幕間二 演者の休日

第183話 演者の休日

 その日の夕方。

 ドーンタワーの七階にある一室にて二人の男女がいた。

 太陽の国サンシャインも、海の国アクアブルーもまだ閉園してはいない。

 しかし、彼らは早めに切り上げていた。

 夜の国ミッドナイトに備えた訳ではない。

 愛を紡ぐために部屋に戻ったのだ。


「ふふ。いい子だねえ」


 ベッドの上。青年が腕の中にいる女性の髪を撫でた。

 次いで、彼女の唇を奪う。

 女性は、ピクリと微かに肩を動かした。

 化粧っ気もなく、顔立ちは少し幼い。少女のような女性である。

 全裸の彼女は唇を奪われつつ、青年の首にしがみついていた。


 青年は双眸を細めた。

 彼女とは、一か月前にこのドーンワールドで出会った。

 友人たちと遊びに来たらしい。上京したばかりの大学生だった。

 彼女の友人たちは全員着飾っており、随分と遊び慣れしている様子だったが、彼女だけは簡単な化粧さえもあまり上手ではないようだった。

 その時も、友人たちの付き合いで来ていたそうだ。

 そこが彼の琴線に触れた。

 自分のオフ・・には、こういった素朴な娘こそが相応しい。

 その場で口説き、幾度も交友を重ねて、どうにか今回のデートにまで漕ぎ着けた訳だ。


 ベッドを共にしたのは、昨晩が初めてだった。

 初心うぶな彼女にとっては、正真正銘の初めての夜である。

 緊張する彼女を気遣って、まず優しいキスをした。

 次いで熱いキスだ。その際に、唾液を少しだけブレンドするのも忘れない。

 その効果は絶大であり、とても熱い夜になった。


 実のところ、今日、早めに切り上げたのは、彼女にせがまれたためでもある。

 初めてで自分のブレンドを味わったのだ。我慢できないのも無理はない。


 青年は、唇を離した。彼女の唇から銀色の糸が垂れる。

 彼女は、虚ろな瞳で「う、あ……」と声を零した。

 その様子を見て青年は、


「う~ん、まだ少し意識があるか。やっぱ短時間だと仕込みが甘いな」


 そう呟いて、再び唇を重ねた。

 数瞬ほど、彼女は虚ろな表情をしていたが、不意に目を見開いた。


「~~~~~ッッ」


 ガクガクと全身を震わせる。青年の背中に爪を立てる。

 そんな彼女に、青年は残念そうに目を細めた。

 彼女のことは、かなり気に入っていた。

 本当ならば、こんなにも早く仕込むつもりなどなかったのだが……。


「……ごめんね」


 唇をゆっくりと離して、青年は言う。


「オイラにとって君って重要なんだよ? ホントだよ。そりゃあ、オイラたちって自分で決めて悪役やってるけどさ、それでも遭う奴ら全員に、化け物、化け物ってディスられると、じわじわとメンタルに響いてくるんだよ」


