。

 彼は引導師ボーダーだと思っていたのだが、実は火緋神本家に仕える執事だったらしい。

 彼は自分に出来ることとして、中国拳法の指導をしてくれた。

 本来、篠宮家は体術を主体とした引導師の家系だ。

 そのため、瑞希にも武才はあったようだ。

 三年後。彼女は、師の技のすべてを習得した。


『見事な功夫クンフーですぞ。瑞希君』


 紳士は、満足げに笑った。


『あなたが暴走することは、二度と無いでしょう』


 誇りを抱いて、愛弟子の頭を撫でた。


『先生』


 瑞希は、師に尋ねた。


『また遊びに来てもいいですか?』


『ええ。いつでも来なさい。大歓迎ですよ』


 師はそう言ってくれた。

 しかし、瑞希はその後、彼の元に出向くことは一度もなかった。

 この頃から、瑞希にはとある計画に入ったからだ。


 彼を軽視した訳ではない。

 彼に会いたくなくなった訳ではない。

 今でも尊敬している。


 ただ、どうしても、しばらく時間を空ける必要があったのだ。

 彼女が望む目的を果たすためには――。

 瑞希にとっても、不本意な決断ではあったが、彼女は実行した。


 そうして、月日は過ぎた。

 あの日から五年。

 彼女は、再び彼の前に立った。


「君は……」


 ドーンタワーのエントランスホールにて。

 彼は驚いた顔で、彼女を見つめていた。


「もしかして、瑞希君ですか?」


「……はい」


 瑞希は頷く。


「お久しぶりです。先生」

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