「…………」


 女性は何も答えない。両腕を、だらんとベッドに投げ出している。


「だからオイラたちってさ。数年に一度、こうして人間らしいことをするんだ。簡単に言えば息抜き。化け物を演じることも忘れて、人間として存分に羽を伸ばすんだ」


 青年は語るが、女性は完全に無反応だ。


「……本当にごめんね。だけど……」


 青年は、苦笑を浮かべた。


「まさか、こんな所で山岡さんに再会するなんて思ってなくてさ。しかも凄く面白そうな状況みたいだし。これって流石に運命じゃないかって思っちゃってさ」


 女性の髪を撫でた。けれど、やはり彼女は人形のように動かない。

 すでに彼女の心は、ここではないどこかへ逝ってしまっているからだ。


「これは、オイラのせめてもの感謝なんだ」


 青年は、脱力した女性を強く抱き寄せた。


「久しぶりに人間の心を思い出させてくれた君への。だから恐怖なんて与えないよ。もう意識もないだろうけどさ。ただ、まあ……」


 そこで、再び苦笑を零す。


「オイラの都合で悪いけど、もう少しだけ運動をしようか」


 そう言って、彼女を強く抱きかかえた。ややあって、ベッドが激しく軋み始める。

 彼女はそれでも虚ろだったが、肉体の反射で微かな嬌声を零していた。


 そうして、およそ一時間後。

 ずっと続いていた嬌声も、いつしか止まっていた。

 彼女は、ベッドの上でうつ伏せになり、全身に玉の汗を浮かべて荒い息を零していた。

 ただ、呼吸は荒くとも、その瞳はやはり虚ろだった。


「……うん。頃合いかな」


 青年はそう呟き、彼女の体を後ろから抱き起こした。


「老廃物も吐き出したし、そろそろ始めるよ」


 そう告げた直後だった。

 彼女の体が、ゆっくりと青年の体と重なり始めたのは。

 ――いや、正確には、青年の体の中へと沈み込んでいっているのである。

 よく見れば、青年の全身は、スライム状の液体に変化していた。

 皮膚の表面に、波紋が広がっていく。

 そうして数十秒も経った時、女性の体は完全に消えていた。


「……………」


 二人が一人と成り、青年は無言で立ち上がった。

 次いで全裸のまま、部屋の窓際まで移動した。

 ――と。


「ッ! ~~~~ッ!」


 青年は片手で口元を押さえて、片膝をついた。

 ……不味い・・・

 彼女は化粧が苦手だった。昨日からはほとんどしていない。

 煙草も吸わない。酒も強くなく、誘われると仕方なく付き合う程度だ。

 装飾品、衣服は当然のこと、老廃物も念入りに落とした。

 先程の行為は快楽目的ではない。ブレンドした自分の体液を、幾度も彼女の体内に注いで洗浄したのだ。当然ながら全身の汗も摂取していない。


 だが、それでもなお――。


(……人間は、なんて不味いんだ……)


 心の底から、そう思う。

 どんどん顔色が青ざめていく。額には大量の汗が滲み始めた。


 ……人間は、等しく不味い。

 男も女も老人も、産まれたばかりの赤ん坊であってもだ。

 いかなる手法で喰らおうとも、その味は脳髄を貫く。

 自らをスライムと化す口を介さない摂取方法。

 味覚の遮断したはずの溶け合うような食事方法を用いてもこの有様だ。


 圧倒的な嘔吐感。全身に剣を突き立てられたかのような嫌悪感。

 心が悲鳴を上げている。


 百年にも渡る、おぞましい食人行為の記憶が鮮明に蘇る。


(……ああぁ……)


 指先が皮膚に食い込むほどに強く力を込める。

 カチカチと歯が鳴った。


 かつて、自分はただの村人だった。

 幼い頃は、自分で造った木箱に河原の綺麗な石を集めるような少年だった。

 青年に成ってからは、毎日、田畑を耕して、さほど器量よしではなかったが、素朴な幼馴染を妻に貰って幸せだった。もうじき子供も生まれるはずだった。


 ――そう。あのいくささえなければ……。


 どこで間違えたのか。何を間違えたのか。

 ――どうして……。

 ――どうして、自分は今、人間なんてモノを喰っているのか……。

 ――人間・・なのに・・・同じ人間なのに・・・・・・・・ッ!


(……違う。オイラは、オイラは……)


 吐き出しそうになるのを無理やり呑み込む。

 それを考えてはいけない。

 でなければ、ここまで生き足掻いてきたすべてが終わってしまう。


(オイラは、化け物なんだ)


 ゴクンッ、と強く嚥下した。

 喉を片手で押さえる。

 青年はしばらくの間、膝をついたままだった。

 が、ややあって、


「………ふうゥ……」


 大きく息を吐く。

 彼女の命も、自分の心も完全に呑み干して、青年は立ち上がった。


「……こればかりは、何度やっても慣れないな……」


 大量の汗を拭い、皮肉気に口角を上げる。

 が、すぐに、クツクツと笑みを零した。


「だけど、これでオイラのオフ・・も終わりさ」


 バルコニーへと続くガラス戸に手を当てた。

 日は沈みかけている。じきに夜が来る。


「さあ、山岡さん」


 そうして、人喰いの化け物は独白した。


「改めて、三十年ぶりの再会を喜び合おうじゃないか」

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